春暁
「イルカお疲れな」
定時を過ぎ、先に片づけを終えた同僚が席を立ち、声をかける。
「おー」
イルカは片手を上げ応える。今日はデートだと言う同僚を先に上がらせ、
「イルカ、まだいいか」
さて自分も、と席を立とうとした時にかかった声。顔を上げれば、上忍が報告書を持って立っていた。
「はい。もちろんです。お疲れさまです」
イルカは座りなおして笑顔を見せる。
「悪いな」
嫌だと、そんな気持ちは微塵も感じないイルカの笑顔に、上忍も気分良く報告書を提出する。
手際よく項目を確認していくイルカに、そうだ、と上忍が呟いた。
顔を上げると背中のリュックから、なにやらごそごそと取り出したのは。
一升瓶だった。しかも銘酒として名高く、手に入りにくいとされるその大吟醸のラベルが貼られている。
「依頼主からもらったんだけどな。俺は日本酒はあまり呑まねえから。イルカ、お前これどうだ?」
その一升瓶をどん、と机の上に置かれ。
イルカの顔は瞬く間に嬉しさに輝く。
「いいんですか?俺なんかもらって」
「いつも世話になってるからな。たまにはな」
「嬉しいです!ありがとうございます!」
「おお」
イルカの喜んだ笑顔に、その上忍も嬉しそうに歯を見せる。
「じゃあ、後はよろしくな」
「あ、待ってください」
背を向けた上忍にイルカは片手を上げた。
「最後の項目、ここ、記入漏れです」
書類を指すイルカに、
「...適わなねえな、お前には」
上忍は素直に従う。
と、まあ。そんな感じで。
老若男女、生徒でも上官でも。誰とでも上手くコミュニケーションが取れると、自負していたのだが。
その自信は最近揺らぎ始めている。
「イルカ先生」
(あ、)
アカデミーを出てすぐ、名前を呼ばれ、その声の主は振り返らなくとも分かる。
少しだけ心が浮き上がるような、それでいて戸惑いが自分の中で生じる。
振り返ると、カカシが立っていた。
柔らかい笑顔でイルカに真っ直ぐ歩み寄る。
どの上忍と同じく接していると自分は思っているのだが。なのに戸惑いのような言葉が浮かんでしまうのは、自分でも分からない。
「もう帰り?」
「はい」
「そっか残念。間に合わなかったな」
七班の任務報告書であろう、その紙をカカシがぺらとイルカに見せた。
「でも、ほら。夜間ポストがありますので、そちらに入れてきてください」
「うん」
素直にカカシは返事をしたので、イルカは内心安堵し、
「じゃあ、」
と言って頭を下げようとしたイルカに、じゃあ、と同じ声がカカシから出た。
「俺すぐ入れてきますんで。待っててくれます?」
「え?」
「ね?待ってて。一緒に帰ろ?」
「あ、はい...」
イルカの了承の言葉直ぐに、カカシににこっと笑われ姿を消され。こうなったらカカシを待つしか出来なくなる。
道ばたでぼんやりカカシを待ちながら。
(うーん...)
イルカは腕を組んで首を捻った。
元教え子との繋がりで知り合った上忍。ただそれだけのはずなのに。
こんな風に考えてしまうのは。中忍試験の直前もめてしまった事があるからなのか。それとも、自分が目をかけていた生徒の上忍師になったからなのか。
そう自分の心を探ってみても答えは出ない。
自分が自分の心が分からないって。それってすごく気持ちが悪い。
今までになかった事で。
それに。これはカカシ会ってからずっと続いている。
(...中忍試験の件で言うならば...俺がごめんなさいと、言っていないからだろうか)
ただ、こんな時間が経ってしまった今。改めてその言葉を口にするのが難しい。
「お待たせ」
「......っ」
目の前に急に表れたカカシに、イルカは声を出さずに驚き目を見開く。
「?あれ、ごめん。びっくりさせた?」
考え事をしていたとは言え、忍びとしてこの程度で驚いてしまった自分に、イルカは恥ずかしくなりながら、いえ、と小さく首を振る。
「そっか、ならよかった」
笑いながら歩き出したカカシは足を止め、イルカに振り返る。
「どうしたの?帰らない?」
「あ、いえ。帰ります」
「うん。じゃあ行こっか」
隣まで来たイルカを確認すると、カカシは歩き出す。
(これ...ほらこれだよ)
イルカは複雑な気持ちで秘かに口を尖らせた。
一緒に帰るって。約束があるならともかく。それだけの為に、待っててとか。生徒じゃあるまいし。
そう。大の大人の男が、一緒に並んで帰るって。それっておかしいだろ。
(おかしい...よな?)
