始まる
「で?」
聞き返されてカカシは執務室で首を傾げた。
「で、と言うのは」
間の抜けた返答に綱手が大げさに眉を寄せた。手にしていた報告書をもう片方の手で叩く。
「出すのが遅かった理由だよ。直ぐにでも出せって伝えたはずだけどね」
確かにそれは聞いていた。
元々提出は後輩に頼んでいた。ただ、主戦力となったカカシの記入がなく突っ返されたから記入をお願いしたい、と後輩から報告書をもらったのが昨夜。既に半分は目を通してあるのだからいいだろうと、そう思っていたのだが。
今日は機嫌が悪いらしい。
カカシが誤魔化すように笑うと、鋭い目が返ってきた。
(参ったね・・・・・・)
ため息を吐き出すと、
「まあいい」
書き足した報告書に再び目を落としながら綱手が呟いた。
「今回は組んだ日程にも問題があったからな」
労いの言葉までとはいかないが、不満になりがちな部分は分かっていると、綱手は自分に言うかのように軽く頷いた。
「でも報告を怠るなんて珍しいじゃないか」
お前にしては。
そう続けながら、綱手はじっとカカシを見つめた。
「何かあったのか」
「いえ、何も」
カカシは素直に肩を竦める。
ただ、今回は体力を思ったより消耗しただけで、睡魔に勝てなかっただけだ。
ショートスリーパーの自分にしては珍しいとは思ったが、本当なのだから仕方がない。
「寝たかっただけです」
その言葉に綱手が嘆息した。手に持っていた報告書を机に置きながら、椅子の背もたれに体重を預ける。
「女のところにでも行ってたとか、そんな色がついた話しぐらい出したらどうだい」
あっけらかんと言われてカカシは眉を下げた。
「はあ」
「右手が恋人ってわけじゃないだろう」
普通女性が口に出さないような言葉をずばずばと口にされ、カカシは苦笑いを浮かべるしかなかった。
そんなカカシを前に気にする様子もなく、綱手は更にそれ以上何か言おうと口を開けたが、
「まあいいさ」
息を吐き出しながら、手を振られる。何がいいのか知らないが、いいのならさっさと切り上げたいと、カカシは言われた通り背を向けた。
「午後にまた伝令の鳥を飛ばすかもしれんからな」
追加された言葉に不満も感じ、休む間もないと思ったが、しかしそれは自分に限った事ではない。返事をする代わりに頷きながら、カカシはドアノブに手を伸ばした。
「まだあいつの尻を追いかけてるわけじゃないだろうね」
その言葉に、一瞬足を止めたカカシは綱手に視線を向けると、困ったような、それでいて人の悪い笑みを浮かべていた。
(尻を追いかけてるって・・・・・・)
人聞きが悪いじゃない。
そう思いながらも、その通りかとカカシはぼんやり思った。
ふらふらした性格は元からで。それに元々自分は特定の女とつき合った事はなかった。というか、その選択肢は自分の中にはなかった。それは自分だけではなく戦忍はそんなものだとそう思っていた。
恋愛なんてものはあの冊子の中だけで夢見ていればいいと、そう思っていた。
だから、自分が人に告白したのはイルカが初めてだった。
ねえ先生、つき合ってる人いないなら俺はどう?
たぶん、今考えるに。言い方が悪かったのだと思う。
生徒達が帰った人気のない廊下。夕日が傾き、廊下もイルカも茜色に染まっていた。告白するにはいいシチュエーションで。
カカシは期待しながらイルカをじっと見つめた。
しかし、イルカは目を丸くした後、思い切り眉根を寄せた。
不愉快そうに。
「結構です」
きっぱりと言いのけると、イルカは直ぐに背中を見せ、廊下から立ち去った。
その背中も酷く怒っていたように思う。
でも、仕方がなかった。
経験もなく、恋愛を今まで一度もしてこなくて、どれが正解なのか分からなかった。相手として選んでいた相手は遊郭の女で、客相手に何を言おうが嬉しそうに頷くから、自分が少しずれているとも思うことがなかった。
だから、それを続行した。
ねえ先生今日一緒にご飯食べようよ
一緒に帰らない?
