恋焦がれ

「ねえ、カカシさん。それ、一口もらってもいいですか?」
その言葉に、カカシは横に並んで座っていたイルカに顔を向けた。
赤らんだ顔で箸を持ちながら、じっとカカシの皿を見つめていた。視線の先にあるのは串に刺さったタコ。
テーブルに肘を突きながら、カカシは眉を下げた。
「うん、もちろん。どうぞ」
皿を少しイルカに寄せれば、嬉しそうに箸を伸ばしてきた。口に入れ、咀嚼し、満足そうに顔を綻ばせる。そんなイルカをカカシは微笑みながら眺める。
お詫びと言って。イルカを屋台のおでん屋に誘い。酒はなし、なんて言ったのに。このおでんに日本酒を飲まないのはやっぱりなあ、と。カカシはイルカの気持ちをくみ取って店主に日本酒を頼んだのは少し前のこと。
驚き断りを入れてきたが、カカシは快く断った。自分が酒をセーブすれば良いことなのだ。
イルカにこのおでんの旨さと。この店の酒の旨さも知ってほしい。
それにイルカは応えてくれた。おでんの旨さに目を輝かせるのだから、店主も素知らぬふりをしているが、お世辞ではないのも分かるはず。内心、素直に嬉しいはずだ。
カカシは1本だけと決めた瓶ビールを飲んでいた。そのグラスを傾けながら、イルカを横目で見つめた。
イルカと酒を酌み交わすようになってから、イルカの酒好きにつきあい日本酒を少し飲むようになったが(アスマも強いが一緒に日本酒を飲むことはなかった)、やはりあまり好きにはなれない。
嬉しそうに酒を飲むイルカは、自分よりは強いと思う。それは羨ましくもあるが。酒に飲まれて潰れるのはやはり心配、なのが本音。
しかし、この1年。彼の様子や話しを聞くと、どうやら自分としか酔い潰れることがないのが分かった。
それに対して嫌な気持ちも持つこともないし、自分に信頼を置いてくれているのも分かるから、嬉しいとも思う。
でも、希に記憶がなくなってしまうのは、寂しい気もした。自分との楽しい思い出を最後まで残してほしい、なんて思ってしまう。
(ま、それって手前勝手な言い分なんだろうけど)
カカシは自嘲気味にぼんやり思えば、程良く酔ってきているイルカと目が合った。潤んだ黒い目がカカシを映している。
「これはお返しです」
自分の皿にあるつぶ貝を差し出される。なるほど、これはまだ自分も今日は頼んでなかった。
カカシは、ありがと、と言って箸を伸ばした。
それをカカシが口に運ぶのを見届けて、満足そうにイルカは目を細める。その表情だけで、カカシの心音が簡単に乱れそうになった。屋台と言う限られた空間で、狭い距離感だからだろうか。
誘ったのは自分なのに。自分の視線に熱を帯びているのがバレてしまいそうで、カカシは誤魔化すようにグラスを飲み干して顔を前に戻した。
「本当旨いですねえ」
そんな心知らずしてか、イルカは出汁がしっかりと染み込んだ大根を一口口に入れて、しみじみと呟く。
「どれも旨いですが、俺が今一番と思ってるのはこれです」
そう言ってイルカは大根と玉子を指す。
人によってはもっと味の濃いものを求めたりするが、イルカと食の好みは合っていると感じていた。だからきっと気に入ると思っていたから。それに大根と玉子が一番気に入っていた。そんな何気ない言葉にも、カカシは無性に嬉しくなった。
「豆腐も旨いよ」
ねえ、親父さん。
言えば、それを注文と取ったのか。店主は軽く返事をすると、豆腐の準備に取りかかる。
柚皮と刻みネギを散らした豆腐は、冬の酒のアテに最高だ。そこまで寒さが押し寄せている訳ではないが、夜風が冷たく感じる外で食べるのだから、旨くない訳がない。
それを一口食べて。あっさりした出汁が柚の風味を引き立たせる。イルカは、んー、と幸せそうな声を漏らした。
「ね?」
と顔を覗くように見ると、イルカも素直にこくんと頷く。
「冬の酒のアテに最高ですね」
冬に来るの楽しみですね。カカシが思っていた事と同じ事を言われ。しかもさりげなくも少し先の季節の誘いに、カカシはまた嬉しそうに微笑むしかなかった。
嬉しさについ自分も酒を飲み過ぎてしまいそうな気持ちになる。
「じゃあ、俺も豆腐ね」
カカシはイルカの美味しそうな表情につられて追加を店主に頼んだ。



