酔いからさめたら

 昼休み、イルカはいつものように昼飯を食べ終えて職員室に戻る。そこはいつものように休み時間を過ごす教員や、中には生徒も顔を出していて、いつも以上に賑やかだ。
「イルカ先生!」
 別の教員と話していた生徒が、イルカに気が付き名前を呼び手を振る。去年受け持った生徒だ。声をかけられ、イルカもまた同じように手を挙げ応えると、そのまま窓際にある自分の席に座った。
 近くでは去年入ったばかりの女性教員二人が楽しそうに話をしていて、その声は否応なしに耳に入る。
 えー、じゃあ彼に何買ってもらおうかなあー、と、一人の女性教員が嬉しそうに呟く。誕生日なんだから欲しいものちゃんと言った方がいいって、ともう一人がそれに返し、イルカはそれを聞きながら、次の授業の準備の為、腕を伸ばし教本を何冊か手に取る。
 女性教員が話に花を咲かせている中、その後ろでイルカはプリントを引き出しの中から取り出した。今度はそれが人数分あるか確認する為に指でプリントを捲る。 
 ーー誕生日をどう過ごすかは人それぞれだ。
 家族で過ごす者もいれば、恋人と過ごす者もいる。
 自分は大体その日かその前後に友人に祝ってもらう事が多く、仲間と飲む為の口実に近いようなものがあるが、楽しいからそれで構わない。
 去年の誕生日は、たまたま中忍と上忍の大規模な飲み会がありそれに便乗して仲間には祝ってもらう形になって、ーー。
「イルカ」
 名前を呼ばれ、イルカはプリントを数えていた手を止めずに視線を向けると、隣の席の同僚が座っている椅子ごとイルカの横に移動してきた。
「お前誕生日いつだっけ」
 後ろの話題が同僚にも耳に入ったのだろう。聞かれてイルカは小さく笑った。
「今月」
 短く答えると、ああ、と思い出したのか、同僚がそんな声を返した。
「そういや、あの飲み会の時だったな」
「そうそう」
 イルカはまた笑って答え、数え終えたプリントをとんとんと机の上で揃える。
「上忍もいたけどあの時は二部屋で部屋も仕切ってたし、気兼ねなく飲めて楽しかったよな」
 オブラートに包まない同僚の言い方に、イルカは声を立てて笑った。
 いつもの居酒屋は別の予約が入っていて取る事は出来なかった。同僚の言う通り、上忍とは別の部屋で飲み放題もあってか、いつも以上に盛り上がっていた。くだらないネタでジョッキ片手にげらげらと笑っていた自分を思い出す。
「料理も美味かったよな」
「だな、あの春巻きとかイカが入ったキムチとかな」
 同僚の言葉に、そうそう、と思い出したように相づちを打ちながら、また思い出したのは居酒屋の食べ物と酒が混じった匂い。部屋を出た廊下は喫煙所になっていて煙草の匂いがした。
「じゃあお前の誕生日近くに、そこで今度飲みに行く?」
 同僚の声にイルカはワンテンポ遅れて顔を向ける。
「え?」
「え、じゃなくて。今度はその店にしようって話」
 ああ、とイルカは頷いた。
 そこで授業が始める鐘が鳴り始める。イルカは教本とプリントを持ち立ち上がり、ああ、そうだな、と同僚に答え笑顔を浮かべると、そのまま教室へ向かった。
 廊下を歩く。
 あれからその居酒屋には足を運んでいない。忙しくなって飲みに行く回数が減ったせいもあるし、贔屓な店は他にもあるから。
 足を運んだのは一年も前なのに、それでも、あの時の飲み会の情景も匂いも、馬鹿みたいに笑ったネタも、美味かった料理も、店員の忙しそうな足音も、ーートイレに落ちていた煙草の吸い殻も。鍋底の焦げのように、頭の奥からなかなか記憶から消えない。
 いや、鍋底の焦げは言い過ぎか。
 イルカは目を伏せ小さく笑いを零しながら、子供達が待つ教室の扉に手を伸ばした。



