固結び
「イルカ先生、そこにゴミついてるよ」
執務室を出てすぐ、廊下で通りすがりに声をかけてきたのは、はたけカカシだった。
いつも挨拶程度で、会話らしい会話すらした事がない相手だったのもあるし、指を指された場所がたぶん顔辺り。別にどこかが痒いとかないからゴミくらいどうでもいいんだけど、相手が相手だった。しかも、生憎ついさっき綱手から纏めておいて欲しいと渡された書類で両手が塞がっていたから、ワンテンポ遅れた後、
「あ、え、すみません。どこに、」
慌てて片手に書類の束を持ち替え、言われたゴミを取ろうとした。
「んー、待って待って」
指を指したカカシの腕が伸びる。ふっと陰りが出来たかと思った時、何が起こったのか分からなかった。だって、カカシの顔が目の前まで来ていて、暗くなったのは彼の影で顔が覆われていたからだと、何となくそこまでは理解して。近いな、と思った時に自分の唇に柔らかなものが触れた。それが、カカシの唇だと気がついたのはそれから数秒後。
やわらかな感触は直ぐに消え、カカシの顔が離れた時には、さっき見かけた時と同じ様にきっちり口元は覆面で覆われている。
・・・・・・今のは・・・・・・なんだ?
目を見開いたまま、ぽかんとカカシを見つめた。
「・・・・・・え?・・・・・・えっと・・・・・・え?」
何となく。何となく分かっていても、状況を飲み込む事は不可能だった。
ここは執務室の前で、真っ昼間で(もっと言えばまだ朝に近い時間で)、人が往来する廊下。
で、カカシさんは今、何をした?
目をまん丸にしたまま固まっているイルカを前に、カカシは露わな青みがかった目をふっと緩ませる。
「あー、・・・・・・ははっ、先生さあ」
笑いながら銀色の頭をがしがしと掻いた後、未だにきょとんとしているイルカへ視線を戻し、
「・・・・・・ホント、しっかりしてよ」
正直その言葉は意味不明で。
そんんな中、イルカは呆然としながら執務室へと姿を消すカカシをただ見つめる事しかできなかった。
二十代半ばで未だ恋人が出来た事もないから。
恋とか愛とか分からないけど。
カカシさんを忍として尊敬していた。
ナルトの師になったのがカカシさんで良かったと心から思った。
彼と同じ里の忍として、里を守っている事が、何よりも誇らしいと思った。
なのに、一体あれは何なんだったんだ。
受付の終業時間が終わり、イルカは廊下を出る。受付自体冷房が設置されているわけでもなく、設置されている二台の扇風機もろくに部屋を涼しくしてくれるわけでもない。
もう少し風があって、夕方にでもなれば暑さは弱まるんだろうと思っていたのに。廊下も窓を開け放たれているものの、むっとした暑さに、イルカは顔を顰めた。ベストの下のアンダーウェアを首もとから引っ張りながら歩き、ロッカーで自分の鞄を手に取ると、そのまま裏の扉から建物の外に出た。でも、今日は久しぶりの飲み会。冷たい生ビールが飲めるかと思うとテンションが上がらないわけがない。一緒に合流した同僚と、そのまま居酒屋へ向かった。
乾杯の声と共にグラスの音が響きわたる。
居酒屋の一番奥にある座敷で開かれたのは、親睦会と言う名の飲み会。上忍中忍を含むそこそこ大きな飲み会だが、仕事や任務で参加できない事もあり、そこまで人は多くない。個々に酒を楽しむ。冷えたビールはは喉越しが良く気持ちがいい。二杯目のビールのジョッキから口を離し、一息つくと、
「ペース早いな」
言われ、そうか?とイルカは軽く肩を竦めた。
「さすがに今日みたいなこの暑さだとな。グラスじゃ追いつかないって」
「お前は特にな」
同僚が短く笑われ、少しむっとしながらも、また一口喉に流し込む。そこからイルカは箸を持ち、目の前の唐揚げを摘んだ。口に放り込み食べながら。ジョッキを片手にぼんやりと周りを眺めた。
中忍に比べたら上忍には変わり者が多い。それは受付の仕事に就くようになって、分かるようになってきた事だった。ただ、どんなに癖が強い相手でも、そこそこ上手く相手と関わってきたはずなのに。
「あのさあ」
「んー?」
イルカの声に、同僚もまたビールを飲みのんびりとした声を返す。
「キスって普通、恋人同士とかがするもんだよな?」
唐突な質問に、同僚が、はあ?と顔を上げた。
「何その質問」
普通はそう言うだろうと思うけど。だって、ちょっと、この前のカカシとのあれが。自分の中で処理しきれない問題になってきていた。
何回も繰り返しあの場面を再現して、自分に都合の言いように解釈しようとしても、明らかに無理があった。
場所と、相手とその行為と、その後の台詞とか。
悪い夢だと思いたくて。
冗談だとしても、これはかなり質の悪い冗談だ。自分が頭が固いって言われればそれまでだろうけど。
だってろくに会話もしないような、しかもナルトの師で、尊敬してて、
「だから、恋人同士じゃなかったら、キスとか普通しねえよな?」
何が言い出したのかと、同僚は眉を寄せイルカを見た。救いを求めるような眼差しに、どう捉えていいのか迷いながら、そこから視線を斜め上に漂わせる。
「まあ、どっかの国じゃスキンシップでキスとかハグとかするよな。ほら、家族間や友達同士の愛情表現でさ」
あ、それか。
求めていた答えが同僚の口から出て、イルカは内心頷いた。あれがコミュニケーションの一種なら、なんとか受け入れられる。本当に全く意味が分からなかったが、元々何を考えているのか分からない人だから、きっと自己表情も上手く出来なくて、ああなったんだだとしたら。
お前何でそんな事聞くわけ?と口を開いた同僚がふと会話を止める。その視線を辿るように顔を上げると、横にカカシがいた。
「どーも」
間延びした声は相変わらずだ。でも、あまりにも気配を感じてなかったから、驚きが素直に顔に出たまま、イルカはただ、カカシを見つめた。
え、何で。何でいんの?
