喧嘩未満

 昼休み時間終わり間近、昼飯から戻ってきた同僚を見たイルカはその顔を見て思わず吹き出した。
「なんだよそれ」
 笑うイルカの声が職員室に響きわたる。それを受け、同僚がむっとしながら自分の席に着いた。つい三十分前、昼飯に出かける前には何もなかった同僚のその左頬がしっかりと赤く、その原因が嫌でも想像できてこっちは笑わずにはいられない。
「何したんだよ」
 笑いながら聞くイルカに、同僚はむっとしながらもイルカへ渋々顔を向ける。
「ちょっといい女がいるなって見てたらバレた」
 元々女好きのこの同僚ならあり得る事だが。その原因を聞いて、イルカは呆れ混じりに同僚を見た。
「そりゃあ、デート中に他の女の尻を目で追ったお前が悪い」
「尻は見てねえ」
 胸だ。そう口にされますます呆れる。
「まあ、ビンタだけで良かったな」
 そう言って同僚の肩を叩いた時、昼休みの終わりを告げる鐘が鳴る。イルカは授業の準備をすべく自分の席に戻った。

 声をそろえて教科書を読む子供達を前に、イルカは教壇に立つ。今読み上げている内容から、説明すべき事を黒板に書き出しながら、ふとついさっきの同僚の事が頭に浮かんだ。確か、つい最近も、あの同僚は喧嘩して仲直りしたばかりだったはずだ。
 同僚の今の恋人とのつき合いは長い。女好きだが浮気までしていないから今も尚続いていて、そして相手も気が強い女性らしく、喧嘩する度に愚痴はよく聞かされる。こっちからすれば、愚痴と言うより惚気にしか聞こえないが、日常的に喧嘩をしているのは確かだ。
 そして思うのは、ーー自分達とは違うと言うこと。
 そこまで思った時にカカシの顔が浮かび、それだけでむずがゆさみたいなものを感じた。黒板に向かいながら、イルカはぐっと顔を引き締める。カカシと恋人になって半年経つが、自分達は同僚とは違い喧嘩なく穏やかに過ごしている。
 元々自分はノーマルで、カカシをそんな目で見た事もなかったのに、向こうは違った。
 忍として尊敬していたが、中忍選抜試験の時から、それ以上に、カカシは厳しい人なんだと言う印象が強くなった。たぶんそれはきっとその通りで、間違っていない。そして反対に、自分自身に対する甘さを再認識するいい機会だった。ナルト達にとって新しい師と言えど上官であり、カカシにとったら部下だ。それに対してあんな場所で老婆心を丸出して食ってかかった自分には落ち度しかない。そう思っていたイルカをカカシは飲みに誘った。
 緊張して酷く気を使う自分に対し、カカシは淡々としていた。咎めたり責めたりするわけでもなく、互い考えの相違が悪い事だと考えないと、間違っているわけではないと、そう言われた時、内心拍子抜けした。もっと厳しい意見を口にするとばかり思っていた。だけど、どう考えても悪いのは自分だ。そうでしょうか、とぼそりと口にすると、カカシは顔を上げ青みがかった目を自分に向けた。そして、そうだよ、となんでもない風に、目元を緩めた。その微笑んだ顔を見た時、胸が高鳴ったのは決して気のせいではなかったと、気がついたのはその数週間後。
 何回目かの夕飯を共にした帰り、カカシに告白された。
 つき合ってる人がいないなら、俺とつき合ってみない?
 会話の延長のような、いつものような落ち着いた口調で。丸で夕飯に誘うように。驚いたが、嫌な気持ちはなかった。つき合ってみてもいいかも、とそう思った自分がいた。
 そこからつきあい始めたのだが、カカシは想像以上に優しかった。
 四つしか離れていないが、その優しさに年齢差のせいかと感じるも、でも会話は弾むしご飯の好みも合う。笑うツボも一緒で、当たり前に沈黙も苦にはならない。
 ただ、自分のように日頃カカシが友人とげらげら笑うところなんて見たことがない。そう思うと、自分はまだまだ子供だと思うところはたくさんあって、だから、喧嘩しないのはきっとカカシのおかげで、包容力を感じずにはいられない。
(あ、これって惚気か)
 黒板に向かいながら、イルカは密かに頬を赤らめた。

