紙に書かれた名前の君は

「ちょっと、聞いてるの?」
不機嫌を露わにした美人なくノ一にそう聞かれたイルカは、箸を持ったままそのくノ一を見た。
アカデミーの食堂で遅めの昼食にありついたのはついさっき。
昼休みの時間も残りわずかとだから、いつも子供たちにはよく噛んで食べろと言っている自分の現実に後ろめたさを感じながらも、正直言ってそれどころじゃない。定食の白飯をかっ込んでいた。
なのに、そんなこっちの都合なんて知るわけもない、知ってもどうでもいいだろう上忍のくノ一は、食堂にいるイルカを見つけ目の前に来るなりこう言った。
「あんたカカシのなんなの?」
いきなり過ぎて、間抜けに、え?と顔を上げ聞き返したイルカに、くノ一はその綺麗な顔の眉間に皺を寄せた。
唐突だったが、言われた台詞と見た事があるくノ一の顔に、何でそんな事を聞いてきたのか、なんとなく分かった。カカシと以前身体の関係を持っていた女性であり、先月カカシを誘おうとしていた。その記憶は今もイルカの中では鮮明だ。が、言われた台詞はイルカを困惑させる。
いや、それより昼飯食いたいんだけど。
それに、何なのって、言われても。
率直に口に出してもいいのだが、相手の辛辣な表情が濃くなる事だけは簡単に想像出来て内心困った。
大体、何なのかとか、イルカが聞きたかった。

ーーだって、あの後から。カカシとろくに顔を合わせいてない。


階段下でキスされたあの直後、カカシはその後任務要請を受け里を出た。
ごめん。
そう言われ、イルカが顔を向けた時、もうカカシの顔に覆面は戻されていた。
何事もなかったような、錯覚。
再び鳴いた鳥の声に反応したカカシは、そのまま姿を消した。荒々しいキスのせいで髪や服が乱れた自分を残して。
その後、1人になって。持って行き場のない熱と湧き上がった気持ちをどうすればいいのか。ただ、自分が今いる場所は職場で。だからだろうか。ゆっくりと火照った身体も、気持ちも。温度が下がって行くのが自分でも分かった。
今も時々考える。
もし、あのタイミングで任務要請がなかったら、俺とカカシさんはどうなっていたのだろうか、とか。

あの後カカシが任務で直ぐに里に帰ってこなかった事や、入れ違いに自分が夜勤に入ってしまったのは、功を奏したのか、災いしたのか。
ただ、分かるのは、あのキスは有耶無耶になってしまっていると言う事。
だって、カカシの任務が明け、自分の夜勤の期間が終わり通常勤務に戻ったのに、カカシが自分の家を訪れなくなった理由とか。
あのキスの後にカカシが言ったごめん、と言った意味とか。
数日前、受付で仕事をしていた時に聞こえたのはナルトの声だった。ナルトがここに向かっている嬉しさより遥かに上回ったのは、カカシの存在に対する動揺。
あの日から面と向かって顔を合わす勇気がなく、ずるずると時間だけが過ぎて。
今更、カカシにどんな顔をしたらいいのかすら分からない。
お久しぶりです、カカシさん。元気ですか?
いやいや、無理。
絶対無理。
イルカは勢いよく立ち上がった。
ナルトを迎い入れると思った自分が席を立った事に驚き、同僚は止める言葉をかけてきたが、俺は構わずほかの仕事をするフリをして、その場から逃げ出した。
最悪だ。
その直後、あれ、イルカ先生いねーのかよ、と裏口の扉を閉めた、その背中から聞こえるナルトの残念そうな声の後に、はたけ上忍お疲れ様です、と声をかけた同僚の言葉。そして、返されるカカシの低い声。それだけで、胸がアホみたいにせわしなく動いた。
やばい。
苦しい。
呼吸困難に陥りそうになって思わず胸を押さえた。



ーーなんて経緯を知ってるんですか?いや、知るわけないですよね。
イルカは箸を持ったまま目の前の色気漂うくノ一を見つめ、落胆気味に視線を自分の食べかけの定食へ落とした。
いや、知るわけがないよな。だからなんか色々捻れた状態で、このくノ一がここに来たんだ。
カカシとはAVを見て、流れでセックスした仲で、今はよくわからないんですよ。あはは。なんて素直に言ったって仕方がない事くらい分かってる。
言ったら罵倒の嵐だ。
そして冒頭に彼女が言った台詞に戻る。

あんた、カカシのなんなの?

