選択肢⑤
報告所でイルカは報告書の確認漏れがないよう読み直していた。受理する際に確認しているのだから基本漏れはないが、最終的に火影が目にする書類だから、不備は禁物だ。
確認しながらも、昨日のアカデミーでのテストの結果を思い出し、イルカは眉根を寄せた。苦手だと思っているところを克服するのには時間がかかる。それは自分自身子供の頃に経験しているのだから分かっているはずのに。自信を持たせる為にどうすべきか。書類に目を通しながらそんな事を考えていると、ふと目の前に陰りが出来る。隣の席の同期に、おい、と小声で呼ばれ、そこでイルカは顔を上げた。
あ、と思う間もなく、目の前に立っていたカカシが、はい、とイルカに報告書を手渡す。受け取ったイルカは、ぺこりと頭を下げ、書類に目を落とした。
確認しながら、考えないようにしていたのに、目の前にカカシがいるから。嫌でもこの前の約束が頭に浮かぶ。自分は約束を口約束にせず守るタイプだが、カカシはどうなのか。わざわざ一回別れた後引き留めてきたぐらいだから、その場の流れだけにするとは思えない。
ペンを持ったままぐるぐる考えが回る。視線を落としていた書類の横に、ふとカカシの手が置かれ、それは当たり前にイルカの視界に入る。何だろうと思い顔を上げれば、カカシが少しだけ屈み、イルカへ顔を近づけた。
「金曜日はどう?」
低い声で囁くように、そうカカシが口にした。顔を向ければ、間近で目が合い、その青みがかった目が微笑む。言われた内容は理解出来るのに、一瞬頭が真っ白になり、言葉が出ないイルカに、カカシから、どう?と続けられ、ようやくそこで我に返る。自分のスケジュールを思い出しながら、大丈夫です、と返すのが精一杯だった。
こんな流れになるとは思わなくて。カカシが去った後、ぼんやりしていれば、隣の同期に、どうした?と声をかけられる。え?と聞き返していた。
「はたけ上忍に何か言われたのか?」
ぼんやりしているイルカに、心配そうな顔を同期が向ける。イルカは笑顔で、いや何も、と答え首を振った。
そうじゃなくて、怪我の手当をしてくれたお礼に、と言えばいいだけなのに、心の中で今さっきの状況が整理出来ていなくて、上手く説明出来そうにない。ただ、カカシと目が合った瞬間、こんな場所であるはずなのに。
ーーキスされるのかと思った。
されるわけがない。
分かっている。分かっているのに。
今更ながら、とくとくと心臓が忙しなく鳴り出す。どうも、慣れない事があまりにも立て続けに起きているせいか。キャパオーバーになりそうだ。イルカはぎゅっと目を瞑り浮かんだ情景を頭の隅に追いやる。そこから、目をゆっくり開けると、イルカは書類の確認を再開した。
「イルカも行くだろ?」
職員室で帰り支度をしていれば、同じ教員の仲間から声がかかる。何が?と聞き返せば、給料日だったか、飲もうって話。そう言われ、イルカは納得した。納得するも、イルカは、ごめん、約束があるから、と同僚に謝る。断るイルカに気にする事なく、時間あったら顔出せよ、よ声をかけ、同僚達は職員室を出て行く。イルカも机の上を片づけ、鞄を手に取ると、そのまま職員室を後にした。
定時より一時間は過ぎたものの、約束の時間はまだ越えてはいない。イルカは急いで暗くなりかけている商店街へ足を向ける。ラーメンは週一だと自分の中で決めているが、ばったりと会ったナルトにせがまれて一緒にラーメンを食べたのは二日前。カカシ先生もラーメン好きなんだって。そう嬉しそうに、ラーメンを頬張りながら口にしていたナルトを思い出す。何かと文句を言うが何だかんだで新しい師であるカカシの事や、任務の事を嬉しそうに話すナルトに、成長を感じずにはいられない。イルカは目を細めた。
八時を過ぎた頃、イルカはラーメン屋の通りを挟んだ前に腰を下ろしていた。
時間になってもカカシは姿はない。自分とは違いカカシは戦忍で、任務が入ればどんな理由にせよ優先しなければならないのは当然で。だったら仕方がないとは思うが。仕事が少し伸びているだけなのかもしれない。
どうしようと思いながら待ってみるも、既に二時間は経とうとしている。イルカはため息を吐き出した。
