空に三日月
「またですか」
辛辣な口調にカカシは眉を下げた。
「冷たいねえ、サクラ。俺これでも病人だよ」
「自分からなりたくて突っ走ってる人は病人なんて呼称は必要あ、り、ま、せ、ん!」
情けない顔で笑ったカカシに更に冷たく言い切ると不機嫌に睨みをきかされる。
師弟関係さえ覆すような怒り方は迫力がある。普段から頭ごなしに怒られるなんてあまり経験がない為に、カカシはどう返したらいいか分からず、ただ、笑った。
「カカシ先生のやってる事は無謀です」
先生と呼ぶあたり一応師であると思ってくれてるのか、でもホント、目つきなんてそっくり。と思えば、バンと持っていたカルテを机に激しく置かれた。
「ほら、私の話なんて聞いてないじゃないですか」
現時点でのサクラの師譲りからくる、鋭い目つきと観察眼にまた苦笑いを浮かべる。気の強さも似てきてるのは間違いがない。
「いや、そんな事ないよ」
「ありますよ」
覆すのも早い。
確かに、サクラが無謀と言いのけるのは自覚があったから言い訳もするつもりもない。任務を選ばず数をこなしていたから、身体に無理が祟った。それだけの事なのだが、毎回治療医として担当するサクラからしたら言いたい事もあるのだろう。
「休息も忍びとして大切な事だって、カカシ先生が一番分かってるはずじゃないですか」
生徒だった頃にカカシが零していた言葉を、サクラはさらりと口にした。それを逆に言わせるのは流石に師として失格とまではいかないが。チクリと胸が痛む。サクラに申し訳ないと思えた。
「だね」
同調を含めた穏やかな口調に、微かにサクラは引き締めていた表情を解きふいと視線を外した。
「兎に角。明日までは、ぜっっったいに!安静にしていてください!」
いいですね!
はいのはの字も聞く前に、クルリと背を向けて、名前と同じ桜色の髪をなびかせ部屋を出て行く。
バタンと女性らしくない、もとい遠慮のない締め方にカカシは1人ベットの上で溜息を零すしかなかった。
「あー怖かった」
独りごちして瞼を閉じる。サクラの診立ての通り、頭はまだ眠気が離れないし身体はまだ怠いし。チャクラだって上手く練れない。明日までは立てそうにないだろう。
閉じればすぐに眠くなる。身体は素直だ。微睡みながらも次の任務の日程を頭で組み始めて、そのまま睡眠に落ちていった。
「お呼びじゃないよ」
カカシの顔を見るなり、うんざりした顔をして片手を振った。
「いや、んなことないでしょ。そんな山積みの依頼書に埋もれちゃって」
カカシが机の上を指差せば、綱手は顔を顰めながら止めていたペンを走らせ始めた。
「残念だったね。もう采配済みなんだよ。2、3日は休みをやると言っただろう」
「こんな人手不足なのに?俺がいなきゃ始まらないでしょ」
綱手は顔を上げ、眉間に皺を軽く寄せる。が、鼻で笑った。
「随分と大きくでたねえ。いつからそんなでかい口を叩くようになったんだい」
分かりやすい嫌味もカカシは平然として綱手を眺めた。
「別に、そんなんじゃないですよ」
「お前1人で背負いたいのは分かるけどね」
褐色のは目がカカシの目を捉えた。
「何かあったのか?」
「何がですか」
窺う目から逃れたくなるが、敢えてカカシは視線を外さなかった。
はあ、と大袈裟に嘆息し、綱手は背もたれに体重をかけた。若く美しい顔立ちから、悩める美女と言った所か。豊満な胸がそれだけでゆさと揺れる。カカシは然程興味も無さ気に一瞥もする事なく冷たい目を動かさなかった。
「まあいい。休息をしっかり取ることも忍びとしてやるべき体調管理の1つ。そうだろ?」
サクラと同じ台詞にカカシは口布の下で唇を歪め笑った。それだけサクラが目の前の師に懐いているんだと思わざるを得ない。
「失礼します」
張りのある声と叩かれるドアの音に、カカシの思考は弾かれるように中断した。
入りな、と綱手は何の躊躇もなく入室を許可をする。話は終わったと言われたようなものだ。ガチャリとドアが開かれた。
入ってきたイルカは、カカシを見て目を丸くしたのが分かった。
躊躇うイルカに綱手はいいんだよ、と面倒くさそうに言い放った。
「ほら、お前の話は終わったんだから」
その通り、退散するしかない。カカシは仕方なしに休暇を受け入れドアへと足を向けた。
「カカシさん」
振り返るとイルカが書類を抱えながら一歩カカシに歩み寄った。
「入院したとお聞きしまして」
素直にはいと答えると、
「もう、身体は大丈夫ですか?」
イルカの問いにカカシはニッコリと笑みを作った。
