敗北宣言

冷たい雨が降る中、カカシは傘も差さずにその中を歩き、建物の中に入った。肩についた雨を叩いて落とすと、そのままゆっくり歩き出す。
階段を上ってすぐ、
「あ、先生」
声をかけられ廊下へ顔を向ける。白衣を纏い、書類を抱えたサクラがこちらに向かって歩いてきていた。
「よ、サクラ」
両手はポケットに入れたまま、サクラに応える。
カカシの目の前に来たサクラが足を止め、カカシも合わせるように足を止めた。
「やだ、カカシ先生。もしかして傘も差さずに歩いてきたんですか?」
濡れたカカシを目にして、サクラはため息混じりに呆れた声を上げた。
「そこまで降ってなかったしね。そんな濡れてる?」
頭を軽く降り雨水を払えば、またサクラが呆れてため意をついた。
「犬じゃないんですから」
「犬って……」
その例えにカカシは苦笑いを浮かべて濡れた銀髪を掻いた。
「でも、久しぶりですね。先生、忙しそうだからこんな所で会うなんてびっくりしました」
「そーお?ここんところ落ち着いてきてはいるから、近頃は待機所にも詰めてるよ」
「そうですか」
呑気そうに答えるカカシにサクラは笑顔を見せた。安心したような顔に、逆に心配されている立場になっているのかと思うと、なんだかんだ言ってももう子供じゃないんだねえ、と実感する。
眉を下げて微笑むカカシにサクラは不思議そうな顔をした。
「何ですか」
「いや、なんでもないよ。それ、綱手様のところに持って行くんでしょ?」
指を指すと、そうだった、と呟いた。
「じゃあ先生、また。風邪ひかないようにしてくださいね」
「はいはい」
手を降るサクラに片手を上げて。
「あ、サクラ」
サクラを呼び止めていた。くるりとサクラは振り返る。
「はい」
「・・・・・・あー、やっぱいいや。ごめんね、何でもない」
「はーい」
頭を掻くカカシに特に言及する事もなく。サクラはくすりと笑って笑顔を見せると背中を向け、再び歩き出した。
カカシは頭を掻いていた手をポケットに入れると、そのまま待機所へ足を向けた。

サクラの言う通り、大戦が終わった直後から、いや、それ以前も然りだが、忙しかった。
三代目よりも人使いが荒いと思うも、それはただの行き場のない愚痴の責任転嫁であって、事実人手不足で動ける人間は皆休みもなく動いている。
それが日常になっていた。
五代目の意向で里は元より先に街の修復が急ピッチで行われ、粉砕し大破した町並みが徐々に元に戻りつつあるのも事実。目で見て分かるくらいに活気を取り戻していた。
待機所に詰めるようになったのも最近。そして、待機所に誰もいないのは出払っているからだ。
一人、カカシは備え付けの椅子に座ると、いつものように愛読書を取り出す。読みかけのページを捲り開いた。
数行も読んでいない時に扉が開かれる。
ええ、もう?と顔を上げると、そこにはイルカが立っていた。
いつぶりだろうか。久しぶりなのは確かだった。自分が上忍師だった頃は酒に誘い誘われる仲だったが。慌ただしく日々を過ごしている中、彼が無事だと聞いてはいたがお互い顔を合わす事がなかった。
「お久しぶりです」
変わらない笑顔にカカシも微笑んだ。扉を閉め入ってくるイルカに、
「先生も待機?」
聞くと笑って首を振った。知っている。アカデミーもようやく再開されたばかりだ。だから、てっきりこの時間は授業中で、生徒相手に奮起しているのかと思っていたが、イルカは答える。
「いえ、違うんです。さっき外でサクラに会ったんですが、カカシさんがここにいるって聞いて」
ああそっか。カカシは呟いた。
サクラに会って、その後にイルカ先生。今日はそんな日なのかな、と思っていると、イルカは目の前まで来た。
「座らないの?」
「いや、いいです」
イルカはまた首を振った。
「お忙しいとは分かってますが、今日もしよかったら飯でも一緒にって思ったんですが」
「昼?」
「夜です」
「このまま待機って事もないから、ちょっと上がるの遅くなるかもしれないけど、いい?」
「はい」
迷う事なく答えるとイルカは安堵した表情を見せ、店と時間を告げると直ぐに待機所を後にした。

