当日

翌日、イルカは昼過ぎに目を覚ました。
普段なら体内時計のおかげで朝一回目が覚めるはずなのに。昨日はどうやらそれが機能しなかったようだ。それは昨夜は帰ってからまた家で一人酒を飲んだからだと理由が分かっていた。
普段も缶ビール一本を晩酌としていたが、今こたつの上に転がっている空き缶の数は三本。その前に居酒屋でカカシと一緒に生ビールを三杯と焼酎二杯。普段からそこまで飲まない自分からすれば飲み過ぎだ。イルカは転がる空き缶を眺めてため息を吐き出した。酒臭くはないが体が怠い。
それに加えて風呂に入らずにそのまま布団で寝てしまった。普段仕事でどんなに遅く帰ってきても、必ず風呂に入っていたのに。
自分らしからぬ怠惰にイルカは苦笑する。
でも、その理由もまた分かっていた。分かっているからこそ、何も考えたくない。
と言うか貴重な休みだというのにもう半分過ぎてしまっている。イルカは重い腰を上げると、風呂を沸かす為に浴室へ向かった。
一通り終わり買い物から帰ってきた頃にはもう夕方なっていた。日照時間が短くなった為、外は暗くなりはじめている。
日用品を仕舞い、食材を冷蔵庫に入れ終わったイルカは、そこでようやくこたつの前に座った。
ぼんやりとしたままテレビをつける。そのままCMからニュース番組に変わり、キャスターが話す話題から今日がクリスマスだと思い出した。
昼過ぎに起きてから今まで、買い物に外にも出たのに気がつかなかったのは、どこまでぼんやりとしていたか。否応なしに気がつかされる。
今までこんな気持ちになった事がなかった。いや、今まで色々な問題を抱えてきたことがあったが、今まで経験してきた事のない感情だと、気がついていた。失恋はたいてい時間が解決するものだと言うのが定説で、そんなものだろうと思っていた。
いや違うだろと、そこまで思ってイルカは苦笑いを浮かべた。自分がカカシに抱いている感情は間違いなく恋情だ。でも、この抱いている気持ちを相手に気持ちを伝えたわけでも何でもないのに、失恋とまでの状況ではないんじゃないだろうか。
このまま発展するわけのない気持ちは失恋といかないとしても、抱いたまま永遠に過ごしていくわけにはいかないだろう。
となると選択肢は一つだった。
テレビへ目線を向けると、今度はニュースからバラエティに変わっていた。いかにもクリスマスらしい恋愛の話で盛り上がっている。
新しい恋。
その言葉が耳に入ってイルカは思わず顔をテーブルに伏せた。
それが出来ればどんなに楽だろう。
 一緒にいれて幸せ?
頭に浮かんだカカシがまた自分に問いかける。
 俺は幸せだけど。
思わずそこで目を閉じた。ぎゅっと瞼に力を入れそこからゆっくり目を開ける。
苦労と言えるような苦労ではないが、問題にぶつかる度に人並みに何事も自分で考え答えを導き出し解決をしてきた。だから、今回もまた決着をつけるべき感情だと分かってる。そう、この感情はきっと時間が解決してくれる。
でも、今は空腹を満たす方が先だ。
買い物をしてきたが、自炊をする気分ではない。そこから壁にかかっている時計で時間を確認すれば、夕飯と言える時間には十分過ぎてしまっていた。
ラーメンでも食いに行くか。
イルカは上着を羽織ると外に出た。

