五月の夕陽

居残りの生徒の補習が終わった。終わるとすぐに、生徒は一目散に教室から飛び出していく。今日は大好きなカレーだ、と言って。
親がいるのだから当たり前の台詞だが、それが妙にイルカの心を暖かくもさせ、切なくもさせた。
少し前はラーメンラーメンとせがむ生徒がいた事を懐かしみながら、イルカは一人教室を出た。
(あいつはそう言えばしょうゆが好きだったな。)
いつも同じ味なら飽きるだろうに。でもアイツは美味しそうに、嬉しそうな顔で自分の隣でラーメンを啜っていた。思い出したら、無性にラーメンが食べたくなった。
忍びとして不摂生は良くないと分かってはいるが。独り身で一人暮らしとなると、つい自分に甘えが出てしまう。
でもまあ週に一回ならいいだろうと考えを切り替える。先週行った時はみそを食べた。だから今日はしょうゆにするか。それとビール。まだ五月とは言え、今日は汗ばむ陽気だった。午後外で演習をした時は汗が額に滲んだほどだ。冷えたビールを思い描き、こくりと一人喉を鳴らした。
廊下を歩き、窓から見える夕日を身体に受けながらふと目線を外に移して、あ、と小さく声を出していた。
顔見知った相手だった。相手は少し先の門へ向かって歩いている。
寝癖のようなボサボサとした銀髪。
猫背の後ろ姿。
上忍であり自分の生徒の新しい師。
はたけカカシ。彼は変な人だと思う。
忍びとして優秀で尊敬もしている。だが、イルカにとって彼は変な人だ。目上相手に変だと言う表現はいけないのかもしれない。でもそれしか言いようがない。
最初、彼の癖なのだと思った。話す時、飲み会で隣になった時、とても近い距離だったり、ジッと目を見つめられたり。かと言えば急によそよそしかったり。掴めないのだ。それでいて自分を見るといつも嬉しそうに微笑む。
カカシは色んな意味で有名だった。忍びとして高名なのはもちろんそうだが。カカシが生徒を持つ師として頻繁に目にするようになってからは、色んな噂を耳にするようになった。昔暗部にいた頃は非道を尽くしたとか、覆面に隠された端正な顔を使い派手に遊んでいた事とか。訊けば訊くほど彼のイメージが複雑になる。だって、カカシは自分の前ではその欠片も見えない。変な人だが、自分と接する時は朗らかな、人の良さそうなそんな表情しか見せない。自分が見る目がないと言えばそれまでだけど。

そんな時、飲み会で隣に座ったカカシに、急に手を撫でられた。不可思議な行動に目を見張ると、カカシは長く綺麗な指でイルカの無骨な指を撫でながら、先生の指は綺麗ですね、と言った。衝撃が走った。驚いたなんてものではない。酔狂だと言う言葉では括れないものだった。
変な人からやばい人に昇格もありうる、とも思った。
言われた意味は、どう考えても分からない。分からないから怖くなった。女以外の噂は訊いた事もなかったから違うと分かっている。だから、余計に怖い。イルカは席を離れた場所に移した。

