喧嘩未満②

 日が暮れ始めた頃、イルカは職員室にいた。
 小テストの採点は問題自体の量も少ないから。そこまで時間がかからないと勝手に高を括っていたのに。悲しいかな予想以上に間違いが多くどこを集中的に勉強理解させるべきかとか、ノートに纏めていたら気がついたが半分も進んでいない。
「やべえ、終わらねえ」
 イルカはペン先の反対側で頭をごりごりと掻く。教師になって数年経ちそれなりに経験が積まれようとも、やはり自分はまだまだなんだとこんな時にも実感する。悔しいが仕方がない。
 うーん、と次の答案用紙を捲りながらため息混じりに息を吐いた時、イルカ、と名前を呼ばれた。顔を上げれば同期の教員がそこに立っている。
「お前行かねえの?」
 言われてイルカはまた息を吐き出した。
「いや、行く」
 残業したくとも、タイムオーバーだ。同期に返事をすると、イルカは机の上のものを手早く片づけ机の棚に仕舞う。鞄を取り出すと立ち上がり、職員室の扉付近で待っている同期の元へ足を向けた。
 
 始まって一時間くらいは過ぎているからか、居酒屋に着いた時にはもう既に盛り上がっていた。
 年に数回、中忍上忍の合同の飲み会が催されるが、今回はその日だった。任務で里外にいたり、歩哨の当番でない限りは参加をすることになり、自分もまたその通り、残業があったが飲み会を優先した。
 宴会場になっている部屋に入るなり、既に酒の入った中忍仲間から声がかかる。半強制でも、薄給の中忍からすれば、飲み放題、食べ放題は素直に嬉しいし有り難い。鞄を肩から下ろすと呼ばれた方へイルカは顔を向けた。
 チェーン店でもない、老舗の居酒屋で酒も飯も美味い。それなりに酒が入って満腹になり、イルカはほろ酔い気分で同僚と会話をしながら、視線を上げた。広い座敷の奥の壁側の席に、カカシが座っていた。その席にはカカシを含め上忍が陣取っていて、アスマや紅の顔も見える。カカシは自分が着いた頃にはいなかったから、その後に、任務を終えたまま来たのか。任務がそこまで大変でなかった事に内心安堵しながらも、イルカは行儀悪く縦肘をついた。ビールが入ったグラスを傾ける。
 知らない女と酒を飲んで自分にカカシが嫉妬したのは、つい最近の事だ。
 普段から想像出来ない行動だったが、気持ちを向けたのかカカシからで、自分を好きなんだと、口には出さずともそれが嫌でも伝わって、恥ずかしさより嬉しさが上回った。
 だけど、ーーなんだよ、あれ。
 視線の先にいるカカシにの横にいるくノ一をイルカは見つめた。見たくなくとも、あんなに詰められた距離にいれば嫌でも目に入る。
 カカシは、相手にそこまでしていないのか、しているのか、縦肘をついたカカシの手やまとわりつくくの一に視線が遮られ、この距離では何を話しているのかも分からない。
 ただ、これは合コンでもなく職場の飲み会で。それ以外の何物でもない。相手はカカシからしたら上忍仲間だ。飲み食いするから口布だって下げるのは当たり前で。不快に思わず視線を下げる。カカシの表情や、眼差しやその手甲から伸びる指も、いつも近くで見ているはずなのに、ひどく遠い存在に感じて。虚しさが押し寄せた。
 ただ、こんな事は当たり前に割り切るべきなんだと、自分はカカシとは違うと思いながら、イルカはむかつきを押さえたくてビールを喉に流し込んだ。

