梅雨の日に

 外はしとしとと雨が降っている。じめっとした空気は梅雨のせいで、気温はそこまで高くなくとも暑いわけではない。扇風機は部屋の隅で首を動かしながら部屋に風を送る為に動いていて、カカシはその部屋でちゃぶ台の前に胡座を掻いて座っていた。開いているのは部屋にあったイルカの所有物である忍術書。教本として仕事上よく使っているのだろう、それは使い込まれていて、時折イルカの走り書きのようなメモも目に付く。内容としてはそこまで興味が沸くものではないが、自分とは違うイルカの着眼点が分かるのは面白い。ついさっきまではいつもの小冊子を読んでいたが、一通り読んでしまった。
 休日に部屋でひたすら読書を続けるのには理由があった。
 視線を上げると、斜め前では四角い座卓の前にイルカが難しい顔をして座っている。持ち帰った仕事があるとは聞いてはいたが、その量からすると、しばらくは構ってもらえそうにない。だからこうして大人しく読書をしながらそれを終わるのを待っていた。
 視線の先のイルカは片手にペンを持ち、もう片方の手には去年商店街でもらった団扇を持っている。時折思い出したように仰ぎながら、持っているペンを走らせている。始めたばかりは正座をしていたが、今はその姿勢も崩し胡座を掻き、そして行儀悪く左足は立てていた。
 早く終わって欲しい気持ちはあるもの、その机に広げたノートと睨めっこしている姿は微笑ましい。
 イルカの事を好きなんだと気がついたのは上忍師として出会ってしばらくして。ひょんな時だった。任務で里に帰還して報告所に向かっている時。時間的にも遅いし、当番制なのは知ってはいたが、詳しくは知るわけがない。でも、あの人がいるといいな、とふと思った自分に驚いた。そして馬鹿らしいと自分に一笑した。なのに、その後報告所に入りそこにいたイルカの姿を目にして、そしてイルカに笑顔を浮かべられ名前を呼ばれた時、迂闊にも心臓が高鳴った。愛読している本の冒頭に出てくるような、相手に好意を抱く表現がぴったりと当てはまって、うっかり耳まで熱くなったのを必死に隠した。それが、イルカに対して「好き」と言う気持ちに気がついた時だった。
 ただあれは、今思い出しても恥ずかしい。ろくに恋愛をしてこなかったのが丸わかりだ。恋愛なんてそこらに転がっているようで、でも興味もなかったし、所詮愛読書の中にある夢物語に近いようなものだと思いこんでいたから、尚更だった。
 なのに今、初めて出来た恋人に夢中になっている事実。
 カカシは密かに情けない笑みを薄く浮かべ、そして読みかけの本をちゃぶ台の上に伏せると、立ち上がる。冷蔵庫に向かった。
「先生も何か飲みます?」
 勿論自分の家ではないが、勝手知ったると言う顔で冷蔵庫を開けながらイルカに声をかけると、大丈夫です、とすぐに声が返ってくる。それは机の上にあるグラスに麦茶がまだあるからだ。勿論飲みかけで、そして氷はすっかり溶けてしまっているからその中の麦茶も薄くなってしまっている。
 それでもそんな生返事が返ってくるのは、イルカが集中しているからに他ならない。
 冷蔵庫には男二人分の食材が入ってない。小腹が空いたら買い物に出かけついでにどこかで食べてくるのもいいだろう。
 そう思いながらカカシは麦茶を取りだそうとして、そこで紙パックのコーヒー牛乳が目に入った。カカシはそれを手に取る。
「せんせ、紙パックのやつ、飲んでいーい?」
 カカシの声にイルカから、ええ、とまた生返事に近い声が返る。ちらとイルカを見ると案の定口元に指を添え考え込む横顔が目に入り、カカシは薄く微笑みながらそれを取り出すと冷蔵庫を閉め、自分のいた席に戻った。
 元々コーヒー牛乳なんて飲まない。ただ、イルカがよく風呂上がりに飲むと上手いんですよ、と言って飲んでいるのは知っていた。
 ただ、今は麦茶に飲み飽きていたから、なんでも良かった。
 カカシは細いストローを剥がして飲み口に刺し、一口飲む。そして、飲みながらまた読みかけの本を開いた。
 読んでいた本の項目は体術に移る。体術は基本直接的な攻撃や移動、追尾が主だが、ここでは防御としての内容が多く書かれている。イルカもまたそこに重点をおいているのが分かり、それに関心しながら文字を目で追い、頁を捲る。ふと視線を感じカカシは目を上げると、イルカと目が合った。仕事が一区切りついたのかと思ったがそんな風にも見えない。カカシは微かに首を傾げる。
「もしかしてこれ、使う?」
 自分の読んでいた教本を軽く上げ聞くと、イルカは首を横に振る。そっか、とカカシは再び目を本に落とした。そしてまたストローを咥え紙パックのコーヒー牛乳を飲んだ時、
「カカシさん、覚えてます?」
 声をかけられカカシはストローを咥えたまま、顔を再びイルカに向けた。そこでストローを口から離す。
「何を?」
 と素直に問うと、イルカは少しだけ恥ずかしそうな表情を浮かべる。
「俺が上忍待機室で声をかけた時の事なんですが、同じようにカカシさん紙パックのジュースを飲んでたんですよ」
 懐かしそうに、嬉しそうにイルカは表情を緩めた。
 イルカを見つめ返しなが、ああ、とイルカに軽く相づちを打ちながらも、忘れるわけがないあの光景が頭に浮かぶ。陽が傾き始めた待機所に自分とイルカが、そこにいた。

