特別な日

目を覚ましたカカシは、ベットに上半身を起こすと、まだしっかり機能しない頭のまま、頭を掻いた。
体内時計は正確で、休日だろうがある一定の睡眠時間を超えると自然と目が覚める。
任務で里から帰ってきた頃には既に日付けが変わっていた。そこから報告を済ませ、家に着いて汚れを落とし、ベットに潜り込んだ時は丑の刻を過ぎていた。
のそりとベッドから起きたカカシは遮光性高いカーテンを開ける。その通り、もう太陽は頭上にまで登ろうとしていた。
秋の気配が感じられるようになったが、日差しはまだ強い。カカシは僅かに目を細めながら雲一つない水色の空を見上げる。
大きな欠伸を一つすると、カカシは着替える為に窓から背を向けた。

任務明けは大抵は待機になる。支給服に身を包んだカカシは歩きながらポケットに手を入れがら、ふと思い出した事に足を止めた。
ポーチを探り中から折り畳まれた紙を取り出す。出し忘れていた七班の報告書だった。
その日に提出するするつもりだったそれは、緊急の招集を受けた為当日に提出出来ないままになっていた。
どうしようかと思う間も無く、カカシの頭に浮かんだのはイルカの怒りの声だった。
即時報告は徹底していただかないと困ります。
受付に座る中忍が頭ごなしに上忍を叱る事はない。ないが、3日遅れて報告書を提出したカカシに、イルカははっきりとそう口にした。
どんな理由にせよ、報告義務はきちんと果たしてください、と告げたイルカは正論で、言い返せる言葉はなかったのは、単独任務を優先し、七班の任務報告をなあなあにしたのは事実だったから。
生意気な中忍だと片付けてしまう上忍がほとんどだろうが、カカシはそうは思わなかった。上官だからと言って媚びる事なく差別的なものを持たない。ブレることがない真っ直ぐな姿勢は、それは忍びとして本来在るべき姿であり、カカシの安心感を素直に誘った。
だが、幼い頃優秀であったカカシは先生に叱られた記憶はほとんどない。ほとんどないのに、イルカに怒られるとそんな感覚が蘇った感じがしたから。自分でも首を捻りたくなるが、そう感じてしまうのだから仕方がない。
カカシは報告書を持ったまま、受付がある建物へ足を向けた。

「お疲れ様です」
イルカの笑顔に迎えられたカカシは、軽く頷いた。カカシから渡された報告書を広げたイルカは、直ぐに目を落とし内容を確認し始める。
「あー、それね、ちょっと緊急の招集があって、」
「はい、知っています。お疲れ様でした」
言い訳がましく口にしたカカシに、顔を上げたイルカにまた笑顔であっさりと返され、あ、そう。と言うだけに留まった。前みたいに下手に怒られなかったのだから、良かったと言えば良かった。
だが。
カカシは下を向くイルカの顔を見つめる。
他人に対して苦手意識を持った経験から考えても、イルカを苦手と言うわけでもない。
だけど、何だろう。
カカシの心にもやもやとした感情が漂う。だがその正体を探ろうとは思わなかった。

方向を終えてカカシは部屋を出る。
「カカシさん」
廊下を歩いて呼び止められ、振り返るとイルカが立っていた。
「どうかしたの?」
何か不備があっただろうかと訊ねたカカシに向けるイルカは、少しだけ不機嫌にも見える。
「ちょっといいですか」
そう口にしたイルカに連れてこられたのは、同じ建物内にある医務室だった。
「じゃあ、脱いでください」
部屋に入り扉を閉めたイルカの開口一番の言葉に、カカシは直ぐに合点した。銀色の頭を掻く。
「大丈夫ですよ」
「大丈夫だったら呼び止めてません」
拒む事ももちろん出来るのに。カカシは観念した。苦笑いを浮かべながらも、上着を脱ぐ事を承諾し、ベストを脱ぐと続いてアンダーウェアも脱ぐ。包帯でぐるぐる巻かれたカカシの白い肌が露わになった。
イルカは静かに見つめながら、躊躇いもなく腕を伸ばした。カカシの包帯を剥がし始める。
「これはご自分で?」
「あ、うん。そう」
真新しい傷跡からは血が滲んでいた。ガーゼを取り手際よく貼り直していく。
「……上手く貼れていないですよ。それに化膿止めも塗ってない」
あらかじめ棚から取り出してあった化膿止めの軟膏をカカシの傷口に塗る。治ってきてはいたが、患部に触れた痛みに肌がぴくりと引き攣った。
「なんで分かったの?」
「臭いましたから」
「えー、そうなの」
カカシは感心した声を上げた。
「でもそこまで大した怪我じゃないし。化膿してるわけでもないでしょ?」
笑うカカシにイルカが顔を上げた。同調するような笑みをイルカは浮かべてはいない。変な事を言ったつもりはないが。カカシが小首を傾げると、直ぐにまた視線は傷跡へ戻されてしまう。
「……こんな日にこんな大怪我して……」
呟いたイルカの言葉が全部聞き取れなかったが、それでも聞き取れた範囲の台詞の意味を頭で探るが分からなかった。
「あの、こんな日ってどう言う意味?」
「……今日はあなたの誕生日でしょう」
諦めて素直に訊ねるたカカシに返って来たのは意外な言葉だった。
ぱちぱちと何回か瞬きをする。
「それがなんか関係してますかね」
正当な返しだったはずなのに。イルカから返事がない。笑みのない不機嫌な顔のまま黙ってしまったイルカに、カカシは焦った。
「あの……怒ってる?」
「いえ」
「じゃあなんでそんな顔をするの?」
イルカは困った顔をし、そこから息を吐き出した。
「悲しいからですかね」
悲しい。
理由を言われても、何故イルカが悲しいと言うのか分からなかった。イルカを悲しませるつもりなんてなかったし、自分のどの言動がイルカを悲しませたのかすら分からない。
それはカカシをもどかしい気持ちにさせた。元々自分は他人の感情に左右されない、そんな性質の人間で、困った事はなかったのに。今回は違った。
そんなカカシの気持ちに気がつかないまま、イルカはそれ以上何も言わずに手を動かし始める。傷口を固定する為にきつく巻くイルカに従うしかなかった。
包帯を巻き終わるタイミングを見計らい、
「あのー、」
カカシが声をかける。イルカが顔を上げた。
「じゃあ、今日もしよかったら飲みに行きませんか?」
「え?」
イルカの黒い目が僅かに丸くなる。
「俺、誕生日だから」
カカシが頬をこりこりと掻きながら、祝ってくださいよ、と今更のように付け足すと、短い間の後イルカが笑った。あはは、と声を立てて。
そんな可笑しい事を言った覚えはないのに、今度はイルカは笑っている。笑っているのは自分ではないのに、イルカの笑顔を見ただけで、それはとても嬉しい事に感じた。
一頻り笑ったイルカはカカシへ改めて向き直る。
「はい。勿論いいですよ。お祝いさせてください」
と、頷き、
「後、怪我も。病院が嫌なら、悪化する前に俺を頼ってくれていいんですから」
イルカは微笑んだ。
それだけのやり取りで。
ああそうか、そこで自分は一人じゃないんだとカカシは気がつく。長い間生きてきたのに。気が付きもしなかった事なのに、それは酷く大事な事のように感じる。途端心が軽くなった気がした。
「ありがとう」
カカシから自然と零れたのはお礼の言葉だった。
言葉を受け、イルカはまた目を細める。
その顔を目にした瞬間、この日が初めて特別な日なんだとカカシは感じた。


<終>







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