横目でちらっとカカシを隠れるように伺っても、自分と同じようには思っていないらしい。カカシは至っていつもと変わらない。嬉しそうな表情。
その表情にもイルカは、むむ、となる。
何でそんなに嬉しそうなのか。
自分の同僚や友人とも偶然帰りが一緒になって歩いたりもしたが。こんな空気感にはならない。友人とは違うこの感じは一体どう表現したらいいものか。
友人ならともかく。カカシは上忍だ。カカシからしたら、自分は部下に当たる。縦の上下関係がくっきり存在するこの世界で。
違和感に、イルカの心はもやもやとする。
ーーそれに。この人の歩調は自分より少し遅い。
それはポケットに手を入れたり、猫背で姿勢が悪いのが関係してるからなのか。
だったら、もうちょっとしゃきっと背筋を伸ばしたらーー。
カカシの青い目がイルカへ向けられ、イルカの心音が一回高鳴った。
「ねえ、その鞄から出てるの。なに?」
自分の鞄に入れられ、入りきらずに頭だけを見せていた一升瓶に、イルカは、ああ、と相づちを打つ。
「これですか。今日受付で上忍の方にお土産をいただいて」
「へえ、見せて」
もともと近かった距離をずいとカカシは縮めると、イルカの鞄をのぞき込むように見た。
銀色の髪もイルカの目の前に近づく。
伸ばした手で少しだけイルカの鞄を開けたカカシは、
「ああ、これか。イルカ先生日本酒好きだもんね」
ふうん。と、いつもより多く相づちを打ったカカシは続ける。
「でもこれは果実系の香りで先生の好みじゃないんじゃないかな。イルカ先生はどちらかと言うと甘みがあるのより、さらりとした飲み味が好みでしょ?」
「あ、はいっ」
その通りだと勢いよく答えると、カカシは嬉しそうに微笑む。
「後、香りは華やかよりは、ふくよかな感じで、色は、」
『冴えているやつ』
二人の声が揃い。イルカはそれが嬉しくて笑った。カカシも笑う。
「カカシさんすごい。よく分かってますね」
「そりゃあ、先生と何回か一緒に呑んでるからね」
「あ、そうか」
「うん。でもさ、俺もその酒、呑んだことあるけど旨いよ」
「うわ、じゃあ呑むの楽しみだなあ」
「つまみとか、考えるのも楽しくない?」
カカシの言葉に、イルカは力強く頷いた。
「そうなんですよ。シンプルに乾きものでもいいんですけど。こんな酒の場合は...豆腐とか、魚とか」
「うん、豆腐だったら絹揚げもいいよね。焼いてネギとすり下ろしたショウガに醤油垂らして」
「あ!俺最近それにはまってるんですよ」
「そうなの?」
「じゃあ、それにしよっかなぁ」
心躍り、わくわくしながら。イルカははっとする。
「...あ、なんか...すみません」
「いえいえ」
かしこまり、恥ずかしそうに顔を赤らめたイルカに、カカシは気にする様子もなく、にこにこと嬉しそうな微笑みを向けている。
ほら、これもそうだ。
カカシと話していると、相手が上官だと言うのも忘れて話に盛り上がってしまう。
いつもこれじゃダメだと反省するのに。
何でまた俺は同じ間違いを。
でも。話しやすいんだよなあ。カカシさんは。
そうなんだよ。他の上忍にはこうはならない。
この人だけになる。
自分の持っている距離感が。常に糸を張っているはずなのに。気が付けは、それが縮まっていて。
距離感と言えば。カカシの自分に対する距離感も他の人とは明らかに違う気がする。
一定のあるべき距離が。カカシだとーー。
「ねえ」
「あ、はいっ」
心の中でぶつぶつ呟くイルカにカカシの声がかかり、イルカはつい大きな声で反応していた。
「ね、もしよかったらさ。今から俺の家で一杯飲むってのはどう?」
「え.....えっ、いや、そんな!」
「いつも店だけど、たまには家呑みもいいんじゃないかなあって」
「だったら俺の部屋で」
イルカの言葉に、カカシは一瞬考えるように手を口元に当てた。
「うん。でもほら、やっぱ初めてって緊張するから。俺の家にしよ?」
(......緊張?)