確か前回の飲み会も、その前も、カカシはいなかった。上忍含む飲み会だから、いてもおかしくはないんだろうけど。でもだからって何で俺の横に。
「お、お疲れさまです」
俊敏に反応した同僚に、ん、とカカシは軽く返事を返す。慌ててイルカも頭を下げようとして、ふと手が軽くなる。頭を上げるとカカシがイルカの持っていたジョッキを手に持っていた。
「あ、」
それ、俺のです、と言う間もなく、何の躊躇いもなく覆面を下ろし、カカシはそのジョッキを傾けた。
注文したばかりの冷えたビールを喉を鳴らして飲むカカシに、さっき飲んだあの同じ冷えたビールが口の中に広がっているのが勝手に頭に浮かぶ、と、カカシがジョッキから口を離し、イルカのテーブルの前に置いた。
「俺、瓶ビール派だけど、たまには美味いね」
嬉しそうに目を細めるカカシの涼しい目元を、イルカが反応出来ずにただ見つめていると、分かります、と隣の同僚が代わりに相づちを打つ。そこで思考がやっと動き始めた。
え、違うし。俺のだし。
何て頭に浮かぶが、それを当たり前だが口にはできない。僅かに非難を込めた眼差しを見せるイルカに、カカシがふっと微笑む。
「間接キス、だね」
「・・・・・・え・・・・・・?」
ろくな返事をしないイルカに、ごちそうさま、と、カカシは立ち上がると、そのまま上忍が集まる方へ歩いていく。
喧噪が消えない部屋の中で確かに聞いたカカシの台詞に。徐徐にイルカの顔を赤く染まった。
え?
ええええ?
ええええええええええ?
待て。
待て。
待てって。
目の前に置かれた飲みかけのジョッキ。
確かに存在する目の前の自分のジョッキの縁の、唇が重なった痕が、動揺に拍車をかける。
今まで仲間同士で飲み回しなんてよくある事で。でも、何で敢えてそんな事。言う必要あるか?
なのに、隣の同僚はカカシがいなくなった事だけに安堵をして、呑気にビールを飲んでいる。
「有り得ねえ」
「いや、飲み会あるあるじゃん。向こうも酒が入ってるんだし」
ただの悪のりだって。と、気にも止めない同僚に、イルカは眉根を寄せた。
「ちが、」
言い掛けて、イルカは思わず口を結び、思わず口元に手を当てる。
そうじゃなくって。
だって、カカシさんの最近のあの行動は、マジで気になる。
あれがカカシさんのいつもの冗談なのかもしれないけど。あんな事までするか?
しない。しないって。
イルカは頭を抱えた。
同僚に笑われたように、考えれば考えるほど幼稚な悩みだ。
夜も更けた受付で、イルカは笑いを零した。
あの人は俺をからかってる。他にもきっとからかう相手がいるんだろうけど、俺が一番反応をするから、それが面白くて続けている。
きっとそうだ。
この前七班とばったり会った。任務帰りで泥だらけの服のまま飛びつくナルトに、カカシは至っていつも通りだった。いつものように、挨拶を交わし、嬉しそうに今日の任務の成果をナルトが話し始めると、カカシがその内容の補足を入れて説明してくれた。
今日の任務はつまらなかったと文句を言いだしたナルトに、依頼された任務に、必要のない任務なんて一つもないよ。そう口にしたカカシの一言は、イルカの心に強く残った。
ちょっと変な人だけど。日々逞しく成長をしているナルト達を思えば、やっぱりこの人で良かったと思うんだよな。
書類にペンを走らせながら思い出した気持ちに、イルカはまた頬を緩めた。
扉が開き、イルカは顔を上げる。
「あれ、先生夜勤なんだ?」
カカシがイルカの顔を見て、そう口にした。顔を見ただけで、僅かな警戒が浮かぶが、カカシは前と同じで普段とは変わらない。よろしくね、と報告書を渡される。イルカはそれを受け取り、書面に目を落とした。
相変わらず、単独任務でここまでの内容のランクの高いの任務を、短時間で終わらせるのはカカシだけだ。感心しか言葉がない。
同時にこの人に守られていると、不思議な安心感がわき上がり、同じ忍として情けないと、否定するように首を振りたくなった。そう、同じ忍なのに。
自分もいつかこうなりたいと、幼い頃高みを目指そうと夢見ていたのに。いつの間にかこんな仕事に収まっている自分。
「あ、お菓子」
カカシの声に、イルカの肩がびくりと揺れた。顔を上げると、ファイルの間に置いたポテトチップスの袋をカカシが指さしている。
「あー、見つかっちゃいましたか」
恥ずかしそうに笑うと、カカシも合わせるように微笑んだ。
「夜勤には必需品ってやつ?」
「まあ、不摂生になっちゃうんですけど、腹減るんで」
「まあそうだよね」
同意されるも、話を合わせてくれているのには変わらない。イルカは情けない笑みを浮かべて鼻頭を掻くと、カカシは首を傾げた。
「俺もね、夜中にたまに何か食べたくなったりすると、コンビニに買いに行くよ」
「え、そうなんですか?」
意外な言葉に、思わず食いつくイルカに気にすることなく、カカシは頷く。
やっぱり自分の気にし過ぎだ。
カカシの柔らかい微笑みに、笑顔を返しながら思う。
あのキスも、居酒屋の時も、意味なんてなんにもない。
ただ、きっとカカシさんは誰かをからかうのが好きで、自分が思い悩むような深い意味はきっと何もーー、
「あ、」
と、カカシが再び指をさす。今度はさっき自分が書いていた作成途中の書類に指を向けていた。
「それ、字が違うよ」
指摘され、イルカは自分の書類を持った。ほらそこ、と言われ、じっと自分の書いた字を目で追う。
「そこって、」
「え?だから、そこだよ」
カカシが少しだけイルカに屈み、指をさしてくれるが、それが何処なのか、見つけられない。カカシの指さす場所が分からず、
「すみません、そこってどこ、」
顔を上げ、青みがかった右目と視線がぶつかり合った。
言い掛けていた言葉が止まったのは、何でなのか。自分でも分からなかった。だって、どこなのか、教えてくれるはずなのに。黙ってしまったカカシの顔が間近に近づいてくる。
「あの・・・・・・」
イルカの問いかけには答えない。覆面に人差し指をかけた。そこから近づくカカシの顔がゆっくりと傾いていく。
前回とは違い、これが何なのか分かっていた。だってこの前の今日だ。分かっていたけど、動けなかった。頭は真っ白で、なのに、少しだけ伏せた銀色の睫毛が以外に長いな、とか、覆面を下ろす指が長くて綺麗だな、とか。そんなことが頭の中をぐるぐると回っていた。
そして、前と変わらない感触がイルカの唇に触れる。確かに、前よりもはっきりとカカシの唇を感じた。
カカシに口づけられていたのはほんの少しの間だった。ゆっくりと離れた後にも、まだカカシの暖かい唇の感触が残っていた。何回か瞬きをする間に、気がつけば覆面は元に戻されていて、いつ戻したのか、分からなかった。
やっぱりキスした。
その事実がはっきりとイルカの頭で認識した時、
「ポテトチップスの味」
カカシが嬉しそうに目を細めた。と、扉が開き、別の上忍が入ってくる。
「おお、カカシ」
カカシは受付に入ってきた上忍に顔を向けた。そのまま何事もなかったように、上忍と会話を始める。真っ白だった頭が回り始める。どくどくと、心臓が早鐘を打ち始めた。
カカシの背中を見つめるだけで、さっきのは間違いないようのない行為だと、実感が一気に沸く。
イルカの顔が一気に熱を持った。
やっぱり。やっぱりキスした。
キスだよ?男同士でキス。
したよね?何で?
