きっかけ

おかしい。
イルカはトイレで手を洗いながらぼんやりしていた。
思い浮かべているのは。
少し前に自分に起きたものすごい出来事。人生初と言ってもいいくらいに、破壊力のある出来事で、未だに信じられないんだけど。
カカシとつき合う事になった。
あり得ないと何度も打ち消した想いが、まさか通じるなんて。
浮き足立っているのは事実だった。
でも、浮き足立っているのに。
考えるのは。
イルカは視線を手元に落としながら、ひたすらに手を擦り、洗う。
考えるのは、進展がないって事。
そう。キスはした。あの晩だって、カカシから唇を合わせてきて。
”俺はしたい”ーーって。
ぼわ、と顔が一気に熱を持った。高鳴り始めた心臓を抑えたくて、思わず奥歯に力を入れる。
それに、あの時以来、キスさえしてない。
てっきり恋人同士になったんだから、もっとキスも何回もしたり、それに、キス以上の事をするのかと思ってたんだけど。
自分が急ぎすぎているのだろうか。
段階を踏むのは分かっているし、でも自分もカカシもいい大人だから。
そろそろ、って思ってるんだけど。
カカシは一向にそんなそぶりも見せてこない。
いや、俺が気が付いていないだけ?
分からない。
イルカの口からため息が漏れる。
同姓同士は初めてで。カカシが初めてかどうかは知らないけど。
だから、男同士だから。なのだろうか。
イルカははっとした。
こんなもっさい男だから、性の対象としての魅力がないって事なのか。
いやまて、こういう時はどうすべきだったか。
イルカは目を瞑り、必死で頭の中から自分が持っている知識を引きずり出す。
昔たまたま読んだ雑誌には、女性の武器を最大限に使えば、男をその気にさせるとか。書いてあったけど。
(....俺は男で...男相手に男の武器は通用するのか...?)
あれ?
イルカは首を傾げる。
(男の武器って...何だ?)
「イルカ先生、いる?」
「わぎゃっ」
突然トイレの扉が開き、カカシが顔を出し、イルカは跳ね上がった。
慌てて洗面台の蛇口を止め振り返る。
カカシが不思議そうな顔をした。
「なに、どうしたの?」
「カカシさんっ、どうしたんですか。アカデミーまで」
そう、ここはアカデミーの職員用のトイレだから、まさかカカシが顔を出すとは想いも寄らなかった。
あたふたするも、カカシは入ってきて、イルカの手を握る。
「わ、冷たい」
それはその通りで、さっきまでひたすらに手を洗っていたのだ。
手を握られて思わず手を引っ込める。
「すみません、まだ拭いてなくて」
ポケットから取り出したハンカチで手を拭けば、カカシは優しく微笑んだ。
「今日一緒に帰れるかなって職員室の前で待ってたんだけど。トイレ入ったまま中々出てこないから。何かあったのかなって」
カカシの言葉に、ああ、とイルカは曖昧に頷いた。
「大丈夫?お腹でも痛いとか?」
心配そうな表情に変わったカカシを見て、イルカは首を振った。
「いや、全然。ただ、ちょっとぼーっとしちゃってたみたいで」
カカシはそれを聞いて、ニコと笑みを見せた。
「そっか。ならいいんだけどさ」
優しい。
自分に向けられるカカシの優しさに、胸が熱くなり、ときめく。
「ありがとうございます。心配かけてすみません」
「何言ってるの。そんなの別にいいよ。それに、心配するのも恋人の役目でしょ?」
恋人。
じんわりと胸に広がる言葉に、幸せに浸り、ふとカカシを見ると少しだけ耳が赤い。
顔も少し気難しそうな表情になっている気もして、何だろうと思えば、カカシに背を向けられた。
「じゃ、帰ろっか」
背を向けて言われて、イルカは慌てた。
「あ、今日アカデミーの書庫室の整理やってく予定で、」
「そうなんだ」
振り返ったカカシの顔が寂しそうで。
できればカカシと一緒に帰りたい。それでも、今日中だと上司から言われているのでそうもいかない。
折角の誘いに、イルカが内心胸を痛める。
「じゃあさ。俺もいてもいい?」
「え?」
驚きに落としかけていた視線を上げる。
「手伝ったら早く終わるかなって、思って」
イルカは思わず首を横に振っていた。
「でも、さすがにカカシさんにそんな事させる訳にはいかないです」
そんなイルカに、カカシは眉を下げた。
「いや、俺は戦忍だけど雑務が出来ない訳じゃないよ」
