月が見えない。漆黒の闇の中、軽快に飛躍していたカカシは一つの建物の前で降り立った。
そこで顔を上げ雲が風に動いていくのを見つめる。
厚い雲から微かに月が見えた時、窓ガラスを開ける音が聞こえた。
顔を向けると。虚ろな赭色の目の奥は濡れているようにも見える。
「....用があるならさっさと言って」
部屋には明かりも灯っていない。紅は短く言葉を言うと同時に、その暗い部屋の中に背を向け戻っていく。カカシは開けられた窓枠にふわりと身体を移し、しゃがみ込むように座った。
アスマの逝去の報せを聞いてから。葬儀にも参列してその日は真っ直ぐ帰るつもりだった。
けど、やめた。
独り居酒屋で酒を飲んで向かった先の紅がいるアパート。
正直、来たのは片手で数える程度。
一緒に飲んだアスマが酔いつぶれた時。
窓枠にしゃがむ込んだままのカカシは、暗闇に浮かぶ紅の横顔と生活感のある部屋を黙って眺めていたら。
ふっと、紅が空気を漏らすように笑った。
「....酒臭い」
好きではない日本酒を軽く煽ってきただけだというのに。紅の鋭い言葉にカカシも小さく笑いを零した。
「飲んだのちょっとだけなんけど」
「でも臭いわ」
カカシの言い訳を言い退けた紅は、そこから表情を消しゆっくり息を吐き出した。
「今日もシカマルが来てね...ちょっと前はまだ子供だと思ってたのに。思った以上にちゃんとした事を言うから。びっくりしたわ」
思い出すように。紅は視線を暗い部屋に浮かばせながら呟いた。
アスマの逝去の報せを紅に伝えたのも、シカマルだった。紅に何を言ったのか聞かなくとも何となく分かったカカシは、それだけで冷えていた胸が熱くなった。
ナルトの同年代の子供たちは皆、今まで見てきた子供たちとは違う、カカシと共感出来る思いを持っていると感じていた。
仲間に対する、強い思い。
「意外にいい先生だったのね。あの人は」
紅の言葉に視線を向けた。口元に微笑みを浮かべている。
「ね、そう思わない?」
反応を示さず返答しないカカシに、紅が顔を向ける。
その問いにも、カカシはしばらく沈黙し。
ゆっくり口を開いた。
「......そーだね」
答えたカカシの視線はじっと紅の瞳を捉えている。
紅もまた、カカシのその視線を見つめ返した。
「…そうだけどさ、それだけ?」
「え?」
「ホントに、それだけ?」
そう口にしたカカシの露わになっている右目の冷たい青い色を、紅は見つめる。
長い沈黙の中、ぐっと眉根を寄せ。苦しそうに顔を歪め。
紅の目から、涙が溢れ出した。
「...っ、ちきしょう...っ、」
漏れる息を殺すように、赤い唇を噛む。
「...ぶっ殺してやりたい…」
身体を震わせながら、吐くように。
紅は指先が白くなるくらいに拳に力を入れる。
そんな姿をカカシはまたじっと見つめた。
葬儀の時もここまで流す事がなかった、幾筋もの頬を伝う紅の涙を、静かに見つめる。
その視線をカカシは床に落とし、
「......うん」
小さく呟き、土足のまま床に降り立つ。紅に一歩近づいた。
「ここ数日聞いた中で一番まともな発言だね」
「.......」
その言葉で今日ここに来たカカシの意図を知る。
不器用なカカシの想いを受け止めるように。紅は濡れた瞼を瞬きさせた。
報せを聞いてから、ただひたすらに悲しむだけの紅しかいなかった。
他人にも、自分にも見せる事が出来なかった感情を。
カカシは黙って受け止める。
怒りと悲しみで。涙と鼻水で汚れたままの紅の顔を見つめた。
カカシはポケットから手を出し、紅の黒い髪に触れる。前髪をかきあげるようにカカシは撫でた。
カカシを見上げるように顔を上げた紅を真っ直ぐ見つめ。
「ひっどい顔」
カカシの口にした言葉に、眉間にしわを寄せ睨む紅に、
「でもその顔嫌いじゃないよ」
続けて言ってカカシは微笑んだ。
少し拍子抜けした紅は、目を丸くした後、鼻を啜りながら笑いを零した。
「私が美人だって今頃気が付いた?」
指で濡れた目を擦りながら言う紅の言葉に、カカシは覆面の下で口角を上げる。
「その冗談も嫌いじゃないよ」
「あのねえ、そこは嘘でも美人だって肯定しなさいよ」
抗議の目を向けた紅の目に、もう涙はない。
リビングにあるソファに紅は座り、力を抜くように息をゆっくり吐き出した。
「...出来ることなら、大事な人の側には四六時中くっついて...守りきれなくても、せめて。どんな最後だったか...見てやれたらどんなによかったかしらね」
ただ、愛する人を失った女性としての、紅の真意が口から零れる。
後も先もない。今、ここでしか言わない紅の言葉。
カカシは黙ってそんな紅を見つめる。
眼差しに気が付いた紅が、照れ隠しのように小さく笑った。
カカシの手に視線を移す。
指先まで包帯で巻かれた手。痛々しいその手に心配そうな紅の眼差しを向けられ、カカシは微笑んだ。
「...ナルトに比べたらね、大した怪我でも何でもないから」
「そうね」
納得するように紅も微笑み、一回頷いた。
「あのナルトなら...きっと大丈夫よね。あなたも、綱手様もついてるし、」
「たぶん明日行くよ」
「明日って......」
話を遮ったカカシの言葉に、その眠そうな目を見つめ、それがシカマル達の事を言っていると紅は気が付き、驚きに目を丸くした。
無茶な事だと分かっていても、シカマル達を止めても無駄だと言うのも分かり、紅は複雑な表情を浮かべる。
「だって、」
「俺も行くから」
付け加えられた言葉に、紅は落としかけていた視線を上げた。
そんな紅にカカシはにっこり微笑む。
「帰ってきたら酒奢ってね」
いつもののほほんとした、変わらないカカシの微笑みに。紅の目頭が熱くなる。誤魔化すように、紅は眉を寄せならが口元に笑みを浮かべた。
「病院運びにならなかったらね」
言われたと言わんばかりに、カカシは眉を下げ笑う。
そしてふわりと身体を浮かばせ窓枠に足を付けた。
「ねえ、イルカには、」
ソファから立ち上がった紅から思わず出た言葉に、カカシは目を見開く。ゆっくりと目を細め、微笑んだ。
「うん。今から」
微笑むカカシの顔は本当に嬉しそうで。紅も思わずつられて微笑む。
カカシは姿を消した。

月が雲から覗き、月夜がカカシを照らす。
(...あいつらだけで行かせるわけには行かない。ナルトは、たぶん...大丈夫)
テンゾウの存在を頭に浮かべ、カカシはゆっくり瞼を閉じ、開く。
顔を空に向けた。
月明かりが眩しい。
カカシは眉を寄せながら人差し指で覆面を下げた。
月を見上げる。

(ったく...お前の開けた穴は大きいんだからさ、そっち逝ったら覚悟しとけよ)

ぼんやりと眺めるカカシの目に映る月は、風に流れる雲にまた姿を隠し始める。
覆面を戻す。
そこからカカシは、自分を待つイルカの元へ。身体を闇夜に飛ばした。

<終>