(大体なんであんなところにいるんだろう)
あれ以来なるべくカカシとは接触を避けてきた。
アカデミー内で上忍が、しかもわりと目立つ人が校庭にいるなんてそうない事だ。用事でもあったのだろうが。
そう思っていた先に、目線の先の大きな背中がくるりと振り返り、イルカの身体がぴくと反応した。
カカシの右目が緩んだのが分かった。あれは自分にだろうか。間違いではないのだろうか。いや、間違いであって欲しいが本音だ。イルカは思わずきょろきょろと周りを確認する。残念な事にやはり自分しかいない。
カカシに目を戻せば、こっちに向かって真っ直ぐに歩いてくる。イルカは思わず持っていた教材に力を入れた。
今更会釈だけで職員室に戻るわけにはいかないよな。
何だろ。何を言うのだろう。構えたままのイルカにすたすたと歩いてきたカカシは、嬉しそうな顔を浮かべた。
「イルカ先生」
「は、はい」
「こんな時間まで授業だったんですか?」
教材を指さされ、イルカは頷いた。
「えぇ、今日は居残りの生徒がいまして」
「へぇ。居残りなんてあるんだ」
興味があるようでないような。
「補習授業です」
付け足した言葉にカカシがにこりと微笑んだ。
「そっかぁ、やっぱ先生なんですね。こんな時間まで」
すごいなぁ。言われてそんな事と首を振った。里でトップクラスのカカシに言われると、生徒にとって大切な時間だと思っていても、居残り授業くらいでと思えてくる。それでもカカシからは誇大表現してる風にはとても見えない。恥ずかしくなってイルカは少し俯いた。
それに、確かに、今日は遅くなった。外はまだ明るいがもう6時を回っている。でもまだ残業するならこれからという時間帯だが。
「いや、まあ」
曖昧に返答するイルカに、カカシは後頭部をがしがしと掻いた。
「そう、...でもう帰るんですか」
「そうですね。今日は、もう」
何だろうこの会話は、といぶかしみながらも答える。大体こんな会話する為に戻ってきたのだろうか。
少し落ち着きがないような、そわそわしているような。変な動きをするカカシを不思議そうに見つめた。いや、変な人なんだろうけど。
「よければ一緒に帰りませんか」
「......は?」
聞き返していた。真顔で。そこでカカシは苦笑気味に頬を掻いた。
「もう帰るんだったら俺と一緒だから、と思って」
一緒に帰る。
この人と?俺が?一緒に?
何で?
面倒くさいと思った。この状況でも嫌なのに、二人きりで帰るなんてもっと嫌だ。そこまで思って、さっきまで考えていたことが口から出ていた。
「あー、でも俺、今日ラーメン食いに行くんで」
「ラーメン?あぁ、一楽ですか」
「えぇ」
変に断ったような事を言ったからだろうか。そこでカカシは少しだけ顔を顰めた。
「それって餃子も食べます?」
「餃子?いや、ラーメンだけにしようかと」
トッピングはと訊かれ、首を振ると、カカシは明らか様にまた顔を顰めた。
何を不満に思うのか。
「ナルトからよく訊くんですがね、野菜もちゃんと摂らないと。糖質ばっかりじゃダメですよ。ダメ」
うわ。だめ出しされた。
「....すみません」
素直にそう言うと、カカシは困ったように眉を下げ笑った。
「卵も野菜もつけてください」
「....はい」
食堂のおばちゃんのような台詞に、イルカはまた素直に頷いていた。
「あ~、....じゃあ、俺はこれで」
そう言ってカカシは背を向ける。イルカはぽかんとしたままその様子を見つめる。
(今の会話は、一体何だったんだ?)
でも帰ってくれてよかった。イルカは胸をなで下ろしながら去っていくカカシを見つめた。その背中は、少し寂しそうに見えた。

職員室に戻ったら先輩の教員に残業を頼まれ、アカデミーを出たのは日もとっぷりと暮れ、一番星が頭上に瞬いている時間になっていた。
あの時勢いでカカシ先生と一緒に帰る約束をしなくて良かった。夜空を見上げながらイルカは息を吐き出した。きっとカカシは自分の帰る時間までずっと待っていたことだろう。いつも自分に見せているにこにことした表情を思い描いて。
そこまで思ってイルカは頭を振った。
いやいや、待ってるはずもないし。そう、帰って行く後ろ姿を思い出して自分を落ち着かせる。すたすたと門まで歩いてぬっと現れた黒い塊にギョっとして一瞬身を竦めた。
驚いた目がその黒い塊を捉え、
「....カカシ先生」
息を吐き出して言うと、カカシは気まずそうに苦笑いし頭を掻いた。
「先生すぐ来るかな、と思ってて」
笑うカカシにイルカは顔を顰めていた。10分や20分なら兎も角。あれから2時間は経っている。それまでずっと待ってたと言うのか。
その行動に不審を抱くと、カカシは眉を下げた。
「いや、すぐ帰るって訊いてたのに中々出て来なかったから何かあったのかなって、ちょっと心配になって、もう少し待ってようかと思っただけなんです。びっくりしましたよね。すみません。帰ります」
謝り背中を見せられ、イルカはつい口を開いていた。
「あ、カカシ先生」
その声にぴくり反応してカカシが振り返った。すまなそうな、寂しそうな表情にイルカは続けていた。
「夕飯、まだですよね?よかったら一緒にラーメン食べて帰りますか?」
カカシの目が驚いたように見開き、その後すぐにはい、と言って笑った。その顔が本当に嬉しそうで。
ナルトみたいだ。
さっきまでは嫌悪感しかなかったのに、その笑顔にイルカは仕方ないと小さく息を吐いた。
里でも屈指の上忍とはとても思えない。自分なんて教師でしかないただの中忍の男なのに。なにがそんなに嬉しいのだろうか。
やっぱり変な人だな、と思った。


