きっと欲しくなる

最近不運続きだとは思ってた。
でもまあ人間生きてれば山あり谷ありで、不運もあれば幸運だってある、はずなのに。
ーーこれはねえだろ。

執務室。ソファに座っているイルカの表情は、暗い。
窓から見える空は天気も清々しいほど晴天で、鳥のさえずりも聞こえる。
そこから視線を外して、両手を広げて自分の手のひらを見つめた。
嘆息が漏れる。
「待たせたね」
入ってきたのは綱手だった。
いつものように大股で入ってきた綱手は、反射的に立ち上がり姿勢を正したイルカをジッと見つめた。
そこから、興味も対してなさそうな目で上から下までイルカを眺め、なるほどねえ、と小さく呟いた。
「治りますか?」
そこから何も言わない綱手に、イルカはつい口を開いていた。
綱手の目に映っているのは、イルカだがイルカではない。
胸も膨らみ、華奢な体つきをしている。
要は、女体化していた。
したのではく、されてしまった、のが正しい。
確かに、イルカは女体化して任務についていた。任務ではよくある事だ。だが、そのまま戦闘状況になり、イルカも後方でサポート役にまわった。が、その交戦の最中、攻撃を受けた。命に別状もなく怪我もなかった。
でも、変化の術が解けない事に気が付いたのは、ここの木の葉病院で診察を受けていた時だった。
怪我はないが念のため、と担当医に診てもらう為に変化を解こうとした。でも、何回印を組んでも解けない。他の医療忍術者に試してもらっても解けない。
そこで、綱手に直接診てもらう事になった。