「イルカ先生?」
 名前を呼ばれてイルカは顔を上げる。そこには少しだけ不思議そうな顔をしたカカシがこっちを見ていた。
 はい、と素直に返事をするとカカシは眉を下げて笑った。片手に持っていた瓶ビールを軽く上げる。その意図に気が付き、自分がぼーっとしていた事に気が付く。イルカは慌てて空になったグラスをカカシへ差し出した。
「すみません」
 イルカのその言葉に、いーえ、と答えながら、カカシはそのグラスへビールを注ぐ。
「何かあった?」
 ビールを一口飲んだ時、またカカシから声がかかる。柔らかな青い目がイルカを見つめていた。
「いや、ちょっと来週のテストの事を」
 嘘ではない事を口にすると、カカシはへえ、と頷いた。
「先生は相変わらず忙しそう」
「いや、カカシさんもそうでしょう」
「そっか」
 そこで二人で笑う。笑うのは、昨日仕事でカカシと一緒になったから。仕事とは言っても自分が任務内容を説明する係りで、その任務を受けるのがカカシだった、と言うだけだが。今自分は綱手に言われるままに任務を説明する立場にいて、休みもままならない状態なのを知っていてSランクの任務を説明するのは、当たり前だが胸が痛む。それが顔に出たのか、綱手からは、私だって休ませてやりたいんだよ、と言われイルカは苦笑いを浮かべる事しか出来なかった。
 お互いの仕事の話もあるが、カカシとは他愛のない話をしながら、こうして時々誘われるままに酒を飲む。
 ナルトがカカシの上忍師になった頃からだから、もう何年もこうして酒を飲んでいる事になるが、酒を飲む時の話題は内容は変わらない。ただ、ここ最近はナルトが里を出ているせいか、敢えてそれが話題になる事は少なかった。ただ、それだけで、何も、変わらない。
「ね、先生日本酒飲む?」
 メニューを開くカカシにイルカは首を横に振った。
「駄目ですよ。好きなのは知ってますけど。明日に響くような飲み方なんかしたら、綱手様に怒られるのは俺なんですから」
 態とらしく怪訝そうな顔を見せると、カカシが目を細めて可笑しそうに笑った。
「確かに」
「でしょ?カカシさんは酒が弱いんですから。控え目でお願いします」
 その口調に、カカシは笑いながら、はーい、と答えメニューを戻しビールを大人しく口にする。
 イルカもまた微笑みながらビールを飲み、鮪の刺身を箸ではさむと口に放り込んだ。

 勘定を済ませて二人で居酒屋を出るとすっかり夜が更けていた。イルカは空を仰ぐ様に見る。
「ここは明日は晴れそうですが、西の方はどうですかね」
 カカシが明日任務で行くのは砂漠がある西の方だ。こことは違って向こうは天候も気温も変わりやすいと聞く。カカシは財布を仕舞いながら、どうかねえ、と呟いた。ランクが高い任務だと言うのに、返ってくる言葉は暢気だ。顔を向けるとその視線に気が付いたカカシはイルカへ視線を向ける。
「ま、嵐にでもならない限り何とかなるでしょ」
 そう口にしてにこりと微笑んだ。
 自分とは違う温度差の返答をするのは、昔からだ。
「歩こ?」
 カカシに促され、イルカもまたカカシの隣で歩き出した。

「先生は俺といて楽しい?」
 不意な質問にドキリとした。思わず顔を向けるが、カカシは真っ直ぐ歩いている方向を向いたまま。イルカは視線をカカシからすぐに外した。
「・・・・・・勿論、楽しいですよ」
 その質問に嘘を付く必要がない。間をおきながらもはっきり答えると、そっか、とカカシが呟いたのが聞こえた。
「じゃあ、俺とこうして話すのは気楽?」
 追加された質問に、イルカはまた、ええ、と頷く。
「俺も」
 カカシに言われ再び顔を向けると、今度はカカシもイルカを見ていた。その目元が優しく緩む。
「俺もね、先生がいてくれてホッとするよ。ま、元々人に囲まれるのは好きじゃないから」
 イルカは少しだけカカシを見つめたまま首を傾げる。
「そうは見えなかったです」
 素直な答えに、カカシは短く笑った。そこでもう一度イルカへ顔を向け、
「そんな風に見せてないだけ。名演技でしょ?」
 そう言って、カカシはまた子供っぽい笑顔を浮かべ、笑った。

  
 カカシと別れ、イルカは自分の住んでいるアパートまで来ると、鍵を鞄から取り出しながら階段を上がる。錆が出始めている階段は、普通に歩くだけで音が響いた。鍵をまわし扉を開け玄関に入ると、イルカは鍵を玄関脇にある下駄箱の上にいつものように置く。靴を脱いだ。
 電気のスイッチは電灯にぶら下がっている紐だ。イルカはその紐を引っ張って電気をつける。ナルトがまだ小さい頃、ここに遊びに来て届かないと不満を言った事がある。だから少し長めにしてそのままだ。
 そして鞄をどさりと床に置き、ベストのジッパーを下ろしたところで、イルカはその手を止める。本が隅に置かれたままの床を、ぼんやりと眺めた。
 あの時、帰り道に、カカシに問いかけられた時、どきりとしたのは確かだった。
 ここ最近あんな事口にしなかったから、と言うのは言い訳に過ぎないが、不意にカカシの方を見てしまったのは、失敗だったと思う。
 だけど、何であんな質問。いくら考えてもカカシが何を考えているのかは遠く及ばないし、こうだろうかと思うのは所詮自分の妄想に過ぎないし。考えたくない思いがぐるぐると回る。
 あれから一年。俺は俺なりに上手くやってきたつもりだった。
 ーーなのに今更。
 イルカの眉根に皺が寄った。ため息を吐き出しながら、目を伏せる。
 名演技でしょ?
 目を閉じれば、瞼の裏に、そう口にしたカカシの顔がまざまざと脳裏に浮かぶ。そこからイルカはゆっくりと目を開けた。視線を真っ暗な窓へ向ける。
 名演技だと言うそれはどこから本当の事でどこまでが冗談なのか。
「・・・・・・分かんねえよ」
 イルカは苦しそうに呟いた。