「ええ、もう」
「そうですか」
ホッとした表情を見せる。じゃあ、と背を向けたカカシに
「カカシさん」
またイルカに呼び止められた。
顔を向けると、イルカらしくない歯切れの悪い間を作り、やっぱいいです。すみませんでした。と頭を下げられた。それに礼を返し執務室を後にする。
分厚いドアを後ろ手に、カカシは小さく嘆息した。
任務をもらえなかったのだから、綱手が言うように休暇として身体を休ませるしかない。
手持ち無沙汰にカカシはぶらぶらと歩き建物を出て、そのまま自宅へと足を向けた。休暇と言うのだから、素直にベットに沈むしかないか。
暫く本当に働きっぱなしだったのは事実で、そのリズムに身体が慣れてしまっていたのも事実だ。丸々楽な身体で時間を与えられても、何をしようか。
頭になにも浮かばないままカカシは部屋に着いてしまった。鍵を開けて部屋に入る。散乱とまではいかないが、それなりに散らかっていた。脱衣所辺りに落ちている服を拾い、洗濯機に入れる。部屋を歩き他に洗うものを集めて、洗剤を入れスイッチを押した。忙しさにかまけていたからなんて、休暇なんだからやらなきゃ始まらない。
遮光カーテンを開けて窓も開ける。久しぶりに外の空気を部屋の中に取り入れた。揺れるレースのカーテンを少しだけぼんやりと眺めて。
キッチンへと向かった。流しに洗った空き缶を袋に入れ、それなりの数が占領していたからか、缶をなくしただけで、だいぶ片付いた。ほとんど外食か弁当だったからか、キッチンはそれ以上汚れていない。ゴミも纏めて玄関へ置いた。明日収集の日だから、これを捨てれば後はもうない。
缶は専用の捨て場が設置されているから捨てに行かなければいけないが。
カカシはその缶が入った袋も玄関に置き、床掃除に取り掛かった。
生活の一部である掃除は、少し前までそれなりにやっていた。それよりも任務を優先してしまった。
何かあったのか
綱手の表情と共に言われた言葉がカカシの手を止めさせた。手に持つ雑巾をぼんやりと眺める。
ナルトが里を出て、サクラは綱手の下で修行を積むようになった。サスケはーー自分の不甲斐なさを嫌と言うほど痛感した。
心臓じゃない。心が痛い。
こころって。センチメンタルじゃないんだからさ。
自分に言って唇を歪める。
感じた事のない気持ちは重いと言えばいいのか。自分ではない。ナルト達がどう考えどう向き合っているのか。
そう思った時に思い浮かんだのはイルカだった。そう接触もない会話もない相手が何故自分の頭に浮かぶのか。不思議でならなかった。本当に分からなくて。
ナルトが里を離れて直ぐに話しかけようと思った。だが、繋がりがなくなった今、何を話せばいいのか。大体、話す事はないし、相手もそう思っているはずだと。
それから自分の中で考えないようにした。
例えるなら枯葉が擦れ合うような。触れ擦れたらお互いの葉は粉々になってしまうように。
触れ合ってはいけない、考えてはいけない。そんな気がした。
だから、呼び止められた時は動揺してしまった。久しぶりの感情だった。思い出してカカシは小さく息を零すように笑った。
あの綱手にさえ動じなくなっている心なのに。いや、心なんてそんなものなのかもしれない。あやふやで、掴めないからこそ面白い。自分でも気がつかなかった事に簡単に気づかされたり。忍びとして鍛えるべき自制心や転の心とはまた違う。
陽だまりの部屋はポカポカと暖かい。休暇らしく、睡眠をとろう。カカシはバケツを持ち立ち上がった。
目が覚めた時は部屋は暗く、今何時なのかも分からなかった。身動ぎをして寝返りを打つ。変えたばかりのシーツは清潔感溢れ気持ちがいい。もう夜だという事は分かる。2、3日の休みに予定も無ければ時間を気にする必要もない。再び目を閉じながらまた睡眠を継続するか考えて。覚えた空腹に起きる事を選択するとむくりと起き上がった。
冷蔵庫に何も入っていないのは分かっている。カカシは忍服に身を包むと下足を履く。空き缶の袋が目にとまった。取り敢えず捨てに行き、その間にどう空腹を対処するか考えよう。
乱れた頭に額当てを結び部屋を出た。
着替えながら時計を見たら普通の定食屋は締まっている時間を指していた。そんな寝てしまっていたのかと、自分でも内心驚いていた。歩くたびに揺れた袋の中で空き缶がカサカサと鳴る。休暇中に夜の散歩はカカシには心地よかった。1日怠けた身体から欠伸が出る。まだ寝たらないわけないのに、と袋を持ったまま伸びをした。