自分なりに口説いているつもりだったが一切なびくこともなく、イルカは冷たい眼差しで断られる。
ある日、いつものように後を追って歩いたカカシにくるりとイルカが向き直り、
冗談はやめてください。
そう言われ。そこで初めて気がついた。
本気だと思われていない事に。
正直焦った。
けど、その焦りをどうしたらいいのか分からない。
冗談じゃないって、先生。
その言い方も台詞もまた選択ミスだったのか。
イルカは怪訝そうな顔をしながら、口を結んでしまった。
自分は周りを気にもしていなかったが。あの五代目の耳にも入っていたとは。そこまで思って可笑しくなり、自嘲の笑みを密かに浮かべた。
自分にそんな感情が残っていたのかと思いながら、執務室の建物から出て待機所に足を向けながら欠伸を噛み殺す。
里を出たのは三日前。任務を終え帰ってきたのは昨夜。
昨日の今日でまだ疲れが抜けていないせいか身体が怠い。
五代目の尻の叩き方はどうなの、とぼやきたくもなるが。さっき執務室で目にしたのは、三代目から使っている年期の入った机の上に山積みされた書類。机の脇には積む場所がなく置かれた医学書の本や巻物。
そう、誰を責めるとかそんな問題ではないのは分かっている。
家に帰って寝てしまおうかと考えていたが、そんな気分ではなくなる。
自宅までとは行かないが、待機所の近くで仮眠をとるには問題はないだろう。
カカシは顔を上げると、アカデミーの方向へ身体を向けた。
仮眠するならここがいいと教えてくれたのはナルトだった。
最初聞いた時は、何言ってんの、呆れた声と共に金色の頭を叩いた事を思い出す。
関係者以外立ち入り禁止と書かれている敷地に、カカシは躊躇なく足を踏み入れると建物の裏手に回った。
(・・・・・・少しだけ)
アカデミーの保健室に養護教諭なるものは存在していない。教師がそれを兼任しているからだ。
カカシは眠気で誘発された欠伸をしながら保健室の扉を開けた。部屋を見渡す。
誰もいない事に内心安堵して一番奥のベットにカカシは一直線につかつかと歩き、カーテンを引くと直ぐにごろりと身体を横たえた。
今朝変えたばかりだろう、その真っ白いシーツは触れる肌に心地良い。10分でもいい、深い眠りに入ればそれだけで身体が楽になるはずだ。
カカシは仰向けにしていた身体を横に向けると、少し背中を丸くしながら目を閉じた。
上階で人の気配がするのは授業をしているから。それはこの建物の日常であり、この里の子供たちの活動拠点でもあり、それは酷くカカシの緊張を解した。
暗部にいた頃、仮眠所で寝れた事なんて一度もなかった事を思い出す。
殺伐とした自分の日常にない、ここの日常がいかに暖かいものなのか、遠くで聞こえる授業の声や音を聞きながら、カカシの意識は直ぐに遠のいた。
寝てから15分も経った頃、勢いよく開いた扉の音でカカシの目が覚めた。もう授業が終わったのかと引き戻された意識の中で思いながら、終業した鐘の音は聞こえなかったのに、と思った時、あれ、と声が聞こえた。
それは、聞き覚えのある声で。
その声の主は真っ直ぐカカシの寝ているベットまで向かってくる。カカシがゆっくりと身体を起こした時、カーテンを引かれた。
開けたと同時に、あ、と声を出したのはイルカだった。まさかそこにカカシが寝ていると思っていなかったのだろう。目を丸くし、口を小さく開けたままこっちを見ていた。
「・・・・・・どーも」