 休み時間、イルカは職員室で自分の席に座り回収したテストを前にたて肘を付く。ため息混じりに手に持っていた赤ペンでごりごりと額を掻いた。
 テストの点数が全てではないのは勿論だが、明らかに平均点が下がっているのは問題でないとは言えない。
 自分の教え方が悪かったのか。目を配るようにはしていたが、それが足りなかったのか。
「イルカ」
 名前を呼ばれイルカは顔を上げる。呼ばれた方向へ顔を向けると同じ教員が入り口付近に立っていた。
「火影様がお呼びだ」
 それを聞いてイルカは僅かに眉を寄せる。テスト期間中の雑務は定時後に調整してあったはずだ。それにもうすぐ次のテストの時間が迫っている。だが、呼ばれてた時点で自分に選択権はなかった。だから、仕方がない。イルカはやれやれと息を吐き出しながら赤ペンを置き立ち上がる。職員室の出入り口へ向かえば、先ほどの教員に、何かしたのか?と冗談混じりに聞かれ、イルカもまた軽く笑って、さあな、と肩を竦めた。ただ、次のテストの時間までには戻れそうにはない。
「次のテスト頼むな」
 イルカは教員の肩を叩くと、そのまま執務室へ向かった。

 執務室に入って早々、どんな様なのかと急かす口調のイルカに綱手はいつもの事だが、至って落ち着いていた。椅子に腰掛けたまま、背もたれにゆったりと体重を預けている。
「なに、形式的な質問を、ちょっとな」
 大きな胸元の前で両手の指を組んだ。
「形式的な質問と言いますと、」
 それだけでは綱手の言う質問の意味がくみ取れなかった。イルカの言葉に、綱手は軽く頷く。
「情勢が不安な事もあって、不測の事態に指揮を揺らがせない為にも次の火影の候補を上げる必要があるんだよ」
 淡々と話す綱手の前でイルカはただ、立ったままその話に耳を傾ける。
 何故か、嫌な予感がした。同時に胸くそ悪くなるが表情を動かさないよう努めながらじっと綱手を見つめる。
 集中してイルカが見つめる綱手の口元が、でな、と言葉を繋ぎ、その次の言葉を話そうとする、唇の形が変わる。
「ーーカカシの事なんだが、」
 名前をはっきりと口にする。
 静かに受け入れ得る表情とは裏腹に胸の奥が、ざわつく。
 ただ、分かったのはただ一つ。嫌な予感がーー当たったと言うことだった。


「失礼しました」
 頭を下げイルカは執務室の扉を閉める。廊下を歩き出しながら、ふう、と小さく息を吐き出した。
 綱手の前にいる時も、そして今も。驚くくらいに心の中は静かだった。
 自分の予想ではもっと動揺してしまうのだろうと思ったのだが、要は、自分はそこまで弱くはないと言う事だ。
 ーーそう、大丈夫。
(・・・・・・大丈夫)
 歩きながら、視線を落とし、そして微かに震える指先を自分の中で誤魔化すように、きゅっと丸めた。
 
 イルカは居酒屋のカウンターでビールを飲み、そこでもう空になった事に気が付く。その空いたビール瓶を軽く上げた。
「すみません、おかわり」
 カウンター越しに、店主が新しい瓶ビールを置く。先生、飲み過ぎじゃないのかい?言われてイルカはにこやかに首を横に振った。
「大丈夫ですよ、自分の飲める量くらい分かってますから」
 言えば、心配そうにしながらもイルカの表情を見て、店主は頷き、自分の仕事に戻っていく。
 イルカはゆっくりと視線をカウンターのテーブルへ戻した。
 昼間の執務室での断片的な情景がイルカの頭に浮かぶ。
 カカシに蠱惑的な姿勢を取ったと、お前はそれを認めるんだな?
 綱手はじっとイルカを見据えながらそう口にした。その眼差しには疑いの色が混じっていたのは知っていた。それに構わずイルカは頷く。
「俺が誘いました」
 蠱惑なんて言い方がまどろっこしく感じ、イルカはわかりやすい言葉で言い換え肯定すると、滅多に表情を変えない綱手が少しだけ目を見開いた。そうか、と小さく続ける。
 静かに、ゆっくりと息を吐き出しながら、綱手は自分の年季の入った机へ視線を落とす。そこからイルカへその目を向けた。
 お前らの間で何かあったかは知らないが、大の大人が仕事時間外に起こった事を上司である私がどうこう言うつもりはないよ。
 そこで綱手は言葉を切り、また息を吐き出す。でもね、と続けそこで、また言葉を止める。
 まあ、いい。また処分は追って連絡する。