正直、腹が減っているが約束をしているのだから、何かを食べるわけにもいかない。ただ、何故か、カカシが約束をすっぽかす事はないと、何となく感じた。きっと、理由があって来れないのだ。
そう思っいる間に時間はどんどん過ぎ、周りもすっかり暗くなっている。しゃがみ込んだまま、自分の足に立て肘をつきながらラーメン屋の赤い提灯と、客が出入りするその人影を何となくぼんやりと見つめた。
イルカはしゃがみ込んだまま目を瞑り、うーん、と唸る。そこから立ち上がり、短く息を吐き出した。
帰ろう。
かれこれ三時間。これ以上待っていても、きっとカカシは来ない。かと言ってラーメン屋に入る気持ちにはなれない。
イルカはゆっくりと歩き出した。
虫の音が聞こえる道端を歩く。空腹なはすなのに、食欲がそこまでないのは、きっと胃がラーメンを期待していたからで。そう、気持ちが落ち込むのもそのせいだ。そう自分に思い込ませるように、心で呟く。
この時間なら、まだ同僚達はまだ飲んでいるだろうか。金曜だから二件目に行ったか、まだそこにいるか。
こんな気分で家に一人で帰ってもなんだか侘びしい気持ちになりそうで。イルカは何となく、繁華街へ足を向けた。
いつもの居酒屋に同僚達がいなかったら、開いてる店か、コンビニで何か買って帰ろう。
そう思いながら繁華街へ入る道へ差し掛かり、顔を上げ、足を止める。少し先の店から出てくるのがカカシだと分かっているのに、信じられなくて。ただ、じっと見つめた。
カカシの隣を歩くくノ一に見覚えがあるのは、先日見た顔だから。綺麗な顔ですらりと伸びた足が印象的なくノ一だ。歩きだしながらカカシに腕を絡ませる。
イルカは表情を変えないまま、くるりと向きを変えるとそのまま自分のアパートへ向かった。
翌週、イルカは教壇に立っていた。先週のテストで間違いの多かった部分を重点的に教える。
思った以上に真剣に授業に聞き入る生徒の顔に、イルカもつい熱が入る。術は特に実際にチャクラも練れない子供たちでは、出来ないものがほとんどで、知識だけでどこまで理解をしてくれるのか。簡単な実験を兼ねた授業に子供たちは目を輝かす。イルカの中で満たされたものを感じた。 自分の授業の内容が、下忍になり、いつか取得した技と頭の中で繋がってくれれば、それが一番いい。
授業を終えたイルカは、一人教室を出たところで、一番奥の書庫室で書類整理をしていた同期の教員と顔を合わせた。両手一杯の書類をイルカは半分持ち、一緒に雑談をしながら別の書庫室へ足を向けた。
報告所がある建物の中に裏口から入り、真っ直ぐ廊下を進む。長い廊下の先に、カカシがいた。
思わず足を止めそうになった。心臓がぐっと苦しくなるがそれに自分自身気がつかないフリをする。カカシの隣には煙草を咥えたアスマが並び、廊下で何やら立ち話をしている。
イルカは目を伏せていた。正直顔を見たくなかった。隣の同期の教員と同じように会釈だけをして通り過ぎる事を選ぶ。
「イルカ先生」
なのに。丸で当たり前のようにかかるカカシの声に、どうしようもなく重い気持ちになった。
今更自分と何を話すことがあるのか。と言うか、話したくない。しかし、ここは職場で仕事中だ。顔に出さないよう何とか努めながら、イルカはゆっくとカカシへ視線を上げた。
何か、と言う前に、カカシは先に話し始める。
「金曜はあれだったけど、今度いつにする?」
聞きながら、何を言ってるんだろうと思った。
頭を傾げたくなる。
素直に何を言ってるんですか、と聞いてもいいが。それより何より言葉が出てきそうになかった。
しんどいなあ、と心で呟き、そこで、自分がしんどいんだと今更思う。にこやかなカカシの顔に、イルカは内心冷めた目で見つめた。
そう、向こうは、ただの気まぐれで声をかけてるだけなのに。
これ以上、傷つきたくない。そう思ったら、イルカは笑顔を浮かべていた。その笑顔をカカシに向ける。
「実はここ最近仕事が立て込んでて、忙しくなりそうで」
だからすみません。
笑顔で言うと、カカシは少しだけ面食らったような顔をした。そう、と小さく口にする。頭を掻くカカシに、それ以上何か言う前に、じゃあ、急いでるんで、とイルカは頭を下げた。
