幸せなこと。

 昼休みの時間。込み合った食堂の美味しそうな匂いや喧噪が耳に入りながら、イルカはぼんやりとした眼差しでうどんを啜り、
「イルカ先生、聞いてます?」
 その声で我に返った。食べているうどんの丼に視線を落としかけていたイルカが顔を上げると、若緑色の目がじっとこっちを見ている。イルカは慌てて笑顔を浮かべた。
「ああ、勿論だ」
 そう答えるとサクラは胡乱な眼差しを向けるが、小さく息を吐き出しながら自分の梅とワカメのうどんを頬張る。
「だから、先生から言ってくださいよ」
 そう言われて、イルカは箸を持ったまま苦笑いを浮かべた。
 たまたま外で会ったサクラに昼飯を食べようと誘ったのは自分だった。サクラはだったらたまにはアカデミーの食堂で食べてみたいと言われ連れてきて。でもまさか愚痴を聞かされるとは思ってなかったが、サクラの言い分ももっともで、そうだなあ、とイルカは口にした。
 もうすぐヒナタの誕生日だが、いのと一緒に渡したいプレゼントの事で揉めているのは二人の意見が合わないから。
 どんな物でも喜ぶだろう、とありきたりの言葉を口にするイルカに、サクラは軽く不満げに眉を寄せた。まあ、そうですけど。と小さく口にする。それでもやっぱり欲しくないものをもらったら困るじゃないですか。そう返されれば、そうだな、と言うしかない。
 サクラが誰よりも友達思いなのは自分がよく知っている。そして真面目なところも。知っているからこそ、譲れないものがあるんだろうが。そして、自分なんかに相談しても仕方がないことくらい、サクラも十分分かっている。要は、話を聞いて欲しいのだ。
「先生だったら恋人に何をあげます?」
 聞かれてイルカはうどんを吹き出しそうになった。せき込み手で口を押さえる。
「サクラ、お前、なに言って、」
「何って、先生だって恋人くらいいるでしょ?今いなくても過去に、とか」
 自分にとっては結構な話題を、サクラはさらりと言う。焦るイルカを前にどうしようかなあ、とサクラはまたうどんを口にした。
 そのまま話が流れ、あーでもないこーでもないと悩みながらうどんを食べるサクラの前に、同じようにうどんを啜りながら、内心ため息を吐き出した。話題が逸れた事に安堵しながらも、イルカは自分もどうしようかと、また視線を斜め横に漂わせた。

「何で言ったんですか」
 カカシが任務から帰ってきて早々に荒々しい言葉をぶつけたのは自分だった。
 何のことかときょとんとするカカシにイルカは思わず睨む。
 事の発端は、その日の午後、上忍待機室でアスマに飲みに誘われた時だった。
 飲みに誘われるのは嬉しいが、どうしようかと悩むイルカに、
「今日はカカシも任務でいないんだし、暇だろう」
 何のことはないと、誰も知らないはずの、カカシとの関係を、そんな風に言われ、その言葉に内心目を剥いた。書類を持ったまま、一瞬、言葉を失う。
 だって。カカシとつき合っていることは、誰も知らないと思っていたし、何より、自分が口外して欲しくないと、カカシに頼んだから。
 驚いた顔を隠せないが、必死に抑えながら、残業があると断った。飲みに行ったら行ったで、カカシとの関係の事を聞かれたら、どう答えていいのか、分からない。
 その後、動揺してろくに仕事が手につかなかったのは言うまでもなかった。