 そこまで思い出して、あんな重々しい空気は二度と味わいたくないなあ、とイルカは小さく笑ってビールを飲んだ。
 何もなかったと言えばいいと、綱手の目がそう言っていたのも知っている。
 そう言えばどちらにも何も咎めることはなくなるのだから。
 でも、それはカカシにあの「形式的な質問」をしていないのを知ったら、出来なかった。
 彼が綱手に対して、あの夜の事をどう口にするのか、考えたら、自分の綱手に報告した事が一番妥当だと思えた。
 そう、間違った事はしていない。
 一年前の事だから。覚えていないと、そう言っても良かったのかもしれない。でも、あの夜の事は自分の脳裏に焼き付いていて、忘れようとしても忘れられない。
 にしても、誰かに見られていたとはなあ。
 イルカは薄く苦笑いを浮かべぼんやりとグラスに入ったビールを眺める。自分の事なのに、丸で他人事のような自分に可笑しいとも思うが、そんな感覚を捨てきれないのは、今もそうで。
 あれは夢だったんじゃないかとさえ、今も思う。

 あの晩は自分もカカシも酔っていた。ただ、カカシとは時折酒を飲む関係だったから。廊下で見かけた時はちょっと飲み過ぎたのかな、くらいに感じた。
 いつもより少しだけ、ふらふらとした足取りでトイレに入ったカカシを見たイルカもまた、扉を開け入る。顔をこっちに向けイルカだと分かるなり、カカシはふにゃりと顔を緩めた。酔っぱらってるから、普段隠してる口布だって下ろしたままで、もっと言えばベストのジッパーは半分まで下がっている。警戒心のない顔で微笑まれ、イルカは思わず困ったように眉を寄せた。
 他人にはこんな顔を見せないと気が付いたのは最近だった。他の上忍仲間とも飲みに行くカカシを見かけた事があるが、こんな表情を周りに見せない。
 親しくなれたんだと嬉しい反面、好きな相手にもそうなんだろうな、と思ったら、無性に胸が苦しくなった。
 だから嬉しいけど、こんな表情はあまり見せないで欲しい。そう思っているのに、こっちの気持ち知らずか、カカシは嬉しそうな顔を見せ、
「イルカ先生だ」
 嬉しそうに名前を呼ぶ。
 イルカは眉を寄せながら、返すように笑みを浮かべた。
「そっちはどう?」
 聞かれてイルカは、そうですねえ、と相づちを打つ。
「まあ、仲間内の飲み会の延長みたいなんで、楽しいです」
 素直な答えに、カカシは、だろうね、と微笑んだ。
「カカシさん、飲み過ぎじゃないんですか?」
 用を済ませ並んで手を洗いながらカカシへ聞くと、そんな事ないよ、なんて暢気な声が返ってきくる。まあ、家にはちゃんと帰れるとは思うから、何て言われてイルカは呆れながらもカカシを見つめた。
 手を洗って出ていこうとするカカシを呼び止めたのは自分だった。
 名前を呼ばれ、カカシは扉を開けようとした手を止めて振り返る。いつもと変わらない、自分に向けられる優しい眼差しを見つめ返す。
「あの、よかったら俺送りますよ」
 ほら、足下ふらつちゃってるし、とカカシが答える前に、イルカは付け加えた。
 そう、ーー自分から、そう告げた。
 
 勘定を済ませイルカは暖簾をくぐって店を出る。
(ちょっと飲み過ぎたかなー)
 カカシほどではないとは言え、自分もザルではない。ねみぃ、と一人呟きながら、イルカはゆっくりと歩き出した。
 夜空に浮かぶ雲が月を薄っすら隠している。顔を上げ雲の中で朧気に光を放つ月を見つめ、あの晩もまた同じような夜空だったと思い出す。
 鈍い月夜のが照らす建物の、カカシの部屋の前で唇を重ねたのはどちらが先に、と言うことではなかった。くだらない会話をしながら部屋の前まできた時に、目が合って、カカシの腕を支えていたからか、距離が思ったより近くて、気が付いたらそうなっていた。
 誰かに目撃されていたとしたら、たぶんその場面だろう。どこか人気のない道ばたならともかく、上忍アパートの建物の中だ。酔って二人で笑いながら声もそこそこ大きかったかもしれない。
 見られる要因なんていくらでもあったのに、それをどこか頭の隅に押しやった。
 ただ、内心困惑していた。でも、カカシの唇は柔らかくて、胸が締め付けられたのを覚えている。でも、深く重なる前に唇は離れ、そこでカカシが、ふっと可笑しそうに笑ったから、自分もまたつられるように笑った。
「ごめん」
 変だよね、言われてイルカもまた、まあ、そうですね、と答えた。悪酔いしてキスをする同僚もいたから、そんなものだと、受けながした。
 