「複雑だね」
綱手はそう言うと、そこで初めて難しそうな顔をした。
そこからイルカに近づき、手を取る。直ぐに綱手の眉間に皺が寄った。
「チャクラの質まで変えられてるじゃないか」
「チャクラの...質まで?」
オウム返しをするイルカに綱手は答えない。代わりに視線を向けられる。
「大方後方支援の敵を戦闘不能にするための何かの術だったんだろうがな」
面白いな。続けられた思っても見ない台詞にイルカは驚くも、綱手は手を離す。
「それだけだよ。兎も角、怪我がなくてよかったじゃないか」
あっけらかんとした口調だった。問題ないと言われて一瞬ほっとするが。
「あのっ、戻れますよね?」
慌てて聞くイルカにまたすぐに返答はない。
再び女体化したイルカの全体を眺めた。
「はっきりとは分からないがな、たぶん1週間もすれば術は自動的に解けるよ」
心配するなと笑う綱手と一緒に笑えるはずがない。
なんとも楽観的な答えと言い方にイルカは不安を覚える。それが顔に出たのか、綱手は不敵な笑みを浮かべた。
「いいじゃないか。1週間くらい」
「でも、仕事もありますし」
「女でも問題ないだろう」
「いや、しかしですね」
「あーもう面倒くさいね。じゃあその間休暇にしてやるから。それでいいだろう」
ぞんざいな綱手の態度にますますイルカは慌てた。特にこれ以上の問題はなかったから確かにその通りだが。
出来るならこの姿から元に戻りたかった。
任務で失敗してこんな姿になったなんて。情けなさすぎる。
「失礼します」
そんな状況の最中、扉の外から声がかかる。大した事じゃないと判断されているからか、入りな、と了承する綱手の言葉にイルカはぎょっとするも、執務室の扉が開いた。
同時にイルカの身が固くなる。
はたけカカシが入ってきたからだ。
ナルトの担任になった上忍師。いや、いまは元、になるのだろうか。
面識は勿論あったが。挨拶や報告書の受け渡しで簡単な会話をする程度で。
緊張に身を固くしているイルカを余所にカカシは執務室に入ると、当たり前だがイルカの存在に気が付く。露わな右目がちらとイルカを見た。それだけで構えるように息を詰めた。
その視線を避けるようにイルカはぎこちなく頭を下げる。
カカシもそれに軽く応えて会釈をするも、そこからすぐに視線は綱手に戻った。
ーー気が付いていない。
チャクラの質が変わってると言う事だからだろう。カカシは対して反応は見せない。
それに内心ほっとする。
こんな格好、誰にも見られたくないが。
カカシに見られるのは自分の中で嫌だとはっきり感じた。
「これ、訂正したやつです」
イルカを余所に、カカシは綱手に報告書を渡した。
綱手は渡された書類に目を落として、軽く頷く。
それにカカシは容認されたと判断したのか、カカシは早々にくるりと背を向けた。
「カカシ」
綱手の声が彼の足を止める。
「まだ何か」
振り返るカカシに、綱手は机に腕を置いて顔を上げる。
「お前はしばらく待機だったね」
「...そうですけど」
「じゃあ今度の任務はそこの中忍も一緒にお願いするよ」
自分を指さして言う綱手に目を剥いた。
突然の展開にイルカは口をぽかんと開けた。しかし聞き間違いではない。
「いやっ、でもっ」
「は?」
それは困るとイルカが言い掛けるのと同時に、カカシも聞き返していた。
綱手はカカシに視線を向けたまま。
「ちょっと事情があってね。そいつの面倒もみてもらえるか」
意味が分からないとばかりにカカシは首を傾げた。
「ちょっと待ってください。上忍じゃない相手と組んでこなせる任務にしろって事ですか」
「まあそうなるだろうね」
そう問いかけるカカシに、綱手は机に山のように積まれている書類をめくりながら言い、
「これだこれ。丁度いいのがあったよ」
書類の束から一枚探し出すと、机の上に置いた。
「夜間の歩怪」
その綱手の一言に、カカシがため息に近い息を吐き出したのが聞こえた。
「ちょうどここの人手が足らないと下から申し出があったばかりだ」
人手不足はどこも同じだとイルカは重々分かっている。その言葉にイルカは渋い顔を作った。
「俺がやるはずの任務はどうするんです」
苛立った声をカカシが出した。
「代わりは他にもいる」
きっぱりと言い切られカカシは黙り込んだ。
綱手は書類を指で叩く。
仕方がなくイルカもカカシも綱手の机に近づきその書類を覗くように見た。
確認するまでもない。綱手の言った通り、木の葉の里を囲む外壁の上からの見張り。
それを何でカカシと。
心中複雑になるのはカカシも同じらしく。
黙って複雑な表情を浮かべていた。いや、不機嫌な顔、の方が近い。いつもそこまで表情を露わにしないカカシの珍しい顔に、イルカは横目で窺った。
「こんなの。任務じゃないじゃないですか」
当たり前にカカシから不満の声があがった。
「そう言うな。歩哨は重要な業務だろう」
違うか?、と問われてカカシはまた黙り込む。
単純な仕事内容だが、綱手の言うように重要であるのには違いない。
基本、歩哨のレベルを見れば強さが分かるとも言われているからだ。それはカカシも分かっている。
「しかし、綱手様、」
イルカが口を開いたが、厳しい目が自分を見た。
「休暇も通常業務も嫌だと駄々をこねたのはお前だろう。何が文句あるんだい」
「....いえ何も…」
ぐっと言葉を飲み込むようにイルカは声を尻つぼみにさせた。
「俺は関係ないでしょ?」
その一言に厳しい視線はカカシに動く。
「大ありだ。任務任務で息抜きってのをお前は知らないみたいだからね」
そこまで言うと綱手は書類の束を手に取り目を落とす。
「出てっていいよ」
話は終わったと、そこで話を無理矢理に打ち切られる。
それ以上何も言えるわけもなく。カカシも不満を言いたそうにしていたが、強制的に打ち切られたのだから仕方がない。
イルカはカカシと共に執務室を出る事になった。

