慈悲と本能

一日が何事もなく終わっていくのってすごくいい。
廊下を歩いて、窓から夕日に染まる校庭を眺めながら、イルカは思った。
後ろから廊下を走る音と共に、先生さよなら、と声をかけてきた生徒がイルカの横を通り過ぎる。
走るなとも言ってもよかったのだが。
「ああ、また明日な」
元気よく走る生徒の背中に声をかけ、そこから微笑んだ。
「先生」
自分にかかる低い声。その声に心臓がぎゅっと縮まった。気が付けば、目の前にカカシが壁に背をもたれて立っている。
イルカは表情を変えないように努めながらカカシに頭を下げた。カカシの服は明らかに汚れていた。血で染まった箇所も見える。
短期任務が終わったのか。
少し前に言われた事を思い出した。
「ね、今日いいでしょ」
イルカに会釈を返すわけでもなく言われたカカシの言葉。
分かっていても。奥歯に力が入った。
断ってもいいとは思う。
今日は今から残業で。とか。適当な言い訳をすれば、カカシはきっと簡単に諦めて帰って行く。でも、今日断って今日逃げても。また次がある。
そう。また、繰り返すだけ。
イルカは下げた視線をカカシに上げた。
「ええ、いいですよ」
「じゃあ後で」
イルカの返事にカカシはそう短く返すと、カカシはすぐに背を向けーーまたすぐに振り返った。
青い目が自分を見つめる。それだけで目の奥がちりちりとする。
いつものように、さっさと姿を消してくれ。
そう心で念じるイルカを前に、カカシは口を開く。

「そろそろ普通の付き合いをしませんか」

それは、はっきりと。イルカの全身を貫いた。
同時に、笑いたくなる。
勝手だと。ふざけるなと。罵る言葉が一気に溢れてくるのに。それを言葉に出来ない。
それらを全て押し込む。
「無理です」
そう返すのが精一杯だった。
それから黙ったまま。突っ立って動かないイルカをカカシはしばらく見つめ。
「でも俺はあなたを手放す気はないですから」
じゃあ、後で。
言い終ると、カカシは姿を消した。
そこからゆっくりと、静かに息を吐き出し誰もいなくなった廊下で一人。イルカはさっきまでの心地よい気持ちとは裏腹に沈んだそのままの表情で、カカシがさっきまでいた壁を見つめた。

ねえ先生。試してみない?

そうカカシに言われたのはいつだったか。
ナルトの上忍師として顔を合わせてすぐだった気がする。
たまたま七班の任務の帰りと一緒になったイルカは、カカシと並んで歩いていた。
その少し先にいる三人を眺めながら。
変わらないけど成長していく背中に目を細めていた時、カカシは言った。
最初、何を言っているのか分からなかった。
え、と聞き返しながら横にいるカカシへ顔を向けた。カカシも自分を見つめていた。
「身体の相性、いいかどうか試したいなって」
ひどく他人事のように聞こえた。
なのに、胸が痛い。
「どう?」
ぽかんとしたままのイルカに、カカシはにっこりと微笑んだ。邪気のない人好きする自分の好きな笑顔で。
「それだけですか」
そんな言葉が自分の口から出ていた。
「え、何が?」
カカシはきょとんと不思議そうに聞き返す。
「理由は、それだけですか」
言い直したイルカの言葉に、カカシは理解したのだろう。また笑顔で、うんと答える。
その時、初めてカカシの笑顔を見て心臓が痛いと思った。


頷いた自分も自分だと思う。
里でも屈指の上忍といち中忍のこの関係は自分でも笑いたくなる。
冗談ならよかったのだけど。
なんだかんだ言いながら、身体だけの関係が未だ続いている。
飽きると高を括っていたのに、カカシは飽きる様子もない。
選択を誤ったと、何度思った事だろう。
あの時、何故俺は断らなかったのか。
きちんと無理だと断っていれば。きっとあのままの関係で。あのままの距離でカカシといれただろうに。
最初カカシの言った相性の良い悪いは、経験のない自分には分からない事だった。
勿論経験のあるカカシは自分に痛みがないように挿入するまでの時間をかけてくれた。
初日は挿入すらしなかったのだから、我慢強い方なんだと思うったら可笑しいのかもしれないが、そう思った。
でも、痛い方がよかった。乱暴に、無理やりに。その方が自分の気が楽だ。
何度も意識を飛ばされた事もある。
単独任務の帰りは特にそうで。高ぶっているのもあるのだろうと、イルカは感じて、ただそれを受け止めた。
だけど。合意の元だからなんだろうが。
触れるカカシの手が優しく感じるのが嫌だった。
見えない鎖に繋がれたように。ずるずると引きずられて。
なのに。
今更。
俺はカカシのように考える事は出来ない。
それが、まともで理性的な答えだ。
同時に本能のままに自分を翻弄するカカシは、まるで子供を相手にしているような錯覚も覚える。
だが生徒とは違って扱いにくく。そして、残酷だ。