寝ぼけた風に笑うと、イルカはまだ驚いているのか、目を丸くしたまま開けていた口をぐっと閉じたのが見えた。無意識にその口元に視線を向けている自分に気がつき、誰に誤魔化すわけでもなくカカシはまた笑った。
「ごめんね、ちょっと眠くて」
ナルトが授業をサボってここで昼寝し、イルカにこっぴどく怒られた事を知らないわけではない。
立場上怒られる事はないと知っていながらも、なんとなくばつが悪い。そんなカカシを前にして、イルカが眉を寄せた。
「どこか怪我でも?」
そんな事を聞かれてカカシは少し驚いた。その通り、イルカは真面目に心配そうな表情を浮かべている事に気がつく。
カカシは慌てて手を振った。
「いや、どこも」
「え?じゃあ、本当に、」
「ええ、ちょっと睡眠を取りたくて」
それを聞いてイルカは息を吐き出しながら、カカシへ目を向けた。
「仮眠でしたら他に場所があったでしょう」
さっきの心配そうな表情は消え、直ぐに呆れ気味な表情に変わっていた。まあそうですけど、と答えるカカシに、全く、と言葉を零したイルカは直ぐ横にあった窓に歩み寄り引かれたままのカーテンを開ける。
「ここは生徒が使用する為なんですから」
そう言いながらイルカが半分ほど窓を開け、風がふわりと部屋に舞い込み、カーテンを揺らした。
明かりが差し込み、カカシは目を眇めながら高い位置に結われたイルカの黒い髪を見つめた。
癖毛で猫っ毛の自分の髪とは違い、黒々と輝くイルカの髪は健康的だ。
その後ろ姿を見つめて改めて思うのは。
やっぱりイルカが好きだという事。
はっきりとした理由もきっかけもなかった。ただ自分は、イルカと接する度に目にした思ったより子供っぽい笑顔だったり、虫歯がなさそうな白い歯だっり、その黒い髪も。無骨な手、何気ないイルカらしい仕草。全部が好き。
独りごちるように確信した時、ふわりとその結われた黒髪が揺れ、くるりとイルカがカカシに向き直った。
「で、もう仮眠は済みましたか?」
遠回しに出て行けと、そんな事をイルカが言っている訳ではないと分かっている。まだ眠いと言えば大目に見てくれるだろう事も分かっている。しかし、先ほどイルカが口にしたように、ここは仮眠室ではない。
目の前のイルカに同性であろうがつきまとってはいたが、またここで寝始めるような事が非常識である事くらいは分かっている。
それに、熟睡出来ていたのか、思いの外身体は軽い。
「うん、もう十分です」
カカシはそう答えるとベットから降りた。明るくなった保健室にイルカと二人きりなんて何か変な感じだ。
改めてそう思ったら、いつもイルカに執着しているはずが、少しむず痒く感じた。それに、ここ数ヶ月、忙しくてイルカと会話すらしていなかった。
せっかくだから何か話そうかと思った時、終業の鐘が鳴り響いた。イルカもそれに反応し、教室があるだろう上に顔を向ける。
「えっと・・・・・・じゃあ、行くね」
「あ、はい」
途端沢山の騒がしくなった気配を受けながら、カカシはそれに背中を押されるように。イルカに頭を下げると、イルカも頭を下げた。
そのまま保健室を出たカカシは、廊下を出て歩き出す。
遠くで子供たちが騒ぐ声を聞きながら何歩か歩き、カカシは足を止めた。立ち止まったまま、口元に手を当てる。
やっぱり。せっかくだから。
カカシは背を向けていた保健室へ向きなおる。
もしかしたら綱手に言われた通り、任務で駄目になるかもしれないけど。
それ以前に当たり前のように断られるのかもしれないけど。
カカシは歩き出すと、扉が開けたままになっていた保健室にもう一度足を踏み入れた。
「ねえ先生、今日は、」
今日は、夜空いてる?