小さく息を吐き出し、イルカは刺々しい視線を向けるくノ一へゆっくりと顔を上げた。
「すみません。わかりません」
まさか、そんな言葉が返ってくるとは思ってなかったのか。余りにも反応が薄いイルカにくノ一は、怪訝そうに眉根に皺が寄る。
「わからないって……なによそれ」
あ、やばい。
思ったが、遅かった。
綺麗な赤い唇にぐっと力が入る。
「あんたみたいな中忍にカカシは似合わないのよ。ほんと、意味わかんない。別れるならさっさと別れてよ!」
その声は、食堂中に響き渡った。


(昼飯を食い損ねた……)
いつもより、チョークを持つ手に力が入らない。
心の中が波立っている。
イルカはわずかに眉を寄せた。
くノ一の罵声が耳に残っている。
あんな綺麗な人から、あんな言葉。
聞きたくなかったなあ。
なんて他人事の様な台詞を心で吐くのは、他人事だとそう思いたい自分の願望があるからだ。

そこからイルカは、切り替えるように黒板に書いた事に説明を加えながら、生徒へ向き直った。
皆真剣にイルカの説明に聞き入っているが、昼食後という事もあり、眠そうな子もちらほらいる。
眠気覚ましにも、切りのいいところまで説明したら実践をする必要があると思った時、開けた窓から風が入り込む。外の土や草木の匂いと共に感じた気配に、イルカは窓の外に顔を向けた。
イルカの視線の先には、木の枝にとまっている小さな鳥が一羽。
イルカは小さく笑った。
俺は何を期待した?
カカシさんから逃げているくせに。
受付での無様な自分を思い出し、情けなくなる。
別れるって。何もない状態からどうも出来るわけがない。
そうだ、カカシとは何もないくて、そんなんじゃ。
そう自分を納得させるように思った途端、胸のどこかが痛んだ。
だからと言ってこの感情をどう言葉にしたらいいのかも分からない。
分からないまま、カカシに会っても何を話したらいいのか分からない。
そんな事を思っている間に、鳥は嘴で柔らかな羽を毛繕いし、空へ飛び立っていく。
それが何故か無性に寂しさを覚えた。感傷的になりたいなんて、思ってもいないのに。
誤魔化すようにふう、と息を吐き出し、
「よーし、今から実践へ移るぞ」
イルカは笑顔を子供たちへ向けながら教科書を閉じた。