イルカはシャワーの蛇口を止めた。
身体は綺麗になって気分はいいはずなのに。
イルカはふう、と息を吐き出す息は重い。さっきまでカカシの手が這っていた場所に触れる。
心で拒絶しているはずなのに。何でこうもカカシが触れる箇所は過敏に反応してしまう。イルカはそれを振り払うように首を横に振ると、浴室から出た。
珍しく少し横になりたいからと言ったカカシに、先にシャワーを促された。
ランクの高い任務だったのは分かっている。内容を聞く訳にもいかないし、カカシも一言も言うことがないから、分からないが。
カカシの待つ寝室へ向かう。
「カカシさん」
イルカは静かにカカシの名前を呼んだ。
「出ましたから。入ってください」
濡れた髪をタオルで拭きながら言って、背を向けた。
が、カカシの返事がない。
イルカは振り返る。
反対側を向いているカカシの顔はここからは見えないが。イルカはそんなカカシを見つめて息を吐き出した。
返事くらいしたらどうだ。
少しだけ苛立ちを抱えながら、カカシに歩み寄る。
「カカシさん。聞いてます?俺出たんで。シャワー使ってください」
「うん」
すんなりと返答が返ってきた。
聞こえているならよかったと、思ったのに、カカシは身体を動かそうともしない。
何だろうと首を傾げる。
「シャワー、使わないんですか?」
「うん...でも、あと少し」
少し違和感を覚えたのは、カカシの口調がいつもと違うと感じたから。
そこで、イルカはカカシをのぞき込み、寝ていると、気が付いた。
睡眠時特有の呼吸を、カカシは繰り返している。
やっぱり、疲れていたのだろうか。
寝言なんて、聞いたことがなかった。
イルカの眉根に皺がよった。
こんなに疲れてたんなら。
来なければいいのに。
苦しそうな表情のまま、カカシを見下ろして。
起こそうと手を伸ばした時、カカシの口が開いた。
「あと少し」
イルカが触れようとしたカカシの手がぴくと動く。
「もう少しだけ....待ってて。父さん」


自分は。
弱い人間だと思う。
ズルいとも思うのは。
こんな一言で。憎しみで誤魔化していたカカシへの気持ちが、簡単にぼろぼろと、はがれる音が、胸の中ではっきりと聞こえたから。
胸が苦しくなり、こみ上げるものに、イルカは手を口で覆い顔を歪ませた。
「.....っ」
必死で息を詰め、唇を噛む。
それでも、勝手に溢れるものが口を覆っていた手の甲を簡単に濡らしていく。
「....イルカ先生?」
薄く目を開けたカカシがむくりと起きあがった。
「何だ...出たなら出たって言ってよ」
まだ少し眠そうに、不機嫌そうに言いながら。立ち上がるカカシから顔を隠すように身体を横にそむけた。
イルカの不自然な行動に気が付いたのかは分からないが。カカシが無言のままのイルカをじっと見つめた。
「...だって、寝てたので」
顔を横に向けたまま言えば、ああ、とカカシが頭を掻いたのが視界に入る。
「まあ、ちょっと寝てただけだけど、」
言いかけたまま、カカシの言葉が止まる。カカシがこっちをじっとまた見た。
そこからカカシが、一歩自分に近づいたのが分かった。
「何ですか」
こっちへ来るなと強い口調をカカシに向ける。
「...いや、何か...イルカ先生、」
「ああ、俺も疲れました。早く入ってきてください」
誤魔化すために笑いながら被せるように言った言葉に、カカシはイルカに伸ばしかけた手を止めた。
まだ視線を感じたが、イルカはそのまま背を向けカカシが先ほどまでいた布団に潜り込む。
「先に寝てますから」
そこまで言って、ようやくカカシは、うん、と返事をして寝室から出ていくのが聞こえた。
遠のく足音が脱衣所に入り、ドアが閉められる。
カカシは、気が付いただろうか。
何でもない関係のくせに。カカシは異様に自分に対して鋭い。
落ち込んでる気持ちや怪我。何を隠していても直ぐに気が付く勘の鋭い男だ。
濡れた瞳を瞬かせ、布団の中で気持ちを落ち着かせようと目を閉じた。
同情からは何も生まれない。
じゃあこの感情は何だというのだろう。
ふざけているなあ、俺。
イルカは小さく笑いを零した。
カカシに向き合おうとしていなかったくせに。
最低だ。
それに。
自分とも向き合おうともしなかった。
こんな関係を求められた時に傷ついた事も。
任務帰りのカカシを必死で受け止めようとしていた事も。
彼の手が鬱陶しいと思い込もうと思っていた事も。
ーー既に、許してる事も。
こらえきれない感情がイルカからあふれ出す。
慈悲と本能が、自分を覆い尽くすのを感じながら。
カカシのシャワーを浴びる音を聞きながら。
閉じたイルカの目からまた涙が零れた。

<終>
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