「失礼します」
アスマにも会釈をして、同期に促すと、イルカは早足で歩き出す
廊下の角を曲がったところで、同期がイルカへ顔を向けた。
「お前、金曜ってもしかしてはたけ上忍と約束してたのか?」
僅かに俯き表情をなくしていたイルカは、その言葉に顔を上げる。そうそう、とまた笑顔を浮かべ答えた。
「そうだったんだど、カカシさん忙しいみたいで」
内勤と違って戦忍は大変だよね。
笑いながら、イルカは書庫室の扉へ手をかけた。
仕事が終わり家に帰ってきたイルカは、部屋の電気を点けた。朝出かけた時のままの自分の部屋を眺め、ふうと息を吐き出す。ベストを脱いだ。
台所に立ち、今日の夕飯の用意を始める。昨日大家さんにもらった煮物と朝作った味噌汁の鍋を冷蔵庫から出し、味噌汁を火にかけながら。
虚ろな眼差しでガスコンロから見える揺らめく青い火をぼんやりと見つめた。
ーー折角、今日は途中までは上手くいってたのに。
いや、上手くいった。カカシの前でも上手く立ち回れた。
笑顔で。何事もなかったように。
何事もない、そう思ったら、不意に心の中で張りつめていた何かが切れた。
こみ上げるものに、耐えるように、イルカは強く眉に皺を寄せた。
違う、そんなんじゃない。
家に帰ってきたから。いつものように、仕事の疲れを感じているだけだ。
何でもない。
こんなの、何でも。
なのに、ぼやける視界にイルカはそれを拒否するように、目を擦れば手の甲が濡れる。
それさえも、認めたくなかった。強く目を何度も擦る。
違う。
絶対に、違う。
ぼやける目でコンロの火を止めた。
辛い事があった時、風呂で泣く事を選んでいた。
そうすれば、涙ではないと自分を誤魔化す事が出来る。
だから、ご飯なんか用意しないでさっさと風呂に入れば良かった。
こんな事で泣く自分が許せなくて、奥歯にぐっと力を入れる。
玄関を叩く音に、イルカは思わず身体をびくりとさせた。
誰だろうと思う間もなく、
「イルカ先生」
扉の向こうで呼ぶカカシの声に、イルカは濡れた目を瞬きさせた。心臓が嫌な音を立てる。扉をじっと見つめた。
知らないはずのこのアパートを、何でカカシが知っているのか。ナルトに聞いたのか。いや、そうじゃなくて。
混乱しながらそう思ってる間に、また扉が叩かれる。
「ねえ、先生。開けて?」
この言葉にイルカは拒否反応を示すように眉を寄せていた。顔なんて見たくない。会いたくない。
居留守をしようとも、部屋の明かりはついているし、そもそも気配を分かってカカシは声をかけている。
だから、
「嫌です」
イルカは鼻を啜ると、強い口調ではっきりと玄関に向かって声を出した。
もう笑顔を作れそうにない。
だから帰ってくれ。
心底願うイルカの目に映ったのは、玄関の扉が開くとろこだった。よくあることだが、自分がうっかりして鍵を締め忘れていた。
しまった、と思うも、カカシが扉を開け、部屋にいるイルカを見つける。カカシの目が少しだけ大きくなった。
「・・・・・・なんで泣いてるの」
言われ、見られたと思うが、それでも濡れた頬を思わずまた手の甲で拭う。
「これは、」
何でもないんです。そう続けたかったのに。勢いよく部屋を上がり真っ直ぐにこっちに向かってくるカカシに驚いた。
「ちょ、靴を脱いで、」
非難の声を向けるイルカの手をカカシが取る。濡れた黒い目をじっと食い入るように見つめる。
「何かあったの?」
聞かれてイルカは思わずカカシを睨んでいた。
あなたのせいだろう。その言葉がついて出そうそうになるも、言えるわけがない。イルカはぐっと口を結んだ。
こんな顔、誰にも見られたくなかった。特にこの人には。上手い言い訳を必死で考えるイルカに、カカシはじっと顔を見つめる。
「・・・・・・俺のせい?」
ぽつりと呟いた。否定しなきゃ、そう思ったのに。顔が熱を持つのを抑えられなかった。動揺が一気に広がる。
「違う!」
イルカから大きな声が出ていた。
「違うけど、カカシさんなんか、嫌いです!」
ずっと言いたかった事をイルカは言い放ち、だから離せ、と手を動かすも、カカシに掴まれた手はびくともしない。自分の部屋なのに、逃げ出したくなった。