 やっぱりーー何もかも忘れてしまえばよかった。
 二日酔いでまだ少しだけ頭痛が残る中、イルカは職員室で授業の準備をする。
 一人酒で二日酔いってどんだけだよ、と心の中で自分に愚痴りながらため息を漏らした時、
「よお」
 同僚が隣の自分の席に座った。
「昨日どうだったよ」
 鞄から荷物を取り出しながら聞かれ、一瞬悩むが、イルカは、微笑む。
「大した事じゃなかったから」
 イルカの返事に、そうか、と返され、イルカもまた自分の机へ顔を戻す。
 内密に事を進めると綱手は言っていた。自分で広めるつもりもない。それに、カカシにも特に言わなくていいと、イルカはそこだけは強く希望した。綱手は怪訝そうな顔を見せたが、それ以上何も言わなかった。
 ただでさえ忙しく、ほとんどが里の外で任務を遂行しているのに、そこに余計な負担はかけたくない。
 自分の処罰は減給か、停職か、それともーー左遷か。
 認めた以上どんな処罰も受け入れるつもりだが、ただ、この職は気に入ってる訳で、左遷させられるにしても、どこか子供たちと関われるような仕事があれば嬉しいんだが。
(・・・・・・まあ、そんな自分都合で上手くいくわけがないよなあ)
 出席簿を開き、そこに並ぶ子供たちの名前を眺めながら、苦しげに微笑んだ。

 午前中の授業を終え、午後の受付の為別の建物へ向かう。
 その途中、通り過ぎた給湯室で、女性職員がそこでお茶を飲みながら楽しそうに話をしている。白い壁に囲まれた給湯室を横目に浮かんだのはカカシの部屋だった。
 初めて入ったカカシの部屋は、綺麗で物が思った以上に少なかった。キッチンも同じだった。
 カカシはそのキッチンがある部屋の床で、イルカに覆い被さるように体重を乗せ、唇を荒々しく唇を重ね、そして、何度も揺さぶり突き上げた。その度に経験した事のない刺激に、身体がびくびくと反応して目に涙が浮かび、その涙をカカシが舌で舐め、掬った。
 舌を絡ませた時に日本酒の甘い香りが鼻を抜けた事も、カカシの乱れた息づかいも、滅多にかかないカカシの汗と、その匂いも、青みがかった目が自分を見下ろしながら切なげに細めたのも。形のいい唇で何度も名前を呼んだ事も、ーーいつか、忘れる。

 カカシに声をかけられた時、イルカは外を歩いていた。
「ねえ」
 その声に振り返る間もなく腕を強く掴まれ、引っ張られ脇の道へ連れ込まれる。
「どういう事?」
 あの、と口を開くと同時に、カカシの強い口調が言葉を遮る。
「何がですか?」
 聞き返すとカカシの眉間に皺が寄った。
「何がって、分かってるでしょ。どうして、あんな事を、」
 そこでカカシは苦々しそうな表情で言葉を切る。そこから向けられるカカシの眼差しと、今まで聞いたことがない声色と表情に、イルカは口を閉じた。
 優しい表情も厳しい表情も見てきたが、怒っているのは正直見たことがない。言葉少なくも怒りがイルカにも伝わり、それはイルカにとってまずい事だった。これだけで十分伝わり、何を言いたいか把握する。思わずため息を吐き出したくなった。
 ーーこの人の耳には入れないでくれと言ったはずなのに。
 カカシに聞くまでもなく、綱手から漏れた事は明らかだ。イルカは冷静を装いながら、心の中を整理する。少しだけ伏せていた目をカカシに向けた。
「綱手様に聞かれたので正直に話したまでです」
 カカシの目つきが明らかに厳しくなる。は?とカカシが口にした。
「何が?あなたが言った事は全部嘘じゃない」
 カカシがイルカを掴んだままの手に力が入る。が、表情を変える事なく、イルカはぐっと身体に力を入れる。
「嘘なんかじゃ、」
「ふざけないで」
 腕を持ったままカカシが壁に追いつめた。背中が壁につく。
 真っ直ぐ見つめるカカシの目が、視線が痛い。胸を圧迫されていないのに、胸が苦しくて、イルカは困惑しそうになる。思わず視線を下げれば、また掴んでいるカカシの指の力が強まった。
「全部嘘。俺が誘ったの、覚えてないはずないよね?」
 カカシが声を殺し、イルカに問いつめる。眉根を寄せたカカシをイルカは見つめた。
 ーー先生
 カカシの囁くように自分を呼ぶ声が、眉根を寄せるイルカの耳に浮かぶ。

 玄関の鍵をイルカが開け部屋にようやく入った時に、カカシがよろけ、それを支えようとしたイルカもまた一緒に玄関から床へ転んだ。
 ごめん、と言ったカカシが、また笑いだし、イルカもまた可笑しくて一緒に床に倒れ込みながら笑い出す。
 カカシさんの天敵はどこぞの里の忍でもない、日本酒ですね、と言ったイルカに、カカシもまた、そうだね、と同意してくすくす笑い。
 その笑い声がふと途切れた時に目がまた合った。
 カカシの手が伸び、笑っていた表情の残るイルカの頬に触れる。ぴくりと身体が反応し、イルカはカカシを見つめ返した。
「ね、・・・・・・駄目?」
 甘く、子供のような口調だった。酒で元々赤らんではいたが、イルカの頬が少しだけ赤く染まる。その頬をカカシの指が滑るように撫でた。
 撫でていた手がそのままイルカの後頭部に動き、そこから引き寄せられ、自分は薄く口を開けてそのまま、ーー。
 
