まだ恋をしている

カカシに初めて会った日、少女漫画の一コマと呼べるに相応しいくらいの衝撃が自分に走ったのを覚えている。
たぶんカカシは覚えていない。
アカデミーに所属したばかりで、子ども達と共に夢と希望を胸に張り切っていた頃(今も勿論そうだが)、前日の授業の下準備に時間を取られ寝坊したイルカは、アカデミーへ急いでいた。
たすき掛けした鞄の口が開いているが、それを閉める時間も惜しい。我ながら段取りが悪いと自己嫌悪するも、授業で失敗するよりはいい。
頭の中で1日の授業内容を頭に浮かべていたイルカは、角の向こうにいる気配に気がつくのが遅れた。と言うか気配を感じなかった。驚いて駆けていた足に力を入れ急ブレーキをかける。目の前の人影にぶつかりそうになり、避けるように止めた自分の足の力の反動で、相手にぶつかる事はなかったが、代わりにイルカは後ろへ転んだ。受け身を取る間もなかったイルカは、忍びであるくせに地面に尻餅をつく。手に持っていた教材も地面に落ちてしまったが、相手にぶつからなくて良かった。
それだけはホッと胸をなでおろし、目の前に立っている相手へ顔を上げた。
相手を確認し少し顔色を青くさせたのは、自分と同じ支給服を着ていたから。
この時間帯で自分が使う道に、見かけた事もない同業者。風貌からも上忍であると考えるのが妥当だった。
縦社会の厳しい世界で、忍びでありながら気配に気がつかずにぶつかりそうになるなんて。遅刻しそうだったからとは言え、言い訳になるわけもない。いくらなんでもいかんだろうと、イルカは慌てて頭を下げた。
「すみません」
罵倒する言葉が返ってくるだろうと覚悟をしていたから。
頭を下げてから、相手からの反応がなく恐る恐る顔を上げようとした時。
「はい」
その声と共に目の前に差し出されたのは、相手の手だった。
予期していなかった行動に、イルカは思わず、え、と声を漏らしていた。驚いて顔を上げる。
相手の顔は左目は額当てで隠され、口元も覆面で覆われている。唯一露わになっていたのは左目だけ。その青みがかった眠そうな目がイルカを映していた。
ぽかんと口を開けたままのイルカに、目の前の男は僅かに不思議そうに眉を寄せた。
「立たないの?」
少しぶっきらぼうな口調だった。それでようやく差し出された手の意味を知る。
「あっ、は、はいっ、いや、しかし、」
「いーよ。突っ立ってた俺も悪かったし」
ほら、早く。
躊躇するイルカの手を掴んで立ち上がらせる。
「あ……りがとうございます」
頭を深々と下げ、イルカは急いで地面に散乱した自分の教本を拾い集めた。無様にも鞄の中に入っていた筆記用具まで散らばっている。
拾い集めながら鞄に突っ込み、立ったままの男へ顔を上げた。
もう立ち去ってもいいはずなのに。未だに立ち去らない。不思議に思っていると、その視線に気がついた男がイルカへ顔を向けた。
「何?」
「あ、いや、」
ここで何してようが相手の勝手だ。もしかしたらここで任務で落ち合うからかもしれないし、それなりに理由があるのだろう。
「ありがとうございました」
自分の荷物を全て拾い上げたイルカは、銀髪の男に礼を言って頭を下げ、背を向けた。
駆け出して間もなく聞こえたのは猫の声。急がなければいけないと分かっていたが、イルカは思わず足を止めていた。
教本を抱えたまま振り返る。
塀の上にいたのは茶トラ柄の猫だった。男がその猫へ手を伸ばし、手甲から伸びる指で猫の鼻の頭をくすぐるように撫でていた。再び猫から発せられた甘えたような声がイルカの耳に届く。
(……猫)
ぱっと見の風貌から想像もしなかった理由と、男の優しげな横顔が。
何故かイルカの脳裏から離れなかった。
どうしても離れなかった。

しばらくしてから、ナルトの新しい師として再びカカシと顔を合わせ。自分の気持ちがカカシに向かい始めたのは言うまでもなかった。
それが恋だと。自分の気持ちに気がつくのは時間ががかったが。


アカデミー近くに植えられた木々から、蝉がけたたましく鳴く声が聞こえる。
イルカは、書類を抱えて廊下をパタパタと歩く。執務室からアカデミーを往復するのはこれで2回。会議の資料が見たあらない。そう口にした綱手の一言で、こうなっていた。予定はだいぶ前から知らせていたはずのに、始まる数時間前に言い出されては堪らない。
「あー、あちぃなー。くそっ」
イルカは額に浮く汗を服の袖で拭いながら足を早めた。
廊下を走る事も口悪く言葉を零すのも、今授業中だから出来ることだ。
つい1時間前に、生徒に廊下を走るなと注意をしたくせに。
大人って汚い。
思ってイルカは苦笑いを浮かべた。いつもは、どっちも口煩く生徒達に駄目だと説いている事を、見ていないからと、それを理由にして行う自分を自嘲したくなる。
ドアを開けて渡り廊下に出ると、蝉の音がさらに大きくなった。自分より前に卒業し、そのアカデミーの卒業生らによって植えられた記念樹は、大きな木になり夏の暑さを凌ぐ木陰を作り出す。その幹で大きな鳴き声を立てているクマゼミへ目を向けた。この蝉を見かける度に夏がきたなあ、と実感する。
歩きながら蝉を眺め、ふと青い空がある上へと視線をずらし、ずらしたその先に見慣れた人影を見つけたイルカは、思わず足を止めていた。
カカシが執務室がある3階建ての建物の屋上にいた。転落防止の柵に両腕を預け外を眺めている。
夜を共にし、今朝まで一緒にいたはずなのに。見慣れている人影なのに、嬉しさに胸が騒めき、暖かくなるのは何でだろうか。
銀色の髪が夏の太陽に輝き色を放ち、イルカは目を眇めた。気配に気がついていないのは、里内だからか。
向こうが気がついていない。それだけで、盗み見ているようで何だかむず痒い気持ちになる。顔が緩んでしまいそうで、思わず口元を引き締めた。だけど、視線を外せない。
昼前と言っても太陽は頭上から照りつけているのだから、暑くないのかと見上げいると、思ったよりも柔らかい銀色の髪が風に揺れた。
風が吹いても暑い空気に他ならないと言うのに、カカシのその横顔からは暑さは微塵も感じない。と、再び強く風が吹き、カカシの前を閉めていない、羽織っただけのベストが風にふわりと浮いた。
アンダーウェアに隠されたカカシの顔のラインから喉元と、その下に続く鎖骨辺りが、ここからでもはっきりと見える。
色気さえ漂うその横顔に、姿に。ただただ見とれた自分に、少しの間の後我に返る。イルカは頬を熱くさせ、困ったように眉を寄せた。

ぶつかりそうになったあの日から。
尻餅をついた自分にカカシが手を差し出したあの日から。
猫を優しく愛でるカカシを見たあの日から。
そして、恋人になった今も。

ーーまだ、こんなにもカカシに恋をしている。

暖かい気持ちで胸が幸せに満たされる。
不意に目頭が熱くなった時、青みがかったカカシの目が動く。
そして、少しだけ口を開けたまま泣きそうなイルカを映し、ゆっくりと愛しそうに目を細めた。


<終>
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