後者

忍に人気がある大衆居酒屋は、夕飯代わりに寄る人も多く、平日でも賑わいを見せている。
そのフロアの奥にあるテーブル席。カカシの目の前に座っているのはイルカだった。
日頃から飲みにいく仲なのだから、そこまで珍しい光景でもない。ただ、いつも以上に酒を飲み賑わっている情景に浮く、とまではいかないが、いつも見せない、それに近いような表情を浮かべているのはイルカだった。
もちろんイルカの僅かな表情の変化に周りの誰かが気がつく事はないが、カカシには十二分に伝わっている。
(・・・・・・参ったね)
心の内でカカシは嘆息する。もちろん顔には出さない。
さっきからイルカが気まずさをどうにかしようと、無理に話題を作って話してくれてはいるが、それが逆にカカシには辛かった。
いつもはこんなんじゃない。いつもは、イルカは大体生徒の話が主だが、お互いに他愛のない話を口にしてまったりと酒を飲んでいたのだ。
この関係になるまでには、それなりのカカシの努力もあった。だから、なおのことこの空気が辛い。
イルカに対してなんとなくいいな、と思ったのは中忍選抜試験の後だった。どんな理由にせよカカシに、しかも人前であそこまで楯突いてきたにはイルカが初めてだった。
少し理由が不純だとは思ったが、同性だろうと初めて他人に持ったこの気持ちを、カカシはそう簡単に捨てようとは思わなかった。
ただ、イルカに声をかけた当初、当たり前だが快くうんと頷いてくれなかった。勿論その理由も分かっていた。
上忍である自分への配慮と、それに伴う格下である故の遠慮。中忍選抜試験のいざこざ。単純に警戒しているのも知っていた。
もともとイルカの性格から時間がかかるのだろうと踏んでいたから、気にしていなかった。
上忍師でも元々戦忍で里に出る事も多い為、イルカと顔を会わす機会はほとんどない。イルカが受付も兼任しているのは知っていたが、運良く彼に当たればラッキーという程度で。
ようやくイルカが頷いて、飲みに行くようになってからは仲良くなるまでに時間はかからなかった。
思った以上に笑った顔が可愛かった事や、酒を飲むともっとよく笑うようになる事。朗らかで見たままの真っ直ぐで暖かい性格。生徒や仲間思いのところ。
いいなあ、と思った自分の直感は間違っていなかったと確信する。
ただ、イルカが自分と同じ気持ちを抱いていると言えば、それは難しかった。
イルカはきっとノーマルな性癖で、これ以上の事は求めてはいけないと割り切ろうとしていたのに。
最近イルカが自分に向ける視線や、たまた手が触れた時の反応。その変化は僅かだが確かで、もしかしてこれはもしかするんじゃないだろうか。と、希望を夢見た矢先だった。


執務室に入った時に、目に入ったのはイルカの後ろ姿だった。
場所が場所でも、会えるのはちょっと嬉しいんだよね。のほほんとした顔の裏でそんな事を思っているカカシに、イルカが軽く頭を下げ、カカシも会釈を返す。
では先ほどの件、よろしくお願いします。と告げ頭を下げ部屋を後にしようとしたイルカに、綱手が呼び止めた。
「そうだイルカ、この前の教えてくれた店、今日辺り行こうと思ってるんだが。お前案内してくれるかい?」
足を止め綱手に振り返ったイルカは、少し申し訳なさそうに笑顔を浮かべた。
「せっかくお誘いいただいたんですが、申し訳ありません。今日はちょっと、」
誘いを断ると思っていなかったのか、綱手は不満そうに眉を寄せた。椅子の背もたれに体重を預けた綱手は豊満な胸を強調させるかのように腕を組む。
「たまにはいいだろう。長い時間つき合えとは言ってないんだ」
俺の誘いを断るのか、と言うパワハラ発言までとはいかないが、ほぼそれに近い台詞を吐いた綱手にカカシは息を吐き出した。
大体酒豪である綱手に誘われて、1時間2時間で解放されたなんて事は聞いたことがない。
「綱手様すみません、先約は俺なんです」
イルカに助け船を出す為の嘘でもなく、本当の事だった。つい数日前、珍しくイルカから声をかけてくれた。特に夜に持ち込むまでの任務は入っていなかったから、カカシも快諾した。最初自分から誘うばかりだった事を思うと嬉しい進展だった。
この発言で、矛先が自分に向いてくれればいいとさえ思っていたが、綱手はカカシの言葉を聞くなり、そこまで強い反応を示さない。そうかい、と言ってため息を吐き出す。
「カカシじゃあ仕方ないね」
以外にすんなり納得した綱手に、その言葉に、少し引っかかるものを感じたが、事が上手く治まるのなら良かった。たぶんそれはイルカも同じ事を思っただろう。ほっとした表情を浮かべていたが、