 イルカは息を吐き出し、瞬きをする。そして浮かんでいた過去の記憶をそこで遮った。一回口を閉じ、カカシへ視線を戻す。
「・・・・・・忘れました」
 イルカの感情を抑えた言葉に、カカシが僅かに目を開いた。が、すぐに顔が険しくなる。
「だったら、忘れたってそう言えばいいじゃない、今からでも撤回して、」
「それは無理です」
 はっきりと言い、イルカはじっとカカシを見つめる。
「あなたは何も分かってない」
 イルカの眼差しをカカシは無言で見つめ返す。イルカが口にした言葉を理解したのか、眉間の皺が深くなった。
「・・・・・・あんた、そんな事されて俺が納得するとでも思ってるの?」
「あなたが納得するしないは関係ありません、」
「なにそれ、だって、」
「仕事があるので、失礼します」
 僅かに緩んだ手を振り払うと、イルカはカカシから背を向ける。背中にカカシの視線が突き刺さるように痛く感じたが、イルカはそれを振り切るように足を早めた。
 

 午後は業務を行いながら、そこまで立て込んではいない受付の空気は和やかで、それはいつも通りで。それでいいはずなのに。同僚に併せて笑顔で会話しても、受付業務をしていても、胸が痛んだままだった。
 そして、最近忙しく受付にあまり顔を出さない綱手が、後ろにいた。どうしたんだろうな、とそこまで深く考えてはいないものの、不思議に思った同僚に同じような疑問を耳打ちされるが、正直自分にも分からない。
 処罰は追って知らせると言いながら、まだ呼び出しがかからない事と関連しているのかもしれないが。綱手の思考は通常の会話からは引き出す事が出来ない。
 綱手が受付から出た時、イルカはそれを追って部屋を出た。
「綱手様」
 部屋を出る際に部下から渡された書類の束を片手で持ちながら。綱手は振り返る。何も口に出してはいないが、イルカの顔を見るなり、綱手はため息を吐き出した。
「そんなに早く処罰して欲しいのか?」
 呼び止めた理由は違うが、そこまで間違ってもいない。いえ、と小さく否定をした後、改めて綱手に顔を向けた。
「はたけ上忍に言う必要はなかったのでは?」
 言葉の中には明らかに非難を込めていた。それを綱手が気が付かないはずがない。イルカの台詞に、片眉を上げる。書類を持っていないもう片方の手を腰に当てた。
「いや」
 躊躇いなく否定され、眉根を思わず寄せるイルカを見つめながら綱手は続ける。
「喧嘩と同じだ。事の内容に関わらず、片方の意見を聞くだけでは不十分なとこぐらいお前が一番分かっているはずだろう」
 分かりやすい例えを出されてイルカは反論出来ず口を閉じる。明らかに不満そうな顔は伝わったのだろう、綱手はゆっくりと息を吐き出した。兎に角、と口にする。
「お前の言いたい事はもう十分分かった。カカシからも聞いた。だからもう少し待て」
 落としかけていた視線を上げると、いいな?と念を押すように言われ、イルカは、はい、と答える事しか出来なかった。

 
 カカシが綱手に何を言ったのかは分からないが。予想はつく。しかし綱手はその事に関してはこっちに意見を求める事はなかった。
 カカシに真偽を聞いたところで、自分が否定すると分かっていたからか。
 全て明白に感じるのに。でも、全部が曖昧だった。
 イルカは商店街を歩き、八百屋で野菜を眺め、そこでぼーっとしていたのか、店主に声をかけられイルカは慌てて笑顔を作った。
 あんな風に自分が押し切ったからなのか、あれから数日、カカシを見かけない。ーーいや、一度だけ見かけた。
 いつものように書類を抱えて建物を出た時に、そこでくノ一と話しているカカシを偶然見かけた。二人は暑い日差しを避けるように木々の影に立っていて、自分が気が付いたように、カカシもすぐにこちらに気が付く。ちらっと視線だけを向け、そして、逸らした。そこからカカシの手がくノ一の腰辺りに触れ、二人は歩き出す。
 歩こうと促すだけの為の動作だと分かっていても、カカシのくノ一に触れるその手が、横顔が、頭から離れなくて。今もこうして思い出している事実に、イルカは歩きながら可笑しくなる。小さく笑いを零した。
 家に着き、適当な服に着替えて適当に夕飯を作り、イルカはちゃぶ台の前に一人腰を下ろす。缶ビールを開け、一口飲んだ。
 胡座を掻き、インゲンの胡麻和えを食べ、次にコロッケを口にする。コロッケは買ってきた惣菜だ。
 もぐもぐと口を動かしながら、イルカは視線を漂わせる。
 くノ一とカカシが一緒にいるところを見ただけで、逃げ出したいのかカカシに向かって駆けだしたいのか。よく分からない衝動に駆られたのは事実だった。
 自分は一体何をしたいんだろうか。
 あの日、カカシとああなってしまった日から。何もないかのように装って。でも、不安定な積み木を積み続けている感覚で、崩れないように、一生懸命で。それを今も続けている。
 でもそれは自分だけじゃなかったはずだった。カカシもまた同じだったはずなのに。
 胸が苦しくなり、イルカは箸を止める。ゆっくりと息を吐き出した。
 カカシがくノ一といて、あの動作を目にした時自分は、逃げ出したくもなり、駆け出しだくもなり、そしてーー泣きたくなった。
 自分の複雑な気持ちに押しつぶされそうになる。カカシの自分を責めた顔が頭に浮かび、イルカは渋面をした。
 何もかも、いつもの眠そうな表情の下に隠していたくせに、あの時だけは違った。訴えかける眼差しを見つめ返すだけが精一杯で、そして感じたのは胸を突き刺すような痛み。
 本当、情けない、ーー。
 トントン、と玄関が叩かれる音にイルカは漂わせていた視線をそちらに向けた。誰だろうと思う間もなくまた扉を叩かれ、イルカは箸をちゃぶ台に置くと、立ち上がった。
 