昨日と変わることなくクリスマス一色に街が彩られている。つい数時間前に買い物に出た時には何にも見ていなかったんだと、改めて気がつかされた。心にスイッチがあるなら、それは見事にオフになったままだったらしい。
ラーメン店に着くとイルカは暖簾をくぐって店主に挨拶する。ちょうど空いていたカウンターの一番隅に座った。
店は男性客が多いが、クリスマスだからだろうか普段あまり目にしない若いカップルもカウンターやテーブルに何組か座っている。
店主にクリスマス特製だというラーメンを勧められたが、とてもそんな気分にはなれない。苦笑しながら断り、いつもの味噌ラーメンを注文した。
注文してすぐ、また客が入ってくる。その一番奥のテーブルに座った客が見知った相手だと気がついたのは、その声が聞こえたからだった。
「まったく飲み過ぎなのよあんたは」
紅の呆れた声がはっきりと耳に入る。どうやら連れがいるらしい。振り返らずに感じ取る。
自分の元生徒の新しい師になったのはカカシだけではない、紅もまたそうだった。ただ仕事上話す事はあったがプライベートで会った事も会話をした事もない。階級が違えば尚更だ。しかも今日はクリスマス。気がつかなかった事にするのが一番ベストだと判断したイルカは、前を向いたままグラスに入った冷水を一口飲んだ時、
「いいじゃん別に」
むくれたような声に、イルカはぴくりと反応した。そこから人影越しに確認すれば、その声の主であるカカシが背中を向けて紅の前に座っていた。
今年のクリスマスはカカシはどう過ごすのか。そう言えば聞き忘れていたけど。
まさかこんな店で会うなんて。
動揺するイルカを余所にカカシはまた口を開いた。
「飲まなきゃやってられないんだからさあ」
酔いからくる怠そうな声。
「それはさっき聞いたわよ。兎に角、あと一杯だけだからね」
少しうんざりした口調で釘を刺し、親父さんこっちにビールお願い、と紅が手を上げ注文をする。その光景を隠れて確認しながらも目を見張った。すぐに顔を戻す。普段自分と飲むときにはあんなに酔った事はあっただろうか。いやない。
紅が言ったように、飲み過ぎているのがイルカから見ても分かった。紅がため息を漏らす。
「あんたがフラれるなんてね」
もう少し離れていたテーブルだったら良かった。心からそう思った。だからといって今店を出て行くわけにはいかない。
イルカはグラスを持つ手に力を入れ、逃げ場を探すように彷徨わせた視線をテーブルへ伏せた。
「・・・・・・俺はさ、ただ一緒にいれるだけで良かったんだよね」
そんな相手がいたなんて。耳をふさぎたくなる衝動に駆られる。と、目の前にラーメンを置かれた。真顔で反応を見せないイルカに、店主に不思議そうな顔をされ、誤魔化すように固い笑顔を作った。そこから割り箸を持ったものの、イルカは動けなかった。
「じゃあいいじゃない」
「そうじゃなくってさ、だから聞いてよ」
さっさと終わらせようとする紅に、カカシがふてくされた声を出した。
「聞いてるわよ」
「だって、まさかのイブに一緒に過ごせる事になったんだよ?嬉しくて、幸せだよねってつい口に出ちゃって。だけど、・・・・・・それに応えてくれなかった。すっごい困った顔して何も言ってくれなかったんだよね」
イブに?
眉を潜めていた。
「まあでも、俺は早く会いたくて任務も早く終わらせて会いに行ったんだけど、」
動かない頭をゆっくりと巻き戻す。昨日のカカシの手甲や手に付いた泥。少し疲れていたように見える笑顔が浮かび上がる。
会えたなら良かったじゃない、と返す紅にカカシが小さく息を吐き出すのが聞こえた。
イルカは割り箸を手に持ったまま、ゆっくりと何回か瞬きをした。
もしかして、と思うがそれは自分の勝手な都合からくる勘違いだ。
違う。
違う。
それはきっと俺の事じゃない。
高鳴る心音に心で何度も呟く。
「支払いだって俺が払うって言ったのに。払わせてくれないの。まあそんな性格だって知ってるけどさ。こんな日ぐらい甘えて欲しいのに」
カカシが丸で子供のように口を尖らせているのが目に浮かんだ。