キスしたのに、何でそんなにしれっと冷静でいられるんだ。
意味分かんねえ。
説明ぐらい・・・・・・しろよ!
何もなかったようにいられても、訳が分からない。激しい鼓動がイルカを襲い、苦しさに、思わずベストの上から胸を抑えた。
中忍って不利だ。
そう自分に結論を出してみた。だって、考えても考えても、頭が追いつかない。だから考えないように頭の隅に追いやって、どうでもいい結果で終わらせるしかない。
大体自分は男で、カカシさんも男で。女性って訳じゃないんだから。きっとここまで悩む必要がない。
もっと言えば、乱暴されたなら問題にするべきなんんだろうけど。キスなんか。犬に噛まれるんじゃなく、舐められたくらいなんだ。減るもんじゃないし、大した事じゃない、きっと。いやいやいや、舐められるって、何だよ。
自分の考えに自分にツッコみ。気がついたら、手が止まっていた。家でやればいいかと持ち帰ったテストの答案の丸付けが、半分以上残っている。イルカは赤ペンをちゃぶ台の上に軽く投げ置くと、ごろりと床に仰向けに転がった。背伸びをする。
古いアパートの天井に映る電気スタンドの明かりをぼんやりと見つめた。
「嫌なら嫌って言えばいいんだよな・・・・・・」
自分に言い聞かせるように、呟く。いつもいつも、何かされても驚いて固まって反論しない自分にも、きっと問題がある。そこからイルカは、よっ、とかけ声をかけ勢いをつけ起きあがった。立ち上がり、Tシャツの上からパーカーを羽織る。玄関で靴を履き、タオルを手に取ると外へ出た。
何も考えたくないない時は、身体を動かすのが一番だ。
イルカはいつものロードワークのコースを走りながら、荒い呼吸を一定の早さで繰り返した。時間も時間だからか、ほとんど人が歩く姿はない。ただ、やはり暑い。頭に被っていたフードを取ると一定のスピードを保ちそのまま河原へ向かった。朝早く走る時は、必ずここで犬の散歩をしている老夫婦に出会う。向こうも無言で会釈をし、イルカもまた会釈を返す。ただそれだけだが、優しく微笑む老夫婦に暖かいものを感じていた。最近会ってないけど、元気にしているだろうか。と思い浮かべた時、少し先に人影が視界に入った。
暗い道で歩くその後ろ姿。
・・・・・・ムカつくなあ。
心でそう呟いたのは、自分にだった。
月も雲に隠されほとんど闇に近いと言うのに。その闇夜に浮かぶ銀色の鈍い色と、歩き方。
それだけで、あれはきっとカカシさんなんだって分かる自分が、ムカつく。
どうしようかと、別の道を選びたくとも、河原の道はこの一本の細い道だけだった。
イルカはパーカーのフードを被り直そうかと思ったが、それを止めた。
だって、それじゃ丸で自分がカカシを避けているみたいで。
別に俺は、あんなの、気にしてない。
荒い呼吸を繰り返しながら、走るスピードも変えず。そのままカカシの横を通り過ぎる。
「先生」
まず気がつかないことはないとは思っていたが、案の定、呼び止められる。イルカはゆっくりと足を止め、振り返り頭を下げると、カカシはにこりと微笑んだ。
「ごめんね、呼び止めるつもりはなかったんだけど、なんかオーバーワークみたいに感じて」
イルカの額に浮かんだ汗がいくつも顎に流れる。朝早くから一日中働いて、残業の後の無理がある鍛錬だと、簡単に見抜かれている。イルカはタオルで汗を拭いながら、はあ、と情けない返事をした。
「で、・・・・・・カカシさんは・・・・・・」
「俺?俺はこれ」
カカシが持っていた袋を片手を軽く上げる。コンビニの袋だった。この前の受付での会話の通りに。足を止めていたイルカに、歩いていたカカシが並ぶ。歩こ?と目で促され、イルカはそれに従う。ゆっくりと二人で歩き出した。
「コンビニスイーツですか?」
イルカが聞くと、カカシは首を振った。
「ううん。俺甘いの苦手なんだよね。で、これは、この前イルカ先生が食べてたポテトチップス。食べてみようと思って」
イルカに顔を向けて少しだけ悪戯な目を向け微笑む。子供のようなその表情に、何故か思わずイルカは視線を逸らしていた。
コンビニって行くとさ、買う予定のないものまで買っちゃうよね。そう言われて、イルカは思わず小さく笑った。
「確かに、そうですね」
「先生だったら、・・・・・・新発売のカップラーメンとかでしょ」
間違いではない答えに、またイルカは認めるように笑う。
あ、大丈夫かも。
変な安心感がイルカに浮かんだ。
あんなに悩んでいたのに。普通に話せている。
変なからかいなんか俺に向けなくたって、話してるだけで楽しいんだから。
だから。このまま。
何でもない風に、ーー。
「ねえ、イルカ先生」
「はい?」
顔を向けると、カカシが足を止めていた。イルカもまた足を止める。
「そこにゴミがついてるよ」
いつか、どこかで聞いた台詞だった。
「・・・・・・え・・・・・・?」
嫌な予感に、イルカの胸が早く動き出す。
違う。きっと違う。
だって今、くだらない内容だったけど、それなりに楽しく会話してたじゃないか。
なのに、なんでまた。
「先生。目、瞑って?」
あからさまな言葉に、頭にかあと血が上った。頬が熱くなる。
「・・・・・・う、嘘ですっ」
「嘘じゃないよ」
「嘘だ」
「ホントだって」
「嘘だ!だってカカシさん俺に、」
キス、と言う言葉が口に出来なくて、イルカは赤い顔を隠すように俯いた。
嫌だったら嫌だと言えばいい。
ついさっきの自分が、自分の為に言った言葉が頭に浮かぶ。
ーー嫌だったらって。
俺は、カカシさんにキスされるのが、ーー嫌なのか?
