初恋

任務が終わり里に帰還したのは夜の10時を回っていた。既に任務完了と同時に報せは送ったのだから、詳細の報告は翌朝を予定している。
身軽にカカシは飛躍を繰り返し、人気のない地面に降り立つ。
カカシは頭上にある月を見上げた。欠け始めているが、光り輝きカカシを照らし。月もまたカカシを見ているかのようだ。
その月を見上げながら、ふと考えるのはイルカの事。時間的にイルカは今時分風呂から出てのんびりしてる頃だろうか。
ビールを飲みながらテレビを見ているイルカを想像してカカシは微笑んだ。
イルカが自分の恋人だと、その事実を想うだけで、自然気持ちが暖かくなる。
好きなのは自分だけだと思っていた。ずっと、永遠に自分の片思いで終わるのだと思っていた。
カカシは脚に力を入れ、飛躍する。木の幹に足を着き、そこから再び身体を浮かせた。
イルカのアパートから少し離れた一本松で足を止める。
イルカの部屋に明かり見える。
(ああ、やっぱり)
イルカが部屋にいる。それだけでまたカカシは頬を緩ませていた。
遠目でイルカの部屋の明かりを見ながら、カカシは欠伸を噛み締めた。
(…疲れた)
本当はイルカに会いたい。
会って一緒に時を過ごしたい。
でも、カカシは疲れていた。まだ付き合い始めたばかりで、普通にイルカに甘えてもいいのかもしれないけど。
甘え方がわからない。
取り敢えず今日は家に帰ってシャワー浴びて寝て。起きたら報告をして、
そんな事を考えていた時、イルカの部屋の窓がガラリと開いた。カカシは息を呑む。
まさか開くとは思わなかった。だって外は体の芯まで冷える寒さだ。
支給されたアンダーウェアの上に半纏を羽織ったイルカが、窓から夜空を見上げている。やはり寒いのか、白い息を吐き出しぶるりと身体を震わせたのが見えた。
会いたかったからだろうか。イルカの顔を、姿を見ただけで、とくとく心音が高鳴る。
距離があるから大丈夫。
気休めにそんな事を思いながら、木の幹の上でイルカを見つめる。
イルカがそのカカシの姿を捉えたのは、直ぐだった。
見つかる予定じゃなかったから。
カカシは気まずそうに頭を下げ、イルカは丸くした黒い目を、嬉しそうに緩ませた。