そう聞こうとした。
だが、その言葉は視界に入った情景によって続かなかった。
それに、その情景の意味が、分からなかった。
さっきまで自分がいたベットにイルカが腰掛け、そこから倒れるように上半身を布団に埋めている。
顔もその布団に埋まっているので見えない。
カカシは数回瞬きをしながら、その光景を見つめた。
「・・・・・・イルカ先生?」
本当はイルカも眠かったのだろうか。人手不足で疲れているのはどこも一緒だ。
授業中でもここにイルカが来た理由を気がつくべきだったかと、少し後悔が過ぎる。
「ねえ、せんせ」
大丈夫?そう聞こうとしてイルカに向かって歩みを進め手を伸ばした。その気配に気がついたのか、イルカがさっきまで名前を呼んでも応えなかったのに、身体がぴくりと動く。布団に埋めていた顔をゆっくりと上げ、ーー。
カカシは小さく息を呑んだ。
頬が赤く染まり、よく見れば耳まで赤い。苦しそうな表情で、おずおずと上げた視線は直ぐにカカシから外される。
イルカはさっきまでカカシが寝ていた布団をぎゅうと握った。
それを惚けた顔でカカシはただ眺め。
「・・・・・・・・・・・・」
カカシの動き出す心音が、どんどんと駆け足になり、カカシの白い頬に明るい血の色が浮かぶ。
イルカから目が離せない。
固まったままのカカシに、イルカは目を伏せると再び顔をゆっくりと布団に埋めた。隠れていない耳は真っ赤に染まっている。
「・・・・・・疲れてる、だけです」
消えてしまいそうな声が耳に届く。カカシは目を見開き、そこから眉を寄せた。何とも言えない気持ちがじわじわと汗をかくように広がる。
だって。これを逃がす手はない事ぐらい、よく変わっている。
恥ずかしさに、たぶん泣きそうな表情を浮かべるだろうイルカに。非情なくらいに興奮を覚えるのって最低なのかもしれないけど。
もしかしたら、やっとここから何が始まるかもしれないから。
(だよね?先生)
心で呟きなら、頬を緩めながら。
カカシはゆっくりイルカに手を伸ばした。
<終>
聞き返されてカカシは執務室で首を傾げた。
「で、と言うのは」
間の抜けた返答に綱手が大げさに眉を寄せた。手にしていた報告書をもう片方の手で叩く。
「出すのが遅かった理由だよ。直ぐにでも出せって伝えたはずだけどね」
確かにそれは聞いていた。
元々提出は後輩に頼んでいた。ただ、主戦力となったカカシの記入がなく突っ返されたから記入をお願いしたい、と後輩から報告書をもらったのが昨夜。既に半分は目を通してあるのだからいいだろうと、そう思っていたのだが。
今日は機嫌が悪いらしい。
カカシが誤魔化すように笑うと、鋭い目が返ってきた。
(参ったね・・・・・・)
ため息を吐き出すと、
「まあいい」
書き足した報告書に再び目を落としながら綱手が呟いた。
「今回は組んだ日程にも問題があったからな」
労いの言葉までとはいかないが、不満になりがちな部分は分かっていると、綱手は自分に言うかのように軽く頷いた。
「でも報告を怠るなんて珍しいじゃないか」
お前にしては。
そう続けながら、綱手はじっとカカシを見つめた。
「何かあったのか」
「いえ、何も」
カカシは素直に肩を竦める。
ただ、今回は体力を思ったより消耗しただけで、睡魔に勝てなかっただけだ。
ショートスリーパーの自分にしては珍しいとは思ったが、本当なのだから仕方がない。
「寝たかっただけです」
その言葉に綱手が嘆息した。手に持っていた報告書を机に置きながら、椅子の背もたれに体重を預ける。
「女のところにでも行ってたとか、そんな色がついた話しぐらい出したらどうだい」
あっけらかんと言われてカカシは眉を下げた。
「はあ」
「右手が恋人ってわけじゃないだろう」
普通女性が口に出さないような言葉をずばずばと口にされ、カカシは苦笑いを浮かべるしかなかった。