「そんな、分かってます。嬉しいですが自分の仕事なので、」
「あのね、そうじゃなくって...」
カカシは銀色の頭をがしがしと掻く。
「....そうすれば一緒に長く居れるでしょ?」
困った顔をしたカカシを前に、ようやく意味が分かったイルカは、数秒後に一気に顔に熱を持った。
一緒に居れる。カカシからそんな言葉が出るとは思ってもみなくて。
「ね?」
言われて、イルカはこくこくと頷いた。
カカシの気持ちに気が付かなく、そこまで言わせるなんて。自分はなんて子供なんだろうか。
二人で書庫まで歩きながら、恥ずかしさと申し訳なさで黙りこくっているイルカに、カカシは背を猫背にしながらイルカを横からのぞき込んだ。
「なんか怒ってるの?」
聞かれてまたイルカは首を大きく横に振った。
「んなことありませんっ。でも、手伝ってもらえるなんて、なんか申し訳なくって」
「まだ言ってるの?気にしないでよ。俺は二人きりになれるの嬉しいんだから」
「ああ、そうですよね」
はは、と笑って答えて。
はっとする。
二人きり。
俺は二人きりになれるのが嬉しいんだから。
カカシの言った言葉に、表情隠しながらその言葉を反芻する。
それって。もしかして。
(もしかして、カカシさん...ついにその気になったって言うことかーーー!?)
ふっと頭に浮かんだ結論に、気持ちが一気に高揚し始める。
なんかもう寒いよねー、なんて言うカカシの言葉に、そうですねー、と、応えてみながらも、イルカの頭は真っ白になっていた。


「イルカ先生、一番奥だよね?」
「あ、はい。一番奥の棚の一番上のファイルです」
「はーい」
カカシの間延びした返事が奥から聞こえる。
机で整理した書類を、カカシが手際よくファイルに納め、棚に戻していく。
(あれ?)
手を動かしながらイルカは首を傾げる。
手伝ってくれたおかげで、もうすぐ整理すべきものが終わりそうだ。
ってことはこれで晴れてカカシと一緒に帰れるんだから、いいんだけど。
(ーー普通に書庫の整理だけで終わってしまう)
そう。何事もなく。
期待していたのは自分だけって事で。
イルカは内心焦りを感じる。
だって、二人きりになれるのが嬉しいって言ってくれたから、てっきり自分はその気で。
(....情けない...)
一気に落ち込み始める気持ちに、思わず整理する手も止まりそうになる。
だけど、自分からキスしたいとか言ったら駄目な気もするし。言って、もしカカシがそんな気持ちじゃなかったら、きっと、カカシを困らせる事になるだそうし。
それに。一生懸命手伝ってくれているカカシに対して、自分はなんて無粋なんだ。
もんもんと、変な期待している自分がなんて醜い。
「先生、終わったよ」
「あ、はいっ。ありがとうございます!」
奥の棚から姿を見せたカカシに、イルカは顔を上げて、笑顔を無理に浮かべた。
カカシはイルカの横の椅子に腰を下ろし、イルカの手元の書類の束へ目を向けた。
「あとはこれだけ?」
「はい。もうこれだけです」
その言葉にカカシは嬉しそうな顔を見せる。
「じゃあもうこれで帰れるね」
「はい」
イルカも同じように笑顔で返してみるが。
もやもやした気持ちが心の中で渦巻いていた。それを必死で隠し、手を動かす。
仕方ないし。
これでいいんだけど。
でも、やっぱり悔しい。
せっかく二人きりなのに。
でも、これじゃ本当に書庫整理が終わってしまう。
ーー出来れば。
どうにかして、カカシをその気にさせたい。
ちょっとくらいそんな事思ったっていいはずだ。
(えーっと、えーっと。こういう時は、)
手を動かしながらも、考える。経験もほとんどなく、知識も浅い自分が持っている引き出しは少ない。
またしても昔読んだ雑誌を記憶からたぐり寄せーー。
男性がドキッとする仕草の特集を載せたページが浮かんだ。
ちらっと見える脚、腕をまくった白い肌。
(って、自分忍服だよっ)
こんな筋肉ついた脚なんか見たくないだろうし。腕だって。日焼けして十分黒い。どちらかと言えばカカシの方が白くて綺麗な肌だ。
(後は、他に何があったっけ)
髪をかきあげる仕草がいいって書いてあった。
そこまで考えて、手を首もとに持っていって見るが。
(俺もともと髪しばってるっての...)