「・・・・・・・・・・・・」
俯いたまま、唇を噛んでいた。
どうしよう。分かんねえ。
なのに、胸が苦しくて。
最初にキスされた時から、ずっと。
ぎゅう、とイルカは手に拳を作った。
恥ずかしい。すっげー恥ずかしい。
こんな事、カカシさんは何で、何度も。
平然と。
丸で俺の出方を待って。
駆け引きをするように。
いや、駆け引きって、何だよ。
ああ、ーーもう、分かんねえ。
顔を上げると、イルカはカカシのベストを掴んだ。そのまま自分に引き寄せる。
カカシの覆面の上から、自分の唇を押しつけた。
強引に押しつけるだけの、キスとも言えないような、キスだった。僅かに唇を浮かせると、カカシ熱い息を感じて思わず掴んでいた手を離す。
自分でしたくせに、顔から火が出そうなくらいに熱いのに、頭が真っ白だった。
イルカは黙ったまま俯くと、カカシも呆然としているのか、沈黙がながれる。真っ暗な河原で、その沈黙を破ったのは、カカシだった。
「・・・・・・な、んでキスするの?」
「なんでって・・・・・・っ」
イルカはゆっくりと俯いていた顔を上げると、カカシは、顔を覆うように、片手を顔に当てていた。今まで人をからかってきた、あの飄々としたカカシの姿は目の前になかった。
「びっくりした」
続けたカカシの言葉に目を剥く。
「ふ、ふざけんな!び・・・・・・びっくりしたって・・・・・・それは・・・・・・それはこっちの台詞だ!」
思った以上の大きい声が出て、それが河原に響く。カカシは、え?と顔を上げた。
「え?じゃねえだろ!じゃあ今までのは一体何だったんだよ!何で俺に・・・・・・キ、キスなんか、」
「したかったから」
即答だった。
涙目になるくらいに興奮している自分とは、あまりにもかけはなれた温度差に目眩がした。
一体、この男はどこまで人をおちょくれば気が済むんだ。
「俺は、あなたのせいで、毎日頭がおかしくなるほど悩んで、・・・・・・っ」
悔しさに、言葉を切って唇を噛む。なのに、確かに自分をおちょくっているはずなのに、気持ちを吐き出すイルカを見つめるカカシの顔に、面白がっているようなものは感じない。怒り浸透に顔を赤くさせたイルカを、カカシはじっと冷静に見つめ。そこから息を吐き出すように笑った。嬉しそうに。そして、ポケットに手をいれたまま、イルカに一歩近づいた。
「いいじゃん。それで」
「・・・・・・は?何で、」
思わず眉根を寄せると、カカシは僅かに首を傾げる。
「イルカ先生はそうやって、俺の事考え過ぎておかしくなっちゃえばいいよ」
じゃなきゃアンタは一生そのままじゃない。
その言葉が、何故かひたりと心に食い込んだ。
「だって、いつも。社交的なくせに、誰にでも見えない壁をせっせと積み上げて。自分の気持ちに気がつかないフリをしてる。でしょ?」
低い声音に、耳元が、首筋がちりちりとした。逃げ出したい気持ちに駆られるのに、カカシから目が離せなかった。
「だからさ、その壁、ちょっとなくしてみようよ」
「なくすって、」
「・・・・・・実は、俺。イルカ先生が心では俺を好きな事、知ってるんだけど」
身体の奥から熱くなった。心臓が嫌な音を立て、その音が今にもカカシに伝わってしまいそうで、イルカは顎を引いた。視線をやっとの事でカカシから逸らす。
「そんな事・・・・・・カカシさんが、何で・・・・・・知ってるんですか?」
「それはあんたが考えようとしないから」
「ちが、」
顔を上げると、間近でカカシと視線が交わった。
「違わない。どうして答えを出さずにそのまま考えを放棄しちゃうの?」
「放棄・・・・・・なんて、」
「考えてよ。面倒くさがらずに。分からないからって、放っておくのはもうやめて」
頭の中が鈍い音を立てて、ぐるぐると動き出す。
ずっと逃げていた。
だって。
愛とか恋とか、そんなの分からない。
ーーでも。
カカシさんをいつも目で追っていた。
カカシさんとキスしても、嫌いじゃない。
もっとこの人の傍にいたい。
それは全部気のせいだって。
自分の間違いだって。
そう、思いたかった。
ああ、そうか。俺は、ーーカカシさんを。
はたけカカシを。
「・・・・・・好き・・・・・・です」
心の底に固結びされ、隠していていた言葉が。
ようやく、口から零れた。
<終>
執務室を出てすぐ、廊下で通りすがりに声をかけてきたのは、はたけカカシだった。
いつも挨拶程度で、会話らしい会話すらした事がない相手だったのもあるし、指を指された場所がたぶん顔辺り。別にどこかが痒いとかないからゴミくらいどうでもいいんだけど、相手が相手だった。しかも、生憎ついさっき綱手から纏めておいて欲しいと渡された書類で両手が塞がっていたから、ワンテンポ遅れた後、
「あ、え、すみません。どこに、」
慌てて片手に書類の束を持ち替え、言われたゴミを取ろうとした。
「んー、待って待って」
指を指したカカシの腕が伸びる。ふっと陰りが出来たかと思った時、何が起こったのか分からなかった。だって、カカシの顔が目の前まで来ていて、暗くなったのは彼の影で顔が覆われていたからだと、何となくそこまでは理解して。近いな、と思った時に自分の唇に柔らかなものが触れた。それが、カカシの唇だと気がついたのはそれから数秒後。
やわらかな感触は直ぐに消え、カカシの顔が離れた時には、さっき見かけた時と同じ様にきっちり口元は覆面で覆われている。
・・・・・・今のは・・・・・・なんだ?
