豚汁と僕とあなたと

「イルカお先ー」
職員室で残っていた同僚の声に、イルカは答案用紙から目を離さず、おお、と返事だけを返す。
一人になったイルカは赤ペンで丸付けをし、最後の生徒の分までやり終えるとようやくそこでペンを机に置いた。
イスの背もたれに体重を預けながら背伸びをし、視界に入った時計の針に、もうこんな時間かと息を吐き出す。
気がつけば窓の外はすっかり暗くなっていた。
見直しもしたいところだが、キリがいいところで帰ろう。
答案用紙を揃えると引き出しの中に仕舞い、机の上を整えるとバックを手に立ち上がった。
裏口から出て、イルカはアカデミーを後にする。建物からでると、冷えた空気がイルカを包む。その温度差に身震いをして、早足で歩き出した。来週末からまた気温が下がると天気予報で言っていた。
部屋着などの衣替えはしてあるが、そろそろ手袋やマフラーを出しておく必要があるなあ。
冷たくなる指先を丸めたイルカは自分の吐いた息を吹きかける。そこから疲労感にイルカは大きな欠伸を一つした。
テスト週間も折り返し。筆記の後は体術と術の実技が控えている。これで進級が決まるのだから、子供たちもそれぞれ精一杯頑張るだろう。だから自分も頑張らないと。
気持ちを切り替えて夕飯は買い置きしてあるどのカップ麺にしようか。
考えながら、ふとイルカは脚を止めた。
コンビニの前に立っている人に見覚えがあったからだ。
はたけカカシだった。
既に閉店したコンビニの前にある自販機の明かりはあるものの、その薄暗い道の前でぼんやりと立っている。何をしているのか。それは本人にしか分からないし自分には関係がないが、気になった。
カカシはナルトの上忍師だ。ナルトの元担任の自分との関係はそれだけで、面識はほとんどない。
ただ、ナルトの事が気にならない訳ではないイルカは、何度かカカシに話しかけた事があった。だが、返ってくる言葉は少なく自分が求めている内容とは程遠かったが、それでも良かった。
元々話好きではないのだろうと、割り切って声をかける事にしていた。
たがある日、別の上忍にあの写輪眼にゴマをすってるんだな、と言われた。勿論純粋に子供達の話を聞きたかっただけでそんなつもりはなかった。言われた事に酷く嫌な気持ちになり、それからあまり自分からはカカシに話しかけるのを控える事にした。
当たり前だが、カカシから話しかけてくる事はないからか、そこからカカシとは挨拶をする程度で会話はなくなったのだが。

最近アカデミーの授業ばかりで受付にも顔を出してないせいか、カカシを久し振りに見た気がした。
元気がないように思えるのは気のせいだろうか。
そのまま会釈をして通り過ぎるべきか。話しかける事を控えてはいたが、こんな夜更けに誰かが見ている事はない。
イルカはカカシに歩み寄った。
「こんばんは」
声をかけるとカカシがこっちを見た。青い目だけでは表情は読み取れない。
ぼんやりとした視線を向けられるだけのカカシに、イルカは内心戸惑いながらまた口を開いた。
「あの……どうかしたんですか?」
ただ、ここで待ち合わせをしているだけなのかもしれないし、どうもしていないのかもしれないが、取り敢えずそんな言葉を投げかけていた。いや、そんな言葉しか浮かばなかった。
カカシは、イルカの言葉を受け一回視線を外す。そして落とした視線をイルカに戻した。
「いや、飯買おうかなって来たんだけどね。もう閉まってて」
そこで、あ、と気がつく。今月からバイトがいないからと、店主が夜の10時で店を閉めていた。それをカカシは知らなかったのだ。
内勤の自分達はそれを勿論知っていて、スーパーで飲み物やカップ麺を買い置きしてあったのだが。
頻繁にコンビニに寄らない人間は知らないのは当然だった。
カカシはガッカリしていたのだ。
任務帰りに腹が減って立ち寄ったのに、やってないのだから当然だ。
この時間ではどこの店も閉まっている。それってどうなんだろうな、と今日も仲間と話していたくらいだ。
「……それは……」
残念だと。同調する眼差しを送るイルカの前で、ま、仕方ないんだけどね、と小さく息を吐き出す。
その言い方もまた気落ちしていて。
「あのっ、」
イルカはまた口を開いていた。
「良かったら、うちで飯でもどうですか」
勢い余って言った後に気がつく。別に家に呼ばなくても、カカシの家に保存食ぐらいはあるだろう。
別にカカシだからと言うわけでもない。腹が減っている人を目の前にして、放っておけなかっただけだった。
カカシは、少し驚いた顔をした。何回か瞬きをする。
上忍相手に失礼だったかと後悔が頭をかすめた時、
「……いいの?」
小さな声だった。申し訳なさそうにも聞こえる声に、
「はいっ、勿論」
イルカは大きく頭を縦に振った。