執務室を追い出される形になった二人は、廊下を歩いていた。イルカはカカシの少し後をとぼとぼ歩く。
カカシの手には先ほど綱手から押しつけられた任務の書類がある。
その紙をひらひらさせながら、分かりやすいくらいにカカシがため息を吐き出した。
ちらとカカシを見ると案の定こっちを見ている。イルカは慌てて視線を外した。
気まずい。
気まず過ぎる。
綱手の通常業務以外の任務に就かせると言うのには理解出来るが。何でカカシを一緒にしたのだろうか。
しかし、綱手の言ったように自分は怪我もなく他に問題はないのだ。素直に従う他はない。
こんな状況になりたくなかった。
だってなんかこの人苦手なんだよな、俺。
再びカカシから漏れたため息に気まずさが募る。
何でこの人と一緒なんだ。ため息をつきたいのはこっちの方だ。
忌々しい気持ちでカカシの背中を見るも。
カカシもまた状況がつかめていないまま、よく知らない女体化した自分とランクの低い任務を押しつけられているのだ。たまたま執務室に来たばかりに。
そう思うと、結局全部自分が悪いのか。
建物から出た所で、カカシが立ち止まりイルカに振り返った。
「あんた何やったの」
「え?」
「あの人の言い方からしてさ、こんな事になったのはどうもあんたに原因があるみたいじゃない」
「...すみません」
原因と言われても。綱手が特に自分をイルカだと言わなかったのだからそれに合わせるしかないだろうし。
カカシを前に、とてもじゃないけど正直に言えっこない。口に出せたのはそんな言葉だけだった。
それ以上何も言えずに口を濁すイルカを眺めて、カカシはまた息を吐き出した。
嫌味がカカシの口から出るかと構える。
が、
「なるほど。言いたくないのね。じゃあいいや」
諦めたような顔でそう言うと、がしがしと銀色の頭を掻いた。持っていた紙をイルカに差し出す。
「まだ時間あるけど、どうする?」
「え、どうするって、…家に帰って用意とか...」
「却下。歩哨に今以上の準備は必要ないでしょ」
う。
言葉を詰まらせるも、その通りで。
「じゃあ...どうしましょう」
逆に聞き返せば、困った顔をされる。
「んー、そうね。ご飯まだなら食べるとか、」
「え?いや、いいです」
首を振るとカカシはムッとした。
「しょーがないじゃない。俺あんたのお守り頼まれちゃったんだから」
お守りって。
こっちだってそんな事は頼みたくないと言いたいが、やはり何も言えっこない。
「...じゃあ、ご飯で」
しぶしぶイルカは頷くしかなかった。同時にぐう、と腹が鳴る。
自分の腹の音に、イルカは慌てた。
「お、...あ、わ、私まだお昼まだなんです」
思わず自分が女だと言う事を忘れそうになる。どもって苦笑いするイルカに眠そうな目が向けられた。
変に疑われないかとどきどきするイルカに、カカシは、
「じゃあ決まりね」
とだけ答えた。

