鼻歌

カカシの意識の持ち方は曖昧だ。
そう表現すれば語弊があるが、ある意味それが正しかったりもする。
ただ、任務に関しては別だ。常に精神を研ぎ澄ませ、仲間と連携しながら任務を遂行する。
その能力は里からも仲間からも、はたまた他国からも高い評価を得ている事は、カカシ自身も知っていた。
ただ、プライベートになれば別だった。元々性格的にものぐさで何事に関しても記憶に留めない。人の顔も例外ではない。日常生活でも必要に迫られない限りはどんな相手だろうとうろ覚えだ。
だから、自身の身長や体重でさえも聞かれてもすぐに答えられない事がほとんどだった。

カカシは廊下を歩いていた。
手には書類。
さっき執務室へ任務報告をした時に、火影から頼まれたものだった。
いや、頼まれのではなく無理矢理押し付けられたに近い。

執務室で早々に報告を終わらせ背を向けたカカシを、火影が呼び止めた。
「悪いがこれをアカデミーにいるイルカに届けてくれんか」
言われ、カカシは眠そうな眼差しをパイプをふかしている火影に向けた。
「イルカって誰です?」
当然のように聞き返したカカシに火影の表情が変わった。苦虫を噛み潰したような顔をカカシに向ける。
「カカシ……イルカの件は先週説明したばかりであろう。いい加減その性格を治そうとは思わんか」
「はあ」
言ってみたもののカカシの鈍い反応に、いや無理だろうなと諦めの境地に達したのか。火影は深いため息を吐き出した。
痛む頭に手を当てた火影は、山積みになっている書類の束から、一つを抜き取った。
突き出すようにカカシに向けてバサリとその書類を投げ出す。
「イルカは、お前が担当する事になっている手を焼く事になるであろう子供達の元担任だ。会って挨拶するなどして顔を覚えてこい」
「……分かりました」
とぼけた返答をしようものなら、説教が続く事くらいカカシにも分かっていた。
カカシは投げ出された書類を手に取ると、さっさと背を向ける。
「よいか、覚えてくるのだぞ」
その背中に念を押されたが、カカシは返事をする事なく執務室を後にした。

