恩返し

森中で心細く1匹の猫がうずくまっていた。
夜。月は輝く。
その光は嫌いじゃなかったはずなのに。
その月光の下、自分の心は酷く沈んでいた。
人間が仕掛けた罠。畑を荒らす狸か狐でも捕るつもりだったのだろう。しかしそれより先に自分が迂闊にも引っかかってしまった。
何日も餌にありついていなかったのだ。
罠だと分かっていても。食べたかったのだ。
思ったよりも傷は深くて、痛みと空腹でこの場所から動くことすらできない。
明日の朝、人間が見たらどうなるのだろうか。
きっと山奥に捨てるに違いない。せっかくの罠を無駄にしたと罵りながら。
生まれてすぐの子猫の自分は人間に捨てられ、最後も人間に殺されるのか。
嫌だな。
元々黄色がかった毛色も、薄汚れて茶色になってしまっていた。
ぼんやりと自分の足下を眺めた。その時だった。
ふっと舞い降りたように現れた気配に、猫の身体がすくみ上がった。同時に感じる人間の気配。
顔を上げれば、男がしゃがみ込んでいた。
「どうした。お前」
その声と共ににゅっと伸びた腕に威嚇の声を上げた。
男はぴたりと手を止める。
「大丈夫。何も怖い事しないから。な?お前、罠にかかったんだろ?」
話しかけられているとは分かっているが。人間が何言ってるのか分からないし、なにより、パニックになっていた。
人間は危険だ。
そう生まれた時からずっと、それは変わらない。
身体を後退させながら見下ろす人間を睨んだ。
来るな。
こっちに来るな。
自分のうなり声が山に響く。
「ほら、大丈夫だ。助けてやる」
その様子をじっと見つめながらも、男の手がまた自分に伸びた。
驚き恐怖で身体が固くなった。そこから、その手に爪を立て噛みつき、肌を裂いた。口内に人間の血の匂いが広がる。
手応えはあった。
口を離し、また威嚇の声を上げる。動けないから、それしか出来ない。
予想通り、人間の手から血が流れていた。
人間と目が合い。
一瞬混乱した。
男は、優しく微笑んでいた。
怒りの眼差しを全く含んでいない。
攻撃し、相手に怒りを露わにしたと言うのに。
こんな人間見たことがない。
「どうしても、駄目か?」
痛がる様子も見せずに、男はまた何かを自分に言う。
再び近づいたらもう一度その手を噛む。二度と近づかないように。
それしか頭にない。
恐怖に包まれながらもまた、唸れば。それ以上手は伸びてこなかった。
男は立ち上がり。
警戒する自分の前から姿を消した。

人間の臭いが徐々に薄れ、身体の緊張も解けていく。
人間に何かされるくらいなら。
このまま死ぬのを選ぶ。
そこからゴミのように捨てればいい。
猫は警戒しながらもまた、その場にうずくまった。
寒さに身を縮ませる。
すぐに疲労と寒さで眠気に包まれた。

