きらきら

 久しぶりの寝坊にイルカは走っていた。肩に下げた鞄の中に入っている持ち帰ったテスト類がことのほか重いが、今はそんな事は言ってられない。近道をしようといつもとは違う道を走っていた時、見慣れた二人の後ろ姿に、イルカは、あ、と心の中で思わず呟いた。足を緩める。
「アスマさん、おはようございます」
 イルカの声に煙草を咥えたままのアスマが振り返った。よお、と返事が戻ってくる。そこから両手をポケットに入れたまま隣に立っているカカシへ、視線を向けた。
「おはようございます」
 軽く頭を下げるイルカに、いつもの眠そうなカカシの目がこちらに向けられる。
「おはよ」
 僅かだが口布の下で微笑んだのが分かった。それだけなのに、変に反応しそうになりそうで、イルカは唇をぐっと閉じると、もういちどぺこりと頭を下げる。イルカはまたそこからアカデミーへ向かって走り出した。
 走りながら。ついさっきカカシと挨拶を交わした短いやりとりを思い浮かべ、思わず頬が緩くなりそうになる。そんな自分の反応が自分でも複雑で、どうしたらいいのか分からない。
 あれだけの事ですげー嬉しいとか、絶対おかしいと思うのに。やはり嬉しいのは事実で。
 正直、こんな自分に戸惑っていた。
 中忍選抜試験の後、カカシとの溝が当たり前だが深まった。元々そこまで繋がりなんてなかったし、初対面の時でさえ、自分とは合わないと思っていたから、割り切って気にしないようにしていた。でも、苦手意識が強くなってしまったのは確かで。
 きっかけは生徒だった。
 嫌いな相手ほどちゃんと挨拶をしろ。そう子供に説きながら、浮かんだのはカカシだった。そして心に引っかかった。
 自分は苦手なだけで嫌いだとは思っていない。それに間違っていたのは自分だ。このまま背を向けたままなのは良くないと、分かっていた。だから、挨拶を自分からするように心がけた。
 気持ちを切り替えた後、初めてカカシに挨拶をした時の事は忘れられない。あの時もそう早い時間ではなかったが、朝カカシを見かけた。いつもは会釈をする程度だった。おはようございます、と思った以上に大きな声が出てしまったのは緊張したからで。カカシは、その挨拶に少しだけ驚いた顔をした後、緊張に少しだけ頬を赤らめたイルカを見つめ返し、どーも、と答えた。
 それだけだったのだが。カカシが立ち去った後、緊張が緩んだからなのか、心臓がとくとくと鳴って、それが心地良かったのを覚えている。
 そこから積極的に挨拶をするようになって、そして今はーー。
 おはよ。
 カカシは自分を見て微笑んだ。涼しげな目元を少しだけ緩めて。露わな青い目を自分に向けた。
 イルカはアカデミーの校門前で走っていた足を止めた。困ったように眉を寄せる。
 ーーそう困っている。
 それは、自分の事なのに、いつからか分からないが。カカシを意識してしまっている、と言う事実。
 そう再認識しただけで、少しだけイルカの頬が赤くなった。
 苦手だったから克服しようと思っただけなのに。何でこうなったのか。
 ただ、関係と言える関係は元々なかったものの、それなりに修復出来たのは良かったのだから、いいと言えばいいのだが。
 そこでチャイムが鳴り出す。やべ、口に出したイルカは、そこから職員室に向かってまた走り出した。
 
 別に少女漫画のように、何かカカシに好意を持つきっかけがあったわけではない。ただ、挨拶をして、時々天気など差し障りのない会話をする。それだけだ。
 でも、確実にカカシの自分に対する態度が変わってきたのは明らかだった。それは、他の中忍や上忍仲間にする態度と変わらないはずで、特別なものは一切ないと分かっている。要は、自分が問題なのだ。少女漫画のごとくカカシの全てがキラキラしたものに感じて。
 カカシはナルト達の上忍師で尊敬している忍なのに、何でここまで意識してしまっているのか。
 そしてあろうことか、朝からカカシの顔を見れて、挨拶出来てラッキーなんて思っている。
(しっかりしろ、俺)
 気持ちを切り替える為に、イルカは授業の準備に取りかかった。