驚くも、カカシが予想もしていない言葉を口にするのは、今回が初めてではない。
幾度となく言われ、それはカカシだからだと自分のなかで納得してきた。
今回は。上司の誘いに断るわけにはいかないし、なによりその誘いに甘えたいと思った。
「あ...じゃあ、お言葉に甘えて」
困惑しながらも、正しい選択だと思う言葉を口にする。
ありがとう、と笑うカカシの顔に心臓が高鳴った。
同時に可愛いと思えた自分に、いやいやいや、と己の考えを否定する。
男に可愛いとか、しかも写輪眼のカカシに可愛いとか。マジ言っちゃダメな言葉だろうが。
それに、ありがとう、なんて。
きれいな笑顔に真っ直ぐ見られてそんな事言われて。
イルカは遅れて顔が赤面する。
そんな言葉を部下である自分に素直に口にするなんて。やっぱりこの人はーー変わってる。
熱くなった頬に、しっかりしろ、と自分を叱咤しながら、イルカはカカシに笑って誤魔化した。
カカシは上忍アパートに住んでいた。
広さとか、綺麗な外装に、ずりーなあ、と思いながら。カカシに通されるままに部屋に入る。
自分の部屋より物が少ないが、清潔感があり生活感があるその部屋は入りかを落ち着かせた。
スーパーで買ったつまみを持って、カカシはキッチンへ向かっている。
刺身を切って、話題に出た絹揚げと軽く炙って薬味を多めに盛りつけて。
手際よく料理するカカシを眺めながら。
最初呑みに誘われた時もこんな感じだった事を思い出した。
カカシと二人で飲みに行く事に恐縮したイルカに気にする事なく、カカシは優しい微笑みを自分に向けた。
先生といると楽しいから、なんて言われて驚いた後に内心有頂天になりそうだったけ。
あんないざこざのあった後だったから尚更で。周りは何かひどい仕打ちを受けるんじゃないかと、心配をしてくれたが。
特に心配する事はなにもなく。楽しく呑んで食っただけだった。
カカシが秋刀魚を好きだと初めて知ったのも、その時だった。
あの時は、まさかカカシの家にまで来ることになるなんて、思わなかったんだけど。
いや、今日も今も、カカシの部屋に来るなんて思ってなかったんだけど。
「ほら、食べよ」
綺麗に盛られたつまみに、イルカは素直に目を輝かせた。
酒と食の好みが合うこの嬉しさったら。
二十歳過ぎて酒を覚えたばかりの頃は感じなかった、共感出来る嬉しさを知ったのはカカシとが初めてだった。
空気が読めて合わせるのが得意でも、さすがにのノリだけではずっと酒は楽しく飲めない。
カカシの話は楽しいし、自分の意見も素直に言える。カカシが聞き上手なのもあるかもしれない。
上忍からもらった酒と、カカシの家に常備してあった酒を呑みながら。話は弾んだ。
「美味しかったね」
食べ終わったカカシがごろりと横に寝転がった。
「カカシさん、食べてすぐ横になったら牛になりますよ」
消化に悪いと、少し真面目な顔になったイルカにカカシは笑った。
「一日くらい平気ですよ」
あっけらかんとしたカカシは少し子供みたいにも見える。
と、カカシが床をパンパンと叩いた。