半時もしない内にまた、気配を感じて猫は目を覚ました。
感じた気配に耳をぴくりと動かした。目を開け顔を上げる。
また人間か。それとも別の天敵か。
目の前に現れたのは。
1匹の大きい黒い猫。
雄の成猫だった。成猫になったばかりの自分とは大きさが違う。
同じネコと言えど、警戒した。その黒猫に向かって威嚇の声を再び上げる。
だが、黒猫は怯む様子もない。じっと様子を見ている。どうやら敵対する様子はないらしい。仕方なく、威嚇をやめて口を開いた。
「何だ、お前」
問いかけると、一歩、黒猫は自分に近づく。
野良猫にしては毛並みが綺麗だった。鼻に傷があり、右前脚にはまだ生々しい傷。どこかで縄張り争いでもしたのだろうか。多少腕がある猫なのか。その手の傷をぺろと舐めて、また一歩前に来る。自分との距離を詰めた。
黒猫はまだ多少警戒をしている自分の前まで来ると、罠にかかっている後脚を見た。
「大丈夫か?」
「ほっとけよ」
強がりもあったが、余計なお世話だった。鼻で笑えば、黒猫は首を振った。
「無理するな」
そんな事は初めて言われた。同じ猫でも同じ、森の中で暮らす野良猫は皆、生きていくので精一杯なのだ。
それに、変わった黄色っぽい毛色のおかげで、他の猫から薄気味がられ相手にもされてこなかったのだ。
そんな自分に。干渉なんてするはずがない。
「お前、頭おかしいんじゃねえの?」
「生きる事を諦めているお前のほうがどうかしてる」
言い換えされた内容にもまた、混乱した。
馬鹿なやつがいるものだ。と思うのもつかの間。驚いた。
自分の脚に引っかかったままの罠を前脚と口で噛んでいる。数秒間、何をしようとしているのか。ぽかんと見つめて。罠を外そうとしていると気がついた時は笑いたくなった。
「ほっとけって言っただろ。人間の罠だ。取れっこねえよ」
「放っておけないだろ。お前、死んでもいいのか?」
そう見つめる黒猫の目は真剣だった。
「...それは、その時だろ」
運命だと。受け入れるしか、ない。野良猫の運命など、決まっているのだ。
「じゃあ、助かったっていいだろ」
そう言われ。閉口すれば、
ガシャン、と大きな音と共に、後脚の圧迫間が消える。罠が外されていた。
本当に取れた。ぽかんとその罠を眺める。
「ほら、行くぞ。歩けるか」
聞かれ、我に返った。黒猫に血の滲む後脚を舐められ、飛び上がった。
「いてっ」
「そのくらい元気なら大丈夫だな」
笑われまた困惑するも、ついてこいと言われ、首を傾げた。
「行くってどこへ」
「こんな寒空でその怪我じゃ餌なんて捕れないんじゃないのか?」
「餌ぐらい...っ」
「腹だって減ってるんだろ?」
「...っ、それは」
「じゃあ、いいから。来い」
黒猫は怪我をして脚を引きずる自分に寄り添うように横にきた。そこから並んで一緒に歩き出す。
何処に行こうとしているのか。しかし、その道のりに脚を止めた。人間がたくさん集まっている方向へ進んでいると気がついたのだ。
脚を止めると、黒猫が気がつき、脚を止める。
「どうした?」
「人間は嫌いだ」
言えば、黒い目がじっと自分を見つめる。
「人間がたくさん住んでる場所だが、今から行く場所はいないし、安全だ」
「...?よく分からねえ。とにかく嫌だ」
動かなくなった自分を見て、黒猫がため息を吐き出した。
「いいから聞け」
間近まで来ると青い目を優しく見つめる。
「俺はお前を助けたい」
「それは分かってる」
たったこれだけの時間だけで、この黒猫の暖かさはよく分かっていた。本当に自分を心配してくれている。
感じたことがない暖かさに。このままついていきたいが。人間は怖い。
嫌いなんだ。
黒猫はこれできっと自分に呆れるだろう。呆れて、他の猫と同じように嫌って、ーー。
ぺろ、と顔を舐められた。驚いて顔を上げると、また顔を舐められる。
「大丈夫だ」
どうしたらいいのか分からなくなっていた。
大丈夫と言われても。この黒猫は信じられるが、人間は別なのだ。
この身に染み着いた怒りと恐怖は簡単に消えない。
「俺が向かうのは、人間が住んでる場所だが。大丈夫だ。今夜はいない。餌と寝る場所を借りるだけだ」
だから、俺を信じろ。
そう言われ。仕方なく頷く。
黒猫は嬉しそうな眼差しを見せた。
夜だからか、人通りはほとんどない。ひたひたと黒猫の後ろ姿について歩いた。
が、黒猫が予定外だった出来事が起きた。雨が降ってきたのだ。
取り敢えず、と2匹は走って大きな木の根本で雨を凌ぐ。
その横に並んでいる小さな人型の石。それに黒猫は語りかける。
「お地蔵様。少し雨宿りさせてください」
「おじ....なんだ?」
意味が分からなくて聞けば、黒猫は何でもないと、微笑むだけ。
その黒猫が呼ぶお地蔵様と言う石を不思議そうに眺めた。
ふっと2匹の目の前が陰った。
なんだろうと思って顔を上げて。ーー身体が固まった。
それは黒猫も同じだったのか。
人間がいた。
普通だったら気配とか匂いとか、何かを感じるはずなのに。雨が降っているせいだったのだろうか。何も気がつく事が出来なかった。
唯一露わな右の青い目がじっと2匹を捉えていた。
逃げたい。
なのに身体が竦んで脚が動くのに動けない。いつもなら出せる威嚇の声すら喉から出てこない。
が、隣で黒猫が静かに唸った。
人間と自分の間に立つ。人間から俺を守るように。
男もまた動かなかった。感情のない目でじっと2匹を眺めて。視線を外すと歩き出す。
すたすたと雨の中姿を消し、黒猫が息を吐き出したのが分かった。
「大丈夫か?」
まだ恐怖で身体が固まったままの俺に黒猫が振り返る。身体を舐められ、安堵感が増す。
その時、黒猫が耳を立てた。また何か危険を察知したのだ。
その通り、さっき消えた男がまたこっちに歩いてきている。黒猫がまた自分を守るように男に威嚇の声を上げた。
しかし男は手を伸ばしてきた。
「おいで」
男の低い声が小さく響いた。それに黒猫が驚いたのか。威嚇の声をやめる。
何故やめたのか。ここはもっと威嚇して人間を遠ざけるべきなのに。
一体どうしたのか。
「ほら。怪我の手当くらいしてあげるから」
そう男が言う。
だが、黒猫は男を伺うような眼差しで顔を見つめたまま。戸惑っているように見える。
にゅっと伸びた手に2匹は捕まった。