「俺、言いましたよね」
 口調強く詰め寄るイルカに、カカシはイルカの怒りの根元を理解したのか、ああ、と口にする。カカシは憤りを含んだ眼差しを向けているイルカの前でベストを脱いだ。その姿をイルカはじっと見つめる。
「アスマさんに、言ったんですか」
 アスマがああ言ったものの、決定的な言葉は言われていない。だから怖くて一緒に飲みにも行くことが出来なかった。
 特に何も言ってないと、そう言って欲しかったのに。カカシは額宛を外し草臥れた銀色の髪を無造作に掻く。口布を下ろしたカカシに、うん、とそう返され、イルカの眉根が寄った。アスマさんにはなんて、と言い掛けたイルカへカカシが視線を向ける。
「先生が恋人だって、言った」
 はっきり言われ、イルカは口をあんぐりを開けた。何となく予想出来ていたはずなのに、本人から直接言われたら、そのショックで言葉が続かない。イルカはカカシから視線を外した。
 カカシとつき合い始めたのは出会って何ヶ月も経っていない時だった。始めての挨拶から、そこから顔を合わせる度に挨拶や会話をするようになった頃、帰り道でカカシにばったりと会った時に食事に誘われた。その何回目かの食事の後、カカシに告白され、自分は頷いた。頷いたのは、自分もどこかでカカシに惹かれていたから。その感情が恋愛なんだと気がついたのも、その時だった。
 つき合って二年、自分がアカデミーの教師だから、生徒やその保護者の事もあり、カカシは口外して欲しくないと言った約束をずっと守ってくれていたのに。
 いつかバレるとは思っていた。忍ではあってもお互い人間だ。どこかでボロが出る。そう思ってはいたが、カカシに約束を破られる形でバレるなんて。無理強いはするつもりはなかったが、裏切られた気持ちに、怒りが収まらない。アスマに言われた時、自分はどんな顔をしていいのか分からなかった。きっと想像以上に思い切り顔に出てしまっていて、情けない顔をしてしまっていたに違いない。
 こんな風にバラされるのはさすがに嫌だった。でも自分からお願いした手前、怒りをそこまでぶつけられなくて、イルカは耐えるように床に視線を落としたままぐっと眉根を寄せた。
「・・・・・・言いたいなら、誰かに言う前に俺に言えばいいじゃないですか」
 小さく呟く。
「そうしたら、それなりに俺だって、」
 カカシは何も言わない。ただ、俯いている自分をじっと見ているのが気配で分かった。その後に聞こえたのはカカシのため息だった。
「・・・・・・分かってる」
 同時に言われた言葉にカッとした。イルカは顔を上げる。
「だったら、何で、」
「だって我慢出来なかったんだもん」
 遮るように言われたカカシの台詞に、イルカは言い掛けていた言葉を止める。丸で子供のような言い訳だ。我慢出来ないの意味が分からない。今までずっとこの二年、カカシは我慢しているように見えなかった。お願いした時も、そこまで気にしてない感じだったし、何も言わず承諾してくれた。そして自分に合わせてくれた。外で会ったり話をする時も、つき合う前の関係と同じようにしてくれていた。
 だから、我慢していたなんて知らなかった。
 信じられないと、そんな顔をするイルカに、カカシは青みがかった目をイルカに向ける。
「ね、先生。最近仲間と飲んでる時の話題ってどんなのか知ってる?」
 話が飛んだ気がして、イルカは、え?と聞き返していた。カカシはゆっくりと息を吐き出しながら、一回視線を落とし、そしてイルカへ戻した。
「結婚した奴はその相方や子供や、家庭の話だし、してない奴は恋人の話。アスマは、分かってるよね」
 紅の事を言っているのか。それは自分も何となく気がついていた。黙っているイルカにカカシは続ける。
「若い頃はそんな気にも留めてなかったんだけどね、最近それが妙に羨ましくなちゃって」
 イルカは眉を寄せた。ちょっと理解出来ない。それはつきあい始めてから分かってた事だ。
「羨ましいって、そんなの俺だって同じようなもんですが、別に、」
「そうじゃない」
 そう口にしたカカシの口調は少しだけ強くなっていた。イルカはまた言葉を止める。
「のろけを聞く事じゃない。そんなの我慢出来るよ。ただ、ーー俺も幸せなんだって、誰かに言いたくて」
 ああ見えてアイツは口堅いし、いいかなって。
「でも、ごめん」
 頭を下げるカカシに、イルカは何も言えなかった。