「えっと、…何か、ごめんね。すぐ帰るから」
手を洗い、居間に戻る。そう言ったカカシに、台所にいたイルカが顔を出した。
「何言ってるんですか。ゆっくりしてってください」
そう言いながら、急須と湯飲みをお盆に乗せて戻ってくる。
コタツにお盆を置き、新しくお茶の葉を変えた急須に、石油ストーブの上にあったヤカンのお湯を注ぎ入れる。
「俺は、部屋の空気を入れ替えて良かったと思ってますけど」
さらりとそんな事を言われて、カカシは眉を下げて微笑んだ。
暖房器具がコタツだけだったイルカが、石油ストーブを買った。これがあれば、カカシ先生と熱燗も呑めるから、なんて理由で買ったのは先週の事だ。
使う時は、時々部屋の空気も入れ替えて。なんて言ったのは自分で。
その言い付けをしっかり守ったイルカに見つかってしまった。
なんか色々、情けない。
「何で顔見せずに帰ろうなんて思ったんですか?」
促されるままにコタツに足を潜り込ませながら、カカシは眉を下げる。
「いや、何となく…それに報告まだなんで」
甘えてもいいのか迷った、なんて言えっこない。
言い淀みながら背中を丸めるカカシに、そうでしたか、と、イルカは小さく息を吐き、そして微笑む。
「でも、これからはちゃんと顔を見せてください」
「はい、そうします」
眉を下げ答えると、はい、と、お茶を目の前に置かれる。カカシはベストを脱ぐと額当てを外して自分の脇に置いた。口布を下げ、お茶を飲んだ。
淹れたてのお茶は、冷えていた身体を中から温める。
そこまで寒さは苦手でもなく、弱いわけではないが。
冷え切った指先もこの暖かさは気持ちがいい。
お茶を啜りながらコタツのテーブルに目を落とせば、テストの答案が広げられていた。
イルカはここで持ち帰った仕事をしていたのだ。
ビールを呑んでテレビを見て、なんて思っていた予想は外れたなあ、とぼんやり考える。
答案用紙の最後に書かれたイルカの一文。
教科書32ページを読み直すように。
内容と字体と筆圧。全てがイルカらしい、それだけでカカシは目元を緩めた。
自分のお茶も淹れたイルカも、コタツに入れる。赤ペンを手に取った。
「すぐ終わらせちゃいますから。それまでカカシ先生はテレビを見てますか?」
「ううん。大丈夫」
カカシは首を横に振った。そんな邪魔はしたくない。
「あ、じゃあみかん。食べますか?」
部屋に上がって直ぐに夕飯用意しますかと聞かれ断っていた。そこまで空腹でもない。
だが、イルカにみかんを差し出され、カカシはそれを素直に受け取った。
自分の部屋にはコタツも石油ストーブも、みかんももちろんない。
必要最小限しか物がない自分の部屋とは正反対のイルカの部屋。何もかも正反対なのに。こんなに落ち着くのはなぜだろう。
好きでも嫌いでもなかったみかん。今はすごく好きだ。
一房口に入れながら採点を再開させたイルカへ目を向ける。
コタツで足から温まり身体が暖かい。
暖房器具は備え付けのエアコンだけで、それで十分だと思っていた。
なのに、今はこのコタツから出たくないなあ、とも思ってしまう。
みかんを食べ終え、半纏を羽織った恋人であるイルカを眺める。
イルカも自分の事が好きと言ってくれた。気持ちが通じ合い、それだけで十分嬉しいし幸せだが。
好きと思う気持ちの強さは、きっと自分が何倍も上回っているだろう。
だって、いつ何時も頭の隅にイルカがいる。イルカが可愛くて好きで好きで仕方がない。
今迄何人もの女と付き合ったが、こんな気持ちになった事も考えた事もなかった。恥ずかしい話だが、これがカカシの初恋だった。
だから、イルカと自分の想いの丈は違って当たり前だ。
カカシは読みかけの巻物をベストから取り出した。イルカの邪魔をしたくない。巻物を広げ静かに読むことに専念する。
しばらくして、
「カカシ先生?」
自分を呼ぶイルカの声が遠くに聞こえた。遠のいていた意識が戻り、ふっと目を開けると、イルカが覗き込むように見つめていた。
どうやらいつの間にか寝てしまっていたらしい。
「ごめん。寝ちゃった」
巻物をコタツの隅に置く。
「イルカ先生が採点終わるまで待っているつもりだったんだけど」
力なくカカシは微笑む。イルカに会えて一緒にいれてホッとしたのか。疲れが一気に眠気に現れてしまっていた。
「お疲れなんですね」
イルカは微笑みながらカカシを見つめる。
「俺、もう帰ります」
「あ、でも。カカシ先生、寝るなら俺の布団使っていいですよ?少し寝てってください」
そんな事を言われ、驚くも、カカシは頭を横に振った。
「いや、俺まだ身体汚いし」
「カカシ先生言うまでそんな汚れてないですよ」
確かに今日はさほど激しい戦闘すらしてなかったけども。
自分の布団なら兎も角。イルカの一組しかない布団なのだ。やはり気が咎める。
「んー…」
「もしかして、カカシ先生どこか具合が悪いんですか?」
躊躇するカカシに、イルカは心配そうな眼差しを向けた。
「そんなんじゃないです」
情けない笑みを見せるとイルカはホッとしたのか、目を細め微笑んだ。
「コタツじゃ風邪引いちゃいますし、採点終わったら声かけますから」
「…じゃあ、ちょっとだけ。後で起こしてください」
「はい。分かりました」
仕方なく頷くカカシに、イルカは優しく微笑む。
イルカに促され、布団に潜り込んだ。
気持ちいい。
身体を布団に横たえた途端、直ぐに瞼が重くなる。
(…すごく、落ち着く…)
でも、何でこんなに落ち着くのか。
うつらうつら不思議に思い。
イルカの匂いがするからだと、直ぐに合点し、カカシは薄っすら微笑み、目を閉じた。


翌日、朝早くカカシは執務室にいた。
眠い。
他の上忍と任務の報告をしていたが、カカシは眠くて仕方がなかった。
昨夜、あの後一時間くらい経った後、イルカに起こされカカシは自分の部屋に帰った。任務報告がある事を気にしてくれていたのが、イルカらしい。
だから直ぐに寝れる。
そのはずだった。
だが結果眠いのは、イルカの部屋で取った睡眠の質が良かったのか。
はたまた、お泊まりするタイミングを逃してしまったのか、とか。色んな考えが頭を巡り、家に帰ったらなかなか寝付けなかったのだ。
付き合って間もないが、イルカはどう思っていたんだろうか。起こしてくれと言われた手前、起こしたのかもしれないが。イルカの家に泊まる日がいつかは来るんだろうけど。
それはいったいいつなのか。
でも、きっとこんな風に感じたり思い悩むのは自分だけなのだろう。
イルカは真面目で純朴なところに惹かれているのも事実。
(なんか…そう思うと馬鹿らしいっちゃあ、馬鹿らしい、よねえ…)
悲しくなるも、眠い。任務報告から別の話に切り替わり、長々と話を続けている火影を前に、欠伸をしたら鋭い視線を送られる。
「…ったくどいつもこいつも…」
ボヤく火影に、カカシは誤魔化すように、苦笑いを浮かべて頭を掻いた。