先の景色の中に現れたイルカに、カカシは動きを止めた。いつもの鞄を肩に提げたイルカは同じ様に立ち止まったまま、驚きを隠さない顔を自分に向けていた。
数秒後にイルカは笑顔を見せて頭を下げた。会釈だけでは躊躇われたのか、
「こんばんは」
ぎこちない挨拶に、カカシも会釈と挨拶を返した。
「こんばんは」
返事にホッとした顔をして、イルカはカカシの前まで来た。今日の朝執務室で会ったままだが、少し草臥れたような。この時間まで仕事をしていたのだから、疲れているのだろう。何処にいても忙しさは変わらないと、イルカを見て改めて感じた。自分はさっきまで寝て過ごしていたので後ろめたさを感じてしまう。
「残業でしたか」
話の振りにイルカは少し驚いた顔をした。普通の会話の流れではおかしな台詞ではないと思って選んだ言葉だったのに。戸惑うとイルカは頷いた。
「ここん所ずっと残業続きで。今日こそはと思ったのに、こんな時間です」
お恥ずかしいと頭を掻く。
「休みは?」
「あ〜…、暫くはもらってない、ですね」
また笑うイルカは確かに疲労を含んだ目をしていた。見たら辛いな、と思った。
自分には休暇を与えらたが、内勤の勤務状況だってこの有様なんだ。ただ、自分も直ぐに任務の達がきてもおかしくない。
何処もかしこも。
今自分は休暇中とあるだけで、罪悪感が湧き出てきた。のんびりなんて、今必要じゃないみたいに。思える。
「でも今が踏ん張りどきですからね。弱音なんて吐いてなんからんないです」
そこまで言ってイルカは言葉を切った。その先があるのだと、ただ待つカカシに顔を向けた。
「あいつらに…俺らがやれる事ってなんですかね」
自分が率いていた部下をさしている。
カカシには直ぐにわかった。自分の手から離れた初めての部下は、思いもよらない形でバラバラになった。
起こった事にもがいたって仕方がないと、受け止めているはずなのに、心の整理がつかないまま。
「分かんないよ」
カカシは真っ直ぐイルカを見た。突き放すとかじゃなくて、それがカカシの答えだった。
分からないから。考えたくなくて。ただ自分のすべき事をひたすらに、こなす。
疲れたイルカは丸で違う人間なのに、自分のようで。
ザラザラとした気持ちがカカシを包む。こんな状況にならなきゃ分からなかった気持ちも、自分を混乱させる。
変な話。縋りたいと思った。
イルカに話したら、ぽっかりと空いた心の穴を埋めてくれるんじゃないか。
ただの傷の舐め合いだとしても。
他人を見て人肌を求めたくなったのは初めてだった。
きっかけなんて、理由なんてなんだっていい。
イルカを見てしまったら、そう感じてしまう。
「でもさ、信じて待つしかないんじゃないかな」
言えば、黒い目に涙の膜が張られたのが見えた。が、
「しまった〜」
イルカは頭を抱え込んだ。
その姿を空き缶を詰め込んだ袋を持ったまま見た。抱え込んだ顔を上げ、困ったふうにしている。
「それ、俺がカカシさんに言わなきゃいけないと思ってたのに。カカシさんの顔見たらつい弱音が出ちゃって」
「そう…なの?」
どう受け止めたらいいのか、恥ずかしさを誤魔化す為か、イルカは結ってある頭を強めに掻いて、にへらと顔を緩ませた。
ピンと張ったままの心の糸が、風に揺れるみたいに、柔らかく解かれていく。
「それ言おうとして今日呼び止めたの?」
言えばイルカは頭を横に振った。
「いや、それはですね」
言いにくそうに言い淀む。
「いや、また今度。今度言います」
カカシは黙って頷いた。
また今度。
この休みが明ければ。また任務では過酷な任務しかないのに。
簡単に言ってくれる。
それでも笑ったイルカを見たら不思議と気持ちが和らいでいく。
この人にまた会いたい。
地面に一度落とした視線をイルカに向けた。にっこりと笑う。
「うん。また今度」
言いながら、寒さにぶるりと震えて夜空を見上げた。
「イルカさん、見て」
言われてイルカも上を向く。
瞬く星空が冷え切った空気で更に澄んでいるようで。
消えそうに細い三日月が浮かんでいる。
「綺麗だね」
「綺麗ですね」
真面目に同調してくれるイルカを横目で見た。
「頑張ろうね」
その言葉にイルカも目だけをこちらに向けた。ゆっくりと溶けるような笑みを浮かべた。
「はい」
見るもの全てが一緒になる。そんな瞬間。
カカシはこの日を忘れたくないと、心から思った。
<終>
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