「あー、違うな」
イルカは1人アパートで呟き頭を掻いた。
夕飯を簡単に済ませて、風呂上がりにビールを一本飲んでから、家に持ち帰った仕事をちゃぶ台に広げていた。
新年度のクラス編成に向け、個々の現時点での能力や詳細が書かれた紙を読み返しては、ペンを入れ。
中々進まない事にため息を吐きながら、ふと頭に過ぎるのはカカシの事。
今は子供達の事を考えなきゃいけないのに。
イルカは小さく頭を振った。
本当は。あのキスの後、何事もなかったように家にくるのかと思っていた。
だがカカシは来ない。
今更ながらに気まずくなったのだと予想出来るが、でもそれだって今更だろう。
自分に向けられたカカシの穏やかな笑顔や、安心しきった寝顔をもうどのくらい見ていないのだろう。
途端カカシに会いたくなった。
そこではっとする。
自分で思った事実に顔を赤らめイルカは縦肘を突いて、手のひらで口を覆った。
そこからちゃぶ台に置かれてる書類へ視線を移す。
主任には今週中までには提出するよう言われている。
頭を切り替えたくて、イルカは立ち上がった。台所へ向かいマグカップを手に取る。そこで棚へ目を向けて、コーヒーの粉が切れていた事を思い出した。
まだ仕事をしているからこれ以上ビールなんて飲む気分にはなれないし、かといってナルトが家に来た時の為に買っておいたジュースを飲んでもなあ、とイルカはまたそこでため息を一つ。
確かつい最近、このアパートの近くにある公園に自販機が設置された。気分転換に外の空気を吸いながらコーヒーを買いに行くのもいいのかもしれない。
イルカは厚手のパーカーを羽織ると玄関へ向かった。
財布をポケットに入れサンダルを履いて玄関のドアを開け、目の前に見えた黒い塊にイルカは思わず、うわ、と声を上げていた。
カカシだった。
薄暗いアパートの電灯の下に、イルカの部屋の前で、カカシが立っている。
まさか玄関を開けたらカカシがいるなんて思ってもみなくて、イルカは驚き目を丸くした。
そんなイルカを前に、カカシは気まずそうに視線を床に落とす。
心の準備が出来ていなかった。
カカシに会ったら何を言おうかとか、前受付で心の準備が出来ていなかったから、逃げ出したんであってーー。
何か言わなくては、と思いながら顔を上げた先のカカシに、イルカはわずかに眉を寄せた。
「・・・・・・カカシさん、いつからここに?」
そう思ったのは、カカシの顔色がいつも以上に白く感じたから。
手を伸ばしてカカシの指に触れる。思った以上に冷たかった。
季節は春だが、朝方や夜は春と呼ぶにはまだ遠く感じるほど、気温が下がり寒い。
手を握られた事に戸惑いながら、いや別に、とカカシは覆面の下で口ごもった。
「ただ、ちょっと先生が何してるのかなって」
その理由に半ば呆れる。それで、迷いながらここでしばらく立っていたのだろうか。
いったいいつからーー?
眉を寄せてイルカはカカシを見つめた。
少し前はそんなの関係なく約束もしていなくても部屋にきたくせに。
なのにチャイムも押さずに、扉の外で。自分がこうして外に出る事がなかったら、カカシは迷ったまま顔を出さず自分の家に帰ったのだろうか。
冷えた身体のまま。
そう思ったら、何を言おうか迷っていた事がどうでもよく感じた。イルカはふっと小さく笑ってカカシの手を取る。
「入ってください」
「え、でも先生出かけるんでしょ?」
カカシの言い方が、このまま帰ってしまうような気がして少し慌てた。
「いえ、ちょっと気分転換に外に出ようとしてただけなんで」
どうぞ。
強めの言い方で、カカシにそれ以上何も言わせないまま部屋に上がらせた。

