memo

昼休み、昼飯を食堂で済ませて職員室の自分の席に戻る。そこで机の上に湯飲みを置かれてイルカは顔を上げた。ここでは一番若い女性職員が横に立っていた。
「すみません。自分で煎れるので、」
申し訳なさそうに言うイルカに、女性職員が微笑んだ。
「気になさらないでください。自分のを煎れるついででしたから」
それでも申し訳ないと、鼻頭を掻くとその女性職員はお盆を抱えながら微笑む。
「イルカ先生はずっと上の先輩なのに。なんか珍しいです」
そう言うと彼女は笑いながら背を向けて歩き出した。
珍しい。最近若い職員からよく言われる言葉だ。
自分ではなにが珍しいのか分からない。さっきのお茶だって然り。自分の分は自分で煎れればいいのだ。お茶を煎れるのを仕事の一部にしたくない。他にやるべき事は山のようにある。
それでも気を使って煎れてくれるのは有り難いが。
イルカは小さく息を吐き出して煎れてくれたお茶を啜った。
ふと感じた気配に顔を向ける。
職員室の出入り口の扉に。ヤマトがいた。それを見て内心嘆息したくなるのを抑えてイルカは頭を下げた。
ヤマトも同じタイミングで会釈を返す。
イルカは湯飲みを置くと立ち上がった。
何の用件か。聞かなくても分かるのが辛い。
「すみません。お休みの時間なのに」
目の前まで来たイルカにヤマトは申し訳なさそうに頭を下げる。イルカは苦笑いをしながら首を振った。この人は何も悪くない。ヤマトも忙しい身のはずだ。それでもここまで足を運んでくれている。
「大丈夫ですよ。気にしないでください。で、えっと...火影様の用ですよね」
分かり切った事を切り出すと、ヤマトも、はい、と返した。
「午後授業がない時間に、執務室の雑用を頼めないか、と」
眉を下げながら申し訳なさそうにヤマトは言う。イルカは腰に手を当て鼻から息を吐き出した。
予想していた通り。
受け持つ授業が少なくなったとは言え、自分は他にやるべき事がある。アカデミーでは先月から主任を任され、教員の事も気にかけなくてはならない。その他に生徒やその親との事も。
だから正直執務室で仕事なんて出来るはずがない。
と、目の前にいるヤマトに言っても仕方がないのは分かっていた。
「あ、お忙しいと伝えます」
「いえ」
イルカは首を振った。
「俺が直接言います」
「いや、しかし」
少し怒っているようなイルカにヤマトは言いよどんだ。
「いいんです。あなたも仕事があるはずですし、しかも今休憩中では?」
そこでヤマトは問われた事にふるふると首を振る。
「休憩中でなくとも、これ以上ヤマトさんの時間を無駄にする訳にはいかないですから」
きっぱりとイルカに言い切られ、ヤマトはそこで食い下がるしかないと、はあ、と小さく相づちを返した。
「なので大丈夫です。仕事に戻ってください。もし聞かれたら俺が直接行くと伝えてくれればいいですから」
それにも、はい、とヤマトは小さく返して。そこで素直に姿を消した。
イルカは一人、もう一度鼻から息を吐き出した。


3回目。今月に入ってから3回目だ。
イルカは執務室に続く廊下を歩きながら思った。
カカシとは。数年前から恋人としてつき合いを始め、同棲もしている。
そのカカシがこの木の葉の里の六代目火影に就いたのは半年前。
カカシは大戦後、処理を概ね終えた五代目であった火影の綱手から、後を受け継いだ。
それまで幼い頃からずっと戦忍だったカカシは、もともと里長になる気がなかったのも知っている。綱手同様、次の火影まで自分が繋げればいいと思っている事も。
それでも綱手の後の大役を引継ぎ、毎日執務室に籠もる毎日が続いている。
そんなカカシから愚痴が出るようになったのは火影に就いて一ヶ月も経たない頃だった。