 イルカは居酒屋の外でぼんやりと立って黒い空を眺めていた。煙草の煙を口からゆっくりと吐き出す。
 気にしないようにしていても、視界に入れないようにしていても、一回見てしまってからはどうにもならなかった。酒にも、仲間との会話にも集中出来なくて、宴会場から抜け出した。
 頭を冷やせば少しでも落ち着く。そう思って同僚から拝借して日久しぶりに吸った煙草は、思っていた以上に気持ちをすっきりさせてはくれない。仕事に息詰まった時とか気分で時々吸ったりしていたが、職場上、どこでも吸えるわけでもなく、だんだんと吸う本数が減って、結局そこまで吸わなくなって、煙草代が減るから良かったけど。
 ーー久しぶりに煙草を吸えば落ち着くと思ったのに。浮かぶのは馴れ馴れしく自分の腕をカカシの腕に絡めるくノ一で。少しだけ視界に入れただけなのに、頭から離れない。
 気晴らしに選んだ煙草さえ、中々進まない。灰ばかり無駄に落ちていく。指に挟んだ煙草を手持ちぶさたに動かしながら、また深く吸い込み、その煙を吐き出す。
 空に上る煙をぼんやりと見つめた。
(結局、意味なかったな)
 一本吸い終わってもそれ以上吸う気にはなれなかった。
 残った煙草の箱をくしゃりとポケットに突っ込んで、イルカは居酒屋の暖簾をくぐり宴会場に戻る。宴会場の喧噪が襖越しに聞こえる中、廊下を歩いていれば、一番奥の襖が開いた。そこから出てきたのはカカシで。予期してなくて少しだけ驚いた。トイレなのか、もしかして任務の予定が入ったのか。挨拶をすればいいだけなのに、ついさっきの今で愛想よく挨拶をする気にはなれなかった。しかし、それは自分の都合で。ここは職場の飲み会で、恋人同士であろうと上下関係は存在する。それに、喧嘩したわけでも何でもない。自分もカカシと同じ様な嫉妬や不満があるんだと、そんな顔は見せたくなかった。と言うか、意地でも見せたくない。
 カカシが靴を履いて歩き出すと同時に居酒屋の店員が追加された酒を持ってイルカの横を通り過ぎる。襖を開けて中に入った。
 その間にもカカシも歩きだしイルカに近づく。さっきの店員がいつ宴会場から出てきてもおかしくない。だから、会釈して自分もさっさと宴会場に入ってしまいたい。そう思いながら通り過ぎ間際に頭を下げた時、カカシに肩を掴まれる。驚きに顔を上げた時、既に口布を下げたカカシの顔が目の前にあった。え?と思っている間にカカシの唇が自分の唇に重なる。僅かに開いた口から舌が入り込み、イルカの身体が反射的にぴくりと反応した時、唇が離れた。青みがかった目が間近でイルカを見つめる。ぽかんとしているイルカにカカシは口布を戻しながら、
「煙草の味」
 そう口にしたカカシは少し冗談めかした顔でふわりと微笑む。その台詞を聞いた直後、かあ、と顔が熱くなった。思わず自分の唇を手の甲で押さえる。何すんだ、と口を開こうとした時に、襖ががらりと開き、中忍数人と、さっきの店員が一緒に出てきた。
 イルカに気がつき、出てきた中忍が、こっちに声をかけるが、それに反応出来なかった。気がつけばカカシは既にそこにはもうおらず、責める言葉を言いたくとも言えないし、言える状況でもないし。
 ただ、それよりも。許せないのは。
 あんなにイライラしていたのに、カカシのあのキスで募っていた苛立ちが一掃されてしまったと言うこと。
 一瞬の出来事だったのに、カカシの間近で自分を見つめた眼差しや、薄い唇の感触や、入り込んだ舌の艶めかしさがまだ残っていて。そしてそれは、カカシが自分だけにしてくれると知っている。
 悔しくとも くノ一に対しての優越感で一気に憂鬱な気持ちが吹き飛んでいる事実に、
(・・・・・・なんか、狡い)
 目を伏せそう呟き、イルカは顔を赤らめたまま、襖に手をかけた。

 
<終>
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