そんなカカシを前に気にする様子もなく、綱手は更にそれ以上何か言おうと口を開けたが、
「まあいいさ」
息を吐き出しながら、手を振られる。何がいいのか知らないが、いいのならさっさと切り上げたいと、カカシは言われた通り背を向けた。
「午後にまた伝令の鳥を飛ばすかもしれんからな」
追加された言葉に不満も感じ、休む間もないと思ったが、しかしそれは自分に限った事ではない。返事をする代わりに頷きながら、カカシはドアノブに手を伸ばした。
「まだあいつの尻を追いかけてるわけじゃないだろうね」
その言葉に、一瞬足を止めたカカシは綱手に視線を向けると、困ったような、それでいて人の悪い笑みを浮かべていた。
(尻を追いかけてるって・・・・・・)
人聞きが悪いじゃない。
そう思いながらも、その通りかとカカシはぼんやり思った。
ふらふらした性格は元からで。それに元々自分は特定の女とつき合った事はなかった。というか、その選択肢は自分の中にはなかった。それは自分だけではなく戦忍はそんなものだとそう思っていた。
恋愛なんてものはあの冊子の中だけで夢見ていればいいと、そう思っていた。
だから、自分が人に告白したのはイルカが初めてだった。
ねえ先生、つき合ってる人いないなら俺はどう?
たぶん、今考えるに。言い方が悪かったのだと思う。
生徒達が帰った人気のない廊下。夕日が傾き、廊下もイルカも茜色に染まっていた。告白するにはいいシチュエーションで。
カカシは期待しながらイルカをじっと見つめた。
しかし、イルカは目を丸くした後、思い切り眉根を寄せた。
不愉快そうに。
「結構です」
きっぱりと言いのけると、イルカは直ぐに背中を見せ、廊下から立ち去った。
その背中も酷く怒っていたように思う。
でも、仕方がなかった。
経験もなく、恋愛を今まで一度もしてこなくて、どれが正解なのか分からなかった。相手として選んでいた相手は遊郭の女で、客相手に何を言おうが嬉しそうに頷くから、自分が少しずれているとも思うことがなかった。
だから、それを続行した。
ねえ先生今日一緒にご飯食べようよ
一緒に帰らない?
自分なりに口説いているつもりだったが一切なびくこともなく、イルカは冷たい眼差しで断られる。
ある日、いつものように後を追って歩いたカカシにくるりとイルカが向き直り、
冗談はやめてください。
そう言われ。そこで初めて気がついた。
本気だと思われていない事に。
正直焦った。
けど、その焦りをどうしたらいいのか分からない。
冗談じゃないって、先生。
その言い方も台詞もまた選択ミスだったのか。
イルカは怪訝そうな顔をしながら、口を結んでしまった。
自分は周りを気にもしていなかったが。あの五代目の耳にも入っていたとは。そこまで思って可笑しくなり、自嘲の笑みを密かに浮かべた。
自分にそんな感情が残っていたのかと思いながら、執務室の建物から出て待機所に足を向けながら欠伸を噛み殺す。
里を出たのは三日前。任務を終え帰ってきたのは昨夜。
昨日の今日でまだ疲れが抜けていないせいか身体が怠い。
五代目の尻の叩き方はどうなの、とぼやきたくもなるが。さっき執務室で目にしたのは、三代目から使っている年期の入った机の上に山積みされた書類。机の脇には積む場所がなく置かれた医学書の本や巻物。
そう、誰を責めるとかそんな問題ではないのは分かっている。
家に帰って寝てしまおうかと考えていたが、そんな気分ではなくなる。
自宅までとは行かないが、待機所の近くで仮眠をとるには問題はないだろう。
カカシは顔を上げると、アカデミーの方向へ身体を向けた。
仮眠するならここがいいと教えてくれたのはナルトだった。
最初聞いた時は、何言ってんの、呆れた声と共に金色の頭を叩いた事を思い出す。