カウンターで真横に座られるのがなんとなく嫌で、イルカはテーブル席を選んだ。カカシも素直に従い、イルカの向かいに座る。
二人きりで帰るなんて想像も出来なかったし、一緒に飯を食うなんて事すらもっと想像出来なかったのに。
目の前には、すぐに出された何でもないただの冷水をさも美味しそうに飲んでいるカカシがいる。
「美味しいですね」
言われてイルカは小さく吹き出した。
「ただの水ですよ?」
「うん。でもなんかいつもより美味しく感じるんです」
はあ、と呆れ気味に返答をすると注文したラーメンが置かれた。野菜のトッピングはカカシがいる為否応なしだった。カカシも同じものを注文して、それを美味しそうに啜る。
「ああ、これも美味しいですね」
ほくほくした顔にイルカもつられて微笑んでいた。
「ええ、時間も時間ですしね」
そう言って、勝手に待っていたのに、それが申し訳なく感じてカカシを見た。もぐもぐと咀嚼している。美味しそうに。嬉しそうに。
またナルトがかぶりそうになり、イルカもラーメンを啜った。
(...思ったより一緒にいて嫌じゃない。)
食べながらそう思っていた。
凄腕の上忍で、昔暗部にいたとか。女遊びが激しいとか。
それは別人の事なんじゃないのかと思えてくる。
「ん?どうしました?」
またこっそり視線を送っていたのに気がつき、カカシが顔を上げた。
「いや、カカシ先生って子供みたいですね」
言えば驚いた顔して笑った。
「そっかな、俺子供みたいですかね」
カカシはそこまで嫌な表情も浮かべずふふ、と笑う。自分では意識もしていないのだろう。
「先生も美味しそうに食べるから俺は嬉しいです」
と言った。
その言葉は胸にとんとつかえた。そこから胸が熱くなった。鏡を見ているわけでなないのだから、自分がどんな顔をしているのか分からない。でもカカシは嘘を言ってるように見えないからきっとそうなのだろう。
言われて気がつく。いつもより美味しいと。
それは一人で食べてるんじゃないからだと、誰かと食べればその分美味しいのだ。それだけだと思うのに。
でも美味しいと思うのは、その人と一緒にいるのが楽しいから。
「どうしたの?先生」
不思議そうな顔をするカカシに、いいえと言ってまた食べるのを再開させた。そのラーメンは暖かく、美味しかった。