目を見開いたまま、ぽかんとカカシを見つめた。
「・・・・・・え?・・・・・・えっと・・・・・・え?」
何となく。何となく分かっていても、状況を飲み込む事は不可能だった。
ここは執務室の前で、真っ昼間で(もっと言えばまだ朝に近い時間で)、人が往来する廊下。
で、カカシさんは今、何をした?
目をまん丸にしたまま固まっているイルカを前に、カカシは露わな青みがかった目をふっと緩ませる。
「あー、・・・・・・ははっ、先生さあ」
笑いながら銀色の頭をがしがしと掻いた後、未だにきょとんとしているイルカへ視線を戻し、
「・・・・・・ホント、しっかりしてよ」
正直その言葉は意味不明で。
そんんな中、イルカは呆然としながら執務室へと姿を消すカカシをただ見つめる事しかできなかった。
二十代半ばで未だ恋人が出来た事もないから。
恋とか愛とか分からないけど。
カカシさんを忍として尊敬していた。
ナルトの師になったのがカカシさんで良かったと心から思った。
彼と同じ里の忍として、里を守っている事が、何よりも誇らしいと思った。
なのに、一体あれは何なんだったんだ。
受付の終業時間が終わり、イルカは廊下を出る。受付自体冷房が設置されているわけでもなく、設置されている二台の扇風機もろくに部屋を涼しくしてくれるわけでもない。
もう少し風があって、夕方にでもなれば暑さは弱まるんだろうと思っていたのに。廊下も窓を開け放たれているものの、むっとした暑さに、イルカは顔を顰めた。ベストの下のアンダーウェアを首もとから引っ張りながら歩き、ロッカーで自分の鞄を手に取ると、そのまま裏の扉から建物の外に出た。でも、今日は久しぶりの飲み会。冷たい生ビールが飲めるかと思うとテンションが上がらないわけがない。一緒に合流した同僚と、そのまま居酒屋へ向かった。
乾杯の声と共にグラスの音が響きわたる。
居酒屋の一番奥にある座敷で開かれたのは、親睦会と言う名の飲み会。上忍中忍を含むそこそこ大きな飲み会だが、仕事や任務で参加できない事もあり、そこまで人は多くない。個々に酒を楽しむ。冷えたビールはは喉越しが良く気持ちがいい。二杯目のビールのジョッキから口を離し、一息つくと、
「ペース早いな」
言われ、そうか?とイルカは軽く肩を竦めた。
「さすがに今日みたいなこの暑さだとな。グラスじゃ追いつかないって」
「お前は特にな」
同僚が短く笑われ、少しむっとしながらも、また一口喉に流し込む。そこからイルカは箸を持ち、目の前の唐揚げを摘んだ。口に放り込み食べながら。ジョッキを片手にぼんやりと周りを眺めた。
中忍に比べたら上忍には変わり者が多い。それは受付の仕事に就くようになって、分かるようになってきた事だった。ただ、どんなに癖が強い相手でも、そこそこ上手く相手と関わってきたはずなのに。
「あのさあ」
「んー?」
イルカの声に、同僚もまたビールを飲みのんびりとした声を返す。
「キスって普通、恋人同士とかがするもんだよな?」
唐突な質問に、同僚が、はあ?と顔を上げた。
「何その質問」
普通はそう言うだろうと思うけど。だって、ちょっと、この前のカカシとのあれが。自分の中で処理しきれない問題になってきていた。
何回も繰り返しあの場面を再現して、自分に都合の言いように解釈しようとしても、明らかに無理があった。
場所と、相手とその行為と、その後の台詞とか。
悪い夢だと思いたくて。
冗談だとしても、これはかなり質の悪い冗談だ。自分が頭が固いって言われればそれまでだろうけど。
だってろくに会話もしないような、しかもナルトの師で、尊敬してて、
「だから、恋人同士じゃなかったら、キスとか普通しねえよな?」
何が言い出したのかと、同僚は眉を寄せイルカを見た。救いを求めるような眼差しに、どう捉えていいのか迷いながら、そこから視線を斜め上に漂わせる。
「まあ、どっかの国じゃスキンシップでキスとかハグとかするよな。ほら、家族間や友達同士の愛情表現でさ」
あ、それか。
求めていた答えが同僚の口から出て、イルカは内心頷いた。あれがコミュニケーションの一種なら、なんとか受け入れられる。本当に全く意味が分からなかったが、元々何を考えているのか分からない人だから、きっと自己表情も上手く出来なくて、ああなったんだだとしたら。
お前何でそんな事聞くわけ?と口を開いた同僚がふと会話を止める。その視線を辿るように顔を上げると、横にカカシがいた。
「どーも」
間延びした声は相変わらずだ。でも、あまりにも気配を感じてなかったから、驚きが素直に顔に出たまま、イルカはただ、カカシを見つめた。
え、何で。何でいんの?