「デートならデートだって言えばいいだろう」
綱手の言葉にその表情が固まった。その数秒後にイルカの顔が赤く染まる。
「あの、綱手様、デートとかじゃ、」
「そうですよ、俺たちはそんなんじゃ、」
カカシも加わった形に、綱手は呆れた顔をした。
「くだらない茶番をここで始めるんじゃないよ。ったく、もういいから、イルカはもう下がっていいよ」
「しかし、」
イルカが慌てて口を開こうが、それを聞こうともしない綱手はひらひらと手を振った。綱手に手を振られればそでまでだ。
何かまだ言いたげにしながらも、仕事中である故に強制的にはけさせられる。
「綱手様、あれはないでしょう」
イルカが退出し気配が扉から遠のいたのを確認して、カカシは気持ちを抑えながら責める言葉をぶつけた。
綱手は椅子に座ったままそんなカカシを一瞥すると、机の上に置かれた書類へ視線を落とした。
「何が問題なんだい?あれもちゃんと認めてたじゃないか」
顔を真っ赤にして。
けろりとした顔に、カカシはそうじゃなくて、と盛大にため息を吐き出した。
「認めてませんよ。それに、今俺とイルカ先生はつき合うとかそんな関係じゃないって、前も言いましたよね」
「そうだったかね。にしてもまどろっこしいんだよ。さっさとくっつけばいいじゃないか」
こっちから見たらバレバレなんだよ。
今ここにイルカがいなくて良かったと心底思う。
あんまりな言葉にカカシは項垂れ、銀色の頭を掻いた。
「俺は今の関係に満足してるんです。それに、同性相手の勝手な妄想を押しつけられたらいい迷惑です」
カカシには珍しい反論に、綱手は動じる事はない。片眉だけを上げふんと鼻を鳴らす
「嘘つくんじゃないよ。それに部下の幸せを思う妄想の何が悪いんだい?同性なのが問題になる世界じゃないのは、お前だって十分分かってるだろう。そんなちんけな理論で邪魔するんじゃないよ。その歳でお互いに落ち着いてないってのがいい証拠じゃないか」
カカシはそこで押し黙った。感情的になったばかりに墓穴を掘った事に後悔する。
口が悪いが綱手の言うことは最もだった。
確かに、イルカへの思いを捨てきれずに、今まで上が用意した見合いの話を自分は何個も蹴ってきたのだから、そう言われても仕方がないのかもしれない。
ただ、せっせと積み重ねてきた努力を粉砕された気分に、はいそうですね、と言えるはずがなかった。
大体あんな内容を他人から口にされたら、イルカが多少自分に気があったとしても、それを心の内に隠してしまい守りに入ってしまうのがオチだ。というか、きっとそうなってしまう事が目に見えている。
ただでさえガードが堅いってのに。
何て事してくれるんだこの人は。
言いたい事を露に出来ないストレスに気がつくような相手は、いまこの部屋にはいない。
カカシの重いため息だけが部屋に響いた。




その後の空気がどんなだなんて、あの人は何も分かってないんだよ。
気まずそうにしながらも、笑顔を向けるイルカに、カカシは落胆した気持ちを隠し、イルカに合わせようと笑顔を浮かべた。
ただ、綱手の口にした話題を、イルカが自分の目の前で否定する言葉を出さない事に安堵していた。否定しないのは、否定したくないって事なんだろうか、とか。綱手じゃないが、都合の良い妄想が広がる。
確かにあの時にイルカは耳まで赤く染めていた。
あれは、正直嬉しい。
でも、嘘でもイルカの口からきっぱりと否定されたら、きっとしばらくは立ち直れないだろうなあ。
それに、イルカはなるべくその話題を口にしないようにしているのは見え見えで。
それをどう捉えたらいいのか分からないが、自分もイルカと一緒にこの話題から目を背けてはいけない事は分かっていた。
初めて自分がイルカを飲みに誘った時点で、それは決まっていたんだとも思う。
イルカに分からないように、決意を固めるように息を吐く。
「先生」
一生懸命今日の授業であった事を話しているイルカに、カカシは口を開いた。
「あ、はい!」
「無理してない?」
少し驚いた目をした後、すぐに笑顔を浮かべ首をふるふると横に振った。
「無理なんて、そんな、」
イルカが言葉を選んでいるのが伝わってくる。
「してるよ」
「してな、」
「してる」
困った顔で黙ってしまったイルカに、カカシはため息を吐き出した。手甲を外した手で自分の前髪を軽く搔き上げるように生え際に手を当て、ゆっくりとイルカへ目を向ける。
「あのね」
そこでまた一呼吸置く。
「綱手様の言う事にさ、いちいち反応してたらあの人の思うつぼだから、放っておけばいいとは思うんだけどね、」