「先生」
サンダルを脱いで部屋に戻り、羽織っていたパーカーを脱ごうとしたイルカをカカシが抱き締めた。
「もう会ってくれないかと思った」
寂しそうなカカシの声に、イルカは胸が締め付けられる。
だからと言って何を返せばいいのか。
「・・・・・・そんな事は、」
「だって先生俺を避けてたじゃない」
言い掛けた言葉を飲み込まざるを得なくなる。それはカカシさんだってそうじゃないですか。
そう言いたいのにその言葉もまた、口に出せない。
ーーただ、会いたかったのは確かだ。
困って迷いながらもカカシの背中に腕を回そうとして、ふわりとカカシから漂ったのは、甘い香り。
女性ものの香水だと分かった瞬間、頭が真っ白になった。
なったのに、身体が反射的にカカシから腕を離していた。
え?と不思議そうにイルカから身体を離したカカシから一歩離れる。
カカシは一歩後ずさったイルカに目を丸くしたまま、驚いた顔でイルカを見つめた。
離れるつもりはなかった。
この前食堂に来たくノ一のように、カカシの周りには綺麗な女性が当たり前のようにいて。
だから、別に、香水がうつったって別におかしい事はない。
なのに。どうしよう。何て言えば。
「あー、汗くさかった?ごめんね。俺さっきまで任務でそのまま来たから」
カカシが自分の臭いを嗅ぐような仕草をしながら、申し訳なさそうに眉を下げた。
「ねえ、先生。先にシャワー浴びていい?」
「・・・・・・あ、はい・・・・・・」
返事を聞くなりカカシは脱衣所に向かった。
扉が閉まり、突っ立ったままのイルカに聞こえたのはカカシのシャワーを浴びる音。
そこでようやく停止した思考がゆっくり動き始める。
イルカは足を寝室へ向けた。
さっき脱ぐはずだったパーカーを脱いで床に落とすと、ベットに座る。
「任務・・・・・・」
さっきそうカカシは言った。
じゃあ任務で関わった女性の匂いだったのだろうか。いや、そんな事より。カカシさんには悪い事をした。
申し訳なさそうに微笑むカカシを思い出し、イルカは視線を床に落とした。
シャワーを浴びに行った事で、ここに何をしにきたのかなんて歴然だ。まあそうだろう。だって前からそうだった。
だからカカシに何の匂いかなんて、聞けるわけがない。
ぼふん、と布団の上に寝転がる。電気のついていない寝室の天井を見つめた。
(何で俺はさっきカカシさんから離れちまったんだろう・・・・・・。知らない匂いだったから?・・・・・・違うな)
ぼんやりと思考を回転させながら否定する。
(・・・・・・じゃあ、カカシさんが他の女性としたかもしれないから・・・・・・?)
え?
そこまで思って、イルカは勢いよく布団から起きあがった。心臓が、高鳴っている。その心臓を服の上から抑えた。
(嫉妬?いやいや待て。そしたら俺がカカシさんを好きだって事になっちまう。いや、そんな事は)
認めたくなくて、イルカは眉根を寄せた。
だって、きっと、カカシさんは違う。そうじゃない。
そんな恋愛感情なんて俺には持っていない。
そう言うのは、やっぱりちゃんとお互いの気持ちを打ち明けてからで、
(・・・・・・って気持ちって、打ち明けるって、何だよ)
自問してイルカは混乱し始めた心を落ち着かせようと、息を吐き出す。頭を掻いた。
だからと言って、俺がカカシさんに向けている感情が恋愛感情なのだろうかと聞かれたら。
ーー正直、分からなかった。
今まで過去好きになった女性に向けた、ふんわりとした感情とは明らかに違った。