イルカは台所から居間をそっと覗き見る。
(………静かだ)
カカシは通されるままに居間のちゃぶ台の前に座っている。視線はイルカがお茶を淹れた湯飲みに落とされたまま。
こう言っては何だが、地蔵の様にもみえなくはない。
イルカは台所で野菜を切るのを再開させる。
カカシに、いいの?と聞かれた時、その口調に少し驚いたが、内心嬉しかった。
カカシは人に頼るような人間には見えなかったから。特定の上忍仲間と話すのは見かけるが基本一人だ。あ、いや、時々綺麗な女性と歩いていた。あれはきっと恋人なのだろう。
だから、なおさら自分なんかの誘いには反応を示さないと思っていた。
まあ、でも頷いてくれたから良かった。だからさっさと作っちまおう。
イルカは味噌を取り出す為に、冷蔵庫を開けた。


「大したものじゃないですが、どうぞ」
お盆に乗せて運んだ白飯が入った茶碗と、大きめのお椀をカカシの前に置く。中には即席で作った豚汁が入っている。
後は漬物が入った小皿を追加して置くと、カカシは正座したままじっと湯気立つそれらを見つめた。
「あ……、すみません。誘っておいてこんなものしか出せなくて」
苦笑いを浮かべると、カカシがハッとしたように顔を上げた。
「あ、いや、そうじゃないよ。これって、何?」
大きな椀を指差す。
「豚汁です」
「……へえ」
いまいち薄いリアクションにイルカは内心首を傾げる。
「今日も冷えますし、鍋でも良かったんですが、豚肉もあったので。野菜もたくさん入れてあるので食べてください」
温まりますよ。
促すとやっとカカシは箸を持つ。手甲をはめたままの手が口元に伸び覆面を顎下まで下ろす。お椀を持ち、汁を啜った。
そこから箸で大根と人参を食べ、里芋を口に入れる。
豚肉は本当はバラ肉がいいのだけど、冷蔵庫には豚コマしかなかった。その豚コマもカカシの口に入る。
温かな湯気と豚汁の匂いと、カカシの豚汁を啜る音。
その中でイルカもまた目の前に座わり、箸を持ち手を合わせる。自分の分を食べ始めた。
ここには食事をしている人間が二人もいるのに、静かだ。自分の周りには騒がしい奴しかいないからだろうが。こう静かだと、自分の部屋なのに、ちょっと居心地が悪い。もそもそとカカシに合わせるように黙って食べていると、何口か食べ進めていたカカシがふと顔を上げる。
「美味しい」
ぽつりと言った。
それは遅れてイルカの頭に入る。
「あ、……りがとうございます」
イルカもまた遅れながら言葉を返した。
「豚汁って言うんだ、これ。すごく美味しい」
「それは、……良かったです」
今度ははっきりと面と向かって言われ、イルカは照れるのを隠すように小さく俯いた。
カカシは再び食べ始める。
少ない言葉の中には、しっかりとカカシの気持ちが入っていた。それが分かり、食べながら嬉しさが込み上げる。
沈黙は相変わらずだが、居心地の悪さは気がつけばなくなっていた。



数日後、書類を抱えて歩いているとカカシを見かけた。校門近くで上忍と話をしている。確か十班の担当をしているアスマだ。カカシはいつもと変わらない、両手をポケットに入れ木々の下に立っている。昨日自分の部屋で見た表情と違うように見えるのは、覆面で口元が覆われているからだろう。
会釈をするような距離でもないから、イルカは歩きながら通り過ぎようとして、聞こえた笑い声。イルカは思わず足を止め視線を向ける。
笑っていたのはアスマだけではない。カカシもまた笑っていた。
あんな顔をするんだ。
あんな風に笑うんだ。
いつめどこか冷めているような顔しか見てこなかったからだろうか。
思わず見入っていた。
カカシはそのままアスマと歩き出し、ふとこちらを見た。少し離れた場所にいる自分を見つける。
ふわりと、笑った。
(ーーえ、)
あまりにも自然な柔らかい笑みに、一瞬だが間が空く。イルカは慌てて頭を下げた。そこから頭を上げると、もうカカシは背を向けて歩き出していた。