 あの日は少し前にたまたま商店街を歩いていた。八百屋を通り過ぎた時、なあちょっと、と声がかかる。自分だと思ってなかったカカシは通り過ぎようとした。だが、あんたナルトの新しい先生だろ?ナルトの名前を出されカカシは足を止めた。そこには八百屋の店主が立っていた。聞こえてはいたが、俺?とポケットから手を出し自分を指差しながら確認すれば、そうだよ、と頷かれ内心驚いた。そんなカカシに構う事なく、ナルトはちゃんと野菜を食べているかのかい?と続けて聞かれる。そこで自分が声をかけられた理由が分かった。何度か子供達とここを歩いていたから、自分がナルトの上忍師だと知っているのだ。ナルトを気にかけてくれているのは嬉しいと思ったのもつかの間、何故かブリックパックのリンゴジュースを手渡され、困っていれば彼はそのまま接客に戻った為、諦めてそれを持って上忍待機所に向かった。
 元々ジュースなんて口にしないが、だからと言って捨てるわけにもいかない。結局、誰もいない待機所でそれを飲んでいたら、イルカに声をかけられた。
 興味を持った目で声をかけられどうしたのかと思ったが、
「それ、何飲んでるんですか?」
 待機所にいるカカシに歩み寄るイルカに、素直にこの紙パックのジュースを貰った経緯を話し、俺は先生なんて柄じゃないんだけどね、と言えばイルカはすこし困った顔をしそれを否定しながらも、笑った。黒く輝く目を細め、嬉しそうに笑う表情が胸に迫って、
「飲んでみる?」
 普段だったら、絶対に他人なんかに言わない言葉を口にしていた。言ってみればあれは駆け引きだった。
 イルカからしてみても自分は同じ男だ。飲み会の席のビールグラスなら兎も角、飲みかけの紙パックのジュース。
 でも、差し出せば、イルカは目を一瞬丸くするも、素直に受け取った。そして一口飲み、
「うまいですね」
 恥ずかしそうに、照れ笑いを浮かべ、そう口にした。
 ーーそれから、イルカと恋人同士になるまでそう時間はかからなかった。

 あの笑顔が今も目に焼き付いている。
 だから、覚えてないはずがない。
 それを顔に出さずにいるカカシの前で、イルカはカカシが手に持っている紙パックを見つめ、そして視線を顔へ戻した。
「俺、あの時からカカシさんを意識し始めたんですよ」
 そうなればいいと思った事を、イルカは嬉しそうに言いながら、あと、と続ける。
「カカシさんのあの時の笑顔を見たら、なんでですかね。無性にあなたの事を知りたくなって、」
 カカシは微かに目を見開いた。知ってはいた以上のいきなりの告白タイムにこっちだって恥ずかしくない訳がない。
 だから。参ったなあ、と思いながら黙ってしまったカカシに、イルカは窺うような顔を見せた。
「もしかして、思い出しました?」
 聞かれてカカシは銀色の髪を掻く。
「いやね、思い出すも何も、俺はあれで意識させたんだけど」
 にやと笑って素直に白状すれば、え、と声を漏らしたイルカは目はまん丸にさせた。そしてそこから頬がじょじょに顔に赤みが帯び始める。
 知るわけがなかっただろうカカシの気持ちに、複雑な心境を抱いているのは分かるけど、こっちだって先生をどうやったら落とせるのか、手探りだったんだと、説明したって分かってくれそうにないないなあ、と熟れたトマトの如く真っ赤になったイルカを目にして、カカシは困ったように笑顔を浮かべた。



<終>
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