 ああ言われたら、あれ以上怒れなかった。
 イルカはうどんを食べ終え、食堂を後にしてサクラと並んで外を歩いてきた時、
「あ、カカシ先生」
 サクラの言葉に反応して顔を向けると、少し先にカカシが歩いていた。サクラが当たり前に手を振る。
「どーも」
 外だから。あんな事があったのに、いつも通りの笑顔でいつも通りの言葉を向ける。普段と同じように、優しくて。胸が痛くなった。イルカも合わせるようにカカシに会釈を返す。
「サクラはアカデミーに用でもあったの?」
 アカデミーから歩いてきた事にカカシが聞くと、ちょっとイルカ先生に相談に、とサクラは答える。カカシは一緒に並んで歩きながら反応を示すように、そーなの?と、少しだけサクラへ顔を向けた。
「だって親身になって話を聞いてくれるの、イルカ先生だけなんだもん」
「ええ、なにそれ」
 遠回しに嫌みを言われた気分に、心外だと、冗談めかしてカカシがそんな言葉を口にする。
 笑いながら、そこからサクラが、さっきの悩みをカカシにも説明し始めた。サクラの声を聞きながら、イルカはふと青空に顔を上げる。
 ここで今一緒にカカシと歩いているからではないが、昨夜カカシに言われた言葉を思い出したら、全てが馬鹿らしく思えてきた。自分の職業上だと理由をつけカカシにお願いしたけれど、あんなに怒りをぶつけてしまったのは、結局自分都合だって事を思い知らされた。
 なのに、カカシは自分を責めない。責めないどころか、謝ってきた。横目で見るカカシは本当にいつもと変わらなくて、その何でもない表情に胸が苦しくなった。
 何でこんなに拘ってたんだろうと、自分でも思う。
 勘のいいサクラや、同僚や、周囲も自分とカカシの関係に気がついていないのは、カカシが今まで自分に合わせる努力をしてきてくれたからで。
 幸せだって、誰かに言いたくなった。
 そう口にしたカカシの台詞を思い出しただけで胸がきゅうと締め付けられた。
(・・・・・・そうだよなあ)
 イルカはぼんやりと気持ちのいい青空を仰ぎながら、僅かに目を細める。
 隣ではいつの間にかヒナタの好きなプリンをいのと手作りしようかと、そんな話になっている。
「だけど、家で練習したくてもお母さん、ヒナタのお母さんと仲がいいから、絶対喋っちゃうし」
 どうしようかと悩むサクラに、イルカは微笑む。
「俺の家の台所でいいなら使ってもいいぞ」
 イルカが言うと、サクラの表情がぱっと明るくなった。
「え、いいんですか?」
 イルカは快く頷く。
「ちょうどテスト期間も終わったし、そこまで忙しくないし、それに、」
 と、イルカが、そこで言葉を切ってカカシへ顔を向ける。
「カカシさんが、いいなら」
 その言葉にカカシがきょとんと、した。同時に、え?とサクラが聞き返す。
「えっと、それって、・・・・・・」
「そう一緒に住んでる。ねえ、カカシさん」
 何でもない風に、でも少しだけ頬を赤らめながらカカシを見ると、驚きに目を見開いたままイルカを見つめていた。瞬きをする。イルカの眼差しから、表情から、はっきりと示した意図に気がつき、カカシの白い頬もまた僅かに赤く染まった。そして、うん、と戸惑いながらもはっきり口にする。その二人の会話に、サクラがしばらくの沈黙の後、えーーーー!と大きな声を上げた。

 カカシにあそこまで言われて、ようやく気づかされた。
 隠す事じゃないんだと。
 だって、自分もカカシが恋人で、一緒にいれて幸せだから。
 きっとカカシ以上に。
 
「イルカ先生とカカシ先生ってつき合ってるの!?」
 口に両手を当て、信じられない事実を聞かされ、興奮気味に聞いてくるサクラに、ちょっとサクラ声が大きい、とカカシが慌てて咎めるが、イルカは恥ずかしそうにはにかみながらも、幸せそうに頷いた。

<終>
 
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