 驚いたのはカカシがそこに立っていたから。
 一度もカカシがここを訪れた事がなかったし、そしてなんでここに来たのか分からなかった。
 カカシは当たり前だがスウェット姿の自分とは違い、支給服に身を包み、いつもと同じ格好で立っていた。青い目が驚いているイルカを見つめ、こんばんは、と声をかけられる。イルカもまた慌てて挨拶を返し頭を下げた。
「あの、」
「謝りにきたんです」
 下げた頭を上げながら、何の用なのかと聞く前にカカシからそう告げられ、イルカは、え、と思わず返していた。カカシは表情を変えずイルカを見つめている。
「・・・・・・謝るって、何を、」
「言い過ぎた事をです」
 謝ると言われ、それだけではカカシの気持ちを推し量れなくて聞くと、答えはすぐに返される。イルカはどう返したらいいのか視線を下に落とした。
 そうさせたのは自分だ。それははっきりしている。きつく当たられた事には驚いたが、上官と部下の関係を除けばお互い様だし、カカシがわざわざ家に来て謝る事ではない。下げていた視線を上げカカシの顔を見つめると、それだけでさっきと同じようにまた胸が、痛む。イルカは僅かに眉を寄せた。
 だからと言って、そうですか、と軽々しくその言葉を受けるべきなのか、悩むイルカを前にカカシは、ねえ、と言いその思考を遮断させる。
「上がっても、いい?」
 聞かれてイルカは少しだけ驚いたのは、その選択肢は自分の中でまだなかったから。でも謝りにきたカカシに対して、確かにそのままでは無礼があった事に気が付く。
「そうですね、すみません」 
 どうぞ、と、イルカは慌てて笑顔を作り、カカシを招き入れた。
 
 食べかけていた皿をイルカは下げようとして、カカシに、いいよそのままで、と言われ困った。カカシが食事を済ませてきたのかも分からないし、部屋に上げた以上お茶ぐらいは用意をすべきだからテーブルの皿は下げたい。でも、と言えば、カカシに、いいから、と強めに言われる。俺が勝手にきたんだから、とそう付け足され、イルカはそれ以上拒めなくなり、渋々承諾するしかなく、ちゃぶ台の上はそのままに、その横にカカシは座る。
「お茶を用意します」
 それは受け入れられたのか、拒否する言葉は返されず、イルカはホッとして台所でお茶の用意をする。
 湯が沸き作ったお茶をカカシの前に置き、自分もまたカカシの向かい側に腰を下ろした。
 元々広くはない部屋で荷物もそれなりにあるから、ちゃぶ台を除いた場所に向かい合って座るのは、なんだか変な光景に見えた。
 が、言い出したカカシは、気にする様子もなく床の上に座っている。
「・・・・・・正直、俺もまだ混乱してるんですよ」
 ふと口を開いたカカシの言葉にイルカは顔を上げる。
「元々自分が悪いって事は分かってます。でも、まさかこうなると思ってした訳じゃない」
 あの、と思わず口を挟もうとするイルカをカカシは手を上げそれを制した。イルカが口を閉じるのを確認すると、カカシは低い声で続ける。
「ねえ、イルカ先生。もう一度お願いします。綱手様に言った事を取り下げてください」
 イルカは困った。カカシがこうしてわざわざ出向いて来た理由はこれを言いたかったのだと知る。
 あれから多少の時間が空き、お互いに冷静になって、それでお願いすれば自分がうんと頷くと、カカシはそう思ってここに来ている。
 真剣に懇願するカカシの眼差しに、困り果てたイルカは眉根を寄せた。そんなカカシの顔を見ていられなくて、視線を逸らすように床にずらす。膝に置いていた拳をぎゅっと握った。
「・・・・・・すみません」
 絞り出すように口から言葉を出す。それしか言えなかった。拒んだ自分に対してカカシがもう一度お願いしたら、深く頭を下げるしかない、そう思っていた。
 だから。
「だよね」
 あっさりそう口にされ、イルカは驚き下げていた顔をカカシに向ける。
「・・・・・・え?」
 聞き返すと、カカシは微笑む。
「あなたはきっとそう言うだろうって思ってました」
 拍子抜けする。なんだ、そうなんだ。でも、じゃあなんで、そう思った時カカシの腕がにゅっとイルカに延びる。そのまま身を乗り出したカカシの腕がイルカを床に押し倒した。