自分は馬鹿だ。
カカシの前からいなくなりたい。
放っておいて欲しい。
なのに、カカシはイルカを離さない。
離せ、と言いかけたイルカの口をカカシが荒々しく唇を塞いだ。
前されたのとは全然違う。貪るような激しさに驚く間もなくカカシの舌がぬるりとイルカの口に入り込む。それだけで身体が熱を持った。抵抗しなきゃ、と思うのに。あまりにも激しくて息継ぐのもままならないし、力が、入らない。顔の角度を変えながら、カカシは抵抗しなくなったイルカに何度も口付けを繰り返す。
ようやく口が離れても、頭の奥がぼーっとなっていた。潤んだ目のイルカをカカシはじっと覗き込み、濡れた唇を指の腹でなぞった。愛おしそうに見つめる。
「ねえ、先生、・・・・・・金曜、先生は残業だったんでしょ?」
ぼんやりとした頭に、入り込んだ台詞に。話が飛んだ事に、眉を顰める。何言ってんだ、とカカシを見れば、ひどく真剣な顔でこっちを見ていた。
「・・・・・いいえ」
訝しんだ顔を向けながらも、素直に否定すれば、カカシの眉根が寄った。ため息を漏らされ、そんな顔をしたいのは自分だと、怪訝な顔をするイルカに、カカシは視線をイルカに戻す。
「あんたが残業だって、来れないんだって、そう聞いたから、」
耳を疑った。来れない?残業で?
何がどうなったらそんな話になるのか。残業はあったがそこまでなく、僅かなものだった。
ようやく冷静になりつつある頭で、話を整理しようとすれば、カカシが、ねえ、と口を開いた。
「やり直せる?」
聞かれて視線を向けたイルカに、カカシが答え待たずして再び顔を近づけられ、イルカは焦った。やだっ、と、思わず片方の空いた手でカカシの顔を押さえる。
「そもそも、自分は何番目なんですか」
金曜の件が互いの食い違いだったとしても。紅が言った通り手が早いのには変わりはないし、カカシが金曜女といた事には変わりはない。
なのに。は?と聞かれてイルカはむっとした。
「いつも違う女性と歩いてるくせに」
言った後、しまった、と思った。だが、もう口から出てしまったのだがら、後の祭りだ。
咎めた口調のイルカに、カカシは、少し間を置いた後、ああ、と理解したように、しかし何でもない風に答える。
「あれは向こうから寄ってくるから相手にしてるだけ。自分からやりたいと思ったのは先生だけだよ?」
明け透けな言葉にイルカの顔が赤くなった。
「ひど、」
思わず言えば、カカシはまたしても、何で?とイルカを見つめる。
「先生にはちゃんと手順を踏んでたでしょ?」
踏んでない。踏んでない。
踏んでないし、こんなの最低だし、女性に対して酷い言葉だと思うのに。
先生だけ。先生には。そう言われて心のどこかで嬉しいと感じる自分がいた。
ついさっきまで本当に胸が重くて、痛くて。そう、涙が出るくらいに胸が痛かったのに。馬鹿みたいに、それがない。
それに、こんな事があったのにも関わらず、会いにきてくれたのが、嬉しい、なんて。もやもやとした気持ちに、考え込むように黙ってしまったイルカを、カカシは見つめていた。口を開く。
「じゃあさ、きれいさっぱり他の女との関係をなくしたら、俺の女になってくれる?」
え?と聞き返していた。
そんな問題でもない。呆れる。
なのに、驚くことにあんな台詞を言うにはほとほと合ってないだろう、カカシの顔は至って真面目で。真剣な顔をされ、イルカは、困惑しながらも、内心ため息を吐き出した。
ここで頷いたら駄目だって、そう思うから。
「・・・・・・考えます」
ふいと顔を背けながら、突っぱねた言い方をすれば、一瞬驚いた顔をした後、カカシはムッとした顔を見せた。
「嘘ばっかり」
きっぱりと否定され、なっ、と言葉を失いながらも言い返そうとするイルカにカカシは、でもまあいいですよ、と続ける。
「先生にその気があるって分かったから」
どんなに隠そうとも、見破られてる事実に変わりはない。
恋ってこんなんだっけ?と思うが過去誰かを好きになった事がなかったから、分かるはずがない。
それが悔しくて。
むくれた顔しか見せないイルカに、カカシはただ、目を細めて笑った。