執務室を後にして、カカシはアカデミーへ向かう。
今日はこれで、任務もない。家に帰ってもいいが、やはり一目でもイルカに会いたい。昨日の今日で、流石にこっそり見るのはやめて、顔を出そう。
タイミング良く、授業が終わるチャイムが鳴る。廊下を歩くカカシを前に、イルカが一番奥の教室から出てきた。
まだカカシに気がついていないイルカの表情を見て、おや、と思う。少し優れないように見えたからだ。
後ろから走ってきた生徒に背中を叩かれ、それだけの事にも、イルカは抱えていた教材を落としそうになる。
廊下を走るな、と走り抜けた生徒に大きな声をかけたイルカは、そこでようやくカカシに気がついた。
会釈をするイルカに、ニコリと微笑みを返し、カカシはイルカへ足を向けた。
「昨日はありがとね」
「あ、はい」
恥ずかしそうにイルカは返事をする。でも、何だろう。鼻頭を掻くイルカをじっと見つめた。当たり前にカカシの視線に気がついたイルカは、カカシを見つめ返す。
「あの…どうしましたか?」
「どっか具合でも悪いの?」
笑顔だが、どことなく元気がない。そんな気がした。
「いえっ、特に…」
ふるふる頭を振るイルカの頬が赤くなる。そんな変な事を言っただろうか。
そう思った時、背後からまた別の生徒が走ってきた。
「せんせー居眠りだめだかんなー」
「うるさいっ。だから、廊下を走るなと言ってるだろうが」
イルカが声をあげると、生徒は笑いながら廊下を走って逃げる。
生徒が走り去った後、カカシは不思議そうにそんなイルカを見た。
「先生、居眠りって。先生も寝てないの?」
「もって、カカシ先生は寝られなかったんですか?」
逆に問われて、カカシは苦笑いを浮かべた。悶々と色々イルカとの事を考えてたなんて、格好悪くて言えない。
「いや、俺は大丈夫。ね、イルカ先生が寝てないって、何で?」
聞かれ、イルカは分かりやすく困った顔をした。
「もしかして、俺が布団使ったせい?」
汚しちゃった?
心配そうなカカシに、イルカはまだ困ったまま。俯き、いや、その、カカシ先生のせいとかじゃないって言うか、と口籠る。
やはりイルカの家に寄るべきじゃなかったのか。
事実イルカは寝不足で、きっとその原因は自分。
しかもこんなに困っている。
「今度は風呂入ってから行くから、」
そう言い終わる前に、イルカが顔を上げた。
「違うんですっ」
そう口にするイルカの頬が、赤い。
教材を抱えるように持つ手に力が入ったのが分かった。
「匂いが」
「え?」
思わず聞き返していた。
匂い。考えられるのは自分の忍服。冬であまり汗さえ掻かないが。
「…臭かったよね?ごめんね?」
イルカは更にぶんぶんと頭を横に振る。
「違うんです!寝るときにカカシ先生の匂いがして…その匂いで気持ちがすごく落ち着いて…落ち着くのに、ドキドキして寝れなくなって…だから、臭いんじゃないんですっ」
泣きそうに、でも顔を真っ赤にさせていた。
「だから、寝不足は自分自身のせいって言うか、」
カカシは安堵した。
安堵しながらドキドキしながら、イルカを見つめる。
自分だけじゃなかった。
嬉しいけど、やはり恥ずかしい。顔がムズムズする。口布があって良かったと、意味なく思ってしまう。
「だから、朝から火影様の前で欠伸して怒られちゃいました」
はは、と情けない笑みを浮かべるイルカに、カカシもつられるように微笑んだ。
どいつもこいつも、と言っていた火影のボヤキの意味がここで分かってしまった。

チャイムが鳴る。
イルカは、やばっ、と顔を上げ、慌てて職員室へ背を向けた。
直ぐにカカシに振り返る。
「今度は泊まりでお願いしますっ」
ぺこりと頭を下げられ、答えを待つ訳でもなく、イルカは再び職員室へと背を向けた。耳は真っ赤だ。
イルカが見えなくなるまで見つめて、やがてカカシはゆっくりと息を吐き出す。
(これって、思った以上に…)
「やばいよねえ…」
頬を染めたカカシは、初恋の胸の疼きに眉を寄せ、1人呟いた。

<終>



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