関係者以外立ち入り禁止と書かれている敷地に、カカシは躊躇なく足を踏み入れると建物の裏手に回った。
(・・・・・・少しだけ)
アカデミーの保健室に養護教諭なるものは存在していない。教師がそれを兼任しているからだ。
カカシは眠気で誘発された欠伸をしながら保健室の扉を開けた。部屋を見渡す。
誰もいない事に内心安堵して一番奥のベットにカカシは一直線につかつかと歩き、カーテンを引くと直ぐにごろりと身体を横たえた。
今朝変えたばかりだろう、その真っ白いシーツは触れる肌に心地良い。10分でもいい、深い眠りに入ればそれだけで身体が楽になるはずだ。
カカシは仰向けにしていた身体を横に向けると、少し背中を丸くしながら目を閉じた。
上階で人の気配がするのは授業をしているから。それはこの建物の日常であり、この里の子供たちの活動拠点でもあり、それは酷くカカシの緊張を解した。
暗部にいた頃、仮眠所で寝れた事なんて一度もなかった事を思い出す。
殺伐とした自分の日常にない、ここの日常がいかに暖かいものなのか、遠くで聞こえる授業の声や音を聞きながら、カカシの意識は直ぐに遠のいた。
寝てから15分も経った頃、勢いよく開いた扉の音でカカシの目が覚めた。もう授業が終わったのかと引き戻された意識の中で思いながら、終業した鐘の音は聞こえなかったのに、と思った時、あれ、と声が聞こえた。
それは、聞き覚えのある声で。
その声の主は真っ直ぐカカシの寝ているベットまで向かってくる。カカシがゆっくりと身体を起こした時、カーテンを引かれた。
開けたと同時に、あ、と声を出したのはイルカだった。まさかそこにカカシが寝ていると思っていなかったのだろう。目を丸くし、口を小さく開けたままこっちを見ていた。
「・・・・・・どーも」
寝ぼけた風に笑うと、イルカはまだ驚いているのか、目を丸くしたまま開けていた口をぐっと閉じたのが見えた。無意識にその口元に視線を向けている自分に気がつき、誰に誤魔化すわけでもなくカカシはまた笑った。
「ごめんね、ちょっと眠くて」
ナルトが授業をサボってここで昼寝し、イルカにこっぴどく怒られた事を知らないわけではない。
立場上怒られる事はないと知っていながらも、なんとなくばつが悪い。そんなカカシを前にして、イルカが眉を寄せた。
「どこか怪我でも?」
そんな事を聞かれてカカシは少し驚いた。その通り、イルカは真面目に心配そうな表情を浮かべている事に気がつく。
カカシは慌てて手を振った。
「いや、どこも」
「え?じゃあ、本当に、」
「ええ、ちょっと睡眠を取りたくて」
それを聞いてイルカは息を吐き出しながら、カカシへ目を向けた。
「仮眠でしたら他に場所があったでしょう」
さっきの心配そうな表情は消え、直ぐに呆れ気味な表情に変わっていた。まあそうですけど、と答えるカカシに、全く、と言葉を零したイルカは直ぐ横にあった窓に歩み寄り引かれたままのカーテンを開ける。
「ここは生徒が使用する為なんですから」
そう言いながらイルカが半分ほど窓を開け、風がふわりと部屋に舞い込み、カーテンを揺らした。
明かりが差し込み、カカシは目を眇めながら高い位置に結われたイルカの黒い髪を見つめた。
癖毛で猫っ毛の自分の髪とは違い、黒々と輝くイルカの髪は健康的だ。
その後ろ姿を見つめて改めて思うのは。
やっぱりイルカが好きだという事。
はっきりとした理由もきっかけもなかった。ただ自分は、イルカと接する度に目にした思ったより子供っぽい笑顔だったり、虫歯がなさそうな白い歯だっり、その黒い髪も。無骨な手、何気ないイルカらしい仕草。全部が好き。
独りごちるように確信した時、ふわりとその結われた黒髪が揺れ、くるりとイルカがカカシに向き直った。
「で、もう仮眠は済みましたか?」