何のまねだろうかと目を丸くすると、
「じゃあイルカ先生も道連れね。ほらほら」
そこで要約カカシの意図を知る。
本当に子供のようで。イルカは苦笑いを浮かべた。
上官とは思えない甘えた表情に、イルカの頬はつい緩む。
「えー嫌ですよ。俺、牛にはなりたくないです」
「いいからいいから」
促されるままに、仕方ないとイルカも身体を床に横たえた。
ひんやりとした床に酒で熱くなった身体には気持ちいい。
二人で仰向けになって床に寝て。
満腹なせいもあってか。酒が入っているからか。心地良いままにぼんやり天井を見上げた。
「店もいいけど、やっぱ家だとくつろげるからいいよね」
「ええ、まあ」
イルカは相づちを打ちながら横目でカカシを見れば、目を瞑っている。
普段起きているカカシしか目にしないから。
カカシがカカシでないような、不思議な感覚がイルカを包んだ。
少し微笑みながら、カカシは続ける。
「外ってさ。人の目があるから。疲れるって言えば疲れるんだよね」
「へえ、そうなんですか」
そこでカカシは目を開けイルカへ目を向ける。
「なんか意外って感じに聞こえたけど?」
「いや。だって、カカシさんはいつも楽しそうだから」
素直な意見を口にしていた。
んー、と言いながら。そこからカカシは少しの間の後、声を立てて笑った。
「うん。そうだね。楽しくないって言ったら嘘になるからねえ」
少し恥ずかしそうな表情に見えて横顔を見つめたら、そう言えば今日ナルトがね、とカカシが話し始める。
カカシの低い声が隣のイルカに心地よく響き、イルカは相づちを打ちながらその心地よさに目を細め天井を見つめた。
途中でカカシの声が途切れて。顔をカカシへ向ける。
さっきと同じ、目を瞑ったままのカカシをじっと見つめながら、
「...カカシさん...?」
返事はない。
イルカはむくりと起きあがってカカシを見つめた。
(...寝ちゃってる...ちぇー)
寝息立てているカカシに、そう思ったのは。自分一人置いていかれたような気持ちに、それはもっと話していたかった、と思ったからで。
イルカは一人ため息を吐き出した。
「カカシさん」
もう一度呼んでみるが返事はない。
起こさなくても一人こっそり帰るだけで。何の問題もないが。
滅多に見れないだろう、カカシの寝顔をじっと眺めながら、やっぱり一言挨拶して帰ろうとイルカはもう一度呼ぶことにする。
「先生....先生」
何気なくそう呼んだら、カカシが目を開けドキっとした。目を細めながら寝ぼけた眼差しを向け、薄い唇を開く。
「....紛らわしい言い方しないでよ。あなたも先生でしょ」
言われて反射的に何故か、すみません、と言おうとしたイルカに、
「そんな顔しないで、早くおいで。ほら」
腕を広げられてイルカは目を見開いた。顔が一気に赤面する。
「いや、俺は...」
汗を掻く勢いに顔を熱くさせながら、イルカはたじろぐが、カカシは片手を上げて自分を待つ。
イルカは、数秒眉を寄せながら考えて。
(...彼女さんと勘違いしてんだよな...?)