確か前回の飲み会も、その前も、カカシはいなかった。上忍含む飲み会だから、いてもおかしくはないんだろうけど。でもだからって何で俺の横に。
「お、お疲れさまです」
俊敏に反応した同僚に、ん、とカカシは軽く返事を返す。慌ててイルカも頭を下げようとして、ふと手が軽くなる。頭を上げるとカカシがイルカの持っていたジョッキを手に持っていた。
「あ、」
それ、俺のです、と言う間もなく、何の躊躇いもなく覆面を下ろし、カカシはそのジョッキを傾けた。
注文したばかりの冷えたビールを喉を鳴らして飲むカカシに、さっき飲んだあの同じ冷えたビールが口の中に広がっているのが勝手に頭に浮かぶ、と、カカシがジョッキから口を離し、イルカのテーブルの前に置いた。
「俺、瓶ビール派だけど、たまには美味いね」
嬉しそうに目を細めるカカシの涼しい目元を、イルカが反応出来ずにただ見つめていると、分かります、と隣の同僚が代わりに相づちを打つ。そこで思考がやっと動き始めた。
え、違うし。俺のだし。
何て頭に浮かぶが、それを当たり前だが口にはできない。僅かに非難を込めた眼差しを見せるイルカに、カカシがふっと微笑む。
「間接キス、だね」
「・・・・・・え・・・・・・?」
ろくな返事をしないイルカに、ごちそうさま、と、カカシは立ち上がると、そのまま上忍が集まる方へ歩いていく。
喧噪が消えない部屋の中で確かに聞いたカカシの台詞に。徐徐にイルカの顔を赤く染まった。
え?
ええええ?
ええええええええええ?
待て。
待て。
待てって。
目の前に置かれた飲みかけのジョッキ。
確かに存在する目の前の自分のジョッキの縁の、唇が重なった痕が、動揺に拍車をかける。
今まで仲間同士で飲み回しなんてよくある事で。でも、何で敢えてそんな事。言う必要あるか?
なのに、隣の同僚はカカシがいなくなった事だけに安堵をして、呑気にビールを飲んでいる。
「有り得ねえ」
「いや、飲み会あるあるじゃん。向こうも酒が入ってるんだし」
ただの悪のりだって。と、気にも止めない同僚に、イルカは眉根を寄せた。
「ちが、」
言い掛けて、イルカは思わず口を結び、思わず口元に手を当てる。
そうじゃなくって。
だって、カカシさんの最近のあの行動は、マジで気になる。
あれがカカシさんのいつもの冗談なのかもしれないけど。あんな事までするか?
しない。しないって。
イルカは頭を抱えた。
同僚に笑われたように、考えれば考えるほど幼稚な悩みだ。
夜も更けた受付で、イルカは笑いを零した。
あの人は俺をからかってる。他にもきっとからかう相手がいるんだろうけど、俺が一番反応をするから、それが面白くて続けている。
きっとそうだ。
この前七班とばったり会った。任務帰りで泥だらけの服のまま飛びつくナルトに、カカシは至っていつも通りだった。いつものように、挨拶を交わし、嬉しそうに今日の任務の成果をナルトが話し始めると、カカシがその内容の補足を入れて説明してくれた。
今日の任務はつまらなかったと文句を言いだしたナルトに、依頼された任務に、必要のない任務なんて一つもないよ。そう口にしたカカシの一言は、イルカの心に強く残った。
ちょっと変な人だけど。日々逞しく成長をしているナルト達を思えば、やっぱりこの人で良かったと思うんだよな。
書類にペンを走らせながら思い出した気持ちに、イルカはまた頬を緩めた。
扉が開き、イルカは顔を上げる。
「あれ、先生夜勤なんだ?」
カカシがイルカの顔を見て、そう口にした。顔を見ただけで、僅かな警戒が浮かぶが、カカシは前と同じで普段とは変わらない。よろしくね、と報告書を渡される。イルカはそれを受け取り、書面に目を落とした。
相変わらず、単独任務でここまでの内容のランクの高いの任務を、短時間で終わらせるのはカカシだけだ。感心しか言葉がない。
同時にこの人に守られていると、不思議な安心感がわき上がり、同じ忍として情けないと、否定するように首を振りたくなった。そう、同じ忍なのに。
自分もいつかこうなりたいと、幼い頃高みを目指そうと夢見ていたのに。いつの間にかこんな仕事に収まっている自分。
「あ、お菓子」
カカシの声に、イルカの肩がびくりと揺れた。顔を上げると、ファイルの間に置いたポテトチップスの袋をカカシが指さしている。
「あー、見つかっちゃいましたか」
恥ずかしそうに笑うと、カカシも合わせるように微笑んだ。
「夜勤には必需品ってやつ?」
「まあ、不摂生になっちゃうんですけど、腹減るんで」
「まあそうだよね」
同意されるも、話を合わせてくれているのには変わらない。イルカは情けない笑みを浮かべて鼻頭を掻くと、カカシは首を傾げた。
「俺もね、夜中にたまに何か食べたくなったりすると、コンビニに買いに行くよ」
「え、そうなんですか?」
意外な言葉に、思わず食いつくイルカに気にすることなく、カカシは頷く。
やっぱり自分の気にし過ぎだ。
カカシの柔らかい微笑みに、笑顔を返しながら思う。
あのキスも、居酒屋の時も、意味なんてなんにもない。
ただ、きっとカカシさんは誰かをからかうのが好きで、自分が思い悩むような深い意味はきっと何もーー、
「あ、」
と、カカシが再び指をさす。今度はさっき自分が書いていた作成途中の書類に指を向けていた。
「それ、字が違うよ」
指摘され、イルカは自分の書類を持った。ほらそこ、と言われ、じっと自分の書いた字を目で追う。
「そこって、」
「え?だから、そこだよ」
カカシが少しだけイルカに屈み、指をさしてくれるが、それが何処なのか、見つけられない。カカシの指さす場所が分からず、
「すみません、そこってどこ、」
顔を上げ、青みがかった右目と視線がぶつかり合った。
言い掛けていた言葉が止まったのは、何でなのか。自分でも分からなかった。だって、どこなのか、教えてくれるはずなのに。黙ってしまったカカシの顔が間近に近づいてくる。
「あの・・・・・・」
イルカの問いかけには答えない。覆面に人差し指をかけた。そこから近づくカカシの顔がゆっくりと傾いていく。
前回とは違い、これが何なのか分かっていた。だってこの前の今日だ。分かっていたけど、動けなかった。頭は真っ白で、なのに、少しだけ伏せた銀色の睫毛が以外に長いな、とか、覆面を下ろす指が長くて綺麗だな、とか。そんなことが頭の中をぐるぐると回っていた。
そして、前と変わらない感触がイルカの唇に触れる。確かに、前よりもはっきりとカカシの唇を感じた。
カカシに口づけられていたのはほんの少しの間だった。ゆっくりと離れた後にも、まだカカシの暖かい唇の感触が残っていた。何回か瞬きをする間に、気がつけば覆面は元に戻されていて、いつ戻したのか、分からなかった。
やっぱりキスした。
その事実がはっきりとイルカの頭で認識した時、
「ポテトチップスの味」
カカシが嬉しそうに目を細めた。と、扉が開き、別の上忍が入ってくる。
「おお、カカシ」
カカシは受付に入ってきた上忍に顔を向けた。そのまま何事もなかったように、上忍と会話を始める。真っ白だった頭が回り始める。どくどくと、心臓が早鐘を打ち始めた。
カカシの背中を見つめるだけで、さっきのは間違いないようのない行為だと、実感が一気に沸く。
イルカの顔が一気に熱を持った。
やっぱり。やっぱりキスした。
キスだよ?男同士でキス。
したよね?何で?