「この前はご馳走さま」
「……え?」
イルカはペンを止め顔を上げていた。
はてなんの事だと受付に座るイルカに、カカシはご馳走さまと、確かにそう告げた。
カカシを最後に見かけてから二週間近く経っていた。アカデミーのテストや術の試験に追われて、受付に充てがわれ座ったのは昨日。
あれからかなり本格的に寒くなり、忙しさからかなり時が経ってしまっていたかのように感じていた。
でも、カカシのその一言で、あの時の記憶がまるで昨夜の事のように蘇った。
美味しいと自分に告げたあのカカシの言葉と、静まり返った部屋と豚汁の匂い。
カカシがイルカに今伝えたのは、あの時のお礼。
「あ、ああ、はい、こちらこそっ」
机に座ったまま、イルカは深々と頭を下げる。そこから顔を上げて伺うと、カカシは露わな青い右目でイルカを見詰めていた。
「うん」
小さく頷く。そして背中を見せて部屋から出て行ってしまう。
(……お礼を言われた)
ただそれだけの事だけど、カカシから声をかけてきてくれたのはこれが初めてだった。
なかなか会話が通じない相手だと思っていたが、それは自分の勘違いだと気がつく。
子供達にも自分の意思を上手く伝えることが出来ずに、周りから勘違いをされ損をする子がいた。
ただ、うまく気持ちを伝えられないだけで、無愛想でもなんでもない。心の底では誰かと常に繋がりたいと思っている。
カカシはそんな子供達と重なった。
途端話しかけるのを控えていた自分が馬鹿らしくなった。
周りを気にせず自分らしく、声をかけよう。
この部屋を出て行ったカカシの後ろ姿を思い出しながらイルカはそう決心するように呟いた。


だが、繁華街で。カカシを見かけたものの女性を連れていたから空気を読んで会釈だけに済ませたのに、いつものように会釈を返すだけでいいのに。
「イルカ先生」
カカシが嬉しそうに名前を呼んだ。
ポケットの中に入れていた手を出して振る。自分にする初めての仕草をデート中にしてくるカカシに戸惑った。
デート中だと言う事を忘れたのか。
それとも何かの暗号なのか。
カカシは女性を脇に連れイルカに歩み寄った。
「お疲れ様です」
頭を下げるとカカシはまた、うん、と返事をした。
「先生は今帰り?」
「ええ、まあ」
さらにいつも以上に流暢に話しかけてくる。でもそれは、カカシから漂う酒の匂いで分かった。
白い肌もほのかに赤い。これから二件目にでも行くのか、それとも別の場所に消えるのか。それは二人の勝手で詮索はしたくない。
ちなみに自分は火影のお使いだ。
「じゃあ、俺はこれで」
丁寧にお辞儀をしたイルカにカカシが見せた顔は何とも言えない、寂しそうな顔だった。
「先生」
声が再びカカシからかかる。
「また先生の家に行ってもいい?」
カカシは僅かに首を横にしてイルカを見詰めた。
なるほど。
しかし。
……今言う事か?
困った顔は見せたくなかった。
が、
「先生の作った豚汁食べたい」
思わず相手の女性の顔色を伺っていた。少し驚きはしているものの、ただそれだけで嫌な顔を見せずこっちの様子を逆に伺っているようにも見える。感じのいい女性にイルカは申し訳なくなった。
イルカは苦笑いを浮かべる。
「ええ、いいですよ。あんなものでよければ、またいつでも来てください」
それを聞くとカカシはニコリと微笑んだ。
じゃあね、先生。
カカシはまた女性と共に歩き出す。繁華街に消えていく二人の背中を見つめながら、イルカは息をゆっくりと吐き出した。