暴れる俺は、無理矢理男に手当てされた。
「痛いって」
男は爪で引っかかれながら俺を押さえつける。噛もうとしても、何度もかわされた。
「お前、立場分かってないね。捨てちゃうよ?」
不機嫌に何かを自分に言いながら、傷に何かを塗りつけられた。それが臭いし傷に沁みる。俺はまた反撃するも難なくかわされた。
何をされるのか。人間に触られた事がない為に半ばパニックに暴れる俺とは別に、黒猫は諦めたのかじっと男の様子を伺うばかり。
黒猫も男に、前脚の怪我に臭い何かを塗られていた。大人しく、その箇所をふんふんと鼻で匂いを嗅いでいる。
落ち着いたのはだいぶ経った後だった。
男は傷に何かを塗り終えると、ようやく俺を解放する。部屋の隅に俺は隠れ身を物陰に潜める。
男の様子を伺っていると、何かを手に持ってきた。
美味そうな匂いだった。部屋にその匂いが充満して、思わず唾を飲み込む。
一体あれは何だろう。
それでも怯えて動けないでいる俺に、黒猫は立ち上がると男の置いた皿に向かう。先に飲み始めた。そして振り返り俺を見る。
飲んでも大丈夫だと、そう目で言っていた。
空腹と、黒猫の仕草に、俺は諦めるように。黒猫の横まで行く。
ミルクだった。
美味そうな匂いに飲みたくなるが。人間の与えるものを口にするのが怖いし、信じられない。
ミルクを見つめたまま動かない俺に、また横で黒猫がミルクを一口舌で掬って飲む。
「飲め」
黒猫が一言、そう言った。
「俺が飲んでるんだ。大丈夫だ」
大丈夫。黒猫のその一言に身体が、脳が安心したのか。
ゆっくりと、俺はそのミルクを口にした。
美味しい。
暖かいミルクは空っぽの胃を満たしていく。気がつけば必死に舌で掬って飲んでいた。ふと顔を上げれば黒猫が暖かい眼差しでこっちを見つめていた。見守るように。
その目は何故か安心する。そこから俺はゆっくりそのミルクを空になるまで飲んだ。
男は少し離れた場所で黒猫と俺を静かに見守っている。
黒猫も気になるのか、時折銀色の髪の男をちらと見て様子を伺っていた。
ただ、警戒している様子はなかった。
「ほら、お前等はここで寝なさいね」
と、柔らかい毛布を与えられ、その上で丸くなる。久しぶりに暖かい寝床を手に入れて。それが人間に与えられたもので。すごく不思議な感覚に陥った。
人間は怖いものだとばかり思っていた。
黒猫の隣で丸くなりながら、うとうとと思う。
そう言えば。罠にかかった自分の前に現れた人間。あれも、もしかして自分を助けようとしたのだろうか。
何を言っているのかよく分からなかったが、俺に向けたあの指は。決して自分を傷つける為じゃなかったのかもしれない。
あの黒い目の男を思い出して見るが、恐怖に頭がめちゃくちゃになっていた為、しっかりと思い出す事は出来なかった。
ふと目を開けると、黒猫が顔だけを上げてどこかを見つめている。その視線の先を追えば、男が寝ていた。その男に穏やかな眼差しを向けている。
静かに寝息を立てて寝ている男をじっと見つめて、自分の視線に気がついたのか、ふとこっちに顔を向けた。
「おやすみ。ゆっくり寝ろよ」
そう言って黒猫はまた自分の身体に頭をつけ目を閉じる。
「うん。おやすみ」
そう返事して俺も目を閉じた。


