ちょっとだけ。

久しぶりの休日。昼過ぎに起きたナルトは、ぼーっとしながらテレビをつける。特に見たい番組があるわけでもない。つけた途端テレビの映りがおかしく、ナルトは不満気に口を軽く尖らせた。直るわけでもないのを知りながら、リモコンを操作してみる。案の定何も変わらない。嘆息してリモコンをテーブルの上に放り投げた。
立ち上がったナルトは、冷蔵庫から牛乳パックを取り出してグラスに注ぐと、それと買ってあった菓子パンを持って席に戻る。
袋を開けて菓子パンを一口食べた。
もぐもぐと口を動かしながらテレビへ目を目ければ、画面が時々荒く揺れる。
先月からテレビの調子がおかしい事には気がついていた。だましだまし使っていたのも事実だ。
アカデミーにいた頃、イルカが新しく買い換えるからと譲ってくれたそのテレビは、ナルトの目から見てももう十分働いているのが分かるくらいに年季が入っていた。その通り型も古く、使い込まれている。
だから、故障してもおかしくない。
ナルトはザザ、と音を鳴らすテレビを見つめながら黙ってパンを食べる。最後の一口を口に放り込むとグラスの牛乳を一気に飲み干した。

ナルトは走っていた。息は荒くなってきている。
休日はいつもだらだらと過ごして1日が終わる。今日もそのつもりだった。
だけど前日カカシに、休みの日に必要なのは質のいい睡眠と翌日に疲れを残さない鍛錬だと聞かされていた。
自分の上忍師であるカカシは、木の葉の忍びの中でも秀でた忍びなのはナルトでも分かっていた。とぼけてふざけているようだがカカシの言っている事は全て的を射ている事も。
だから、昨日去り際にぼそりと零したその言葉は、しっかりナルトの頭に残っていた。
本当は買った漫画を読むつもりだったけど。
ナルトはそれを途中で放り出して外に出た。

軽く走って、それから苦手なチャクラコントロールを練習しようかと思っていた。
でも足が止まらない。頭が中々切り替わらなかった。
ふわりと浮かぶ、自分の部屋にあるテレビ。イルカが持ってきてくれた時の事を思い出した。
そんな古いの要らねーって、と言ったナルトにイルカは片眉を上げた。
「まあな。確かに最新のやつに比べたら古いかもしれんけどな、またこれは現役なんだ。使って損はないだろう」
テレビがないナルトの部屋を見渡しながら言う。
ぽんとテーブルの上に置いたテレビに手を置いたイルカは、優しい眼差しをそのテレビへ向けた。
「あと5年は使える。だから、使ってやってくれ」
あと5年。その言葉を思い出してナルトは走りながら小さく笑った。
1年足らねーっての。心でイルカに突っ込む。
頭の中に再生されたままのイルカは、帰り際靴を履き終えるとナルトに振り返る。
「そうそう、あれはちょっと癖があってな。どっかおかしくなったら俺に言え。たぶん直してやれるから」
何だよそれ、と文句を口にしたナルトに白い歯を見せて笑うとそのまま玄関から出て言った。
走っていたナルトの口元から笑みが消える。青くすんだ目がゆらと揺れた。
自分の呼吸音と砂利を蹴り上げる音が遠くに聞こえる。
呼吸が乱れてきているのが分かっているのに、足が止まらなかった。
アカデミーを卒業して下忍になれた頃から。少しずつ。イルカの存在が遠くなっていった。元々アカデミーの教師と生徒に変わりはないのだから。何も問題ないはずなのに。
今までいた場所が、はっきりと消えつつあるのは確かだった。
一人前の忍びになる為に、甘えは必要ないと分かっている。
でも。
やっぱりイルカは自分の中で特別な存在だった。
もし自分に親がいたらと、無意味な事を思いそうになりそれを強く否定し頭の隅に追いやった。
いてもいなくても。自分の中でのイルカの存在は変わらないと分かっていた。
でも、自分のいた場所をカカシに取られるなんて、想像さえしていなかった。
取られるってなんだよ。
心でナルトは自分に突っ込む。
でも気がついたら。イルカの横にカカシがいるようになり、それに気がつくのは簡単だった。
だって、自分の特等席だったのだ。
それはずっと変わらないと思っていたのに。
生まれた赤ちゃんにお母さんを取られたかのように、ナルトはただ、心で焦った。
いままで100だった自分の場所が。90になり、60になり。40になる。
十代の繊細な心にそれは十分な揺さぶりだった。
なのに。カカシの横で見せるイルカの顔は。ーーあんな顔で笑うんだと、初めて知った。
自分が一番イルカの事を知ってると思っていたのに。
走るナルトの心臓が運動での負荷によってのものではない、別の痛みがじわじわと広がる。
寂しいと、感じる自分を認めたくなかった。
声をかける回数が減っている事も。
一緒に笑ったり、怒られたり、一緒にラーメンを食べる事も少なくなった事も。
テレビが調子が悪いと、声をかける事さえ躊躇うほどに。
額に浮かんだ汗が、こめかみから顎につたい落ちる。
荒い呼吸を繰り返しながら、地面を蹴り上げた自分の足に何かが引っかかった。
「うわっ!?」
視界が縦に揺れ、そこから見事に顔から地面に落ちていった。