どうやら自分が思っていた以上に仕事があると気が付いたのだ。
しかも大戦後と言う事もあり、綱手の頃より盛んになった外交と復興に加え、増える任務依頼。
家に帰る日が減り寄って自分と会える時間が減った事が、カカシにダメージを与えた。
「仕事行きたくない」
なんて布団の中で言われた時には驚いた。
今までずっとつき合ってきて、任務に行きたくない、なんて駄々をこねたことなんて一度だってなかったのだ。
それでもカカシは木の葉の里長。行きたくない、に、はいそうですか、とこっちも軽々しく言えるわけがない。カカシに微笑んだ。
「でも、カカシさん。みなさん待ってますから」
ね、と宥めると、カカシが眉を寄せたかと思うと、布団の中に潜り込んで丸くなりそこから出てこなくなった。
それも初めて見た光景だった。
こんな子供のような人だったっけ。あ、いや、そうだ。子供っぽい人だとは思っていたけど。
イルカは息を吐き出してその丸くなった布団を眺めた。
何度も言うが、この人は火影だ。
そこから20分、カカシと起きてください、嫌です、の攻防が続き、いい加減自分が切れた。
こんな事をしてる間に、シズネを始め、多くの人がカカシを待っている。皆、忙しいのに。
「いい加減にしてください!」
布団を見下ろしてそう強い口調で言い切る。
「行きたくないって、それだけでどれだけ周りの人間が迷惑すると思ってるんだっ」
怒りに肩で息をしていると、睨んでいた丸まった布団がもぞりと動いた。
そこから銀色の髪が見え、カカシが顔を出す。
むっとしながらも、叱られた犬のような顔をしていた。
「イルカ先生はさみしくないんだ」
ぽつりと、そう口にした。
イルカは目を丸くする。
さみしい。さみしいに決まってる。今までに比べて物の見事にカカシと会う時間が減ったのだ。それは俺だって同じ気持ちだ。
でも。
「さみしいですよ。でも仕方ないじゃないですか」
冷たい言い方は、少し怒っていたからだ。
その言い方に、カカシはぐっと眉根を寄せた。
「ひどい。先生。そっか。イルカ先生は全然大丈夫なんだ」
口を尖らせて言われた台詞に、かっとなった。
「なに子供みたいな事言ってるんですか。あんた火影なんですよ?分かってます?」
「分かってますよ」
「じゃあさっさと起きて支度してください」
カカシはそれ以上何も言い返さなかった。ふいと自分から視線を外してしばらく黙り。
「分かりましたよ」
低い声でつぶやくように言った。

それからそんな駄々をこねる事はなくなったが。
だから、家に二人いるときは、甘やかすようにしている。そのくらいはしてあげたいと、手をかけてカカシの好きな献立を用意したり、時間があればべったり二人で寝たり。そんな時はカカシはすごく幸せそうな顔をし、それを見てイルカも幸せになった。
でも。
少し前から、カカシは自分の雑用をイルカに仕事を頼みたいと言い出した。それもこっちはこっちで忙しいから無理だと言ってるのに。
しかも今は3月。年度末だ。どの時期も忙しいが、一年で一番忙しい。
アカデミーからは一番上のクラスの生徒が巣立ち、こんどは新たに新入生が入ってくる。
しかも教師もそれは然り。その世話だって自分が任されているというのに。
猫の手も借りたいくらいだってカカシは知っているはずだ。
ずかずか廊下を歩き、突き当たりにある大きな扉の前で足を止める。
薄く結界が張り巡らされているが、自分がここにきた事は、もうカカシは気が付いているだろう。
イルカは手を挙げ扉を2回叩いた。
「イルカです」
はーい、と間延びしたいつものカカシの声が聞こえる。イルカはそこで息を吐き出すと、扉を開けた。
「先生」
嬉しそうな顔のカカシがイルカを出迎えた。