思うつぼ、にぴんとこなかったのか、イルカは小首を傾げながらもカカシに同調するように少し遅れて、ええ、と相づちを打った。
「デートって言う解釈は兎も角、あの表現に俺は否定出来なくて、」
言い出しながら、上手く伝えきれそうになく、つい言葉が詰まる。
「俺に、そういう気持ちがあるって言ったら、・・・・・・困る?」
イルカの目が、丸くなった。
そんな事言われるなんて夢にも思って見なかったような顔。数秒後、ぎこちなく視線を下にずらした。
「それは・・・・・・ありがとう・・・・・・ございます」
普通、好意に対するお礼は謙遜と捉えるのが一般的だが、どんな意味が含まれてるか分からず、
「・・・・・・イルカ先生?」
名前を呼んでいた。口の中が乾いてくるのを抑えるように、薄い上唇を舐め。カカシもまた落としかけていた視線を上げると、真っ直ぐに黒い瞳と目が合った。
不安がじわりと浮かぶ。
はい、とか。いや、とか。返事の種類はいくらでもあるのに、イルカは何も発しない。
カカシの心拍数はかなり上昇していた。任務でも滅多にない事だ。手のひらに汗を感じ、軽く指先を握る。
イルカはじっとカカシを見つめた後、視線を飲みかけのビールグラスに移した。
カカシの視線がイルカの、その俯いた顔に注視する。
黒い睫が何回か瞬きを繰り返し、イルカの手が上がる。鼻頭を掻きながら顔を上げた。
「あの・・・・・・じゃあ、えっと・・・・・・もうそろそろ出ましょうか」
顔を赤らめながらも困ったような笑顔でそう言って立ち上がるイルカに、
「・・・・・・え?」
カカシは少し唖然としてイルカを見つめた。
いつも白黒はっきりしたイルカとは思えない濁した言葉から、イルカの真意は到底拾えなく。
でも、どういう意味?なんて問えるわけもなく。
席を立ち伝票も持って歩き出すイルカの背中を、カカシは慌てて追いかけた。
割り勘で店員に支払いを済ませるイルカは、いつもと変わらない様子に戻っていた。
昼間の気温から下がった心地の良い風が吹く夜道を、二人で歩く。
いつもの調子に見えていても、少し先を歩き背中だけを見せるイルカの表情は見えない。
並んで歩かないのは顔を見たくないからなのか。
少し早足なのは早く帰りたいからなのか。
焦りだけがカカシの胸に広がった。
会話のない帰り道、イルカの背中を見つめながらカカシは密かにため息を吐き出しながら星が瞬く夜空を仰いだ。
確かに我ながら情けない告白だったと思う。
ただ、何か話したいと思うけど、この重い沈黙を破るほどの勇気はない。
でも。
歩く度に揺れる黒い尻尾を見つめながら思う。
やっぱこの人が好きだなあ、と。
「カカシさんっ」
突然くるりと勢いよく振り向いたイルカに、カカシは少し驚き目を丸くした。
イルカは眉を寄せカカシを見つめている。
「・・・・・・はい」
何を言うのだろう。
不安に駆られるカカシの前で、イルカは躊躇うように視線を一回外し、またカカシを見た。
「今、俺とカカシさんには二つの選択があります」
構えていたから、少し拍子抜けする。カカシは瞬きをした。
「・・・・・・えっと・・・・・・二つ?」
話の展開が読めなくて聞き返すと、イルカは頷いた。右手を上げ人差し指を立てる。
「ひとつは、このまま別れてお互いの家に帰る」
今度は左手を上げ人差し指をゆっくりと立てた。
「もうひとつは・・・・・・」
「・・・・・・もうひとつは?」
イルカはぐっと口を結び、開く。
「もうひとつは・・・・・・俺の・・・・・・部屋にカカシさんと行く」
おずおずとしながらも、はっきりそう口にしたイルカの頬は、夜の色の中でも分かるくらいに赤い。
(・・・・・・え、わ・・・・・・嘘・・・・・・でしょ?)
その意図に気がついた時、またしても心拍数が上昇を始めた。
そして、痛いくらいに鳴り続ける心臓が、嘘じゃないと告げている。
例えば任務で、頭脳戦を繰り広げるのは得意だが。流石にさっきの今でこんな展開まではたどり着くことになろうだなんて、予想出来ない。
震えているイルカの指を見つめながら一歩近づくと、イルカが緊張に息を詰めた。
「先生の・・・・・・おすすめは?」
こんな事を聞く自分は狡いだろうか。
だって、このチャンスを逃したくない。
イルカは聞かれると思っていなかったのか、困った顔でぐっと眉を寄せる。自分の人差し指をイルカは見つめ、
「俺は・・・・・・後者・・・・・・です」
赤く頬を染め、呟いた。

スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。