ラーメン店に二人はいた。
カカシがここなんかどう?と指差された店は鰻屋。年に1回行くか行かないかくらいの店だ。店から漂ういい匂いに思わずごくりと喉を鳴らすと、
「ここでいいよね」
「あーーっ、あの、」
と、暖簾をくぐろうとしたカカシの腕をイルカは掴んでいた。こんな高い店に今の自分の財布事情からしたら到底無理だ。給料日だってまだ少し先なのに。
「なに」
止められカカシは不機嫌そうな顔を向けた。
「ら、ラーメンなんてどうです?」
「ラーメン?」
聞き返されイルカは頷いた。
「ちょうどラーメン食べたいなあって思ってて」
「なんで、いいでしょここで」
不思議そうな顔をして、それからカカシは、ああ、と呟いた。
「俺奢るから別に心配しなくていいよ」
女の子に出させるような男に見える?
図星の台詞はイルカを赤面させた。
しかも。
俺は見た目はそうでも女の子なんかじゃないんだよ。
いつもの意地がぶわっと湧き上がる。
「自分の分は自分で払います!だからラーメン!」
強気に言い切ると、カカシは目を丸くしたあと、ふっと微笑んだ。
「な、なんですか」
笑われて嫌な気分になり口を尖らせる。
目を細めたカカシは口元に手を当てながらイルカを見た。
「いいね。そういうの」
恥ずかしさに頬が熱くなる。
「子供みたい」
付け加えられてむかっとするが、カカシは気にする様子もなく、じゃあ行くよ、と歩き出した。
「俺、味噌ね。あんたは?」
カウンターに座って店主に注文をしながら聞かれ、
「味噌。チャーシュー大盛りで」
はっきりと言うと、店主が、はいよ、大盛りね、と復唱する。
隣でへえ~、と感心するような声が聞え、カカシに顔を向ける。
「本当にお腹が空いてるんだ」
くすくす笑いを漏らされ、その笑い方にカチンとくる。イルカは睨んだ。
「...いいじゃないですか」
「いやいいよ、別に。ただね、なんか俺の前の部下見てるみたいでね」
可笑しそうに笑うカカシの言う部下は、勿論一人しかいない。
(俺はナルトかっ)
心の中で突っ込んで、ぶすっとした顔のままカカシから顔をそむけた。
「たくさん食べるのは元気な証拠です」
ナルトのいい所の一つはそこで、いつも隣で美味しそうに食べるナルトを思い浮かべた。
「でもねえ」
と、その声に、イルカはまたカカシへ顔を向ける。
「肉とか糖質とか、そんなんばっかだったんだよね。あ、俺の部下の話しね。もっとバランスよく食べる事が大事なんだけどね~」
って言ってもあれはちゃんと聞いてるのか聞いてないのか分かんなかったけど。
笑うカカシに、内心驚く。
そんな事、興味ないのかとばかり思った。
この人が上忍師になった当初は。アイツらから聞くのは、やらしい本読んでばっか、とか遅刻して待たされたとか。
正直耳を疑う事ばっかりで。
それに、中忍試験のいざこざで、俺とは違う考えだとばかり。いや、あの件は確かに俺が甘かったと認識してるけど。
直接。こうしてこの人の口からアイツらの事を聞くのは久しぶりだ。
それだけでそこまで大して時は経っていないのに。ふっと懐かしいような気持ちと、不安な気持ちが入り混じる。
だって。自分は毎日の忙しさに追われて、考える暇さえなかった。
考えないようにしている、が正しいのかもしれない。
考えに浸っていると、注文していたラーメンが置かれる。その味噌の匂いに空腹中枢が簡単に刺激され思考は中断される。
「いただきますっ」
イルカは丁寧に手を合わせると、勢いよく食べ始めた。
食べ終わって満腹になってホッとして。グラスの水を飲む。
「通常業務って、何してるの」
カカシの問いかけにイルカは顔を上げ、口の中の水をごくりと飲みこんだ。
「あまり見ない顔だから」
言われてイルカは視線を泳がせそうになり、誤魔化すように微笑んだ。
「アカデミーで色々...です」
「アカデミーなら教師って事?」
「...まあそうなります」
誤魔化そうとも思ったが、どうも嘘をつけない。それにカカシの領分ではない職種なのだから、都合もいいのかもしれない、と、イルカは素直に答えた。
「そうなんだ」
疑う様子もなく相づちを打ったカカシも水を飲んだ。
良く考えたら。ろくに会話もしてこなかった相手と、こうして座って話をする事に、不思議な気持ちになる。
でも沈黙は重い。
何か話さなくてはと思えば思うほどに話題が浮かばない。同じ里の忍びだが、彼と共通の話題なんて何があるだろうか。
自分が受け持っていた生徒の担当をした上忍師だと言うくらいだ。
それはこの姿ではさすがに共通の話題ではない。
「任務は」
取りあえず、とそんな言葉を口に出すと、カカシはイルカへ視線を向けた。
「あの、任務お忙しいようですね」
あったりまえだろ。
聞いておいて自分で突っ込む。
ナルトが里を出てから任務で上忍中忍関係なしに要請されるようになった。それは綱手の机の上を見ても一目瞭然だった。処理しきれない書類の山は、なくなる事がないのが実状だ。
そこから考えても、里の稼ぎ頭であるカカシが必要とされない訳がない。
変な質問してしまったと焦るイルカに、カカシは笑みを浮かべた。自分のくだらない話題を気にする素振りも見せない。
「最近は特にね。でも慣れでしょ」
慣れと笑顔で言うカカシにイルカは眉を寄せた。
「無理されてるんじゃないんですか」
そんな言葉が自分から出ていた。カカシはチラとイルカへ目を向ける。
「無理は承知だよ」
まだ経験浅い人材だって投入されてるんだからね。
カカシの言っている人材は、まだ中忍になって間もない若い忍びの事を言っているのだ。それはアカデミーから卒業した生徒。自分が育てた生徒達だ。イルカの胸が苦しくなった。
忍びになる為に育てた生徒を、自分は過酷な任務に送り出している。当たり前の事だが、改めて思い知らされた気持ちにイルカは口を閉じた。
いまここにいない、ナルトの事も思ったら。身につまされる思いに、ぐっと奥歯を食いしばり視線をテーブルへ落とした。
ーーだからと言って。
イルカは顔を上げる。
「あいつらは頑張っています」
無事帰還出来る子供もいれば、途中で帰ってこれない子だっている。それでも、今も。木の葉の為に頑張っている。
ーーでも。
「だからと言ってあなたが無理した姿見せたらあいつらも無理するんじゃないでしょうか」
「え?」
カカシは分かってない風な顔でイルカを見た。
「子供たちの目指すものはいつだって火影やあなたのような里で活躍する忍びなんです。そんな人が先頭に立って無理してもらっちゃ困ります」
カカシは目を丸くする。驚いたカカシの表情に気が付き、そこでイルカはハッとする。
「あ、...だから。えーっと、...無理はほどほどに...って思って」
熱くなった心を落ち着かせるように、誤魔化すように。イルカは笑って頭を掻いた。そこから飲みかけのグラスを持って意味なく揺らす。視線を感じ目だけを上に向けると、感じたままカカシがイルカを見つめていた。
「カカシさん…?」
外されない視線に居心地悪く感じ、困惑した表情を向けるとカカシは顔を上に上げる。
店の時計を見た。
「そろそろ行こっか」
「あ、はい」
立ち上がったカカシに、イルカも急いで立ち上がった。