<終>
確認しながらも、昨日のアカデミーでのテストの結果を思い出し、イルカは眉根を寄せた。苦手だと思っているところを克服するのには時間がかかる。それは自分自身子供の頃に経験しているのだから分かっているはずのに。自信を持たせる為にどうすべきか。書類に目を通しながらそんな事を考えていると、ふと目の前に陰りが出来る。隣の席の同期に、おい、と小声で呼ばれ、そこでイルカは顔を上げた。
あ、と思う間もなく、目の前に立っていたカカシが、はい、とイルカに報告書を手渡す。受け取ったイルカは、ぺこりと頭を下げ、書類に目を落とした。
確認しながら、考えないようにしていたのに、目の前にカカシがいるから。嫌でもこの前の約束が頭に浮かぶ。自分は約束を口約束にせず守るタイプだが、カカシはどうなのか。わざわざ一回別れた後引き留めてきたぐらいだから、その場の流れだけにするとは思えない。
ペンを持ったままぐるぐる考えが回る。視線を落としていた書類の横に、ふとカカシの手が置かれ、それは当たり前にイルカの視界に入る。何だろうと思い顔を上げれば、カカシが少しだけ屈み、イルカへ顔を近づけた。
「金曜日はどう?」
低い声で囁くように、そうカカシが口にした。顔を向ければ、間近で目が合い、その青みがかった目が微笑む。言われた内容は理解出来るのに、一瞬頭が真っ白になり、言葉が出ないイルカに、カカシから、どう?と続けられ、ようやくそこで我に返る。自分のスケジュールを思い出しながら、大丈夫です、と返すのが精一杯だった。
こんな流れになるとは思わなくて。カカシが去った後、ぼんやりしていれば、隣の同期に、どうした?と声をかけられる。え?と聞き返していた。
「はたけ上忍に何か言われたのか?」
ぼんやりしているイルカに、心配そうな顔を同期が向ける。イルカは笑顔で、いや何も、と答え首を振った。
そうじゃなくて、怪我の手当をしてくれたお礼に、と言えばいいだけなのに、心の中で今さっきの状況が整理出来ていなくて、上手く説明出来そうにない。ただ、カカシと目が合った瞬間、こんな場所であるはずなのに。
ーーキスされるのかと思った。
されるわけがない。
分かっている。分かっているのに。
今更ながら、とくとくと心臓が忙しなく鳴り出す。どうも、慣れない事があまりにも立て続けに起きているせいか。キャパオーバーになりそうだ。イルカはぎゅっと目を瞑り浮かんだ情景を頭の隅に追いやる。そこから、目をゆっくり開けると、イルカは書類の確認を再開した。
「イルカも行くだろ?」
職員室で帰り支度をしていれば、同じ教員の仲間から声がかかる。何が?と聞き返せば、給料日だったか、飲もうって話。そう言われ、イルカは納得した。納得するも、イルカは、ごめん、約束があるから、と同僚に謝る。断るイルカに気にする事なく、時間あったら顔出せよ、よ声をかけ、同僚達は職員室を出て行く。イルカも机の上を片づけ、鞄を手に取ると、そのまま職員室を後にした。
定時より一時間は過ぎたものの、約束の時間はまだ越えてはいない。イルカは急いで暗くなりかけている商店街へ足を向ける。ラーメンは週一だと自分の中で決めているが、ばったりと会ったナルトにせがまれて一緒にラーメンを食べたのは二日前。カカシ先生もラーメン好きなんだって。そう嬉しそうに、ラーメンを頬張りながら口にしていたナルトを思い出す。何かと文句を言うが何だかんだで新しい師であるカカシの事や、任務の事を嬉しそうに話すナルトに、成長を感じずにはいられない。イルカは目を細めた。
八時を過ぎた頃、イルカはラーメン屋の通りを挟んだ前に腰を下ろしていた。
時間になってもカカシは姿はない。自分とは違いカカシは戦忍で、任務が入ればどんな理由にせよ優先しなければならないのは当然で。だったら仕方がないとは思うが。仕事が少し伸びているだけなのかもしれない。
どうしようと思いながら待ってみるも、既に二時間は経とうとしている。イルカはため息を吐き出した。
正直、腹が減っているが約束をしているのだから、何かを食べるわけにもいかない。ただ、何故か、カカシが約束をすっぽかす事はないと、何となく感じた。きっと、理由があって来れないのだ。