そんな経緯があって、カカシはアカデミーの廊下を歩いていた。
手に持っている書類はイルカに渡すべき書類。
名前は把握したものの、当たり前だが顔に記憶はなかった。
誰かしらにイルカが誰か教えてくれるのだろうから問題はないが。
ただ、こんな時間にアカデミーではまた仕事中なのだろうか。
カカシは首を傾げた。
時間は既に戌の刻をとうに過ぎている。そもそもアカデミーに出向いた事がないから知らないが、こんな遅くまで授業があるわけではないくらいは分かる。
だとしたら残業をしているのか。仕事熱心なのは偉いとは思うが自分だったら遠慮したい。
カカシはそんな事を思いながら階段を上るべく足を向けた。職員室はこの階段を上がった二階にある。(と出入り口の扉を開けてすぐの壁に書かれていた)
と、足が止まった。
二階から聞こえてくる歌声がカカシの足を止めていた。
歌声と言うか鼻声に近い。はっきりとした言葉はほとんど発せられず、メロディーを口ずさんでいる。
ただ、その歌は聞き覚えがあった。カカシにしては珍しい。別に音楽が好きでも歌が好きなわけでもない。でも、聞こえてくる歌には覚えがあった。
そして、すぐに思い当たる。このアカデミーの校歌だということに。
アカデミーに在籍した期間は少なかったが、確かにこの校舎で皆が校歌を歌っていたのを自分が聞いていた事を思い出す。聞いていたというのはその通り、自分が歌っていたわけではなかったからだ。
理由は簡単、歌いたくなかったから。昔からカカシは天の邪鬼な性格も持っていた。歌えたが、それが忍びになるに辺り、必要があるとは思えなかった。ただ、それで教師に咎められるのが嫌で歌っているフリをしていた。そんなのはすぐにバレるし分かる事だったが、教師自身も校歌にそこまで固執したくはなかったのだろう。何も言われる事はなかった。
では何故自分が校歌を覚えていると聞かれたら、分からない。ただ記憶にあるのは校歌のみではなく、校歌と、皆が歌を歌い自分が傍観者となって聞いている、そんな情景がセットとなって記憶の片隅に残っていたから。当然だが、教師と皆の顔は覚えてはいない。
自分にしては珍しい事があるもんだと感心しながら階段を再び上り始めた。
職員室は階段近くにあるのだろう、鼻歌がどんどんと大きくなる。
にしても。カカシは感じる違和感に眉を寄せた。
先程校歌を覚えていると言ったが今職員室から聞こえてくる歌は何かが違った。歌詞が違うのではない、さっきから聞こえてくるのは歌詞が含まれないただの鼻歌だ。
違和感が何かといえば、濁っているような変なメロディだ。強いて言うなら半音上がったり下がったりしているような。
カカシは耳がいい。だから、自分の記憶にあるメロディが間違っているとは思えない。
あ、そうか。
カカシはそこで含み笑いをした。歌っている相手がただ単に音痴なのだと気がついたからだ。
それは本人も気がついているのかいないのかは知らないが、さっきから途中で止めてはまた出だしから歌い出したりしている。
丸で壊れたステレオのようだ。
それなのに何て楽しそう歌うのだろう。
加え可笑しいのはこの音痴な鼻歌は楽しそうなうえに、階段にいるカカシにまで聞こえるくらいの大きな音量だったからだ。
学校が終わったとはいえ場所が場所。職場である職員室だ。
可笑しいし呆れる。
カカシはまだ歌っているその鼻歌を聞きながら階段を上がり職員室の前まできた。扉は締められておらず、中途半端に開いたまま。
そこから中を覗くと一人の男がカカシに背を向けるように机に向かって座っていた。他には誰もいない。
その男は黒い髪を高めに一つに括っていて、その髪は鼻歌のメロディーと一緒に時折揺れた。右手に持ったペンはたまに止まったりするものの、紙にしゅっ、しゅっ、と規則的な音を立て何かを書き込んでいる。安易に想像するに紙は生徒たちの答案で、丸付けをしている。
そして鼻歌は当たり前だがその男から漏れていた。
彼がイルカなのだろうか。ただ校舎を外から見上げた時に、二階の職員室以外にも三階の部屋に電気が灯っていた事をカカシは確認していた。だから三階にいるのがイルカかもしれない。
まあ、聞けばいいだけの話だ。
黒い髪の男に再び視線を向ける。
誰かが聞いているとは思わず大きな声で音程の外れた校歌を披露しているのが少し可哀想にも思えてもくるが、まあ仕方がない。
そこからカカシは躊躇なく扉に手をかけた。
古い木製の扉はからからからと小気味よい音を立てて開く。
と、同時に鼻歌が止まった。
背を向けて座っていた男が勢いよく開いた扉へ振り向いた。
出入り口に立っているカカシとばったりと目が合う。健康的な肌の真ん中の大きな目が見開かれた。
想像はしてはいたものの、あまりに驚いた顔に目をそらす事も出来ず、そのまま彼と目を合わせていた。
かあ、と男の顔が赤く染まる。
そして彼は丸で悪戯を見咎められたかのように口をもごもごさせた。
その仕草がカカシをひどく緊張させた。
今迄幾度となく死線を潜り抜けてきた鉄の自制心を持つ自分が、柄にもなくこんな事でドキドキとしてしまっている。
目の前の男は驚き気まずそうに、ばつが悪そうに眉根をぎゅっと寄せた。
その空気から早く解放してあげたい、そう感じたカカシは彼より早く口を開いた。
「ねえ、イルカって人はいる?」
目の前の男は戸惑いからかふっくらした唇に力を入れていたが、その唇をゆっくりと開く。
「私がうみのイルカですが」
そして頬を赤らめながら恥ずかしそうにカカシに微笑んだ。

その瞬間、カカシの身体が何かによって痺れた。
目を奪われ、普段機能しない脳がイルカを脳裏に焼き付けた事にカカシ自身まだ気がついてはいない。

ただ、これがカカシが初めてイルカと出会った瞬間だった。



<終>
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