 昼、イルカは商店街にいた。昼休憩ではない。火影に頼まれた品を取りに店へ足を運んでいた。巻物と墨や紙など、買ったものを袋に下げている。
 昼前までに自分の用事を済ませてしまおうと、執務室へ顔を出したのだが、タイミングが悪かった。とにかくさっさと済ませて職員室へ戻り昼飯を食べたい。イルカはポケットからメモ用紙を取り出す。
「あとは・・・・・・」
 来客用の茶菓子だと頼まれた、甘美堂の大福と栗饅頭。その種類と数を確認する為メモ用紙に目を落とした時、目の前の人影に気が付きイルカは慌てて足を止めた。
「すみませ、」
 ぶつかりそうになった事を謝ろうと顔を下げ、顔を上げ、そこで言葉を止める。
 カカシが立っていた。
「ああ、イルカ先生」
 カカシは動じることはなく、イルカの顔を見てにこりを微笑む。その笑顔を受け、イルカも慌てて、お疲れさまです、と頭を下げた。
「何?買い物?」
 手に荷物を下げたイルカの姿を見て、カカシが尋ねる。こんな風にカカシから声をかけてくる様になったのは、かなり大きな進歩だ。少し前だったら考えられない。だってこんな親しげに微笑んでくれる。と、そこまで思って、いや、違う、とイルカは内心首を横に振る。進歩とか、そういうのは関係ないし。心で自分に否定して笑顔を作った。
「はい、これは火影様の使いで、」
 そこまで言い掛けて。ぐうぅぅぅぅぅ、と聞こえた。それは、間違いようもなく、自分の空腹による腹の音で。カカシにも絶対にはっきり聞こえるような大きな音で。
「先生もしかして昼まだだった、」
 そうカカシが声をかけたのと、自分の顔が真っ赤になったのは同じタイミングだった。
 カカシが言い掛けたまま、こっちを見て言葉を止めた。それが何でなのか分からないが、火が出そうなくらいに顔が熱い。そんな事よりこんなタイミングでまさかカカシに腹の音を聞かれてしまった事で頭が真っ白になっていて。
「し、失礼します!」
 笑われるのが嫌で、その場から逃げるように立ち去った。

 最悪だった。
 カカシはどんな風に思っただろうか。
 目の前で中忍の腹が鳴った、ただそれだけの事でどうも思ってはいないだろうが。
 でも、あれはやっぱりない。
 なんでよりよってカカシの前で、あんな失態。
 落ち込んだイルカに、火影がどうかしたのか、と尋ねるが、それはもうどうでも良かった。
 職員室に帰り自分の作った弁当を広げ、昨夜の夕飯の残りの唐揚げを食べながら。出るのはため息ばかりだった。

 少し前もそうだった。数日前、たまたまカカシにばったりと商店街で会った。それは仕事上がりで、夕時の買い物客で賑わう中、カカシの銀色の髪はイルカの目に入り、すぐにカカシだと気が付く。商店街でカカシを見かけることはあまりなかった。しかもこんな時間に。自分と同じようにタイムセールの食材を買いに来ているわけではい事くらい分かるが、話しかけようか、迷った。
 迷ったが、その後ろ姿を見つけたら声をかけたくなって、早足でカカシに近づき、お疲れさまです、そう声をかけて、しまった、と思ったのは。一緒に女性を連れていたから。人混みで、カカシの連れではないと勘違いしていた。カカシと一緒に振り向いた女性はくノ一でたぶん上忍で、そして綺麗だった。こんな早い時間にここを歩いているのは、この先にある飲食店外へ二人で行こうとしていたから。
 それに気が付かず声をかけた自分の間抜けさに後悔するが、遅い。
「イルカ先生。先生も、今帰り?」
 振り向いたカカシに視線をこちら向けられて、何故か買ったスーパーの食材を後ろに隠していた。同じ商店街にいるのに、買い物をしている客はいくらでもいるのに、それを何故か見られたくないと思ってしまった。
 そんな自分の心境にも自分自身、混乱する。イルカは無理に笑顔を作った。
「あの、……すみません」
 思わず謝ったイルカにカカシは不思議そうな顔をした。え?と聞き返すカカシに頭を下げ、じゃあ、また、と笑顔を浮かべたイルカは背を向けずんずんと歩き出す。そこからアパートに着くまで、そこまで重くない食材が重く感じたのは気のせいでなかった。
 
