しあわせ
お前さ、アイツを幸せに出来んのか?
待機室に喫煙スペースがあるのに、わざわざ煙草を吸いに屋上に上がってきたアスマがそう言ったのはいつの日だったか。
誰にも言ってなかった。先生にさえ何も告げていなかった。ただ、目で追うだけの日々の中で、それは誰にも気づかれる事がないと思っていたのに。
事も無げに言うアスマに、顔に出さずとも内心かなり驚いたのは事実だった。
例えるなら。芽が出るかどうかも分からない植物の種を一粒蒔き、水やりをしながら、毎日毎日観察し、芽が出なくてもいい。でも。でも、もしかしたら、芽が出るのかもしれない。と言う、今まで持ち合わせていなかった淡い期待を抱く様な感情。顔を合わせた時は声をかけ、時々彼が都合が良さそうな時に飯に誘う。隣を歩き、目の前の席に座って、他愛ない話をして笑う。
慣れない事をしてしまったからだろうか。そっち方面には点で興味がないような図体のデカい上忍仲間は、それを簡単に見抜いていた。
煙草を口に咥え、風で舞う煙に僅かに目を細めながら、横目で俺を見た。
幸せを求める事もなく、何が幸せなのかも考える事もなく。ただ、漠然とイルカ先生を好きだと思った。
それを言葉にする事が出来なくて、答える事が出来なかった。
先生を幸せに出来るのかと。そう尋ねたアスマの逝去の報せから月日が流れた今日、ふと目にした光景は、何故かその時頭の記憶を引きずり出した。
茜色に染まる建物の裏手。イルカ先生といるのは先生と同じ教員の女性。少し離れた場所で眺めながら、それがその女からの告白だと分からないはずがない。
イルカ先生は、後頭部に手を当て申し訳なさそうな顔を相手に素直見せた。
俺は、幸せだ。
ーーでも。
もしかしてあれが。先生の本来幸せな姿だったとしたら?
イルカ先生の色々な可能性を。その芽を摘んでしまっただけだとしたら。
ただ、俺はイルカ先生が本当に好きなだけなのに。
「カカシさん」
びくりと身体が揺れた。
顔を上げると、思った以上に近い場所でイルカがカカシをのぞき込んでいた。スウェット姿のイルカが、蛍光灯の下、その光を含んだ黒い目で、じっと見つめている。
居間で胡座を掻いたカカシは、開いていた小冊子を静かに閉じた。
「・・・・・・何?」
聞き返すと、余計にイルカじっと見つめてきた。
「何って・・・・・・、カカシさん何度呼んでも返事しないから。大丈夫ですか?ぼーっとして。どこか具合でも悪いとか、」
言われてそこで気がつく。白昼夢のような状態にあったなんて説明出来るはずもなく、カカシは誤魔化すように小さく笑った。
「ああ、うん。いや、何でもない」
銀色の髪を掻きながらイルカを見つめ返す。
「ちょっと、最近寝不足で。ごめんね、心配させて」
今自分がいるこの状況が現実だと分かっていても。完全に今日の昼間の事を引きずっているのが丸わかりで。内心情けなくなる。
カカシは立ち上がった。ちゃぶ台には広げたままになっている、丸付け途中の答案用紙が目に入る。
「えっと、先生はまだ、」
「ええ、まだこれが終わってなくて、」
答案用紙の横には、明日の授業の用意もするのか。使い込んだ教本と、ノート。
イルカが思った以上に勤勉だと言うのはつきあい始めてから知った。話している分には、酒が入った時には生徒に説く教員のあり方について熱く話す事もあったけど。普段はここまで陰で努力をしている姿を見せる事がなかった。
大らかで明るく真面目なのは印象通りだったが、思った以上に笑い上戸な一面や、寂しがり屋で、お笑いが大好きで、好き嫌いが多くて、料理を含む家事全般が実はあまり得意じゃない事は、つき合ってから知った。
後、恥ずかしがり屋で、あまり言葉にするのも得意じゃないって事も。
純粋に心配そうな眼差しを向けるイルカに、カカシは優しく微笑む。
「じゃあ、・・・・・・俺は先に寝るから、イルカ先生、寝る時はちゃんとここの電気を消しておいてね」
言うと、イルカは子供じゃないんですから、と予想通りにカカシの言葉に軽くむくれた顔を見せた。
浮遊している不安は簡単には払拭されないけど、こんな些細な会話でも、気持ちは暖かくなる。
カカシは歯磨きに洗面所へ向かった。
歯磨きを終えて戻ると、ついさっきまで居間にいたイルカの姿がない事に気がつく。広くはない間取りに居る場所は限られるが、カカシは寝室にしている奥の和室へ目を向けた。そこにあるのは、布団にくるまっている大きな固まり。立ったまま見下ろし、小さくため息を吐き出した。