下ろしてたら、それはそれでぼさぼさで見苦しいだけだから、あり得ない。
どれにも当てはまらない現実にイルカは顔を青くする。
(無理だ...もう無理だ....。誘惑とかハードル高すぎる。経験値ゼロなのに出来る訳がない)
「あ、終わった?」
手が止まったイルカに、カカシは嬉しそうに聞く。
イルカは笑顔も力なく頷いた。
「はい、もう」
「じゃあ、帰ろ?」
立ち上がるカカシに、その姿を目で追う。あの銀色の髪に触れてみたいし、カカシのあの長い指に触れたい。それに、もう一度、あの口布の下にある唇に触れたいのに。
「ーーー?どうしたの、イルカ先生」
椅子に座ったままカカシを見上げて動かないイルカに気が付き、軽く首を傾げた。
少しだけ眉を下げて、悲しそうに見える目を、カカシは不思議そうに見つめる。
「帰ろ?」
促すように優しい微笑みでそう言い、背を向けられて、イルカは思わず立ち上がりカカシの腕を掴んでいた。
カカシは振り返り、その掴まれた腕を見る。
「なに、どうし、」
「あのっ、もう少しいませんか?」
そこから二人沈黙が流れる。
カカシが口を開いた。
「えっと、...少しって、ここに?...まだ仕事残ってた?」
イルカは返答に困る。思わず唇を噛んだ。
「いや、仕事はもうないですが、違って、」
イルカはカカシの視線に耐えれなくなり、床に視線を落としながらも、カカシを掴んでいた指先に力を入れた。
顔を上げる。
「もし、...俺が、もう一回キスしたいって言ったら、そしたら、...カカシさん、困りますか?」



「ーーん、」
鼻にかかった声がイルカから漏れる。
イルカが掴んでいた腕をカカシが引っ張って立たせられ、急な事で驚き、声を上げる間もなく、顔を近づけたカカシに口を塞がれ、口布を引き下ろしていたと気が付いたのは、その時だった。
カカシの唇がくっついては離れ、そのたびに、ちゅ、ちゅ、と音が耳に聞こえてイルカは身体の奥が熱くなるのを感じた。
カカシの薄くて柔らかい唇の感触と、キスの合間に感じるカカシの吐息が熱くて、それが心地よくて。
ーーでも。
(...前より、長い...)
キスをされながら、ぼんやり思った。
前は2、3回だけ唇に触れて終わりだった。でも今日はーー。
(もしかして、カカシさん...やっと、その気になってくれたのかな...俺なんかじゃそんな気持ちにならないと思ってたから...)
だから、嬉しい。
「先生」
唇が離れた時に、カカシが名前を囁く。イルカは閉じていた目をゆっくり開けた。
青い目が間近で自分を見つめている。
カカシの手がイルカの額当てにかかった。そこから額当てを外され、横にあるテーブルに落とされる。
「ね、先生...口、開けて?」
(...口...?)