翌日、カカシが受付に顔を出した。
「じゃ、よろしくね」
報告書を確認し終わったイルカに優しくそう告げると、カカシは受付を出て行く。イルカは立ち上がると、隣にいる同僚に声をかける。カカシを追いかけた。
「カカシさん」
振り返るカカシはイルカを見て、少し不思議そうな顔をした。
「どこか不備があった?」
「いえ、ないです。そうじゃなくて、」
イルカは言葉を切る。
「昨日の事なんですけど、」
「うん」
「あの後、大丈夫でしたか?」
「昨日……?あー、うん……まあ、」
カカシは一瞬間を置いた後、曖昧な返事をする。自分も聞き方が悪かった。でもどう聞いたらいいのか分からなかったのは事実だった。話を進める事にする。
「なら良かったです……でもああいう話は受付でしてくれて構いませんから」
正直、昨日みたいな気まずい空気はごめんだ。やましい事は何あるはずがなくてもだ。
「……ああいう話?」
「豚汁の話です」
「……何で?」
カカシは分かりやすいくらいに顔を顰めた。
丸で分かってないと、そんな感じで。昨日のカカシの言動に納得する。
「えっと、だから、昨日みたいな時は話しかけずに俺を無視したっていいんですよ?」
「無視?無視なんてするわけないでしょ」
何を言い出すのかとカカシは困惑した顔をした。
「話しかけちゃ駄目なの?」
嘘だと言ってよ。と言わないが顔に書いてある。だから焦った。
「あ、いや、良いんですが、やっぱり相手の方がいる時は、ちょっと考えた方が良いのかなと」
挨拶程度ならまだしも、内容が内容だ。カカシに煩わしい思いをかけさせたくない。だがカカシは心外だと言わんばかりの顔をしていた。
カカシは黙っていた。不満を顔に思い切り出してはいるが、漂う眼差しが、言われた事に対して考えている事を示していた。
しばらく沈黙が続き、
「……分かった。あなたがそう思ってるなら、そうする」
言い終わると、カカシはぷいと顔を背ける。スタスタと廊下を歩いて行ってしまった。
イルカはぽかんとした。
そんな言われ方をされると思ってなかったイルカは、消化しきれない気持ちが残る。残るが、カカシはもう去ってしまっていない。イルカは仕方なく受付へ戻った。
「どうかしたのか?」
同僚に問われるが、自分でもどう説明したらいいのか分からなかった。
椅子に座りながら、息を吐き出す。
だって、また豚汁を作ってくれだなんて。相手に失礼じゃないか。自分だったら、相手が男であれたぶん傷つく。
「……難しい」
呟きながら、カカシから受け取った報告書をぼんやりと眺めた。



「お前さ、はたけ上忍となんかあったの?」
焼き鳥を串から食べながら同僚が聞く。居酒屋の喧噪の中、イルカは傾けていたジョッキを止めた。
「……何で?」
「いや、なんとなく。はたけ上忍がいる時のお前の空気っつーか、はたけ上忍のお前に対する態度って言うか」
「あー……まあな」
カカシはあれから避けられていた。あからさまに。挨拶をしてもこっちを見もしない。
まだ自分の中で消化していなかった話題に、イルカはぼんやりと返せば、肯定したイルカに、おや、と同僚が片眉を上げた。
「なんだよ。もしかしてあの人を怒らせた訳じゃねえよな?」
聞かれてイルカは困った。自分はそんなつもりじゃなかったからだ。
「分からない」
「なんだよそれ」
「もういいだろ」
目の前のねぎまの串を取ると、それを頬張る。
前は自分が距離を取るようにしていた。それと大して変わらないはずなのに。
あのふわりとした微笑みがもう向けられないのかと思っただけで寂しい気持ちになった。
たかが上忍の一人だと割り切るのは簡単なのに。
ジョッキのビールを喉に流し込んだ。
この焼き鳥が美味いのがせめてもの幸いだ。
「この焼き鳥美味しい」
女性の嬉しそうな声が耳に入った。同じものを食べているだけなのだが、軽やかで楽しげな声に思わず反応して視線を向けると、女性が三人、わいわいとテーブルに料理を並べて食べている。その中の一人に目を留めた。
この前カカシの隣にいた女性がそこに座っていた。肩まである髪を片方だけ耳にかけて箸で焼き鳥を丁寧に食べている。
「ーーでね、私カカシに料理を作って欲しいって言われちゃって」
カカシの名前がでてイルカはドキリとした。ビールを飲みながら聞いてはいけないと思いながらも耳を澄ましていた。
「やだ、それって本命って事?私も狙ってたのに」
「ちょっとやめてよ、私のなんだから。でもね、料理なんて言われてもね。私クナイしか刃物は持ったことないから」
「じゃあ私練習しよっかなあ」
「だから、今は私のなの」
三人の綺麗な女性が笑い合う。
「カカシ上忍ってモテるよなあ」
呑気に酒を飲みながら言う同僚に、相槌を打ちながらも言葉は頭に入って来なかった。