黙って聞いているのか、紅からの答えはない。独り言を言うかのようにカカシは続ける。
「帰りにあの人、手を俺に伸ばしてきたんだけど、それを俺、誤魔化すように避けちゃった。触れたら、この関係が終わっちゃうんじゃないかって。怖くて」
息を呑んだ。
鼓動が早くなると同時に、脳内の別の自分が強い否定を繰り返している。信じられない気持ちの方が強くて。自分の中で、何かがゆらゆら揺れている。
「一緒に見たツリーがさあ、すっごく綺麗でね」
瞬間脳裏に浮かび上がるのは、あの大きなクリスマスツリーだった。眩いばかりに煌めく光を見つめるカカシの横顔。
体が前のめりになりそうになった。
背後で、ああ、と声を漏らしてカカシがテーブルにうなだれたのが気配で分かる。
「先生、今頃何してるのかなあ。クリスマスでしょ?よりによって今日仕事休みじゃない。誰かと会ってケーキとか食べていたらどうしよう。それか半纏羽織ってこたつにはいって一人でみかん食べてたりしてるのかな」
先生。
はっきりと聞こえた。自分の都合のいい幻聴でもなく。
あの低いカカシの声ではっきりと。
かあ、と身体が熱くなった。身体が震える。
「・・・・・・さあ。どうかしらね」
紅は知っているのか知らないのか。その一言では図れない。
泣きたいような笑いたいような。言い表せないものが込み上げる。イルカは耐えるように唇を結んだ。
自分が怖がっていたのと同じように、カカシもまたこの関係が壊れてしまうのが恐れていたのだ。知ってしまったその事実があまりにもこそばゆくて。なのに、鼻がつんとして目の前がぼやける。泣きたくなくて、イルカはぐっと奥歯に力を入れた。
もう一つ分かったのは。カカシがこんなに不器用な人だったと言うこと。
それが、とても嬉しかった。
優しくて余裕がある人だから、自分なんかはとてもそんな対象でもなく丸で相手にされないと思っていたし、自分の手に届くことのない雲の上の人だと思いこんでいた。
それでも尚、イルカの心は葛藤していた。つい1時間前は自分の中で諦めるべきだとほぼ決定付けていたのだ。知る事のなかったカカシの真意を背中で目の当たりにしても、どうしても自分から手を伸ばす勇気がない。
未だにラーメンに手をつけようとしないイルカを仕事をしながら心配そうに見る店主の視線に、イルカは気がつくとこはなく。割り箸を持ったまま、瞬きはするものの微動だに動かなかった。
テーブルに伏せていたカカシがもぞりと動く。
「会いたいなあ」
カカシの口からこぼれた言葉は甘く、ぞくりとイルカの心を逆撫でた。
「はいはい。もう飲んだ?じゃあもう帰るわよ」
友だと言えども同情で優しくするような相手ではない紅は、カカシがビールを飲んだのを確認すると店を出るように促した。それに素直に従うようにカカシは立ち上がる。
会計を済まし2人が出て言った後も、イルカはぼんやりとラーメンを見つめていた。
どこか具合でも悪いのかい、とイルカの様子につい口を開こうとした店主を肘でつついて止めたのは、その娘だった。日頃イルカとカカシが何度も一緒にこの店を訪れているのだ。どんなに隠していようと分かる人には分かる。
イルカはただ、目を伏せ少し伸びてしまっている味噌ラーメンを見つめ、そこからゆっくり食べ始めた。
食べ終わったイルカは店主に礼を言い、暖簾を潜ると店を出る。夜の空気はキンと冷え、イルカは身体を震わせながら手をポケットに入れた。
吐き出す息は白い。
あれぼど葛藤していた心の中が、嘘のように穏やかになっていた。

無意識な誘惑ほど甘いものはない。
手放そうと思っていたのに。カカシの最後の一言が見事に180度変えてしまった。
浮かぶのは一つの確信。

そう、ーー俺はきっと明日の朝一番にカカシを探して会いに行くだろう。

背中越しに聞こえるクリスマスソングを耳にしながら、イルカは晴れやかな笑顔で歩き出した。




<終>
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