「・・・・・・いや、あのさ先生。俺先に寝るって言ったよね?・・・・・・一緒に寝るならそれでいいけど、電気消してないよ?」
煌々と居間の電気がついたままで、ちゃぶ台にはやりかけの仕事が放置されたまま。それなのに、その持ち主はこのセミダブルの布団を独り占めして中で寛いでいる。
本当にこのまま寝るならそれで仕方ないか、とカカシはまたため息を吐き出して、電気を消すべく居間へ向かおうとすると、布団からにゅっと延びてきたイルカの手に、掴まれた。
振り返ると、その通り。イルカが手を掴み、布団から顔を覗かせた。なんかそれが亀みたいで愛らしいなと思うも、一体何がしたいのか分からない。
と、イルカがもふりと布団から上半身を見せる。ちょいちょいと、近い距離でいるのにも関わらず、手招きした。
「・・・・・・何?先生」
少し首を傾げながら仕方がなく屈んでイルカに近づいたカカシの首にイルカの手が回る。ぐいと引き寄せられ驚いた時、唇に柔らかいものが当たる。
イルカの唇だった。
お休みのキスだって何だって、恥ずかしいと拒むイルカのその行動に身体が固まり、目を見開く。数秒経った後、ゆっくりとイルカの唇が離れていった。
きっと。
イルカ先生からキスをしてきたのは、つき合ってから片手で数えるほどもない。いや、初めて?
呆然としたままイルカを見下ろしていると、そのイルカの頬が、健康的な肌が赤く染まる。
「・・・・・・あの、イル、」
「あーー、えっと、じゃ、おやすみなさいっ!」
名前を言い終わらない内に、再びイルカは素早く布団の中に潜ってしまった。
心臓が心地よく、とんとんと脈を打ち始める。中に隠れてしまった、まん丸くなった布団は、動く気配はない。
カカシはしゃがみ込んで、その固まりを見つめた。
「先生」
「・・・・・・」
「ねえ、イルカ先生」
「・・・・・・」
アカデミーの生徒でもしないような、あり得ない狸寝入りに、呆れつつもカカシは再び口を開く。
「出てこないと、もうご飯作らないよ?」
「え!?何で?」
がばっと布団が開く。姿を見せたイルカをカカシはじっと見つめた。イルカの言動の真意を知りたく、不思議そうに向ける眼差しに耐えられなくなったのか。イルカはまだ顔を真っ赤にして視線をずらしながら、もぞもぞと、また布団に顔を半分埋めた。
「・・・・・・さっき・・・・・・カカシさん変だったし。だから・・・・・・俺は、俺なりにカカシさんを励まそうと、そう思っただけなんです」
ごにょごにょと、イルカは布団越しに話す。
「カカシさんが元気ないと俺も悲しいし。カカシさんが嬉しいなら、俺も嬉しくなるし」
辿々しくも、初めて聞くイルカの言葉にカカシはまた僅かに目を見開いた。
拳を作ったままの指に、力を入れる。
「・・・・・・じゃあ俺が幸せなら・・・・・・先生も、幸せ?」
「そうです」
考える間もなく、イルカは答えた。
笑いたいのか。泣きたいのか。表情が崩れそうになって、カカシは思わず銀色の睫毛を伏せた。
「先生、キスしていい?」
イルカが驚きに黒い目を丸くする。
「だ、駄目ですっ」
今日の分はもう終わりましたから。追加して言われた台詞に、笑いがこみ上げる。ぼふっと音を立て、布団の中に顔を隠してしまう。カカシは声を立てず笑みを零した。
「じゃあ、抱きしめてもいい?」
返事がないイルカにカカシは続ける。
「だって、俺今すっごい嬉しいんだもん」
説得力のない、でも素直な言葉を吐き出すと、布団が動く。イルカが布団をめくり、無言で腕を広げた。真っ赤な顔で。
カカシは迷わずイルカがいる布団に潜り込む。腕の内に入れ、イルカを力一杯抱きしめた。その力加減に驚いたイルカが、わ、と声を漏らし、やがて可笑しそう肩を揺するように笑い出す。
「何、何が可笑しいの?」
「だって、カカシさん子供みたいだから」
子供みたいと言われ不本意に感じ、カカシは思わず口を尖らせたくなった。
さっきのイルカ先生の方が十分子供っぽいと思うけど、抱きしめるイルカの体の暖かさに瞼が重くなる。
俺が幸せでいる限り、イルカもまた幸せなのだと。
その事実はカカシの目頭を熱くさせた。
・・・・・・くそ髭め・・・・・・ざまあみろ。
誤魔化すように、なんて悪態を心で亡き友人に呟き、カカシは満足そうにゆっくりと目を閉じた。
<終>