夜には雨が上がっていた。任務を終えイルカの指定された店に向かう。居酒屋でもなく、イルカの行きつけのラーメン店っだった。
既に席で待っていたイルカと共にラーメンと餃子とビールを頼み、久し振りに杯を酌み交わす。
ラーメン店にしたのは早く済ませれるからだろう。イルカらしい配慮だと思っていたから、もう一件行きませんかと言われた時は驚いた。
呑んでない焼酎があるんです。と、イルカの家に誘われ、特にこの後用事もないから、それにも頷く。
家に入ったのは初めてだった。
昔一緒に呑んで、めずらしくイルカが酔いつぶれた時に連れて行った事が一回あるくらいだ。
あの時は家まで送り届けてすぐに帰ったから、部屋に上がっていない。
多少古くなってはいるが、前訪れた時と同じアパートだった。
ペイン戦で襲撃を受けた場所から離れていたからぎりぎり免れたんです。ラッキーって言えばラッキーですよね。そう自虐混じりの冗談を言って、イルカは部屋の鍵を開けた。


「汚くてすみません」
適当に座っててください。
先に上がったイルカは床に落ちている雑誌を寄せ集めて部屋の隅に重ねた。
いかにも独身男の一人暮らし、と思わず呆れため息が出るような汚れ方もなく、整頓され生活感が漂う部屋は、想像すらしていなかったが、イルカらしいと感じた。正直自分の部屋の方が汚れている。
カカシは内心苦笑いを浮かべる。
忙しいと言ったらそれは言い訳に過ぎないが、日々に追われながら任務を遂行する事だけを考えていたからかもしれない。
カカシは言われるままに床に胡座を掻いて座った。
ふと視線を向けると、本棚には教員として使うであろう忍術書や巻物。学術書がびっしりと並んでいる。
その脇には、先ほど重ねられた雑誌へ視線を移せば、成人男性が読むような水着姿のグラビア女性の表紙。
そこへ焼酎とグラス、それに乾物のつまみを脇に抱えてイルカが台所から戻ってきた。
「イルカ先生も、こーいうの読むんだね」
男だからそうだろう、AVだってあってもおかしくはないし、正常だ。だからイルカの一瞬の間に、おや、と思ったが、直ぐにイルカは恥ずかしそうに笑った。
「そりゃ外では教師で馬鹿真面目で通ってますけど、俺も男ですから」
笑いながら、ちゃぶ台に酒やグラスを置く。
「さ、呑みましょう」
既に氷が入れてあったグラスにイルカは焼酎を注ぐ。静かにグラスを重ねて酒を口に入れた。
酒を一緒に飲んでいた頃からだいぶ里の状況は分かったが、イルカと話す内容は変わらなかった。一段落したから、なのが前提にあるが。それでもイルカと呑むのは素直に嬉しかった。
酔ったイルカの頬は健康的な肌を赤く染まり、笑うイルカの穏やかな表情を見ていると昔に戻った気分になる。
復興の最中だからと言うのもあるが、自分に友人と呼べる存在は少ないが、そんな相手とこうやって過ごす時間を持てるのはまだ先だと、勝手に思っていた。
お互いに笑った後、その二人の僅かな沈黙の後、
「そー言えば、」
ちゃぶ台に立て肘を付いたイルカは、グラスを見つめながら呟いた。
カカシは、ん?と顔を上げる。
イルカはグラスを揺らし、酒の中でゆらゆら動く氷を見つめている。その黒い目がふ、とカカシへ向いた。
「カカシさんつき合っている人いないんですか?」
唐突な言葉にカカシは僅かに目を丸くする。
あまり色恋の話をイルカとしたことがなかったからなのもある。ただ、昔から、どんな噂を耳にしたのか知らないが、カカシさんはモテますねえ、とか俺も早く可愛い彼女が欲しいですよ、とか。そんな事を零していたのは覚えていた。
酒の席での事だが。
思考を色々巡らせてみて、
「いないかな」
イルカが揺らしていたグラスを止める。口を湿らすように酒を口に入れたのが見えた。
「かなって。どっちなんですか」
咎めているような口調だった。カカシは思わずイルカから視線をずらした。
つき合っていると言うか、身体の関係を持っている女性はいるが、それが恋人とは自分で認識はなかった。