カカシに会ったのは5日ぶり。
年度末になって忙しいのはカカシも同じだった。
少しやつれたな。
たった5日ぶりでもカカシの顔色を見てイルカはそう思った。
ただでさえ色が白いカカシだが、特に顔色が優れていないように見える。
怒りがさっきまであったのに、カカシの顔を見たら少し薄くなっていた。
「カカ、いや、火影様。顔色が優れていないようですが、ちゃんと食べてますか?」
イルカの問いに、明らか様にカカシは顔を顰めた。
「火影様ってやめてって言ってるでしょ」
それは火影就任後からずっと言われている。
それでもだからって、自分だけ呼び方を変える訳にはいかない。
いつもの小言に、イルカは息を吐き出してやり過ごして。部屋を見渡した。
「シズネさんは?」
「ああ、出かけてます」
病院の方にね。と付け加えられ、納得する。仕事を掛け持ちしているのは誰も同じだ。
そこから視線をカカシに戻す。
綱手の時も酷かったが。それ以上に書類が山に積まれ、忙しさを物語っている。綱手以上に火影としての業務が早いとシズネが感心しているのに。
少しかわいそうになるが、当初の目的を思い出して、イルカは違う、と首を振った。
「火影様」
「はい」
にこっと微笑んで返事をするカカシに一歩詰め寄った。
「どうでもいい事でヤマトさんを使わせるのはやめてください」
それ以前も言いましたよね?たぶん、カカシはそう言われると予想していたのだろう。
口布の下で口を尖らせたのが分かった。
「まーね。でも俺ここから離れられなかったし。ちょうどヤマトここに顔出したし」
それに、どうでもいい事じゃないから。
言い返され、イルカはむっとした。
「ヤマトさんにとってはどうでもいい事でしょう?」
違いますか?
カカシは何も答えない。代わりに、
「なんかヤマトの事なんて心配しちゃって。ずるい」
これだ。
イルカは呆れた。
何年も交際してきて、分かっているつもりだったが。カカシが火影になった途端、上記に言った事と同様、子供っぽさが突然出てきた。それも時や場所関係なく。もともと俺様気質ではあると思ってはいたが。こうも手を焼くとは思ってもみなかった。
「ずるいとか、そんなの関係ないです。あんな何回も伝言ゲームみたいな事させて、ヤマトさんだって仕事が、んむ」
一瞬だった。
椅子に座っていたはずなのに、気が付けばカカシは自分を腕の内に入れ、唇を塞いでいた。
イルカは目をまん丸にさせる。
久しぶりのカカシの唇に、でもここは執務室で、とか頭が混乱すると、カカシは唇を離した。
抱きしめられたまま、イルカは間近でカカシを睨む。
「火影様、やめてください」
カカシがまた不快そうに顔を顰めた。再び口を塞がれる。
「ん...っ、....」
「いつものようにカカシさんって呼んでください」
だから、TPOを考えろっていつも言ってるだろうがっ。
イルカは拒否するようにもがくと、カカシの腕に力が入った。
「や、...っ」
「呼んで」
低い声に思わず身体が震えた。
「カカシさん、こんな場所は嫌だって...っ、いつも言って、」
名前を呼ぶとまた強く抱きしめられた。
力では勝てないと分かっているが。イルカはもがくのを諦めて力を抜く。
顔を顰めたままカカシの肩に頭を寄せた。
「もうヤマトの事とか言わないで。ただでさえ疲れてるのに。嫉妬で頭がおかしくなりそう」
まだそこかよ。と心でつっこみたくなるが。疲れているのは本当だろう。
イルカは息を吐き出した。
でもこの腕の中はーー心地がいい。イルカもそっとカカシの背中に腕を回す。しばらく抱き合い。
そこでようやく解放された。
「ね、先生。本当にこっちの仕事は頼めない?」
そしたら会える時間増えるんだよ?