とろんとした眠そうな目と、向けられた台詞から、そう合点するしかなく。
(...本当に...この人との距離感マジわかんねー)
目下の悩みをイルカは呟きながら。
イルカはカカシへ腕を伸ばした。
<終>
定時を過ぎ、先に片づけを終えた同僚が席を立ち、声をかける。
「おー」
イルカは片手を上げ応える。今日はデートだと言う同僚を先に上がらせ、
「イルカ、まだいいか」
さて自分も、と席を立とうとした時にかかった声。顔を上げれば、上忍が報告書を持って立っていた。
「はい。もちろんです。お疲れさまです」
イルカは座りなおして笑顔を見せる。
「悪いな」
嫌だと、そんな気持ちは微塵も感じないイルカの笑顔に、上忍も気分良く報告書を提出する。
手際よく項目を確認していくイルカに、そうだ、と上忍が呟いた。
顔を上げると背中のリュックから、なにやらごそごそと取り出したのは。
一升瓶だった。しかも銘酒として名高く、手に入りにくいとされるその大吟醸のラベルが貼られている。
「依頼主からもらったんだけどな。俺は日本酒はあまり呑まねえから。イルカ、お前これどうだ?」
その一升瓶をどん、と机の上に置かれ。
イルカの顔は瞬く間に嬉しさに輝く。
「いいんですか?俺なんかもらって」
「いつも世話になってるからな。たまにはな」
「嬉しいです!ありがとうございます!」
「おお」
イルカの喜んだ笑顔に、その上忍も嬉しそうに歯を見せる。
「じゃあ、後はよろしくな」
「あ、待ってください」
背を向けた上忍にイルカは片手を上げた。
「最後の項目、ここ、記入漏れです」
書類を指すイルカに、
「...適わなねえな、お前には」
上忍は素直に従う。
と、まあ。そんな感じで。
老若男女、生徒でも上官でも。誰とでも上手くコミュニケーションが取れると、自負していたのだが。
その自信は最近揺らぎ始めている。
「イルカ先生」
(あ、)
アカデミーを出てすぐ、名前を呼ばれ、その声の主は振り返らなくとも分かる。
少しだけ心が浮き上がるような、それでいて戸惑いが自分の中で生じる。
振り返ると、カカシが立っていた。
柔らかい笑顔でイルカに真っ直ぐ歩み寄る。
どの上忍と同じく接していると自分は思っているのだが。なのに戸惑いのような言葉が浮かんでしまうのは、自分でも分からない。
「もう帰り?」
「はい」
「そっか残念。間に合わなかったな」
七班の任務報告書であろう、その紙をカカシがぺらとイルカに見せた。
「でも、ほら。夜間ポストがありますので、そちらに入れてきてください」
「うん」
素直にカカシは返事をしたので、イルカは内心安堵し、
「じゃあ、」
と言って頭を下げようとしたイルカに、じゃあ、と同じ声がカカシから出た。
「俺すぐ入れてきますんで。待っててくれます?」
「え?」
「ね?待ってて。一緒に帰ろ?」
「あ、はい...」
イルカの了承の言葉直ぐに、カカシににこっと笑われ姿を消され。こうなったらカカシを待つしか出来なくなる。
道ばたでぼんやりカカシを待ちながら。
(うーん...)
イルカは腕を組んで首を捻った。
元教え子との繋がりで知り合った上忍。ただそれだけのはずなのに。
こんな風に考えてしまうのは。中忍試験の直前もめてしまった事があるからなのか。それとも、自分が目をかけていた生徒の上忍師になったからなのか。
そう自分の心を探ってみても答えは出ない。
自分が自分の心が分からないって。それってすごく気持ちが悪い。
今までになかった事で。
それに。これはカカシ会ってからずっと続いている。
(...中忍試験の件で言うならば...俺がごめんなさいと、言っていないからだろうか)
ただ、こんな時間が経ってしまった今。改めてその言葉を口にするのが難しい。
「お待たせ」
「......っ」
目の前に急に表れたカカシに、イルカは声を出さずに驚き目を見開く。
「?あれ、ごめん。びっくりさせた?」
考え事をしていたとは言え、忍びとしてこの程度で驚いてしまった自分に、イルカは恥ずかしくなりながら、いえ、と小さく首を振る。
「そっか、ならよかった」
笑いながら歩き出したカカシは足を止め、イルカに振り返る。
「どうしたの?帰らない?」
「あ、いえ。帰ります」
「うん。じゃあ行こっか」
隣まで来たイルカを確認すると、カカシは歩き出す。
(これ...ほらこれだよ)
イルカは複雑な気持ちで秘かに口を尖らせた。
一緒に帰るって。約束があるならともかく。それだけの為に、待っててとか。生徒じゃあるまいし。
そう。大の大人の男が、一緒に並んで帰るって。それっておかしいだろ。
(おかしい...よな?)