 授業が終わり片づけを終えたイルカは廊下を歩きながら、でもなあ、と心で呟く。
 あの中忍選抜試験は別として。自分には勿論、カカシが誰かに怒ったところを見たことがない。ただ、ナルトからはよくカカシに怒られたと不満を聞かされてはいた。それを聞く度に、流石に自分のように拳骨を落としたり怒鳴ったりはしないだろうが、どんな感じなんだろうと興味が沸いたりもした。
 想像しようとして浮かぶのは、あの中忍選抜試験の突き放した口調や冷えた眼差しで。そこまで昔の事ではないのに、あれが自分に向けられていたかと思うだけで不思議な気分になる。イルカはぼんやりと廊下の少し先へ視線を漂わせた。


 その日、イルカは同僚に飲みに誘われた。
 カカシに夕飯を誘われたのはその後で、彼女と喧嘩した憂さ晴らしだと言うから、カカシには悪いが順番的にも同僚を優先したのに。
 飲んでいる途中で、近くにいた女に同僚が声をかけるから呆れた。彼女にバレたらどうすんだ、と言っても同僚は気にもしないし、お前はいないからちょうどいいだろ、と言う始末。カカシとの関係を口外していないのは確かで、それをカカシは言わずとも自分に合わせてくれている。それを説明出来るわけもなく、相手の女は誘いに慣れているのか同僚の誘いに応じて同じテーブルの席に座った。
 そうなれば流れ的には仕方がないし、同僚が満足すればそれでいい。それに自分は合わせるのは得意だ。イルカは割り切ってジョッキを隣の女性と重ねた。
 話をすれば女性は二人とも二十歳だと言う。話し方や雰囲気がそう言われればまだ初々しく酒にも慣れていない感じで、成人していると言えど、どちらかと言えば自分の生徒と同じに感じだ。でもよく考えれば自分とカカシも同じ年齢差で。カカシから見た自分は同じ様な感じなんだろうか、と想像しても、この初対面の女性とは違って自分とカカシは恋人同士で。それだけでなんだか可笑しくなった。
 イルカは残りのビールを飲み干す。すみませんお代わり、と店員へ手を挙げ顔も上げた時、そこにいた人影にイルカは目を丸くした。
 少し先の通路にカカシが立っていた。この時間にちょうど居酒屋に入ってきたのは、たぶん任務が終わったからで、それが分かるのは、今日カカシに夕飯に誘われた時、このくらいの時間に終わると聞いていたから。その通りで任務帰りの姿で後ろには同じ上忍のアスマが立っていた。同じ任務だったのか、カカシが誘ったのか誘われたのか。イルカは二人を目にして反射的に頭を下げた。アスマは軽く手を上げそれに反応を示すも、カカシは会釈を返す事もなくじっとこっちを見つめたまま。そこで自分の状況に気がついた。だが気がついたところでどうにもならないし、自分は決してやましいことはしていない。後で説明すればいいだけだ。
 アスマは店員に促されるまま奥のカウンターへ足を進め、立ち止まっているカカシに声をかけるが、カカシはそれには反応を示さなかった。そして、アスマがいる席ではなく、真っ直ぐこっちに向かって歩き出すから、慌ててイルカは席を立つ。目の前に座っていた同僚もまたカカシに気がつき立ち上がり挨拶をしたが、カカシの視線はイルカに向けられたままだった。週末と言う事もあり、店内は込み合い騒がしい。喧騒の中、あの、とイルカが口を開くと同時に、今日は友達と飲むって言ったなかった?とカカシに尋ねられ、イルカは頷いた。
「そうだったんですが、なんか流れでこんな感じになってしまって、」
 自分はそんなつもりじゃなかったとそんな口調で簡潔に説明すれば、それは直ぐに把握出来たのか、そう、とカカシから直ぐに声が返った。奥のカウンターではアスマがこっちを見ているのが分かる。きっとカカシにもそれは気配で分かっているだろう。状況的にもこれでカカシはここから離れると思ったが、違った。あのさ、とカカシは続ける。