帰り道の気分は最悪だった。
遊びで誰かと付き合った事がないが、あれはない。
カカシでなくとも、誰でもいいと、そんな気持ちでカカシと付き合っている考えが信じられなかった。
自分には関係ないのに、ひどく腹立たしい。
馬鹿にしたような女も。
その女と付き合うカカシも。
今は。
女は確かにそう言っていた。恋人なんていた事がないが、好きな人とは出来るだけ長く一緒にいたい。
それが当たり前だと思っていた。あんな軽薄な恋愛感情を持ち合わせていない。
ため息がでる。
どんよりとした雲の下、冬の空気の寒さにイルカは手をポケットに入れながら歩いた。いつも姿勢を正して歩くイルカの姿はそこにはない。
アパートの階段を上りながらイルカは手を入れていたポケットの中から鍵を探り、あと三段で上がるというところで足を止めた。
薄暗い中、自分の部屋の前で立っているカカシを見つめた。
きっとカカシは少し前から自分の気配を感じていたはずだ。階段途中で立ち止まっているイルカへ顔を向けていた。イルカは再び足を動かす。カカシの前で足を止めた。
「……どうされたんですか」
この寒さの中、夜更けに外は誰も出歩いていないしイルカの目の前にいるのはカカシしかいない。いるはずがない。なのに、カカシは黙ったまま視線を外しどこか遠くを見つめた。
ここにきてまで無視をする。意味が分からなかった。腹も立つのに、虚ろな気分になる。そんな気分にさせるカカシに苛立ちさえ感じる。
イルカは息を静かに吐き出すと、手に握っていた鍵でドアノブの鍵を開ける。
扉を開けて中に入ろうとした。
「この前女に頼んで豚汁を作ってもらったんです」
カカシが低い声で呟く。ようやく口を開いたカカシのその言葉にイルカは部屋に入ろうとしていた動きを止める。ついさっき聞いたばかりの話をカカシから聞きたくなかった。イルカは振り返える。
「でもね、美味くなかったんです。同じような具も入れてもらったのに。全然美味いって思えなかった」
「……味噌の種類が違ってたんじゃないんですか?」
「そうなのかな……」
またイルカからため息が出た。
「一体なんなんですか。気に入らなかったらもう一度その彼女に作ってもらえばいいでしょう?いちいちそんな事俺に言うために来たんですか?」
「だってあんたの作ってくれた豚汁をもう一回食べたくて、」
「で、作れと?冗談……、今何時だと思ってるんですか」
「だってずっと待ってたのに帰ってこないから」
「……え?」
「受付で聞いたらもう上がったって聞いて。すぐ帰ってくるとばかり思ったから」
「ここで……ずっと?」
自分が仕事を上がったのが17時半過ぎ。そして今はたぶんあと少しすれば日付が変わるくらいだ。
何時間待ってた?
イルカは思わずカカシの手を握っていた。
震えてはいないが、想像以上の指の冷たさにイルカはカカシの顔を見る。
きっと白い肌もまた冷えてしまっているのだ。勝手だと思うのに、胸が痛んだ。
自分なんかの為に。
イルカはカカシから手を離す。
「……俺なんかをずっと待ってないでください」
「でもどうしても今日会いたかったんです」
「だから何で、」
「あんたが好きだから!」
一際大きくなったカカシの声が辺りに響く。
自分を好きだと言ったカカシをイルカはじっと見つめた。

「俺を……好きだったんですか」

イルカの口から言葉がポツリと零れた。
ずっと不思議だったカカシの行動が。
すっぽりと心に収まる。
そしてそれが俺の知りたかった事なんだと、気がつく。
急の告白や、男同士である事とか、話し合うべき事は山のようにある気がするのに。
薄っぺらい恋愛感情を語っていた、あの女性達の話を思い出したら、カカシの真っ直ぐな気持ちに比べたら、どうでもいい事のように思えた。
力が抜けた腕を上げ、イルカは頬をぽりぽりと掻く。
「じゃあ……今から豚汁でも作りますか」
あんなに大声で告白してきたくせに、カカシは目を見開いた。
カカシを部屋に招き入れる。
ーー先ずは、そこから。

誰かにご飯を作ったのは初めてだったんだ。
美味しいと言われたのも。
誰かと一緒に食卓を囲んだのは久しぶりだった。
またこの人に豚汁を作って。
美味しいと言われたら。
柔らかい笑みを向けられたら。
きっと俺はまた、貴方に惹かれる

扉が閉まる。
冷えた空気に包まれた外が静寂に戻る中、イルカの部屋の明かりが暖かそうに灯った。


<終>
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