待機室に喫煙スペースがあるのに、わざわざ煙草を吸いに屋上に上がってきたアスマがそう言ったのはいつの日だったか。
誰にも言ってなかった。先生にさえ何も告げていなかった。ただ、目で追うだけの日々の中で、それは誰にも気づかれる事がないと思っていたのに。
事も無げに言うアスマに、顔に出さずとも内心かなり驚いたのは事実だった。
例えるなら。芽が出るかどうかも分からない植物の種を一粒蒔き、水やりをしながら、毎日毎日観察し、芽が出なくてもいい。でも。でも、もしかしたら、芽が出るのかもしれない。と言う、今まで持ち合わせていなかった淡い期待を抱く様な感情。顔を合わせた時は声をかけ、時々彼が都合が良さそうな時に飯に誘う。隣を歩き、目の前の席に座って、他愛ない話をして笑う。
慣れない事をしてしまったからだろうか。そっち方面には点で興味がないような図体のデカい上忍仲間は、それを簡単に見抜いていた。
煙草を口に咥え、風で舞う煙に僅かに目を細めながら、横目で俺を見た。
幸せを求める事もなく、何が幸せなのかも考える事もなく。ただ、漠然とイルカ先生を好きだと思った。
それを言葉にする事が出来なくて、答える事が出来なかった。
先生を幸せに出来るのかと。そう尋ねたアスマの逝去の報せから月日が流れた今日、ふと目にした光景は、何故かその時頭の記憶を引きずり出した。
茜色に染まる建物の裏手。イルカ先生といるのは先生と同じ教員の女性。少し離れた場所で眺めながら、それがその女からの告白だと分からないはずがない。
イルカ先生は、後頭部に手を当て申し訳なさそうな顔を相手に素直見せた。
俺は、幸せだ。
ーーでも。
もしかしてあれが。先生の本来幸せな姿だったとしたら?
イルカ先生の色々な可能性を。その芽を摘んでしまっただけだとしたら。
ただ、俺はイルカ先生が本当に好きなだけなのに。
「カカシさん」
びくりと身体が揺れた。
顔を上げると、思った以上に近い場所でイルカがカカシをのぞき込んでいた。スウェット姿のイルカが、蛍光灯の下、その光を含んだ黒い目で、じっと見つめている。
居間で胡座を掻いたカカシは、開いていた小冊子を静かに閉じた。
「・・・・・・何?」
聞き返すと、余計にイルカじっと見つめてきた。
「何って・・・・・・、カカシさん何度呼んでも返事しないから。大丈夫ですか?ぼーっとして。どこか具合でも悪いとか、」
言われてそこで気がつく。白昼夢のような状態にあったなんて説明出来るはずもなく、カカシは誤魔化すように小さく笑った。
「ああ、うん。いや、何でもない」
銀色の髪を掻きながらイルカを見つめ返す。
「ちょっと、最近寝不足で。ごめんね、心配させて」
今自分がいるこの状況が現実だと分かっていても。完全に今日の昼間の事を引きずっているのが丸わかりで。内心情けなくなる。
カカシは立ち上がった。ちゃぶ台には広げたままになっている、丸付け途中の答案用紙が目に入る。
「えっと、先生はまだ、」
「ええ、まだこれが終わってなくて、」
答案用紙の横には、明日の授業の用意もするのか。使い込んだ教本と、ノート。
イルカが思った以上に勤勉だと言うのはつきあい始めてから知った。話している分には、酒が入った時には生徒に説く教員のあり方について熱く話す事もあったけど。普段はここまで陰で努力をしている姿を見せる事がなかった。
大らかで明るく真面目なのは印象通りだったが、思った以上に笑い上戸な一面や、寂しがり屋で、お笑いが大好きで、好き嫌いが多くて、料理を含む家事全般が実はあまり得意じゃない事は、つき合ってから知った。
後、恥ずかしがり屋で、あまり言葉にするのも得意じゃないって事も。
純粋に心配そうな眼差しを向けるイルカに、カカシは優しく微笑む。
「じゃあ、・・・・・・俺は先に寝るから、イルカ先生、寝る時はちゃんとここの電気を消しておいてね」
言うと、イルカは子供じゃないんですから、と予想通りにカカシの言葉に軽くむくれた顔を見せた。
浮遊している不安は簡単には払拭されないけど、こんな些細な会話でも、気持ちは暖かくなる。
カカシは歯磨きに洗面所へ向かった。
歯磨きを終えて戻ると、ついさっきまで居間にいたイルカの姿がない事に気がつく。広くはない間取りに居る場所は限られるが、カカシは寝室にしている奥の和室へ目を向けた。そこにあるのは、布団にくるまっている大きな固まり。立ったまま見下ろし、小さくため息を吐き出した。