 思い出したくない事を思い出しながら、梅干しが入ったおにぎりを頬張る。うーん、と唸りながら、イルカはもぐもぐと口を動かした。
 あれはないよなあ。そりゃあカカシさんもあんな顔をするわ。おかしいのは自分だ。
 普通にしようと思えば思うほど、意識しないようにしようとすればするほどに、墓穴を掘ってしまっている気がする。
 冷静になって考えてみれば、そそくさとその場を離れただけで、そこまでカカシが気に留める事はしていないかもしれないし。
 咀嚼したおにぎりと飲み込んで、お茶を飲みながら、カカシが連れていた女性を思い出した。カカシと丁度良い身長差で、はっきりとは見ていないが、目鼻立ちがはっきりとしていて、綺麗な人だった。細身でスタイルも良かった。
 まあ、何というか、お似合いだった。
 きっとカカシが好んで選ぶ女性はあんなタイプなのだろう。
 何とも言えない気持ちに包まれ、イルカは思わず箸を止めた。あんなにお腹が空いていたのに。自分があれこれ考えている事自体馬鹿らしく思えて、食べかけの自分の弁当をイルカはぼんやりと眺めた。


 翌日、イルカは定食屋にいた。こうしてたまには昼も外食をするのはいい気分転換になる。
 込み合った店内でイルカは焼き肉定食を食べていた。良く噛まないといけないのは分かっているが、イルカは焼き肉を頬張り白飯を茶碗から掻っ込む。と、空いていた自分の前の席に誰かが座り、焼き魚定食が置かれる。込み合っている時は相席はよくある事だった。
 ふと顔を上げて顔を確認し、イルカは茶碗を持ったまま目を丸くした。
 カカシがそこに座っていた。箸を止めて驚いた顔を見せるイルカに、カカシはにこりと微笑む。
「ここ、いい?」
 改めて言われ、そこでようやくイルカの止まっていた思考が動き出す。はい、と首を縦に振った。
 どこかで、報告所や執務室のある建物で話しかけられる事はあったが、こんな場所で、カカシが声をかけてくるのは初めてで。しかもこの定食屋でカカシを見るのは初めてだった。大規模な飲み会で一緒になった事はあるが、こんな形で二人きりになることはなくて。
「ここの定食、美味いよね」
 なんだか信じられなくて、カカシを見ながらもそもそと食べ始めるイルカに、カカシは箸を持ちながらそう口にする。ええ、とイルカは返した。
 一体どうしたのだろうか。ご飯を食べながらも、疑問は消えない。純粋にここの定食を食べに来て、たまたまここが空いてただけだと、そう思いたい。そこまで思って、口布を顎まで下げて普通に食べ始めるカカシから慌てて視線を下げた。
 でも、向こうは何とも思って無くとも、これ以上気まずい空気は避けたい。
「あの、昨日は、」
 勇気を出して顔を上げ、言い掛ければカカシに、あのさ、とかぶせられ、イルカは言葉を止めた。はい、と素直に返事をする。
 思った以上に端正な顔立ちを晒し、イルカと同じように白飯を食べながら、青い目をイルカに向ける。
「俺たち、つき合う?」
 ざわめく店内で、カカシがさらりと口にした言葉に、イルカは瞬きをした。
 もしカカシからこう事言われたら、こう返そう、とか予想していた台詞ではないから、頭の中が吹っ飛んだのは言うまでもない。
 そして、その言葉が想像以上なものである事は確かで。
 何が何だか分からなくなって、信じられなくて、白い頬を赤く染めたカカシをじっと見つめれば、
「俺の勘違いじゃなかったら、なんだけど」
と付け加えられ、イルカもまた頬がじわじわと赤くなる。
 そして自分が戸惑いながらも晒してしまった気持ちをカカシが気がついてくれたのだと分かり、イルカの胸に迫った。
 あの女性は彼女じゃないんですか?とか、他にも候補の女性がいるんですよね?、とか思うのに。それは今考えたくないと頭の隅に引っ込める。そして元より断る理由はない。
「はいっ」
 勢いよく出た言葉に、カカシは頬を赤く染めたままイルカを見つめ、自分と同じように箸を茶碗を持ったまま恥ずかしそうにうん、と頷いた。


<終>