こんなに胸が苦しくなった事も、こんなに悩んだ事もない。
それは相手が男だからと言われたら、そうなのかもしれないが。
ただ、俺は。今まで嫉妬とか、したことがないのは確かだ。
イルカはうつろにまた視線を布団に落とす。
まあ、俺の感情がどうにせよ、あの香りは確かに女性の香水だった。
もし仮にカカシさんに恋人が出来たとしたら。
これが最後になるのかもしれない。
だとしても、やることは一緒だ。
1人小さく笑いを零す。
そこからイルカは自分の結っていた髪紐を解くと、上着を脱ぎ始めた。



先に裸になっていたイルカを見たカカシは、一瞬目を見開いた後、すぐにイルカを押し倒した。
荒々しく唇を塞ぐ。
口には、もうしないのかと思っていた。
安堵しながらカカシの口づけを受け入れるように口を開いた。すぐに舌が入り込む。
(・・・・・・熱い)
熱くてぬめった舌がイルカの舌に絡みつく。身体も、イルカに触れる指先も既に暖かくなっていた。
その触れる指さえ、もどかしい。
唇が離れると、胸に移動したカカシを抑えて起きあがる。
どうしたの?と布団の上に座って聞くカカシに、イルカは顔を赤くしながら視線を下にずらす。そこは既に堅く勃ち上がっていた。
顔を埋めようとしたら、カカシが慌ててイルカの肩を掴んだ。
「先生、何で」
「いいじゃないですか」
視線を下げたまま、イルカは答えた。
「俺が、したいんです」
そしてゆっくりと顔をカカシの股間に埋め、竿を下から舐め上げた。
カカシから声が漏れる。
濡れた先端を舐め、思った以上に大きい質量を口内へ飲み込んでいく。
(・・・・・・でか・・・・・・)
こんなのが今まで自分の中に入っていたのかと思うと、信じられない気持ちにもなる。ただ、自分が慣れていないだけなのか。深く飲み込んだらえづくかもしれないからと、イルカはゆっくりと飲み込みながら、上下に扱いた。自分の唾液で、じゅる、じゅる、と水っぽい音が部屋に響く。
カカシの陰茎を含みながら、もしかしたら。これが既に他の女の中に入っていたのかもしれないとか、あの赤い唇のくノ一が、同じように口に含んだのかもしれないとか。
そう考えただけでぞっとした。途端吐き気がイルカを襲う。
押し出すようにぎゅっと目を閉じると、ふわりと頭にカカシの手のひらが乗った。
「イルカ先生」
名前を呼ばれでふと目を開け視線をカカシに向けた。少しだけ息を荒くして、苦しそうなカカシの顔。
「他の事考えてる?」
聞かれてギクリとした。咄嗟に声が出てこないし、今は咥えていてそれどころではない。
「俺の事だけ考えてよ」
そう言うと、カカシはイルカの口から自ら陰茎を引き抜き、イルカを押し倒した。
イルカの足を広げると、カカシの指が真っ直ぐ下へ伸びる。久しぶりだったが、カカシの指がすんなりと入った。すぐに指が二本に増やされる。
「・・・・・・あ、・・・・・・ああ・・・・・・」
びくびくと素直に反応する自分の身体に羞恥で顔が熱くなる。なのに、中をかき回すカカシもまた息が荒い。
早く入れたくて仕方がないと言う、そのカカシの性急さに身体がもどかしくなった。
(・・・・・・俺も・・・・・・)
「あっ、・・・・・・早く・・・・・・」
口から言葉が漏れていた。
そこからの事は、よく覚えていない。
激しく抱かれた事は確かだ。
朝起きた時には既にカカシはいなかった。どうしてなのかとか、そんなのは良く分かっている。