横目でちらっとカカシを隠れるように伺っても、自分と同じようには思っていないらしい。カカシは至っていつもと変わらない。嬉しそうな表情。
その表情にもイルカは、むむ、となる。
何でそんなに嬉しそうなのか。
自分の同僚や友人とも偶然帰りが一緒になって歩いたりもしたが。こんな空気感にはならない。友人とは違うこの感じは一体どう表現したらいいものか。
友人ならともかく。カカシは上忍だ。カカシからしたら、自分は部下に当たる。縦の上下関係がくっきり存在するこの世界で。
違和感に、イルカの心はもやもやとする。
ーーそれに。この人の歩調は自分より少し遅い。
それはポケットに手を入れたり、猫背で姿勢が悪いのが関係してるからなのか。
だったら、もうちょっとしゃきっと背筋を伸ばしたらーー。
カカシの青い目がイルカへ向けられ、イルカの心音が一回高鳴った。
「ねえ、その鞄から出てるの。なに?」
自分の鞄に入れられ、入りきらずに頭だけを見せていた一升瓶に、イルカは、ああ、と相づちを打つ。
「これですか。今日受付で上忍の方にお土産をいただいて」
「へえ、見せて」
もともと近かった距離をずいとカカシは縮めると、イルカの鞄をのぞき込むように見た。
銀色の髪もイルカの目の前に近づく。
伸ばした手で少しだけイルカの鞄を開けたカカシは、
「ああ、これか。イルカ先生日本酒好きだもんね」
ふうん。と、いつもより多く相づちを打ったカカシは続ける。
「でもこれは果実系の香りで先生の好みじゃないんじゃないかな。イルカ先生はどちらかと言うと甘みがあるのより、さらりとした飲み味が好みでしょ?」
「あ、はいっ」
その通りだと勢いよく答えると、カカシは嬉しそうに微笑む。
「後、香りは華やかよりは、ふくよかな感じで、色は、」
『冴えているやつ』
二人の声が揃い。イルカはそれが嬉しくて笑った。カカシも笑う。
「カカシさんすごい。よく分かってますね」
「そりゃあ、先生と何回か一緒に呑んでるからね」
「あ、そうか」
「うん。でもさ、俺もその酒、呑んだことあるけど旨いよ」
「うわ、じゃあ呑むの楽しみだなあ」
「つまみとか、考えるのも楽しくない?」
カカシの言葉に、イルカは力強く頷いた。
「そうなんですよ。シンプルに乾きものでもいいんですけど。こんな酒の場合は...豆腐とか、魚とか」
「うん、豆腐だったら絹揚げもいいよね。焼いてネギとすり下ろしたショウガに醤油垂らして」
「あ!俺最近それにはまってるんですよ」
「そうなの?」
「じゃあ、それにしよっかなぁ」
心躍り、わくわくしながら。イルカははっとする。
「...あ、なんか...すみません」
「いえいえ」
かしこまり、恥ずかしそうに顔を赤らめたイルカに、カカシは気にする様子もなく、にこにこと嬉しそうな微笑みを向けている。
ほら、これもそうだ。
カカシと話していると、相手が上官だと言うのも忘れて話に盛り上がってしまう。
いつもこれじゃダメだと反省するのに。
何でまた俺は同じ間違いを。
でも。話しやすいんだよなあ。カカシさんは。
そうなんだよ。他の上忍にはこうはならない。
この人だけになる。
自分の持っている距離感が。常に糸を張っているはずなのに。気が付けは、それが縮まっていて。
距離感と言えば。カカシの自分に対する距離感も他の人とは明らかに違う気がする。
一定のあるべき距離が。カカシだとーー。
「ねえ」
「あ、はいっ」
心の中でぶつぶつ呟くイルカにカカシの声がかかり、イルカはつい大きな声で反応していた。
「ね、もしよかったらさ。今から俺の家で一杯飲むってのはどう?」
「え.....えっ、いや、そんな!」
「いつも店だけど、たまには家呑みもいいんじゃないかなあって」
「だったら俺の部屋で」
イルカの言葉に、カカシは一瞬考えるように手を口元に当てた。
「うん。でもほら、やっぱ初めてって緊張するから。俺の家にしよ?」
(......緊張?)