そう思っいる間に時間はどんどん過ぎ、周りもすっかり暗くなっている。しゃがみ込んだまま、自分の足に立て肘をつきながらラーメン屋の赤い提灯と、客が出入りするその人影を何となくぼんやりと見つめた。
イルカはしゃがみ込んだまま目を瞑り、うーん、と唸る。そこから立ち上がり、短く息を吐き出した。
帰ろう。
かれこれ三時間。これ以上待っていても、きっとカカシは来ない。かと言ってラーメン屋に入る気持ちにはなれない。
イルカはゆっくりと歩き出した。
虫の音が聞こえる道端を歩く。空腹なはすなのに、食欲がそこまでないのは、きっと胃がラーメンを期待していたからで。そう、気持ちが落ち込むのもそのせいだ。そう自分に思い込ませるように、心で呟く。
この時間なら、まだ同僚達はまだ飲んでいるだろうか。金曜だから二件目に行ったか、まだそこにいるか。
こんな気分で家に一人で帰ってもなんだか侘びしい気持ちになりそうで。イルカは何となく、繁華街へ足を向けた。
いつもの居酒屋に同僚達がいなかったら、開いてる店か、コンビニで何か買って帰ろう。
そう思いながら繁華街へ入る道へ差し掛かり、顔を上げ、足を止める。少し先の店から出てくるのがカカシだと分かっているのに、信じられなくて。ただ、じっと見つめた。
カカシの隣を歩くくノ一に見覚えがあるのは、先日見た顔だから。綺麗な顔ですらりと伸びた足が印象的なくノ一だ。歩きだしながらカカシに腕を絡ませる。
イルカは表情を変えないまま、くるりと向きを変えるとそのまま自分のアパートへ向かった。
翌週、イルカは教壇に立っていた。先週のテストで間違いの多かった部分を重点的に教える。
思った以上に真剣に授業に聞き入る生徒の顔に、イルカもつい熱が入る。術は特に実際にチャクラも練れない子供たちでは、出来ないものがほとんどで、知識だけでどこまで理解をしてくれるのか。簡単な実験を兼ねた授業に子供たちは目を輝かす。イルカの中で満たされたものを感じた。 自分の授業の内容が、下忍になり、いつか取得した技と頭の中で繋がってくれれば、それが一番いい。
授業を終えたイルカは、一人教室を出たところで、一番奥の書庫室で書類整理をしていた同期の教員と顔を合わせた。両手一杯の書類をイルカは半分持ち、一緒に雑談をしながら別の書庫室へ足を向けた。
報告所がある建物の中に裏口から入り、真っ直ぐ廊下を進む。長い廊下の先に、カカシがいた。
思わず足を止めそうになった。心臓がぐっと苦しくなるがそれに自分自身気がつかないフリをする。カカシの隣には煙草を咥えたアスマが並び、廊下で何やら立ち話をしている。
イルカは目を伏せていた。正直顔を見たくなかった。隣の同期の教員と同じように会釈だけをして通り過ぎる事を選ぶ。
「イルカ先生」
なのに。丸で当たり前のようにかかるカカシの声に、どうしようもなく重い気持ちになった。
今更自分と何を話すことがあるのか。と言うか、話したくない。しかし、ここは職場で仕事中だ。顔に出さないよう何とか努めながら、イルカはゆっくとカカシへ視線を上げた。
何か、と言う前に、カカシは先に話し始める。
「金曜はあれだったけど、今度いつにする?」
聞きながら、何を言ってるんだろうと思った。
頭を傾げたくなる。
素直に何を言ってるんですか、と聞いてもいいが。それより何より言葉が出てきそうになかった。
しんどいなあ、と心で呟き、そこで、自分がしんどいんだと今更思う。にこやかなカカシの顔に、イルカは内心冷めた目で見つめた。
そう、向こうは、ただの気まぐれで声をかけてるだけなのに。
これ以上、傷つきたくない。そう思ったら、イルカは笑顔を浮かべていた。その笑顔をカカシに向ける。
「実はここ最近仕事が立て込んでて、忙しくなりそうで」
だからすみません。
笑顔で言うと、カカシは少しだけ面食らったような顔をした。そう、と小さく口にする。頭を掻くカカシに、それ以上何か言う前に、じゃあ、急いでるんで、とイルカは頭を下げた。
「失礼します」
アスマにも会釈をして、同期に促すと、イルカは早足で歩き出す
