仲直り

 授業が終わると、さっきまで静まりかえっていた教室は子供達の声でいっぱいになる。
 教壇に立っていたイルカは教本の閉じると黒板消しを持ち、そしてふと振り返れば、次の授業の為に移動の準備をしている子供達がほとんどの中、まだ黒板に書いたものをノートに書き写している子がいた。一生懸命書いている、その姿を見つめ微笑み、イルカは黒板消しを元の場所に置いた。
 黒板を消し終わったイルカが廊下に出ると、移動もない他のクラスの子供達は、教室や廊下で楽しそうに休憩時間を過ごしている。そんな子供達を横目に歩きながら、ふと窓の外を眺めた。空は青く薄い雲が遠くでゆっくりと動いている。何でもないその景色を眺めていれば、多少重い気持ちが晴れやかになるものの、憂鬱なのには変わりなく、イルカはゆっくりと息を吐き出した。
 だからそうじゃないって言ってるじゃない。
 今朝カカシに言われた言葉が、表情が、脳裏に浮かんだ。
「ただ一緒に飲んだだけだから」
 部屋で身支度を整えながら額当てを結んだカカシがそう口にしてイルカへ顔を向ける。
「ね?」
 その目は怒っているわけでもなく穏やかだが、言い聞かせられているみたいで。イルカはカカシの青みがかった目を見つめ返し、そして僅かに下へずらした。
 飲み会に参加していたカカシを、昨夜たまたま繁華街で見かけた。浮気はしないと言ってはくれるしそれを信じてはいるが、やっぱり女と仲良く並んで歩いているカカシを見るのは正直嫌な気持ちだった。
 つき合いは大切だと、十分分かっている。ただ、カカシがその気がなくとも相手が同じだとは限らない。昔から知り合いだかなんだか知らないが、その目や表情を見れば分かるから、ムカつかない訳がない。
 自分は独占欲が強いんだと、カカシとつき合ってから初めて気がついた。こんな感情は持った事がなかった。
 アカデミー勤務だからと、つき合っているのを口外して欲しくないと言ったのも自分だ。カカシは文句も言わず了承してくれたのに。
 ーーなんか自分ばっかりカカシにあれこれ言ってる。
 自己嫌悪に陥り、イルカは校庭を歩く子供達を見つめながらため息を短く吐き出した。
 
 午後、受付の仕事に戻ったイルカは、まとめた書類を持ち廊下を歩き執務室へ向かう。 
 元々、カカシとは時々夕ご飯を食べる仲だった。
 最初の頃は上官ということで緊張もしたが、一緒にいても苦じゃなくて、楽しくて、聞き上手で。特別な友人の様に感じ始めていた。特別と言うのは、他の友人や同僚とは違う感覚で、それはナルトと言う繋がりがあるからなのか。本人には言わないが、心を許せる存在で、そんな間柄の友人を何て呼べばいいのか分からなかった。
 その関係が変わったのは数ヶ月前。自分が落ち込んでいたいた時だった。その頃、自分もなんとなく恋人が欲しいと思っていた次期で、同僚に誘われるままに合コンをした。なんとなく気に入った子がいたけど、結局その子は別の人を選んだ。がっかりしたのは、それが自分の同僚だったからなのか。いや、同僚はいいやつで、それはそれで幸せにはなって欲しいが。
 上手くいかないもんですね。
 そうカカシに愚痴っていたら、急に悲しくなってきたのは、いつも愚痴でもどんな話も聞いてくれるカカシに甘えている自分がいる事に気がついたから。
 カカシにとったらどうでもいい愚痴だ。こんなにも親身になって聞いてもらっている自分が嫌になり、情けなくなった。カカシとはこんな話をしたくて一緒に酒を飲んでるんじゃないのに。なのに、
「大丈夫?」
 カカシに心配そうな眼差しで優しく声をかけられたら、泣きたくなった。たぶん酒も入っていたせいもある。
「すみません」
 そう言ってイルカは無理に笑って、おでん屋の屋台のカウンターのテーブルに顔を伏せた。合コンが上手くいかなかったから泣いてるんじゃない。そう説明しようと思った時、ふと聞こえたのはカカシが息を吐き出す音だった。顔を伏せながら、胸が痛んだ。いや、呆れられて当然だ。すみませんと、もう一度笑って言って、こんな話題は終わりにしよう。そう思って上げようとした顔にふわりと何かが触れた。それはカカシの手で、両手で顔を挟むようにして、ぐい、と顔を上に向かされる。
 そんな事されるとは思わなくて、うわ、とイルカから声が漏れた。そして、驚いたイルカの視界に入ってきたのは、顔を上げさせたカカシで。その顔が近づき、気がついたら唇に柔らかいものが触れた。
 何が起こったのか分からなくて。それがカカシの唇だと気がつくのに、何秒かかかった。キスをされたんだと分かっても、あまりにも突然で理解を越えて、イルカはただ、目を開けたまま、呆然としていた。
 カカシは触れた唇を僅かに浮かせ、そしてまた唇を重ねる。ゆっくりと離れたのはその数秒後だった。
 ぽかんとしたイルカの顔をカカシはじっと見つめ、そして僅かに目を緩め、
「やっと泣きやんだ」
 そう口にして微笑んだ。
 屋台には自分たちしか客はいなくて、年老いた店主はよくある?事なのか特に気にしている様子もなく。自分だけが真っ赤になっていた。