「ごちそうさま」
カカシは支払いを済ませると、イルカに向き直った。
「先生、立てる?」
「あ、はいっ。もちろんです」
声に勢いはあるが、イルカはのっそりと顔を上げただけだった。そんなイルカにカカシは眉を下げ、イルカに手を貸すように立ち上がらせる。酔っぱらいの如く、ふらふらしていながらも、イルカは立ち上がった。
「大丈夫かい?」
店主の言葉に、カカシはニコリと微笑む。
「慣れっこだからね。大丈夫ですよ」
当たり前のように。カカシの気にもしていない台詞に、関心するような表情を浮かばせる店主に見送られながら、カカシはイルカを支えながら歩いた。
ふわふわと、甘い酒の香りがイルカから漂い。それはカカシの鼻を擽る。
その香りと触れた場所から感じる、イルカの温もりに、心地よい、と言う言葉にぴったりくる。
人間の身体は柔らかく、身体に力が入っていなければくねくねと崩れ落ちてしまうが。忍びからくる心得もあり、そこは難なくイルカを歩かせる事が出来た。
この前のように、意識がない状態であれば、背負うしかなくなるが。
「大根にー、...タコ。あー牛すじもくらさい...」
歩けてはいるが。完全に頭の中は夢の中。
注文も繰り返すイルカに小さく笑いを零しながらカカシは歩く。
繁華街から離れていたが、人通りはある。
前から来る中に、見知った顔があることに気が付いた。自分の知り合いではなく、イルカの知り合い。同僚数人が前から歩いてきていた。
カカシに手を貸されながら歩くイルカを、もちろん相手も気が付き会話が止まった。気を使ったのか、表情変わらず、静かに会釈して通り過ぎる。
昔から神経は伸びきっている方だ。その気の使われ方に、さして何も感じる事はないが。イルカがまた明日何か言われたりするのだろうと思うだけで。
飲ませすぎるつもりはなかったが、今度はもう少し節制させたほうがいいかな、と、内省を含ませながら苦笑いを浮かべた。


「せんせ、着いたよ」
途中から完全に寝始めたイルカを背負ったカカシは、イルカのバックから
手慣れたように鍵を取り出し、解錠し部屋に入る。
背中からはすうすうと、気持ちのいい寝息が聞こえていた。一連の流れを出来るのは、イルカから信頼を得ている証拠で。
それは何よりカカシを嬉しくさせる。
社交的で、話しやすいが、最初イルカと接して感じたのは壁。それは自分が上忍だからとか、立場的なものではない、全員に平等に向けられていた。
彼の引いている線。それに入れているのはごく一部で。たった一年で自分はその中に入れている。
勝ち取ったと言ったらおかしいのかもしれないが、自分からしたら、それは、勝利し手にした褒美のようなものだ。
それに満足しちゃってたら、先はない。
(分かってるんだけどねえ)
心で呟いて口角を上げた。
分かってはいるが。果たして同じ想いを彼が望んでいるのか。それは正に手探りで。
カカシは奥の部屋に入り、ベットにイルカを優しく寝かせる。
(...嬉しそうな顔)
どんな夢を見ているかは知らないが。とても幸せそうな顔に、カカシは微笑んだ。
カカシは手を伸ばし、イルカの頬に触れる。
「明日は二日酔いにならないといいね」
声をかければ、イルカは、んー、と夢見心地のまま応える。
そこから触れていた手を離そうとして、ふっとイルカの目が開いた。
「あ、カカシさん」
目の前にいるカカシに気が付き、むくりと起きあがった。
(...ああ、起きちゃったのね...)
このまま退散するつもりだったのに、と、カカシは困ったような表情を浮かべても、イルカはにこにこしたまま、嬉しそう。
「今日のおでん旨かったですねー」
「うん。イルカ先生、声。もう夜中だから、声を抑えて、ね?」
職業柄か、イルカの声は良く通る。大きめの声に、カカシは人差し指を口に当てた。
「えー。俺声でかくなんかないですよ」
失礼しちゃうなあ。
頬を思い切り膨らませてカカシを否定する。
「うん、分かった。じゃあもう寝ようね」
「え、カカシさんもう帰っちゃうんですか」
「うん。だからイルカ先生は寝てね」
ここから部屋で酒盛りでもされたら堪らない。カカシは微笑みながらそう促すが、イルカはそこで黙った。
「.....?先生?」
何か今の台詞で、酔っているイルカの気に障ったのだろうか。何だろうと、イルカの顔をのぞき込む。
その視線に気が付いたイルカが、じっとカカシの目を見つめ返す。
「じゃあ、」
「...じゃあ?」
カカシの問いに、イルカは言いにくそうな顔をして視線を布団に落とした。
明かりをつけていない部屋は暗く、うつむいたイルカの表情は確認できないが、注視する先のイルカの唇が開いたのが見えた。
「....を」
「え、なに?」
「...スをして」
「え?」
再び聞き返したら、勢いよく顔を上げられ。カカシが少し顎を引いた。
「キス、してください」
言われると思っていなかった言葉。
完全にカカシは固まっていた。
何回か瞬きをして、眉を寄せた。聞き間違えているに違いない。そう判断し、
「....え?」
もう一度聞き直せば、イルカは、ああもうっ、と苛立ち気にカカシを見上げる。
「おやすみのちゅーですっ」
ばふ、と布団をイルカが叩いた。
「カカシさんおやすみのチューしてください」
目を丸くしていた。
今まで酔っていようがそんな台詞、出たことがない。そんな類の言動だってなかった。
一瞬頭が真っ白になるが。
(ああ、酔っぱらってるからか)
と直ぐに思い直す。
悪意がないとしても、悪い冗談だ。
だって自分はイルカに恋愛感情を抱いてしまっている。どうでもいい相手なら、適当に相手して帰って終わるけど。
イルカはどうでも言い相手ではない。強いて言うなら特別な相手になってしまっていて。
内心頭を抱えたくなったが。それも顔に出さないよう努めた。
「はいはい。いい子だから、寝ましょ?ね?」
イルカの肩に手を置き、促すが、イルカはむっとした。
「嫌なんですね」
「いや、そうじゃなくって」
ああ、これ面倒くさくなるパターンか。
駄々をこねるイルカは可愛いが、この駄々のこね方は困る。
「減るもんじゃなし、いいじゃないですか」
「いや、そりゃ減りはしないけど、」
言い掛けているカカシに、イルカの腕がにゅっと伸びた。カカシのベストをぐっと掴む。
「してくださいって」
無茶な言葉を強調され、思わずカカシは眉を寄せていた。
それを見たイルカは、生徒のように口を尖らせた。
「してくれないならいいです。他の人にしてもらって寝ます」
手を離し、顔をふいとそむけられ。
その台詞に、カカシは勢いのまま自分の口布を下げると、横を向いているイルカの顎を掴んだ。
ぐいと自分に向かせると、左目以外晒したカカシの素顔に目を丸くしたイルカと目が合う。
そのまま唇をゆっくりと重ねた。
「...ちゃんとしたから」
浮かせた唇で小さく言うと、カカシは立ち上がる。口布を引き上げ、呆然としているイルカを見下ろす。
「他の人とか、言わないでよ」
おやすみ。
微笑み、カカシはそのまますたすたと歩いて部屋を出た。