廊下の角を曲がったところで、同期がイルカへ顔を向けた。
「お前、金曜ってもしかしてはたけ上忍と約束してたのか?」
僅かに俯き表情をなくしていたイルカは、その言葉に顔を上げる。そうそう、とまた笑顔を浮かべ答えた。
「そうだったんだど、カカシさん忙しいみたいで」
内勤と違って戦忍は大変だよね。
笑いながら、イルカは書庫室の扉へ手をかけた。
仕事が終わり家に帰ってきたイルカは、部屋の電気を点けた。朝出かけた時のままの自分の部屋を眺め、ふうと息を吐き出す。ベストを脱いだ。
台所に立ち、今日の夕飯の用意を始める。昨日大家さんにもらった煮物と朝作った味噌汁の鍋を冷蔵庫から出し、味噌汁を火にかけながら。
虚ろな眼差しでガスコンロから見える揺らめく青い火をぼんやりと見つめた。
ーー折角、今日は途中までは上手くいってたのに。
いや、上手くいった。カカシの前でも上手く立ち回れた。
笑顔で。何事もなかったように。
何事もない、そう思ったら、不意に心の中で張りつめていた何かが切れた。
こみ上げるものに、耐えるように、イルカは強く眉に皺を寄せた。
違う、そんなんじゃない。
家に帰ってきたから。いつものように、仕事の疲れを感じているだけだ。
何でもない。
こんなの、何でも。
なのに、ぼやける視界にイルカはそれを拒否するように、目を擦れば手の甲が濡れる。
それさえも、認めたくなかった。強く目を何度も擦る。
違う。
絶対に、違う。
ぼやける目でコンロの火を止めた。
辛い事があった時、風呂で泣く事を選んでいた。
そうすれば、涙ではないと自分を誤魔化す事が出来る。
だから、ご飯なんか用意しないでさっさと風呂に入れば良かった。
こんな事で泣く自分が許せなくて、奥歯にぐっと力を入れる。
玄関を叩く音に、イルカは思わず身体をびくりとさせた。
誰だろうと思う間もなく、
「イルカ先生」
扉の向こうで呼ぶカカシの声に、イルカは濡れた目を瞬きさせた。心臓が嫌な音を立てる。扉をじっと見つめた。
知らないはずのこのアパートを、何でカカシが知っているのか。ナルトに聞いたのか。いや、そうじゃなくて。
混乱しながらそう思ってる間に、また扉が叩かれる。
「ねえ、先生。開けて?」
この言葉にイルカは拒否反応を示すように眉を寄せていた。顔なんて見たくない。会いたくない。
居留守をしようとも、部屋の明かりはついているし、そもそも気配を分かってカカシは声をかけている。
だから、
「嫌です」
イルカは鼻を啜ると、強い口調ではっきりと玄関に向かって声を出した。
もう笑顔を作れそうにない。
だから帰ってくれ。
心底願うイルカの目に映ったのは、玄関の扉が開くとろこだった。よくあることだが、自分がうっかりして鍵を締め忘れていた。
しまった、と思うも、カカシが扉を開け、部屋にいるイルカを見つける。カカシの目が少しだけ大きくなった。
「・・・・・・なんで泣いてるの」
言われ、見られたと思うが、それでも濡れた頬を思わずまた手の甲で拭う。
「これは、」
何でもないんです。そう続けたかったのに。勢いよく部屋を上がり真っ直ぐにこっちに向かってくるカカシに驚いた。
「ちょ、靴を脱いで、」
非難の声を向けるイルカの手をカカシが取る。濡れた黒い目をじっと食い入るように見つめる。
「何かあったの?」
聞かれてイルカは思わずカカシを睨んでいた。
あなたのせいだろう。その言葉がついて出そうそうになるも、言えるわけがない。イルカはぐっと口を結んだ。
こんな顔、誰にも見られたくなかった。特にこの人には。上手い言い訳を必死で考えるイルカに、カカシはじっと顔を見つめる。
「・・・・・・俺のせい?」
ぽつりと呟いた。否定しなきゃ、そう思ったのに。顔が熱を持つのを抑えられなかった。動揺が一気に広がる。
「違う!」
イルカから大きな声が出ていた。
「違うけど、カカシさんなんか、嫌いです!」
ずっと言いたかった事をイルカは言い放ち、だから離せ、と手を動かすも、カカシに掴まれた手はびくともしない。自分の部屋なのに、逃げ出したくなった。
自分は馬鹿だ。
カカシの前からいなくなりたい。
放っておいて欲しい。