「この前、話したの覚えてる?」
 言われて何だろうと思えば、先月の合コンの、と言われ、イルカは首を傾げた。確かに先月どうしても人数が足らないと頼まれて仕方なく合コンに参加した。でもそれでカカシが何を言ったのかは記憶にない。それを悟ったのか、カカシが軽くため息混じりに草臥れた銀色の髪をがしがしと掻いた。
「そういうの、俺あんまり行って欲しくないって、そう言ったつもりだったんだけど」
 カカシの言葉に記憶をたぐり寄せるが、はっきりとは思い出せなかった。そう言えば言われたのかもしれない。でもそれはきっと酔って帰ってきた時にカカシがそう自分に告げたのか。自分は酔ってもあまり顔に出ないから、そこまで酔っていないと思ってカカシが話したのか。
 兎も角、やはりその会話は思い出せない。しかし今回は同僚のわがままで、それに合わせただけで、合コンでもなんでもないから、はあ、と口にしながらも、すみません、と素直に謝る事を選んだイルカに、カカシの眉が僅か寄った。それは僅かでも、自分にとっては分かりやすいくらいにカカシの表情が変わった瞬間だった。今までつき合ってきた中で何かに不満だと、顔に出した事を見た事がなかったから。顔に出さずとも、内心驚くイルカに、ねえ、と女性から声がかかった。
「イルカ先生、まだ?」
 早く飲もうよ。
 自分が教員だと知った女性が、初対面だが、酒が入っているせいか、自分を先生付けで名前を呼ぶ。
 カカシを怒らせるつもりもなく、他意もなかった。でも、女性が自分を呼んだ瞬間、明らかにカカシは不満そうな顔を見せた。
 怒るのかもしれない。そう思ったのと、自分の身体が浮いたのは同時だった。
 一瞬何が起こったのか、分からなかった。
 でも、視界が高くなり、気がつけばカカシに抱き上げられていた。担がれている、に近い。腰から上を軽く持ち上げられている。しかし結局持ち上げられた分、バランスを保つ為にカカシの肩に両腕を乗せるような形になり、それがどういう事なのか分からなくて。へ?と間抜けな声を出すイルカに、帰るよ、とそう口にしたカカシはそのまま歩き出した。そこでようやく止まった脳が動き出し、じわじわと状況が飲み込め、イルカは慌てた。
「ちょ、カカシさん!?」
 下ろしてください、と首を捻って言うが、カカシはイルカの太股から腰をつかみ上げている手を離そうとしないし、こっちからじゃ顔は見えない。
 イルカは羞恥に顔が赤くなった。だって、周りは勿論、同僚も、一緒に飲んでいた女性も、そしてアスマも。皆驚いたような、ぽかんとした顔でこっちを見ている。駄目な事をしたのかもしれないが、これはない。
 もう一度、下ろしてください、と暴れてみるが、驚くくらいにびくともしない。改めてどんな筋力をしてるんだと思うが、当たり前だが相手はカカシで上忍だ。そして当たり前だが自分は酔っぱらっている。ろくに手に力も入らない。
 怒ったらどんな顔をするのか、どんな風になるのか、なんて思ったが、まさかこんな事になるんて。こんな姿を見られたら疑われるとかそんな暢気なもんじゃない。バレてしまう。
 予想外過ぎて普段カカシに使っている敬語さえ忘れる。下ろせ、と強めに言うが、やだよ、と直ぐに不機嫌に即答したカカシが、こっちに顔を向けた。
「帰ったら俺がどれだけ怒ってるのか教えてあげるから」
 覚悟してね?
 カカシの静かな視線のその目の奥に、燃え上がるようなものを感じ、ぞくりとした。同時に迂闊に、胸が高鳴る。初めて見たカカシの感情に、表情に、言い返す事も出来ず、イルカは口を結ぶしかなかった。


<終>
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