「・・・・・・いや、あのさ先生。俺先に寝るって言ったよね?・・・・・・一緒に寝るならそれでいいけど、電気消してないよ?」
煌々と居間の電気がついたままで、ちゃぶ台にはやりかけの仕事が放置されたまま。それなのに、その持ち主はこのセミダブルの布団を独り占めして中で寛いでいる。
本当にこのまま寝るならそれで仕方ないか、とカカシはまたため息を吐き出して、電気を消すべく居間へ向かおうとすると、布団からにゅっと延びてきたイルカの手に、掴まれた。
振り返ると、その通り。イルカが手を掴み、布団から顔を覗かせた。なんかそれが亀みたいで愛らしいなと思うも、一体何がしたいのか分からない。
と、イルカがもふりと布団から上半身を見せる。ちょいちょいと、近い距離でいるのにも関わらず、手招きした。
「・・・・・・何?先生」
少し首を傾げながら仕方がなく屈んでイルカに近づいたカカシの首にイルカの手が回る。ぐいと引き寄せられ驚いた時、唇に柔らかいものが当たる。
イルカの唇だった。
お休みのキスだって何だって、恥ずかしいと拒むイルカのその行動に身体が固まり、目を見開く。数秒経った後、ゆっくりとイルカの唇が離れていった。
きっと。
イルカ先生からキスをしてきたのは、つき合ってから片手で数えるほどもない。いや、初めて?
呆然としたままイルカを見下ろしていると、そのイルカの頬が、健康的な肌が赤く染まる。
「・・・・・・あの、イル、」
「あーー、えっと、じゃ、おやすみなさいっ!」
名前を言い終わらない内に、再びイルカは素早く布団の中に潜ってしまった。
心臓が心地よく、とんとんと脈を打ち始める。中に隠れてしまった、まん丸くなった布団は、動く気配はない。
カカシはしゃがみ込んで、その固まりを見つめた。
「先生」
「・・・・・・」
「ねえ、イルカ先生」
「・・・・・・」
アカデミーの生徒でもしないような、あり得ない狸寝入りに、呆れつつもカカシは再び口を開く。
「出てこないと、もうご飯作らないよ?」
「え!?何で?」
がばっと布団が開く。姿を見せたイルカをカカシはじっと見つめた。イルカの言動の真意を知りたく、不思議そうに向ける眼差しに耐えられなくなったのか。イルカはまだ顔を真っ赤にして視線をずらしながら、もぞもぞと、また布団に顔を半分埋めた。
「・・・・・・さっき・・・・・・カカシさん変だったし。だから・・・・・・俺は、俺なりにカカシさんを励まそうと、そう思っただけなんです」
ごにょごにょと、イルカは布団越しに話す。
「カカシさんが元気ないと俺も悲しいし。カカシさんが嬉しいなら、俺も嬉しくなるし」
辿々しくも、初めて聞くイルカの言葉にカカシはまた僅かに目を見開いた。
拳を作ったままの指に、力を入れる。
「・・・・・・じゃあ俺が幸せなら・・・・・・先生も、幸せ?」
「そうです」
考える間もなく、イルカは答えた。
笑いたいのか。泣きたいのか。表情が崩れそうになって、カカシは思わず銀色の睫毛を伏せた。
「先生、キスしていい?」
イルカが驚きに黒い目を丸くする。
「だ、駄目ですっ」
今日の分はもう終わりましたから。追加して言われた台詞に、笑いがこみ上げる。ぼふっと音を立て、布団の中に顔を隠してしまう。カカシは声を立てず笑みを零した。
「じゃあ、抱きしめてもいい?」
返事がないイルカにカカシは続ける。
「だって、俺今すっごい嬉しいんだもん」
説得力のない、でも素直な言葉を吐き出すと、布団が動く。イルカが布団をめくり、無言で腕を広げた。真っ赤な顔で。
カカシは迷わずイルカがいる布団に潜り込む。腕の内に入れ、イルカを力一杯抱きしめた。その力加減に驚いたイルカが、わ、と声を漏らし、やがて可笑しそう肩を揺するように笑い出す。
「何、何が可笑しいの?」
「だって、カカシさん子供みたいだから」
子供みたいと言われ不本意に感じ、カカシは思わず口を尖らせたくなった。
さっきのイルカ先生の方が十分子供っぽいと思うけど、抱きしめるイルカの体の暖かさに瞼が重くなる。
俺が幸せでいる限り、イルカもまた幸せなのだと。
その事実はカカシの目頭を熱くさせた。
・・・・・・くそ髭め・・・・・・ざまあみろ。
誤魔化すように、なんて悪態を心で亡き友人に呟き、カカシは満足そうにゆっくりと目を閉じた。
<終>
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