翌日、放課後廊下を歩いていたら声が聞こえた。最年少のクラスの教室。そこから女の子が飛び出し、教室に向かってべーと舌を出す。そのまま走って帰って行った。
なんだと思いながらイルカは教室を覗くと。男の子が机の上に座って俯いていた。落ち込んでいる風からして喧嘩でもしたのか。子供たちの喧嘩に口出すつもりもないが、その男の子が顔を上げ、むくれたような、泣きそうな顔をしているのを見たら、放っておく気持ちになれなく、イルカは教室に脚を入れた。イルカに気がつき男の子は視線を逸らす。イルカは苦笑しながら隣に座った。
「どうした?喧嘩しちゃったのか」
話したくないならそれでいい、と思っていたが。男の子は小さく頷いた。
「何で怒らせたか知らないけどな、明日謝ったらいいんじゃないか?」
言えば今度は小さく首を振った。
「だって...俺ただ一緒に帰ろうって言っただけだよ?」
「そうなのか?」
驚けば、またこくんと頷いた。
「仲良く...なりたくてさ、どうしたらいいのか分からなくて」
そこで口を尖らせた。男の方が不器用だ。それは分かっているからイルカはまたそうか、と大きく頷いた。
「髪につけたリボンが可愛いからさ、可愛いねって言ったら、よく分からないけど、すっごく嫌な顔してさ、きもいって言われた」
そこで言葉を切って、首を傾げた。
「女の子同士で言ってるからさ。そう言ったのに。女の子ってよく分かんねえや」
ため息混じり言ったその言い方が可愛くて。少し吹き出したら、男の子が頬を膨らませた。
「なんだよ、先生。笑うなよ」
「ごめんごめん」
笑いながら、目に浮かんだカカシの顔。
固まったイルカに男の子が首を傾げた。
「なんだよイルカ先生」
「いや、別に。女の子は難しいな」
イルカは誤魔化しながら笑った。
「だろ?今度は一緒に遊ぼって言ってみる」
切り替えたように笑顔を見せられ、イルカは頷いていた。ぴょんと机の上から立ち上がると、さよなら!と言って駆けだし、イルカも手を振った。
振りながら、イルカはゆっくり上げた腕をおろした。
 先生の指は綺麗ですね
思い出しただけで胸が痛んだ。
自分は男の子に言った女の子と同じだ。
いやでも俺は男なんだし。しかも大人同士なんだし。否定的な事を言ってみて、また胸が痛む。
ただ、分かるのは。少なくとも彼は俺に嫌な思いとさせようとして言ったわけじゃない。
昨日もそうだ。待っていたのも単に心配で彼は待っていたんだ。
嬉しそうにただの冷水を飲んでいたカカシ。子供みたいな顔でラーメンを食べていた。
イルカは廊下を出てゆっくりと歩いた。
昨日と同じように夕陽が廊下に差し込み、綺麗な色が広がっている。ふと窓の外を見て、立ち止まった。昨日と同じ後ろ姿。
イルカは一瞬躊躇う。が、窓枠に手を付き、息を吸い込んだ。
「カカシ先生」
呼べば、くるりと振り返った。
自分を見て、カカシが笑った。無邪気な笑顔だった。
胸の中心から一気に身体が暖かくなる。
今度は駆けてくる。自分に向かって。そうだ。自分がカカシを呼んだからだ。俺が呼んだらこんなに嬉しそうな顔をするんだ。
イルカは困った。
「もう帰るの?」
イルカの前まできたカカシが真っ直ぐにイルカを見て訊いた。はい、と素直に頷くとカカシは目を細めて軽く頷いた。
また、この人は俺に言うのだろうか。
細められた目を見つめている、イルカの心を知るわけでもなく、カカシは続けた。
「じゃあ、一緒に帰りましょう?」
予想していたのに、その言葉がとても大切に聞こえてくる。また、はいと言えばカカシはホッとしたような顔を浮かべた。すぐにぱあ、と明るい笑顔を自分に見せる。
「じゃあ、俺待ってます」
ああ、嬉しそうな顔をするなぁ、とカカシの顔を眺めた。よく考えたら、カカシはずっとこうだった。最初から、今日まで。ずっと。
「カカシ先生」
「何ですか?」
「カカシ先生は、俺の事好きなんですか?」
ぽろりと出た言葉に、カカシは驚いた顔をしたが、眉を下げて笑った。
「そうなんです。...イルカ先生が、どうしても好きなんです」
気持ち悪いですよね。情けない顔をしながらカカシは頭を掻いた。自分で気持ち悪いと言うのは、イルカがそう感じているとカカシは知っていたのだ。それなのにこの人はまだこんな俺を好きだと言う。
「そうだったんですか」
言いながら、身体の力が抜けていくのが分かった。
上忍が子供のように顔を赤くしてはにかんでいる。それをみたら無性に可愛く思えてくる。
生徒が言ったように、一緒に遊ぼうなんて言えないから。
「気持ち悪いなんて、思ってないです。一緒に帰りましょう。それで、飲みにいきませんか?」
イルカの台詞に僅かに目を開いた後、カカシはうん、と頷いた。
じゃあ直ぐに行きますから待っていてくださいと、そう言ってイルカは職員室へ駆けた。五月の夕陽が廊下を明るく包んでいる。カカシの待つ校門へ急ぐ自分は何故かウキウキしている。それが妙に心地いい。
これから少しずつ、カカシを知りたい。
待っているカカシを思い浮かべて、イルカはそう思った。

<終>
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