休憩を挟みながら歩哨をして、朝方自宅に帰る。また夕頃にカカシと落ち合い、一緒に夕飯を食べて仕事に向かう。
起きて鏡見て落胆するのは日課のようになっていた。これで5日目。綱手は1週間くらいと言っていたが。もしかしたらもっと先なのかもしれない。
顔を洗ってタオルで顔を拭きながら憂鬱な気分になった。
どうせだったら、もっと美人に変化しておくんだった。
元が元だから仕方ないってのは十分分かってるが。
こう任務でもないのに、日常をこの格好で過ごして。慣れてきたようで慣れない。
カカシも。
きっとこんなよく分からない女の子守なんて嫌にきまってるだろう。
「......」
ぼんやりそんな事を重いながら黒い髪を手でとかす。一つに縛る。額宛を巻いて、イルカは息を吐き出すと、歩哨へ向かった。


歩哨の帰り道、里はまだ朝靄の中。
里は24時間機能しているのに、眠りから覚めていない。そんな空気に感じさせる。
薄暗い道をいつものように途中まで一緒に歩く。
これも、慣れないのに、慣れたような。変な感覚。
人が少ない中で仕事させてくれたのは、綱手の優しさだと、ようやく気が付いたのは昨日だ。
なんだかんだ言って、あの人の下で働ける事は嬉しい。
厳しい観点の中にある綱手の想いは、きっと三代目から受け継いだものだろう。
カカシにも、歩哨と言う名の休息を与えたのだ。
でも今日で最後だ。
「じゃあ、ここで」
イルカはカカシに頭を下げ別の道を歩き出す。
「先生」
呼ばれて振り返った。
名前だって聞かれなかったし。告げていない。
だから先生だと言われるのは間違っていないが。ドキリとした。
「....何か」
少し開いた距離で聞き返す。カカシは片手をポケットに入れたままこっちを見ていた。
そこから歩きイルカと距離を詰める。
「先生ってさ。毎年生徒を送り出してるでしょ」
「ええ。まあ」
「寂しかったりする?」
いきなりの事に、どう答えようかと瞬きしながら考える。
「寂しい...より嬉しいが先立ちます」
言うと、カカシが笑った。
「嬉しい...なるほどね。...いやね。俺もさ、上忍師でね」
あ、いや、元か。薄く笑うカカシにイルカは力強く頷いた。
「知ってます」
「俺にとっては初めての部下だったんだけど。その3人のうち2人は今里にいないんだよね」
「....知ってます」
「寂しいって思ったらやっぱ駄目だよね」
眉を下げるカカシが、笑っているのに泣きそうに見えて。簡単にイルカの目頭が熱くなった。
今まで知る事もなかったカカシの脆い部分が、胸を苦しくさせた。
この人がそんな事を思ってるなんて想像すらしていたかった。淡々に受け入れられる人だと、勝手に。
カカシが情けない笑顔を見せる。
「それともこれも慣れなのかな。...戦場で過酷な状況下で過ごすのには慣れたけど、こればっかりは分からなくて」
揺れる瞳を見られたくなくて、イルカは無理に笑顔を作った。
「大丈夫ですよ。きっと帰ってきますから」
声が震えてしまっている。
それでもイルカは白い歯を見せた。
「信じましょう。カカシさんがそんな不安になってどうするんですか」
強い口調で言うと、少しの間の後、カカシは小さく微笑んだ。
「あんたは信じてるんだね」
「当たり前です」
「そうだよね」
「そうですよ」
カカシは安心したような顔で小さく息をついた。
「俺さ。先生はさ、先生って生き物だと思ってたんだよね」
どういう意味だろう。
しばらく待っても続きがないのでイルカは口を開いた。
「それって、」
「何でもない。ありがとね」
手を取られてイルカは驚く。カカシの目がイルカの目をじっと見つめ、目の前にいるのは自分ではないのに、イルカ自身を見られている気がして、一瞬ドキリとした。
そこからカカシは手を離すと、じゃあね、と、背を向け歩き出した。
また振り返る。
「先生ってさ」
「はい」
「....やっぱいいや」
微笑んで頭を掻きながらカカシは再び歩き出した。
イルカはしばらくその猫背の後ろ姿も見つめて。