なのに、カカシはイルカを離さない。
離せ、と言いかけたイルカの口をカカシが荒々しく唇を塞いだ。
前されたのとは全然違う。貪るような激しさに驚く間もなくカカシの舌がぬるりとイルカの口に入り込む。それだけで身体が熱を持った。抵抗しなきゃ、と思うのに。あまりにも激しくて息継ぐのもままならないし、力が、入らない。顔の角度を変えながら、カカシは抵抗しなくなったイルカに何度も口付けを繰り返す。
ようやく口が離れても、頭の奥がぼーっとなっていた。潤んだ目のイルカをカカシはじっと覗き込み、濡れた唇を指の腹でなぞった。愛おしそうに見つめる。
「ねえ、先生、・・・・・・金曜、先生は残業だったんでしょ?」
ぼんやりとした頭に、入り込んだ台詞に。話が飛んだ事に、眉を顰める。何言ってんだ、とカカシを見れば、ひどく真剣な顔でこっちを見ていた。
「・・・・・いいえ」
訝しんだ顔を向けながらも、素直に否定すれば、カカシの眉根が寄った。ため息を漏らされ、そんな顔をしたいのは自分だと、怪訝な顔をするイルカに、カカシは視線をイルカに戻す。
「あんたが残業だって、来れないんだって、そう聞いたから、」
耳を疑った。来れない?残業で?
何がどうなったらそんな話になるのか。残業はあったがそこまでなく、僅かなものだった。
ようやく冷静になりつつある頭で、話を整理しようとすれば、カカシが、ねえ、と口を開いた。
「やり直せる?」
聞かれて視線を向けたイルカに、カカシが答え待たずして再び顔を近づけられ、イルカは焦った。やだっ、と、思わず片方の空いた手でカカシの顔を押さえる。
「そもそも、自分は何番目なんですか」
金曜の件が互いの食い違いだったとしても。紅が言った通り手が早いのには変わりはないし、カカシが金曜女といた事には変わりはない。
なのに。は?と聞かれてイルカはむっとした。
「いつも違う女性と歩いてるくせに」
言った後、しまった、と思った。だが、もう口から出てしまったのだがら、後の祭りだ。
咎めた口調のイルカに、カカシは、少し間を置いた後、ああ、と理解したように、しかし何でもない風に答える。
「あれは向こうから寄ってくるから相手にしてるだけ。自分からやりたいと思ったのは先生だけだよ?」
明け透けな言葉にイルカの顔が赤くなった。
「ひど、」
思わず言えば、カカシはまたしても、何で?とイルカを見つめる。
「先生にはちゃんと手順を踏んでたでしょ?」
踏んでない。踏んでない。
踏んでないし、こんなの最低だし、女性に対して酷い言葉だと思うのに。
先生だけ。先生には。そう言われて心のどこかで嬉しいと感じる自分がいた。
ついさっきまで本当に胸が重くて、痛くて。そう、涙が出るくらいに胸が痛かったのに。馬鹿みたいに、それがない。
それに、こんな事があったのにも関わらず、会いにきてくれたのが、嬉しい、なんて。もやもやとした気持ちに、考え込むように黙ってしまったイルカを、カカシは見つめていた。口を開く。
「じゃあさ、きれいさっぱり他の女との関係をなくしたら、俺の女になってくれる?」
え?と聞き返していた。
そんな問題でもない。呆れる。
なのに、驚くことにあんな台詞を言うにはほとほと合ってないだろう、カカシの顔は至って真面目で。真剣な顔をされ、イルカは、困惑しながらも、内心ため息を吐き出した。
ここで頷いたら駄目だって、そう思うから。
「・・・・・・考えます」
ふいと顔を背けながら、突っぱねた言い方をすれば、一瞬驚いた顔をした後、カカシはムッとした顔を見せた。
「嘘ばっかり」
きっぱりと否定され、なっ、と言葉を失いながらも言い返そうとするイルカにカカシは、でもまあいいですよ、と続ける。
「先生にその気があるって分かったから」
どんなに隠そうとも、見破られてる事実に変わりはない。
恋ってこんなんだっけ?と思うが過去誰かを好きになった事がなかったから、分かるはずがない。
それが悔しくて。
むくれた顔しか見せないイルカに、カカシはただ、目を細めて笑った。
<終>
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