 あの後、俺にしたら?とカカシに言われ、きょとんとした。でも、その言葉がすとんと心の中に収まったのは事実で、気がついたら頷いていた。 
 その始まり方もそうだったが、気がつくといつもそうだ。たった四つしか違わないのに、カカシが自分よりずっと精神的に大人に感じてならない。これが恋なのだと気がつかなかった自分とは違い、カカシはきっともっと前から気がついていたんだと思う。
 今回の事だってそう。ただ、自分が駄々をこねているだけで、カカシは何も悪くない。女性と二人きりで会ってたわけでもないし、ただの飲み会ってだけで。ーー自分の心の狭さに嫌になる。
 どうやって謝ろう。
 そう考えるのは、カカシが謝る事じゃないと、そんな空気にしてしまうから。だから、カカシとは喧嘩らしい喧嘩をした事がないし、なったとしても、ただ自分が怒っているだけだ。
 すぐ感情的になる自分とは違い、カカシは常に理性的だ。だから余計に腹が立つのかもしれない。
 結局、冷静な人を怒っている自分が間違っているんだと、そう感じてしまう。

 階段を上がり廊下に出た時、少し前から歩いてきているのがカカシだとすぐに気がついた。カカシと一緒に歩いているのはくノ一で、たぶん上忍だろう。話をしながら歩いている。今朝の事もあるから何とも言えない気持ちになるイルカに、カカシの視線がふとこっちに向けられ、思わず視線を外していた。
 ぎゅっと書類を抱えたまま、通り過ぎるカカシに会釈をし、そこからゆっくりを歩き出す。
 カカシが一人だったら謝れたのかもしれないが、そもそもここは人が往来する建物の廊下で、それにこの関係をを隠したいと言ったのは自分だ。それでいて、今さっきカカシ達の会話から聞こえたのは、うわっついた会話でも何でもなく、忍具の話だった。
 カカシの事が好きになればなるほどに、自分自身が知らなかった嫌な部分がさらけ出されていく。
 ぐっと奥歯に力を入れた。そして眉根を寄せた時、ぐいと腕を掴まれ、え、と思った時にはその腕を引っ張られ、廊下の奥まった壁に押しつけられていた。相手がカカシだと気がつき目をまん丸にしているイルカに、眠たそうな目がふっと微笑む。
 急に何を、と怒り口調で言い掛けたイルカの口をカカシの手が塞いだ。その行為に驚いて目を見張れば、そんなイルカに構わず、カカシはもう片方の手を上げ、立てた人差し指を口に当てる。シー、と囁くカカシに、イルカは眉間に皺を寄せた。
 急にこんな場所で、何で半ば強引に壁に背中を押しつけられなきゃいけないのか。死角であっても誰かがいたら当たり前だが気がつく。
 離してください、と言いたいのに、カカシはその手を退けない。自分の手は書類で塞がっている。困惑するイルカを前に、カカシは人差し指で自分の口布を下げながら耳元へ顔を近づけた。薄い唇が耳朶を甘く噛む。
 まさかの行為に身体がかっと熱くなった。たぶん、顔も、唇を寄せられた耳も、真っ赤だ。書類を抱える手に力が入った。やだ、と言えばくぐもった自分の声が、カカシの手のひらの下で漏れた。カカシは、うん、と返しながらも、また真っ赤になったイルカの耳朶に唇を落とす。その唇が首筋に触れ、イルカは身体を震わせた。
「・・・・・・あんな顔しないで。仲直り、しよ?」
 唇を浮かせた時にカカシがそう囁き、そこでようやく自分が仲直りしたいんだと、そんな顔をしてしまっていた事に気がつかされる。
 胸が苦しくなった。
 抵抗しないと分かったのか、カカシが口を覆っていた手をそっと退け、そしてイルカの顔をのぞき込む。甘く、端整な顔立ちのカカシを見つめれば、カカシは口元に微笑みを浮かべたまま、薄く、優しく微笑みを浮かべた。
 結局全部見抜かれている。
 今朝怒ったのもただの嫉妬だと言うことも、悪かったと思ってる事も。その怒りに引っ込みがつかなくなってしまって困っている事も。
「・・・・・・カカシさんなんか嫌いです」
 頬を赤らめながら恨めしそうにカカシを睨んで言うも、嫌いなわけがなく、これもまた恥ずかしさの裏返しだって、カカシは知ってるのだ。それを証拠に、そうなの?と聞くカカシは眉を下げ嬉しそうに微笑んでいる。
 むくれているイルカにカカシの腕が伸び、抱き寄せられた。その手は優しい。
 顔を近づけるカカシにイルカは持っていた書類から手を離した。書類が床に散らばる。
 その音を聞きながら、その手もカカシの首へ回し、自ら口を軽く開ける。カカシと唇が深く重なった。
 


<終>