変化が解けたのはその翌日の夜だった。


「お、イルカ」
お勤めご苦労さん。
職員室に入るなり内情を知っている同僚が、イルカの顔を見るなり嬉しそうに駆け寄ってきた。
歩哨だったって?
「姿見せないからてっきり山にでも籠ってるのかと思った」
「んな事あるか」
イルカは軽く睨んで笑うと、肩にかけていた鞄を外す。自分の机の上の書類の山を見た。
5日間。任務を含めて1週間いなかっただけでこれか。
溜まった書類に、苦笑いを浮かべる。
でも何故かほっとしてる自分がいた。
山のような書類を手に取り分別していく。ほとんどが生徒から提出されたものばかりだ。
そうそうこんなの出せって言ったっけな。
木の葉に群生する野草から、薬草に使えるものを調べる。生徒に宿題を出していた。くだらないと文句ばかり言っていたくせに。その宿題が思った以上の成果を上げている事を読みながら知り、イルカは微笑んだ。
一人の生徒で手を止める。
 先生風邪は大丈夫?
風邪と生徒に伝えてあったのか。
隅に書かれた生徒の一文に、イルカは目を細めた。
「そうそう」
顔を上げるとさっきの同僚が立っていた。
「お前行けるよな?今日の飲み会」
「....何の?」
出来ればこの仕事を片づけたい。それに。表だって飲み会をしない事になっているのに。何だろうとイルカは聞き返した。
「前々から決まってただろ。忘れたのか。ほら」
指さす方へ視線を向けると、壁に貼られていた紙。
年に1回だけ行われている上忍と中忍の飲み会だ。任務を挟んですっかり頭から抜けていた。
カカシは参加するんだろうか。
そう思った自分に驚きイルカは否定するように頭を振った。
なのに思い浮かぶのは、泣きそうなカカシの笑顔。
ーーカカシがあんな人だったとは。思わなくて。
...ちょっと俺が思ってた人物像と違うって言うか。
いや、勝手に作り上げたに過ぎないんだけど。
なんと言うか。
自分の心に深く入り込んだって言うか。ーーって、だからっ。俺は何考えてんだ。
1人赤面して顔を顰める。
予鈴が鳴り響く。
子供たちの待つ教室に向かわなくては。
授業の準備をする為にイルカは張り紙から視線を外した。