言われて、イルカは口を結んだ。
そんなのは分かっている。でも。自分は教員だ。教師として出来る限り現場で働きたいって、それはカカシも知ってるはずなのに。
大体、そんな事を天秤にかけれない事もカカシは分かっているはずだと思っていたのに。
このしつこさに、イルカはうんざりした。
いい大人で。しかも火影で。
なのに。
イルカが言いたい事が分かったのだろう。カカシはじっとイルカの顔を窺うように見つめて。そこで小さく息を吐き出した。
「ごめん。言ってみただけ」
先生があの場所を離れたくないって知ってるのにね。
眉を下げて力なく笑い、後頭部に手を当てた。
その表情に胸が痛んだ。
手を戻すそのカカシの手に、目が留まった。
イルカはカカシの手を取り、手甲から伸びる人差し指の側面を見つめる。
「カカシさん、これって」
書かれている文字。小さいがイルカにも読めた。
シャンプー
からし
そう書かれている。
なんだこれ。首を傾げるイルカにカカシは恥ずかしそうに笑った。
「これね、帰りに買うものリスト。忘れないように」
仕事で疲れてるとどうしても忘れて帰っちゃうから。
「え?」
驚いた。
「俺に言ってくれれば俺が帰りに買うのに」
カカシは首を振った。
「でもさ、イルカ先生も忙しいでしょ?それに俺だって一緒に住んでるんだから。助け合うのが当たり前じゃない」
「でも、...」
言い掛けて、この人が。火影なのに。時間見つけて開いている店に立ち寄ってシャンプーやカラシを買う姿なんでとてもじゃないけど想像出来なかった。
そこでふっと思い当たる。
自分が買おうと思って、買い忘れていたものがあって。でも翌日あったりする。不思議に思った事が何回もあった。自分の事だから、きっと別の日に買ったんだと、勝手にそう解釈していた。
でも。
イルカはカカシの手を見つめた。
この人が買ってくれていたのか。
そんな事すらしないと思いこんで。
たぶん火影になってからこの半年ずっと。
カカシの優しさに、気が付かないで過ごしていた。
目頭が熱くなり鼻がつんとした。
え、とカカシが呟いた声が聞こえたかと思うと、カカシがイルカをのぞき込んだ。
「イルカ先生?なんで?駄目だった?」
「ちが、」
滲む視界にイルカは手の甲で目を擦ると余計カカシが慌てた。
「イルカ先生」
「俺に、...言ってくれれば、...買い物くらい」
「でも、俺はイルカ先生のパートナーじゃない」
そこでようやく気が付いた。
そうだ。
俺は、つき合う時にこの人と一緒に生きていくって決めた。
なのに俺はカカシが火影になってから、里長だからと何よりもそっちを優先するように、努めてばかりで。
怒って喧嘩して。嫌な気持ちになって。
でも、そうじゃない。
カカシは火影である以前に。
俺のパートナーなんだ。
一生添い遂げるパートナーと、誓ったはずなのに。
自分の事しか考えていなかった。
「イルカ先生?何で泣くの?」
涙を手で拭きながら顔を上げると、おろおろしたカカシが目の前にいた。
泣き出すことなんて、そう滅多にないからだ。
突然手のメモを見て泣き出しかイルカを見て驚き慌てふためいているカカシに。
イルカは泣きながら笑った。
またそこに、カカシは困惑した顔をする。
「どこか痛い?」
見当違いの言葉にイルカはまた笑った。首を振る。
「俺、カカシさんに三行半を渡されても文句言えないですね」
笑って言うと。
途端、カカシの顔が変わった。
すごい形相でイルカの手首を掴む。
「うわっ」
思わず声が漏れた。
「なに、なんで。そんな事あるわけないでしょ?」
鬼のような顔に驚き、イルカの涙が引っ込む。
ああ、やっぱりこの人は子供だ。そんな事を思ってしまう。
「やめて、そんな縁起でもないこと言うの」
言われて、イルカは、はい、と頷いた。そこでカカシの掴んでいた手が緩む。
「冗談でもやめて」
少し泣きそうな顔になるカカシに、イルカは思わず微笑んだ。そこでまた、はい、と答える。
そこで、ふっとカカシも安心したように微笑んだ。
その微笑みをみたら、心が満たされていくのを感じた。こんな風に微笑み合ったのはいつぶりだろうか。
最近会っても喧嘩ばかりで。いや、俺が一方的に怒ってたんだけど。
もう怒るのはやめよう。
もっとお互いを思いやって、助け合って。生きていきたい。
それで、カカシの言っていた件をじっくり考えてみよう。

イルカが火影の補佐担当になると決めたのはこの日の夜だった。


<終>