驚くも、カカシが予想もしていない言葉を口にするのは、今回が初めてではない。
幾度となく言われ、それはカカシだからだと自分のなかで納得してきた。
今回は。上司の誘いに断るわけにはいかないし、なによりその誘いに甘えたいと思った。
「あ...じゃあ、お言葉に甘えて」
困惑しながらも、正しい選択だと思う言葉を口にする。
ありがとう、と笑うカカシの顔に心臓が高鳴った。
同時に可愛いと思えた自分に、いやいやいや、と己の考えを否定する。
男に可愛いとか、しかも写輪眼のカカシに可愛いとか。マジ言っちゃダメな言葉だろうが。
それに、ありがとう、なんて。
きれいな笑顔に真っ直ぐ見られてそんな事言われて。
イルカは遅れて顔が赤面する。
そんな言葉を部下である自分に素直に口にするなんて。やっぱりこの人はーー変わってる。
熱くなった頬に、しっかりしろ、と自分を叱咤しながら、イルカはカカシに笑って誤魔化した。
カカシは上忍アパートに住んでいた。
広さとか、綺麗な外装に、ずりーなあ、と思いながら。カカシに通されるままに部屋に入る。
自分の部屋より物が少ないが、清潔感があり生活感があるその部屋は入りかを落ち着かせた。
スーパーで買ったつまみを持って、カカシはキッチンへ向かっている。
刺身を切って、話題に出た絹揚げと軽く炙って薬味を多めに盛りつけて。
手際よく料理するカカシを眺めながら。
最初呑みに誘われた時もこんな感じだった事を思い出した。
カカシと二人で飲みに行く事に恐縮したイルカに気にする事なく、カカシは優しい微笑みを自分に向けた。
先生といると楽しいから、なんて言われて驚いた後に内心有頂天になりそうだったけ。
あんないざこざのあった後だったから尚更で。周りは何かひどい仕打ちを受けるんじゃないかと、心配をしてくれたが。
特に心配する事はなにもなく。楽しく呑んで食っただけだった。
カカシが秋刀魚を好きだと初めて知ったのも、その時だった。
あの時は、まさかカカシの家にまで来ることになるなんて、思わなかったんだけど。
いや、今日も今も、カカシの部屋に来るなんて思ってなかったんだけど。
「ほら、食べよ」
綺麗に盛られたつまみに、イルカは素直に目を輝かせた。
酒と食の好みが合うこの嬉しさったら。
二十歳過ぎて酒を覚えたばかりの頃は感じなかった、共感出来る嬉しさを知ったのはカカシとが初めてだった。
空気が読めて合わせるのが得意でも、さすがにのノリだけではずっと酒は楽しく飲めない。
カカシの話は楽しいし、自分の意見も素直に言える。カカシが聞き上手なのもあるかもしれない。
上忍からもらった酒と、カカシの家に常備してあった酒を呑みながら。話は弾んだ。
「美味しかったね」
食べ終わったカカシがごろりと横に寝転がった。
「カカシさん、食べてすぐ横になったら牛になりますよ」
消化に悪いと、少し真面目な顔になったイルカにカカシは笑った。
「一日くらい平気ですよ」
あっけらかんとしたカカシは少し子供みたいにも見える。
と、カカシが床をパンパンと叩いた。
何のまねだろうかと目を丸くすると、
「じゃあイルカ先生も道連れね。ほらほら」
そこで要約カカシの意図を知る。
本当に子供のようで。イルカは苦笑いを浮かべた。