遠回しに出て行けと、そんな事をイルカが言っている訳ではないと分かっている。まだ眠いと言えば大目に見てくれるだろう事も分かっている。しかし、先ほどイルカが口にしたように、ここは仮眠室ではない。
目の前のイルカに同性であろうがつきまとってはいたが、またここで寝始めるような事が非常識である事くらいは分かっている。
それに、熟睡出来ていたのか、思いの外身体は軽い。
「うん、もう十分です」
カカシはそう答えるとベットから降りた。明るくなった保健室にイルカと二人きりなんて何か変な感じだ。
改めてそう思ったら、いつもイルカに執着しているはずが、少しむず痒く感じた。それに、ここ数ヶ月、忙しくてイルカと会話すらしていなかった。
せっかくだから何か話そうかと思った時、終業の鐘が鳴り響いた。イルカもそれに反応し、教室があるだろう上に顔を向ける。
「えっと・・・・・・じゃあ、行くね」
「あ、はい」
途端沢山の騒がしくなった気配を受けながら、カカシはそれに背中を押されるように。イルカに頭を下げると、イルカも頭を下げた。
そのまま保健室を出たカカシは、廊下を出て歩き出す。
遠くで子供たちが騒ぐ声を聞きながら何歩か歩き、カカシは足を止めた。立ち止まったまま、口元に手を当てる。
やっぱり。せっかくだから。
カカシは背を向けていた保健室へ向きなおる。
もしかしたら綱手に言われた通り、任務で駄目になるかもしれないけど。
それ以前に当たり前のように断られるのかもしれないけど。
カカシは歩き出すと、扉が開けたままになっていた保健室にもう一度足を踏み入れた。
「ねえ先生、今日は、」
今日は、夜空いてる?
そう聞こうとした。
だが、その言葉は視界に入った情景によって続かなかった。
それに、その情景の意味が、分からなかった。
さっきまで自分がいたベットにイルカが腰掛け、そこから倒れるように上半身を布団に埋めている。
顔もその布団に埋まっているので見えない。
カカシは数回瞬きをしながら、その光景を見つめた。
「・・・・・・イルカ先生?」
本当はイルカも眠かったのだろうか。人手不足で疲れているのはどこも一緒だ。
授業中でもここにイルカが来た理由を気がつくべきだったかと、少し後悔が過ぎる。
「ねえ、せんせ」
大丈夫?そう聞こうとしてイルカに向かって歩みを進め手を伸ばした。その気配に気がついたのか、イルカがさっきまで名前を呼んでも応えなかったのに、身体がぴくりと動く。布団に埋めていた顔をゆっくりと上げ、ーー。
カカシは小さく息を呑んだ。
頬が赤く染まり、よく見れば耳まで赤い。苦しそうな表情で、おずおずと上げた視線は直ぐにカカシから外される。
イルカはさっきまでカカシが寝ていた布団をぎゅうと握った。
それを惚けた顔でカカシはただ眺め。
「・・・・・・・・・・・・」
カカシの動き出す心音が、どんどんと駆け足になり、カカシの白い頬に明るい血の色が浮かぶ。
イルカから目が離せない。
固まったままのカカシに、イルカは目を伏せると再び顔をゆっくりと布団に埋めた。隠れていない耳は真っ赤に染まっている。
「・・・・・・疲れてる、だけです」
消えてしまいそうな声が耳に届く。カカシは目を見開き、そこから眉を寄せた。何とも言えない気持ちがじわじわと汗をかくように広がる。
だって。これを逃がす手はない事ぐらい、よく変わっている。
恥ずかしさに、たぶん泣きそうな表情を浮かべるだろうイルカに。非情なくらいに興奮を覚えるのって最低なのかもしれないけど。
もしかしたら、やっとここから何が始まるかもしれないから。
(だよね?先生)
心で呟きなら、頬を緩めながら。
カカシはゆっくりイルカに手を伸ばした。
<終>
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