足に引っかかったのは地面に出ていた木の根だった。
考え事で上の空だったとは言え、顔から転ぶなんて。
ナルトは口の中の血の味に顔をしかめて手の甲で顔に付いた土を拭うと、しゃがみ込んでいたその場にどさりと上半身を地面に投げ出す。
仰ぐ空は既に薄暗くなり始めていた。
帰りたいとは思うのに身体が動かないのは、チャクラ切れがその原因だとなんとなく分かっていた。
無茶な走り込みは簡単にナルトのチャクラを消耗していた。
昨日のカカシの言葉が自分の胸に重くのしかかり、ナルトは腕で顔を覆うようにして、溜息を吐き出した。
これを知ったら忍び失格だねえ、と呆れた声で返される事が安易に想像できる。
兎に角帰る為には数十分、いや数時間。ここで身体を休ませるしかないのか。
「……だりー」
ここ最近の気持ちが言葉になり、ぽろりとこぼれ落ちた。
その時だった。怒号に近い声で名前を呼ばれたのは。
頭がぼーっとしていたのもあった。返事に遅れたナルトに、
「ナルト!」
もう一度名前を呼ばれる。
ゆっくり顔にのせていた腕を上げ上半身を起こすと、目の前にイルカが立っていた。
口をへの字になっているのは不機嫌な証拠だ。
その通り、イルカは起き上がるナルトに眉を寄せた。
「何やってんだこんなところで」
「何って……別にいいだろ」
「良くないだろ」
即答したイルカに反射的に睨み返した。
「イルカ先生こそ、何しにきたんだよ」
こんなところを誰にも見られたくなかったのは正直な気持ちだった。特にイルカには。
イルカは手に腰を当て、ナルトを見下ろす。
「今日大家さんから野菜をたくさんもらったから、お前に分けようと家に行ったんだ」
げーっ、と反射的に嫌な顔をしたが、予想できていたんだろう。イルカは続ける。
「でもかお前はいなかった。だから仕方なく野菜を置いて帰ってきたその途中で河原を歩いてたら、お前のチャクラに気がついたんだ。やけにふらふらした動きだったから気になって跡をつけた」
指を立てて説明していたイルカはそこでナルトを見た。
「そしたらここでぶっ倒れてた」
「ぶっ倒れてたんじゃねーって、休憩だって」
そうか?と伺う顔を見せるもイルカは直ぐに微笑み同意するように頷いた。
否定するナルトに一歩近づくとしゃがみ込んだ。
「チャクラ切れか」
肩に触れられた途端に見抜かれ、ナルトは思わずバツが悪くなり視線を逸らした。
なのに肩に触れるイルカの手のひらの暖かさは、冷えた心に溶けるような暖かさで。
無性にその温もりが恋しくなった。
馬鹿だと思う。
諦めたくせに。
自分の中で何を諦めたいのか分からないまま諦めていた。不可解な自分の気持ちが、自分の心を締め付ける。
疲れ切った表情を読み取ったイルカは眉を下げ、小さく息を吐き出しながらナルトを見つめた。
「無理しすぎたなあ……まあ、一生懸命鍛錬したのは認めるけどな」
何故か嬉しそうにイルカは笑う。
立てるか?
手を差し出された。
暖かくて、自分より大きなイルカの手。
まだもっと背が小さかった頃からこの手を見続けてきた。あの時から何年もそんなに経ってないのに。
何でこんな遠くなってしまったんだろうか。差し出された手に自分の手を伸ばす事に躊躇いを感じ、目の奥に熱いものが込み上げた。
「ナルト?」
戸惑う自分を映したイルカの黒い目が、ナルトを真っ直ぐに見つめる。見つめ返しながらナルトは口を開いた。
「……なあ……先生」
「何だ?、ナルト」
言えば直ぐに返される、昔と変わる事のない穏やかな口調。
そう、何も変わっていない。
こんな時に眠くなるのはチャクラ切れが関係しているのだろうが。それかイルカの顔を見た安堵からくるものか。
よく分からないまま眠気がナルトを襲う。
ナルトが黙って腕を伸ばすと、イルカはその手をぎゅっと握った。
イルカの暖かさが直に伝わる。
でも、もう昔と同じようにはいかないのだ。変わらない現実は痛いほど分かっている。
ーー分かっているけど。
「先生、……ちょっとだけでいいから。抱き締めて欲しいって言ったら、駄目か?」
身体の怠さと眠気と安堵感と。
少しだけ甘えたくて。
甘えさせて欲しくて。
零すように、だけど絞り出すように口にした言葉に、イルカは一瞬目を丸くした。驚きの表情をされ、どうしようもない泣きたくなるような気持ちが湧き上がりそうになる。
イルカは。じっとナルトを見つめ、そこからゆっくりと手を握り返した。
「ちょっとだけじゃなくて、俺はたくさん抱き締めたいんだけど、駄目か?」
優しくナルトに微笑む。
ナルトは強く眉根を寄せた。

……やっぱり、あったかい……

抱き締めてくれるイルカの温もりに、ナルトは目を涙で濡らしながら眠りに落ちた。


<終>
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