上官とは思えない甘えた表情に、イルカの頬はつい緩む。
「えー嫌ですよ。俺、牛にはなりたくないです」
「いいからいいから」
促されるままに、仕方ないとイルカも身体を床に横たえた。
ひんやりとした床に酒で熱くなった身体には気持ちいい。
二人で仰向けになって床に寝て。
満腹なせいもあってか。酒が入っているからか。心地良いままにぼんやり天井を見上げた。
「店もいいけど、やっぱ家だとくつろげるからいいよね」
「ええ、まあ」
イルカは相づちを打ちながら横目でカカシを見れば、目を瞑っている。
普段起きているカカシしか目にしないから。
カカシがカカシでないような、不思議な感覚がイルカを包んだ。
少し微笑みながら、カカシは続ける。
「外ってさ。人の目があるから。疲れるって言えば疲れるんだよね」
「へえ、そうなんですか」
そこでカカシは目を開けイルカへ目を向ける。
「なんか意外って感じに聞こえたけど?」
「いや。だって、カカシさんはいつも楽しそうだから」
素直な意見を口にしていた。
んー、と言いながら。そこからカカシは少しの間の後、声を立てて笑った。
「うん。そうだね。楽しくないって言ったら嘘になるからねえ」
少し恥ずかしそうな表情に見えて横顔を見つめたら、そう言えば今日ナルトがね、とカカシが話し始める。
カカシの低い声が隣のイルカに心地よく響き、イルカは相づちを打ちながらその心地よさに目を細め天井を見つめた。
途中でカカシの声が途切れて。顔をカカシへ向ける。
さっきと同じ、目を瞑ったままのカカシをじっと見つめながら、
「...カカシさん...?」
返事はない。
イルカはむくりと起きあがってカカシを見つめた。
(...寝ちゃってる...ちぇー)
寝息立てているカカシに、そう思ったのは。自分一人置いていかれたような気持ちに、それはもっと話していたかった、と思ったからで。
イルカは一人ため息を吐き出した。
「カカシさん」
もう一度呼んでみるが返事はない。
起こさなくても一人こっそり帰るだけで。何の問題もないが。
滅多に見れないだろう、カカシの寝顔をじっと眺めながら、やっぱり一言挨拶して帰ろうとイルカはもう一度呼ぶことにする。
「先生....先生」
何気なくそう呼んだら、カカシが目を開けドキっとした。目を細めながら寝ぼけた眼差しを向け、薄い唇を開く。
「....紛らわしい言い方しないでよ。あなたも先生でしょ」
言われて反射的に何故か、すみません、と言おうとしたイルカに、
「そんな顔しないで、早くおいで。ほら」
腕を広げられてイルカは目を見開いた。顔が一気に赤面する。
「いや、俺は...」
汗を掻く勢いに顔を熱くさせながら、イルカはたじろぐが、カカシは片手を上げて自分を待つ。
イルカは、数秒眉を寄せながら考えて。
(...彼女さんと勘違いしてんだよな...?)
とろんとした眠そうな目と、向けられた台詞から、そう合点するしかなく。
(...本当に...この人との距離感マジわかんねー)
目下の悩みをイルカは呟きながら。
イルカはカカシへ腕を伸ばした。
<終>
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