キスしたのに、何でそんなにしれっと冷静でいられるんだ。
意味分かんねえ。
説明ぐらい・・・・・・しろよ!
何もなかったようにいられても、訳が分からない。激しい鼓動がイルカを襲い、苦しさに、思わずベストの上から胸を抑えた。
中忍って不利だ。
そう自分に結論を出してみた。だって、考えても考えても、頭が追いつかない。だから考えないように頭の隅に追いやって、どうでもいい結果で終わらせるしかない。
大体自分は男で、カカシさんも男で。女性って訳じゃないんだから。きっとここまで悩む必要がない。
もっと言えば、乱暴されたなら問題にするべきなんんだろうけど。キスなんか。犬に噛まれるんじゃなく、舐められたくらいなんだ。減るもんじゃないし、大した事じゃない、きっと。いやいやいや、舐められるって、何だよ。
自分の考えに自分にツッコみ。気がついたら、手が止まっていた。家でやればいいかと持ち帰ったテストの答案の丸付けが、半分以上残っている。イルカは赤ペンをちゃぶ台の上に軽く投げ置くと、ごろりと床に仰向けに転がった。背伸びをする。
古いアパートの天井に映る電気スタンドの明かりをぼんやりと見つめた。
「嫌なら嫌って言えばいいんだよな・・・・・・」
自分に言い聞かせるように、呟く。いつもいつも、何かされても驚いて固まって反論しない自分にも、きっと問題がある。そこからイルカは、よっ、とかけ声をかけ勢いをつけ起きあがった。立ち上がり、Tシャツの上からパーカーを羽織る。玄関で靴を履き、タオルを手に取ると外へ出た。
何も考えたくないない時は、身体を動かすのが一番だ。
イルカはいつものロードワークのコースを走りながら、荒い呼吸を一定の早さで繰り返した。時間も時間だからか、ほとんど人が歩く姿はない。ただ、やはり暑い。頭に被っていたフードを取ると一定のスピードを保ちそのまま河原へ向かった。朝早く走る時は、必ずここで犬の散歩をしている老夫婦に出会う。向こうも無言で会釈をし、イルカもまた会釈を返す。ただそれだけだが、優しく微笑む老夫婦に暖かいものを感じていた。最近会ってないけど、元気にしているだろうか。と思い浮かべた時、少し先に人影が視界に入った。
暗い道で歩くその後ろ姿。
・・・・・・ムカつくなあ。
心でそう呟いたのは、自分にだった。
月も雲に隠されほとんど闇に近いと言うのに。その闇夜に浮かぶ銀色の鈍い色と、歩き方。
それだけで、あれはきっとカカシさんなんだって分かる自分が、ムカつく。
どうしようかと、別の道を選びたくとも、河原の道はこの一本の細い道だけだった。
イルカはパーカーのフードを被り直そうかと思ったが、それを止めた。
だって、それじゃ丸で自分がカカシを避けているみたいで。
別に俺は、あんなの、気にしてない。
荒い呼吸を繰り返しながら、走るスピードも変えず。そのままカカシの横を通り過ぎる。
「先生」
まず気がつかないことはないとは思っていたが、案の定、呼び止められる。イルカはゆっくりと足を止め、振り返り頭を下げると、カカシはにこりと微笑んだ。
「ごめんね、呼び止めるつもりはなかったんだけど、なんかオーバーワークみたいに感じて」
イルカの額に浮かんだ汗がいくつも顎に流れる。朝早くから一日中働いて、残業の後の無理がある鍛錬だと、簡単に見抜かれている。イルカはタオルで汗を拭いながら、はあ、と情けない返事をした。
「で、・・・・・・カカシさんは・・・・・・」
「俺?俺はこれ」
カカシが持っていた袋を片手を軽く上げる。コンビニの袋だった。この前の受付での会話の通りに。足を止めていたイルカに、歩いていたカカシが並ぶ。歩こ?と目で促され、イルカはそれに従う。ゆっくりと二人で歩き出した。
「コンビニスイーツですか?」
イルカが聞くと、カカシは首を振った。
「ううん。俺甘いの苦手なんだよね。で、これは、この前イルカ先生が食べてたポテトチップス。食べてみようと思って」
イルカに顔を向けて少しだけ悪戯な目を向け微笑む。子供のようなその表情に、何故か思わずイルカは視線を逸らしていた。
コンビニって行くとさ、買う予定のないものまで買っちゃうよね。そう言われて、イルカは思わず小さく笑った。
「確かに、そうですね」
「先生だったら、・・・・・・新発売のカップラーメンとかでしょ」
間違いではない答えに、またイルカは認めるように笑う。
あ、大丈夫かも。
変な安心感がイルカに浮かんだ。
あんなに悩んでいたのに。普通に話せている。
変なからかいなんか俺に向けなくたって、話してるだけで楽しいんだから。
だから。このまま。
何でもない風に、ーー。
「ねえ、イルカ先生」
「はい?」
顔を向けると、カカシが足を止めていた。イルカもまた足を止める。
「そこにゴミがついてるよ」
いつか、どこかで聞いた台詞だった。
「・・・・・・え・・・・・・?」
嫌な予感に、イルカの胸が早く動き出す。
違う。きっと違う。
だって今、くだらない内容だったけど、それなりに楽しく会話してたじゃないか。
なのに、なんでまた。
「先生。目、瞑って?」
あからさまな言葉に、頭にかあと血が上った。頬が熱くなる。
「・・・・・・う、嘘ですっ」
「嘘じゃないよ」
「嘘だ」
「ホントだって」
「嘘だ!だってカカシさん俺に、」
キス、と言う言葉が口に出来なくて、イルカは赤い顔を隠すように俯いた。
嫌だったら嫌だと言えばいい。
ついさっきの自分が、自分の為に言った言葉が頭に浮かぶ。
ーー嫌だったらって。
俺は、カカシさんにキスされるのが、ーー嫌なのか?