言いながらカカシの親指がイルカの唇を開けるように触れた。
どういう意味があるのか、ぼーっとした頭のまま、素直に口を開く。
その様を見つめながら、カカシは頬を赤くしながら眉根を寄せた。
「先に言っておくけど。先生が悪いんだからね...人の気も知らないで」
「...え、なにが、ん、」
聞き返す間もなくカカシによって唇が塞がれる。のもつかの間。イルカは口内にぬるりと侵入してきた舌に目を開いた。
蠢くのがカカシの舌だと頭で分かっていても、初めての経験に、一気に心拍が上がり、身体に熱を持つ。カカシの腕をぎゅっと掴んだ。イルカは顎を引いて唇を離す。
「ま、待ってくださ、なんかさっきとちが...っ」
「待たない」
「...っ、え、」
直ぐに顔を両手で包むようにして、顔を固定され、唇を再び塞がれた。
入り込んだ舌が、難なく縮こまっているイルカの舌を捕まえる。イルカの身体がビクリと跳ね上がった。
熱い唾液と舌がイルカの舌に絡まり、どうしたらいいのか分からないイルカを追いつめるようにカカシは貪るキスを続ける。
(...舌...カカシさんの舌が...)
思考が溶けて、頭が真っ白になり、イルカの目尻に自然に涙が浮かんだ。
「...ふ、....ん....」
漏れる自分の声が恥ずかしいのに、力が入らない。
膝ががくがくとし、思わずしゃがみそうになり唇が離れた瞬間、カカシが背中に腕を回し、イルカを支えた。
「....イルカ先生....大丈夫?」
そう問われても、その言葉が遠くに聞こえるくらいに、放心状態で。
(今のは...なんだ?)
「イルカ先生?」
涎も涙も垂れてるよ?
そう言われて目の際の涙を指の腹で拭われ、我に返る。
イルカは慌てて机の脇に置いておった鞄を手にした。
「えっと、....もう、帰りましょうか!」
「え?イルカ先生、ちょっと。ちょっと待って」
急に動きだし、鞄を持ってドアに向かおうとするイルカに、カカシはその手を掴んだ。
「それはないでしょ?」
「え、何が、」
カカシは動揺するイルカに身体を近づけると、イルカもまた一歩後ろに下がった。
「だって、そうでしょ?あんな言葉で煽ったくせに、いきなり帰るって、」
「あ、煽ってなんかないですし、それに、...あんな事するなんて俺は聞いてないですっ」
「だから、言ったでしょ?」
壁まで追いつめられたイルカに、カカシがぐいと近づく。
「イルカ先生が悪いって」
「...あ....でも、」
困った表情のイルカを見て、カカシはその目をじっと見つめた。
「やっぱり、ああいうのは...イヤだった?」
条件反射のように、イルカは首を横に振った。
「イヤでは...ないです。ただ...本当にびっくりして」
その言葉に、カカシが安堵した表情を見せた。
「じゃあ、いいでしょ?」
再びキスされそうになり、イルカは後頭部を壁につけたまま、ぐっと唇を噛む。
「また、さっきのするんですか...?」
「そりゃ、しますよ。って言うか、したいんだけど...駄目?」
自分が今まで欲していたのに。まさかこんなにカカシが積極的になるなんて。この先がどうなっていくのか、分からなさすぎて不安もあるけど。
(...でも...せっかくカカシさんがその気になってくれたんだ...)
嬉しさで胸がじんとする。噛んでいた唇をゆっくりと開く。
「だ...駄目じゃないです」
言いながら、イルカはゆっくりと手を伸ばし、カカシの頬に触れる。白い肌がいつも以上に赤く染まり、暖かいその頬を指でゆっくりと、擦る。カカシがピクリと反応した。
「でも俺...こういうのどうしたらいいのか分からないんで...」
そこから、イルカはもう片方の手も伸ばし、カカシの髪に触れる。思ったよりも柔らかい銀色の髪。潤んだ黒い目でじっとカカシを見つめる。
顔を赤くさせながら自分見つめるイルカに、カカシは思わずゴクリと喉を鳴らした。
「だから...じょうずに出来なかったら...すみません...」
頬を火照らせながら言われたセリフに、カカシの理性が切れたのは、直ぐだった。


<終>
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