こう言ったら言い方は悪いが、欲を満たす為に、と言う言い方が自分の中では正しい。でもそれが何だと言うのだろう。
「うん、いないよ。いないけど、」
「良かった」
どうしたの?そう聞こうと思ったカカシの言葉にイルカの言葉が重なった。そのままイルカは続ける。
「数日前カカシさんが女性と歩いているのを見たんですが、それ違うんですね」
そう言っているイルカはほっとして表情を浮かべているが。
カカシは違和感を感じて思わず眉を顰めていた。
何かがおかしい。
それに、良かった、と言う意味はなんなのだろうか。自分の都合の言いように捉えようとしたいのだが、イルカの微かな変化を感じ取り、緊張を覚えた。黒い目がじっとカカシを見つめる。
「でもね、カカシさん。その女性とカカシさんが一緒に歩いているの、サクラも見たんです。腕を組んでたって」
「組んでたって言うか向こうから組んできたんです」
つい言い訳のような言葉が出てしまっていた。
さすが教師歴が長いと言うべきか、たぶんイルカは無意識だが、生徒説くような、教師である空気を作っている。相手がイルカで、その空気に慣れていないない自分には多少有効なものだ。
さっき言ったが、それが犯罪になるわけでもない。至って問題のない事のはずなのに、悪い事をしていると錯覚する。
「じゃあ身体だけの関係って事ですか?」
「はい」
「だったら遊女でもいるじゃないですか」
「イルカ先生も知ってると思うけど、あの界隈だけ復興が先延ばしにされているんですよ。五代目の意向で」
これを機に忍びでない女性にも手に職を持ち一人でも生きるべき力が必要だと、なにやら予算や体制を組み直している事も知っている。実に綱手らしい考え方だ。
「・・・・・・そうでしたね」
それはイルカの耳にも入っていたのか、静かに答える。
「じゃあ恋愛関係ではないって事ですよね」
念を押すイルカの物言いは静かのなに、何故か気圧された。
一体何が起こっているのか、いや、何が始まっているのか。
「・・・・・・そうです」
素直にそこは答えると、イルカは持っていたグラスをちゃぶ台に置いた。既にグラスの氷は溶け、それによって酒はかなり薄まってしまっている。
いい酒だから勿体ないなあと思っていると、じゃあ、と言ったイルカがちゃぶ台に手を突き、立ち上がった。
「恋人はいらっしゃらないんですね」
立ち上がったイルカはカカシを見下げる形になる。当たり前だがその目は笑っていない。
カカシは自分の掌を握った。その掌は微かに汗を掻いている。さっきからイルカの様子がおかしいとは思っていた。緊張しているのも感じ取っていた。
こんな会話したこともなく、こんな空気感はなかった。っていうかあり得ない。
その目に見えない今の空気は不安と言うか、恐怖に近かった。イルカの存在が恐怖なのではなく、怖いと感じたのは、イルカが何を考えているのか全く分からないからだ。
単純明快な表情を持つはずのイルカは、今目の前にはいない。
「・・・・・・はい・・・・・・」
またしても少し気圧されているカカシは、イルカを見上げながら短い返事をする。
「・・・・・・イルカ・・・・・・先生?」
自分でもか細い呼び方だと思った。でも不安なのは確かで、それはイルカに伝わればいいと思った。
カカシに近づくイルカをカカシはじっと青い目で追い、見つめる。
と、イルカがカカシと同じ視点になるように、目の前でしゃがみ込む。
間近で視線が交わる。
イルカの手が伸び、カカシの腕を掴んだ。
「ねえカカシさん。俺はカカシさんとあの女性が並んで歩いているのを見かけた時、ああ、これで吹っ切れるって思った。でも、やっぱり無理でした」
少し早口になっているイルカの黒い目が、揺れている。え、なに、とカカシが口を挟む前にまたイルカが口を開いた。
「俺、あなたが好きです。カカシさんあなたが好きだ」
ずっと前から、好きだった。