「・・・・・・・・・・・・」
俯いたまま、唇を噛んでいた。
どうしよう。分かんねえ。
なのに、胸が苦しくて。
最初にキスされた時から、ずっと。
ぎゅう、とイルカは手に拳を作った。
恥ずかしい。すっげー恥ずかしい。
こんな事、カカシさんは何で、何度も。
平然と。
丸で俺の出方を待って。
駆け引きをするように。
いや、駆け引きって、何だよ。
ああ、ーーもう、分かんねえ。
顔を上げると、イルカはカカシのベストを掴んだ。そのまま自分に引き寄せる。
カカシの覆面の上から、自分の唇を押しつけた。
強引に押しつけるだけの、キスとも言えないような、キスだった。僅かに唇を浮かせると、カカシ熱い息を感じて思わず掴んでいた手を離す。
自分でしたくせに、顔から火が出そうなくらいに熱いのに、頭が真っ白だった。
イルカは黙ったまま俯くと、カカシも呆然としているのか、沈黙がながれる。真っ暗な河原で、その沈黙を破ったのは、カカシだった。
「・・・・・・な、んでキスするの?」
「なんでって・・・・・・っ」
イルカはゆっくりと俯いていた顔を上げると、カカシは、顔を覆うように、片手を顔に当てていた。今まで人をからかってきた、あの飄々としたカカシの姿は目の前になかった。
「びっくりした」
続けたカカシの言葉に目を剥く。
「ふ、ふざけんな!び・・・・・・びっくりしたって・・・・・・それは・・・・・・それはこっちの台詞だ!」
思った以上の大きい声が出て、それが河原に響く。カカシは、え?と顔を上げた。
「え?じゃねえだろ!じゃあ今までのは一体何だったんだよ!何で俺に・・・・・・キ、キスなんか、」
「したかったから」
即答だった。
涙目になるくらいに興奮している自分とは、あまりにもかけはなれた温度差に目眩がした。
一体、この男はどこまで人をおちょくれば気が済むんだ。
「俺は、あなたのせいで、毎日頭がおかしくなるほど悩んで、・・・・・・っ」
悔しさに、言葉を切って唇を噛む。なのに、確かに自分をおちょくっているはずなのに、気持ちを吐き出すイルカを見つめるカカシの顔に、面白がっているようなものは感じない。怒り浸透に顔を赤くさせたイルカを、カカシはじっと冷静に見つめ。そこから息を吐き出すように笑った。嬉しそうに。そして、ポケットに手をいれたまま、イルカに一歩近づいた。
「いいじゃん。それで」
「・・・・・・は?何で、」
思わず眉根を寄せると、カカシは僅かに首を傾げる。
「イルカ先生はそうやって、俺の事考え過ぎておかしくなっちゃえばいいよ」
じゃなきゃアンタは一生そのままじゃない。
その言葉が、何故かひたりと心に食い込んだ。
「だって、いつも。社交的なくせに、誰にでも見えない壁をせっせと積み上げて。自分の気持ちに気がつかないフリをしてる。でしょ?」
低い声音に、耳元が、首筋がちりちりとした。逃げ出したい気持ちに駆られるのに、カカシから目が離せなかった。
「だからさ、その壁、ちょっとなくしてみようよ」
「なくすって、」
「・・・・・・実は、俺。イルカ先生が心では俺を好きな事、知ってるんだけど」
身体の奥から熱くなった。心臓が嫌な音を立て、その音が今にもカカシに伝わってしまいそうで、イルカは顎を引いた。視線をやっとの事でカカシから逸らす。
「そんな事・・・・・・カカシさんが、何で・・・・・・知ってるんですか?」
「それはあんたが考えようとしないから」
「ちが、」
顔を上げると、間近でカカシと視線が交わった。
「違わない。どうして答えを出さずにそのまま考えを放棄しちゃうの?」
「放棄・・・・・・なんて、」
「考えてよ。面倒くさがらずに。分からないからって、放っておくのはもうやめて」
頭の中が鈍い音を立てて、ぐるぐると動き出す。
ずっと逃げていた。
だって。
愛とか恋とか、そんなの分からない。
ーーでも。
カカシさんをいつも目で追っていた。
カカシさんとキスしても、嫌いじゃない。
もっとこの人の傍にいたい。
それは全部気のせいだって。
自分の間違いだって。
そう、思いたかった。
ああ、そうか。俺は、ーーカカシさんを。
はたけカカシを。
「・・・・・・好き・・・・・・です」
心の底に固結びされ、隠していていた言葉が。
ようやく、口から零れた。
<終>
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