用が済んだから、帰ったのだ。

起きてしばらくは腰が痛くて動けなかった。重い腰を引きずりシャワーを浴びる為ようやく浴室に向かって、鏡に映る自分の姿を目にして。
体中に跡が残されている事実を知る。
支給服から露出する手首は大丈夫だったが、首元はきっと見える。その事に嘆息し、鏡に映るカカシが残した跡を見つめながら指でなぞった。


支給されてはいたが、締め付けられるような窮屈感が嫌で一度も袖を通した事がなかった、タートルネックのアンダーシャツを着る。
包帯で巻くとか、他の方法もあったのだがそれは明らかに隠しているようでする気にはなれなかった。
職場の同僚にも、暖かくなってきているのに何で、と首を傾げられたが笑って誤魔化した。


昼休み。イルカは珍しく一人で外で食べるために建物の外へ出た。暖かく雲一つない晴天。
正直タートルネックは暑い。
でも時折吹く風は爽やで気持ちいい。
イルカは何処で昼飯を食べようかと、ゆっくり歩く。背伸びをした。
慣れない服を着ている為か。
ひどく肩が凝った。
それに、この服のせいで知り合いに会わない店にしたい。
イルカは商店街を通り過ぎ、少し街から離れたところにある、小さな店の暖簾をくぐった。
座ってすぐに、湯飲みに入ったお茶とおしぼりが置かれる。
手早く済ませたかったイルカは、壁のメニューに貼られていた煮魚の定食を注文した。
おしぼりで手を拭き、一息つくように湯飲みの中のお茶を口に含んだ。
ほうじ茶だった。しかも茶葉をここで煎っているのか、香ばしく旨い。
適当にふらりと入った店だったのだが、当たりかもしれない。
お茶が美味しいと、それだけで幸せに浸りながらイルカは店の窓から見える景色をぼんやりと眺めた。
職場に言って一つ分かった事、それはカカシが朝から任務の為に里をでていると言う事だった。
それは自分にとって良いことなのかどうかは、判断が付かない。
ただそれを知ったとき、ほっとした。
でもまあ、ほっとした所で、今の俺とカカシさんの間で何かが変わる訳じゃないが。
「ほんに不思議やわあ」
その声に顔を向けると、イルカの席に近いテーブルに二人、女性が座っていた。テーブルには甘そうなあんみつが二つ。
イルカが店に入った時にも目に入っていたが。二人は派手でもないが、上品で華やかな着物を着ていた。
ただ、その緩い着方に近くにある遊郭で働く遊女だと、その事にも何となく気がついていた。
自分は遊郭に足を運んだ事もないが、偏見は持っていない。
ただ、昼間に店に来ていることから、今日は非番なのだろうか。
お茶を啜りながらそんな事を思っていると、また遊女が口を開いた。
「惚れた相手がどんな人なんかと思ってたんやけども」
くすくすと口に手を当てて遊女が可笑しそうに笑う。
「名前だけじゃ、えらい気になってしまうわ。あのはたけの旦那の思い人やからなあ」
「ほんまやわあ」
聞き間違えかと思った。
だけど自分の知っている限り、この里ではたけを性で名乗っているのはカカシしか知らない。
身体に一気に緊張が走った。
それ以上口に出さないでくれ。聞きたくない。
頭がぐるぐる混乱の渦に呑まれていきながらも、冷静さを保とうと必死だった。
外で強い風が吹く。その風は、遊女の席の近くにある開けられていた窓から、店に入り込んだ。
その時だった。ふわりとイルカの座っている場所まで香ってきたのは。
記憶に新しい香り。
昨日カカシの身体から漂った、甘い香りだった。
じゃああの香りは、どこかの恋人なんかじゃなく、あの遊女の元にに通っていたから?
イルカの目線は遊女へ否応なしに向けられる。
どっちの女性がカカシの相手なのだろうか。
そのイルカの視線に気がつく事なく、遊女はお互いに柔らかい声で笑う。
それだけで、カカシの相手があの刺々しいくノ一じゃなく、遊女で良かったと持った。
でも。カカシの思い人とはーー。
もし、そのカカシの好きな人を知れば、俺は吹っ切れるのかもしれない。
そう思ったら、イルカは自分の席を立ち遊女たちの元へ足を向けていた。
イルカに気がついた遊女は不思議そうに顔を小さく傾げた。
「あら、どないされたんですか?」
「あ、・・・・・・あの、」
慣れない事をするもんじゃない。
緊張に言葉が口から出てこなかった。顔を赤らめ口をぱくぱくさせるイルカに、もう一人の遊女が目を細めた。
「可愛いお人やわ」
女性に可愛いなどと言われ、イルカの顔がさらに赤みが増す。ぐっと歯を食いしばって口を開いた。
「かっ、カカシさんの好きな人って、誰なのか知っていたら教えていただきたいのですが」
二人の遊女がきょとんと目を丸くした後、口に手を当てころころと笑った。ひとしきり笑った後、イルカに顔を向ける。
「お許しなんしえ。ちょっとびっくりしてしまったもんやから」
「すみません」
頭を下げると、遊女は首を横に振った。
「お客様の事やからと思ったんやけど、そんな必死に聞かれたら、話さないわけにもいかへんやろなあ」
優しく微笑みながら、遊女が懐から紙を取り出す。その紙をテーブルに広げた。
イルカに顔を向ける。
「これはたけの旦那様が、自分の思ってはる方の名前を書かれたんやけどね、何て書いてあるのか読めへんのです」
ほら、わっちは学がありしまへんから。
優しい口調で、その遊女は話し続けた。
少し前にカカシが自分の元に通いだした事。
でも何もするわけでもなく、ただ話を聞いて欲しいのか、自分に話だけをして帰っていく事。
その内容は、ほとんどカカシの好きな人の事。
そして遊女がカカシに言った。
カカシほどの忍びが好きになった方の名前が知りたいと。
断られるかと思ったのにカカシは、いいよ。でも漢字ね。あの人に迷惑かけたくないから、とテーブルにあった紙に名前を書いた。
それが読めなくて、遊女は笑った。
テーブルに置かれた紙を見つめながら、顔を真っ赤にして泣きそうになっているイルカの前で、遊女は可愛らしく首を傾げてイルカを見つめ、そして問う。

「これはどんな風に読むんでありんすか?」

白い指で紙に書かれた名前を差す。
そこには報告書と同じ、綺麗に書かれたカカシの文字。

「……イルカって、読みます」

イルカの声は震えていた。
涙で滲んだ目を手の甲で擦るイルカを前に、遊女があら可愛しい名前やわ、と、嬉しそうに柔らかい笑みを浮かべ。
そして海豚と書かれた紙をそっと手に取った。

<終>