翌日男は怪我の手当をもう一度すると、俺たち2匹を解放した。
雨の上がった暖かい朝だった。
驚くことに、傷はすっかり良くなっていた。痛くない。あの臭いやつのおかげなのか。普通に歩ける事に驚く。
黒猫ともそこから別れた。
「元気でな」
「なあ、また会えるかな?」
背を向け去ろうとした黒猫に、そう声をかけていた。黒猫は足を止め振り返る。
「うん。きっと会える」
多くの野良猫の縄張りがある中、もう一度会えるのか、定かじゃないのに、黒猫は確信した言い方をした。
それは俺に希望を与える。
「じゃあな」
黒猫はそう告げると走って消えた。
本当は。
その黒猫ともっと一緒に居たかったけど。
別々の道を歩まなければいけないと、俺も分かっていた。
いつか。
いつかまた会えたら、今度は俺はあの黒猫に恩を返そう。
強い猫になって、成長した自分を見てもらえたら。
だから、絶対この気持ちを忘れない。
そう胸に秘めて。森に戻った。


俺は森に戻ったが、やはり黒猫に会う事はなくなった。それでも時々山を下りて、人間の住む町に足を運ぶ事は多くなった。
まだ人間は苦手で嫌いだけど。
黒猫に会えたら嬉しいから。
ある日、木の上で昼寝をしていたら人間の気配に、自分の耳がぴくりと反応した。
俺は目を開け顔を上げる。
視線の先にいるのは黒い髪を一つに縛り、鼻に傷がある男。
見たことがないはずなのに、何故か気になった。
気になって。
未だ人間は苦手だけど。
じっと木の上でその男を見つめる。
気配を殺して見ていたのに、男がふっと木の上の自分を見つめる。驚きに息を詰め構えるとーー。
男が笑った。
自分を見て嬉しそうに。そこから木の下まで駆け寄ってくる。
俺は思わず身体を起こし、逃げようか迷い、
「久しぶりだな」
男が黒い目を緩ませそう言った言葉に耳を疑った。
そこから一気に朧気だった記憶が、脳裏に浮かんだ。
あの夜。月が綺麗だった夜。
俺が人間の罠にかかっていた夜に、声をかけてきた男。
その男と、黒猫の面影が、ぴたりと重なった。
そんな事があるはずがない。
それに。人間の言っている言葉が分かる。この男が、自分に何て言ったのか分かるのだ。
俺は信じられなくて、身を起こし警戒したまま。男と対峙するように木の上から見下ろした。
嬉しそうな顔のまま、男は俺をじっと見つめる。
「元気だったか?」
「うん」
俺は答えていた。
男はにっこりと満面の笑みを浮かべた。
「良かったな」
紛れもない。黒猫の面影。
あの黒猫はこの男が化けていたのかーー?狐や狸ならともかく。人間も化けたりする能力があったのか。
聞いた事のない事実に、俺は困惑するが。
また黒猫に会いたかったのも事実だった。
きっと会える
確信を帯びたその言葉の意味が、ようやく分かる。
猫に化けて、危険を冒してまで自分の命を助けてくれた人間。
あんなに憎かった筈なのに。
俺は泣きそうになるのを堪えながら、男を見つめた。
「イルカ先生」
声がして、男が振り返る。
その視線の先にいる人間。それは、いつしか自分を黒猫と共に介抱してくれた。あの銀髪の人間の男だった。
「今行きます」
イルカは男にそう返すと、また俺を見上げた。驚いた顔をしている俺を見て、照れたように微笑んだ。
「ありがとうな。お前が俺に大切な事を気付かせてくれた」
「ーーなんの事だよ?」
聞き返しても、それ以上何も言わずに、ただ微笑むイルカに俺は首を傾げた。
「先生」
再び名前を呼ばれ、
「じゃあな」
いつか言われたその言葉を、また黒猫だった男が口にした。
「うん。イルカ先生もな」
俺がそう言うと、ふっと目を細ませ嬉しそうに笑い白い歯を見せた。
また遠くで銀髪の男がイルカを呼び、イルカはその男の元へ駆けていく。
俺はその様子をじっと木の上から見守った。
それは。仲むつまじい姿で。
2人で幸せそうに見つめ合い微笑んでいる。
そう。幸せそうに。

(...そっか。イルカ先生は幸せなんだ)

いつか返したいと思っていた恩。
でも、あんな幸せそうな顔を見たら。
これでいいのかと、思えた。
ありがとうと、言われたその意味は分からないけど。
感謝された事に、身体中が喜びで溢れている。
俺は背伸びして身体を伸ばすと、森に帰るべく木から飛び降りる。
そして、振り返ってもう一度2人の後ろ姿を見送った。
俺はそこから森に駆け出す。
(じゃあなイルカ先生。また会いに来るってばよっ)
そう心で告げて。


<終>



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