飲み会はいつもの居酒屋だった。
建物は古いが昔から大勢で飲み会をするのにはここをよく利用していた。
二階に広い宴会場があるからだ。
放課後も残業しながら行くのを悩んで渋っているイルカを同僚が連れだしていた。任務ではない限りは断る理由にはならない。
それに、上忍の接待をするんだから、中忍がいくらいてもいいのだ。
宴会は始まっている。階段を上がれば、色んな酒と料理の入り交じった宴会特有の匂いをがした。
襖を開ければ、時間が経っているからか、皆思い思いに騒いでいる。
挨拶をしながらイルカは同僚を開いている席を探して、目に入ったものにイルカは顔を上げた。
一番奥の壁には少し大きめの黒板で今日のメニューやおすすめの品が書かれている。その黒板には、そのお品書きは書かれていない。
酔った上忍が数人、絵を得意とする中忍に指示を出し、面白がって何かを描かせている。
それは女性の絵だ。
何を描いているのか。
それは隣の同僚も気になったのだろう。近くにいる上忍に声をかけた。
「あれなんすか」
「ああ、あれ」
酒を飲みながら赤い顔で、その上忍が黒板を指さした。
「カカシの彼女」
ここ数日一緒にいるのを見かけたんだってさ。
イルカの顔が固まった。
ここ数日。
カカシといたのは女に変化した自分だ。
ちょと、ちょっと待って。
一気に血の気が引く。
「へえ。あんま美人じゃないっすね。なあ」
同僚が素直に口にして、イルカに声をかけるも。隣に座ったまま、ただその黒板をジッと見つめた。
似ているから笑えない。変化していた自分に、よく似ている。
変な汗を掻いている手をぎゅっと握った。
カカシがいないから描いてるんだろうか。酔ってるとは言え、見てる方はいい気分じゃない。
自分とは違う意味で気分を悪くしている周りの声が、嫌味なほど耳に入る。
「ばっかじゃない」
「こんな低レベルの女連れて歩くはずがないじゃないの」
上忍のくノ一が不満げな声を上げた。
「だよなあ」
同僚の隣にいた上忍も同調する。
「だってさ、カカシが大体つれて歩く女って決まってるじゃん。これもんで、」
その男の上忍が、長い髪を肩に流す仕草する女の真似をしながら言う。周りで笑いが起こった。
実は自分でしたと言えば丸く収まるんだろうか。
言ってもいいが。それは逆にカカシにとって失礼にあたるのかもしれない。そう思えば思うほど動けなくなる。
カカシが来たのはこの直後だった。顔を見た途端イルカの心臓が高鳴る。
すぐに奥の黒板に気が付く。が、特に表情の変化はない。
黙ってカカシは奥の上忍の席に座った。
すぐにくノ一がカカシの横に陣取る。
「ねえカカシ」
すり寄る女に構う事なくカカシは胡坐をかいて、んー?と答える。
「あれが新しい彼女って。冗談でしょ?」
「遊びよね」
それにもカカシは、んー、と曖昧に答えるだけ。
別にどうでもいいのに。ーー虚しい気持ちになるのは何でだろうか。
元が男だから何と言われてもいいはずなのに。
カカシは女の話しを聞いてるのか聞いていないのか。口布を外して、視線を上げ。
自分と目が重なった。
はっきりと自分を見たのが分かり、条件反射のように身体が小さく跳ねた。
何故こっちを見たのか分からない。
そこから視線は外され、眠たい目は黒板に向けられる。
どう思ってるのだろうか。
イルカの心臓が痛いくらいに跳ね続ける。こんなふざけたこと。どうでもいいのに。緊張で唇が乾く。イルカはこくりと唾を呑んだ。
頭をがしがしと掻き、
「消して」
はっきりと。
こっちにまで聞こえる声で、カカシはそう言った。
「聞こえない?消してって言ったの」
酔ってふざけていた上忍にカカシは顔も向けずに言うと、カカシは下を向いたままため息を吐き出した。
それだけで、酔って騒いでいた空気が更に静まりかえった。
慌てて一人の中忍が立ち上がり、描かれた絵を消し始める。
(...なんで)
イルカは眉間に皺を寄せた。
怒るのかよ。
そこは笑って許すところだろう。
空気読めよ。
そうすれば。ーー俺も、笑って忘れられるのに。

カカシはそんな空気の中、顔を上げ目の前に座る中忍を見た。
「ね、これもらっていい?」
「あ、はいっ」
突然声をかけられ、緊張したまま答える中忍から瓶ビールを受け取ると、手酌で瓶ビールをグラスに注ぎ、一気に半分まで飲む。
息を吐き出した。

「...全然違うんだよねえ。それ。言っとくけど、そんな女じゃ、ないから」

認めると思ってなかったから。くノ一から黄色い悲鳴のような声が聞えた。
「俺の恋路を邪魔しないでくれる?」
ふざけていた上忍に向けられていた視線が再び。青い目が、イルカに向けられる。
その視線からそらしたいのに、そらせない。
遠巻きの一人の中にいる、イルカをカカシはジッと見つめて。
ふっと小さく、微笑んだ。
余裕のあるカカシ微笑みに、イルカの顔が間をおいて一気に赤くなった。

意味する事は1つしかない。
もしかしなくても。
絶対に。

分かってたんじゃねえかーーー!

1人イルカは耳まで熟れたトマトの様に真っ赤になる。

くノ一の黄色い悲鳴に気にする様子もなく、平然とビールを飲み始めるカカシに、眉根を寄せる。

くそ...っ。

ーーでも。

今は遠くから見ることしか出来ない。
その手を。
俺はきっと欲しくなる。

消えそうにない確信に、イルカは誰にも見られないように、唇を噛んだ。


<終>
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