扉を閉めて。
カカシは深く息を吐き出した。
未だ胸が高鳴ったまま。
(震えが伝わる前に、さっさと出てきてよかった)
どんな相手でもこんな風になった事がなかった。キスしただけで震えるなんて。
(...格好悪すぎ)
カカシはぐっと眉根をよせ、目を瞑る。
酔っていたとは言え。
勢いだったとは言え。
カカシはまた嘆息した。
(明日どんな顔して会えばいいわけ)



どうしよう。どうしよう。どうしよう。
イルカは布団の中で枕を腕に抱え身悶えていた。
自分がしろって言ったけど。まさか本当にするなんて。
イルカはそっと自分の唇を指で触れた。
まだカカシの唇の感触が残っている。
自分よりも色白で綺麗な肌。もっと冷たいのかと思っていたのに。
自分の顎を掴んだ手も、薄い唇も、間近で囁かれた時に漏れた吐息も。
全て熱くて。
思い出しただけで胸が苦しくなって、イルカは服の上からぎゅっと胸を押さえた。
この前カカシが酔って言った言葉に、自分も何かしてやりたかっただけなんだ。
でも。
本当に、自分にカカシがキスをした。
信じられないのに、それでも本当で。
カカシは今日ももしかして酔っていたのだろうか。それとも酔った自分の言動が面倒くさかったから...?
(分からない...)
胸の苦しさに、イルカは唇を噛んだ。腕の中にある枕をぎゅうっと抱きしめた。
(明日...カカシさんにどんな顔で会えば....)



「カカシさん」
呼ばれて振り返ると、イルカが秋空の下、その空と同じ爽やかな笑顔をカカシに向けていた。
自分はあの後あまり眠れなくて、ひどい顔だと思うが。それなのに。イルカはなんて清々しい笑顔をするのだろうか。
それに、すごく愛らしい。
寝不足の自分に比べてイルカのすっきりとした表情は、一つの思惑を想像せざるを得ない。
そう、その理由はーーただ一つ。
カカシはイルカに向けて力なく微笑んだ。
「カカシさん、おはようございます」
目の前まできたイルカはにこりと微笑まれ、またカカシもその愛らしい笑顔につられるように頬を緩ませた。
「昨日はまたご迷惑おかけしたみたいで、すみませんでした」
ぺこりと頭を下げられる。
直ぐに顔を上げ、
「でも、おでん旨かったのは覚えてますっ。また、行きましょうね」
ああ、ーーやっぱりね。
カカシは、うん、と頷きながらも内心複雑な心境に陥る。
やっぱ記憶なくすまで飲んじゃ駄目ですよね、気もつけないと。
なんてのんきに笑うイルカは、本当に何も覚えていない。
生徒に呼ばれて。頭を下げ生徒に駆け寄るイルカの背中を見つめながら、カカシはため息を零して、頭を掻いた。

「やばいよねえ...」

恋焦がれるなんて意味が分かる日がくるなんて。思いも寄らなかった。
胸の奥にある確かな疼きに、カカシは微かに唇を歪ませる。
友達以上恋人未満の関係。
(でも...もういいよね)
カカシは歩きながら顔を上に向け、空を仰ぐ。
気持ちのいい秋の空。雲が高い位置で風に流されていく。
その空に突如現れる鳥が一羽。一声鳴き、旋回を繰り返すと北の森に消えていく。
それを確認して、カカシもまた、姿を消した。
その場に残るのは木の葉一枚。
カカシの心のように、揺れ動いていた。


<終>