腕を掴むイルカの手に力が入る。そのままぐぐぐ、と後ろに押される。
カカシは瞬きも忘れてイルカを見つめた。力では当たり前だが自分の方が勝っている。でも頭が真っ白で、イルカから目が離せない。
さっきまで美味い酒の味になっていた口の中は、今はからからだ。
スローモーションのようにゆっくりと押され、気が付けばカカシは床に押し倒されていた。
その腹の上にイルカが跨がり馬乗りになる。
「ちょ、ちょっとイルカ先生?」
さすがにそこでカカシは慌てた。声もかなり自分らしくない上擦った声。
ぐっとイルカの眉根に皺がよった。
「カカシさんは俺の事嫌いですか?」
黒い目が不安で揺れていた。そしてその黒く輝く目は悲しみに満ちている。
カカシの胸は締め付けられた。
明るくて笑顔で、真っ直ぐで大らかな性格のイルカには、いつも周りに人がいた。
優しくて子供が大好きだから、きっと素敵な家庭を持って子供にも恵まれ笑いの絶えない明るい家庭を作っていくんだと。
そんな風にイルカを見ていた。
でも、気が付けば密かにイルカを目で追っている自分がいた。
今日待機所の前で、サクラに会った時言い掛けてやめたのは。イルカの事を聞きたかったから。
いつもどこかで気にかけていた。
それでも友人のままでいいと、潔く割り切ろうとーー努力した。
なのに、これはなんなの。
まさかイルカが自分にこんなに熱い恋情を持っていたなんて。
イルカのその視線に、身も心も焼き付けられてしまいそうで。カカシは思わず目を眇めた。
「カカシさん」
イルカが切なげに名前を呼び、顔をカカシに近づける。
「キスして・・・・・・いいですか?」
ふわりと酒とイルカの匂いが漂い目眩がした。
どんな物事にも順番ってものがあり、それに、こんな事したらイルカは二度と自分と顔を会わせられないだろうに。
「・・・・・・」
いや、違う。
二度と会わない覚悟なのだと、そこでようやく気が付く。イルカの身体が震えている理由も。
同時に酷いと思った。
イルカ先生と二度と会えないなんて、そんなの嫌に決まってるじゃない!
賭け事にしても、あまりにも杜撰過ぎだ。
らしくない。
でも、答えは簡単だった。
カカシは眉を下げふっと吐き出すように笑いを零した。
「・・・・・・カカシさん?」
不安げにイルカは名前を呼ぶ。
「負けたよ、イルカ先生」
カカシは苦笑しながら腕を伸ばし、イルカの頭を撫でた。
「あなたに負けました。自分に嘘をつくのやめます。だから、俺を先生にあげる」
「え・・・・・・」
呆然として瞬きをするイルカに、カカシは苦笑いを浮かべた。
望んでいた状況だろうに。そんなに驚く事じゃないだろう。
特攻覚悟にも程がある。
カカシはため息を吐き出しながらイルカを見つめた。
「ほら、おいで」
首に腕を回し、また戸惑っているイルカを自分に引き寄せる。それでも固まったままのイルカにカカシは唇が触れる直前で止め、眉を上げた。
「俺が欲しいんでしょ?」
途端イルカの顔がぼん、と赤く染まった。
ああ、これがイルカ先生。
ゆるゆるになった表情をつい浮かべてしまうが、イルカはそれに気がつかない。
「では、・・・・・・いただきます」
可愛いくも締まりのない台詞なのは気になったが。
ようやくイルカの唇がカカシの唇に重なった。


翌朝。まどろみの中、側にある温もりを感じてカカシは目を開く。
イルカもさっき起きたのか、寝ぼけ眼でイルカはじっとカカシを見つめていた。
目の前にいるカカシが現実なのか、そんな目で見つめるイルカは丸で子供が見たかった幻を見つめているかのようだ。だが、昨夜抱かれた感覚はまだ身体に残っているはずだ。
カカシは目を細め微笑み、イルカを抱き寄せた。
そしてキスを瞼に一つ。

「夢じゃないよ」

耳元で囁いた。


<終>
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