 押し倒した衝撃で床に置かれた湯飲みが倒れ零れる。その横で、起きあがろうとするイルカをカカシは押さえつけるように上に乗った。
(・・・・・・なんだ、これ?)
 自分の腹の上に乗るカカシをイルカは見上げた。
 状況は分かる。
 でも、これがなんなのか、分からない。
 前と違って怒りはなかった。むしろ今さっきカカシは笑った。なのに、カカシが自分をこんな風に押し倒す訳がーー。
 一体、何の冗談で、
「冗談なんかじゃないですよ」
 混乱した頭を見透かしたように、カカシはイルカを見下ろしながら言った。
「・・・・・・俺考えたんですよ。あなたは頑固だから、そう簡単には意見を曲げない。そして綱手様に話が上がってしまった手前、下手な言い訳は通用しないし、作り話なんてあの人にはもっての他。だからね、」
 カカシは淡々と話しながら、そこで一回言葉を切り、
「既成事実を作ればいいんだって、そう思ったんです」
 そう、口にした。


 既成事実、カカシの口にしたその言葉を理解するのに、少し遅れた。
「それって、どういう、」
 呟くように聞き返す、その間に腹の上に乗っていたカカシが屈み、イルカの首元に顔を近づける。開いた口がイルカの薄い皮膚を甘く噛み、否応なしにこの状況を悟ったイルカは、カッと顔を赤く染めた。
「やめっ、カカシさん、なにして、」
 抵抗しようとした腕をカカシが掴みその動きを封じ込める。少しだけ顔を下げたカカシと視線が交わった。押し倒されているのは自分なのに、酷く苦しそうな目がじっとこちらを見つめている。
「何してるって、今言ったでしょ。俺が無理矢理あなたと身体の関係を結んだって言う、その事実を今から作るんですよ」
 僅かに目を見開き顔を青くさせるイルカに、カカシの表情は変わらない。言葉を失ったイルカの耳朶を指で優しく擦り、唇を寄せる。その部分を吸われ、イルカは震えた。
「・・・・・・っ」
 その耳元でカカシが口を開く。
「・・・・・・幸いな事にまだ五代目からは何も決定が下されてないの、先生も知ってるでしょ?・・・・・・だから、これが終わったら、俺でもあなたでもいい、事実を口にすればあなたの処分は撤回される」
 再びゆっくりとカカシはイルカを覗き込む。反応が薄くとも、理解していると分かっているのか、カカシは薄く微笑んだ。
「・・・・・・偽証した罪にも問われないですよ?」
 イルカの目の奥が揺れ、表情が固まる。それをじっと見つめて、カカシはまたイルカの首元に顔を埋めた。手がスウェット上着の中に入り込む。イルカの身体がぴくりと動いた。
 酷く頭が混乱しているのに、唇が触れる首元も、カカシの長くて固い指が這い、触れられる肌も、度に自分の身体が燃えるように感じる。触れた箇所から毒にじわりじわりと蝕まれるような甘い感覚に、イルカは眉根を寄せた。そして、カカシの口にした言葉が頭で回り続けている。
 無理矢理に押し倒したくせに、触れるその指も唇もは優しくて、胸が詰まる苦しさに、イルカは声を立てず顔を顰めた。怒りや悲しみが混じり合い、こみ上げるものが、胸の中を蠢き、そして、ーー可笑しい。
 イルカはこみ上げるものを隠す事なく、ふっと笑いを漏らす。カカシが動きを止めた。
 カカシへ目を向けると、その通り、無防備でそれでいて不思議そうな顔で自分を見つめていて、それがまた可笑しくなる。イルカは小さく声を立てて笑った。
「イルカせん、」
「カカシさんはやっぱり何も分かってない」
 え?、と聞き返したカカシに、笑う事を止めたイルカがじっと見つめる。カカシのへ腕を伸ばした。
 銀色の髪に触れ、その柔らかい髪をゆっくりと撫でる。そして整ったカカシの顔を自分に引き寄せた。
 薄く開いたままのカカシの唇に、ゆっくりと自分の唇を重ねる。カカシがまた目を見開いたのも分かっていた。それでも動きを止めず、何度もカカシの唇を塞き、舌を差し入れる。
 自分が満足するまでそれを続け、そしてイルカは唇を浮かせ、伏せていた目をカカシに向ける。驚いたままのカカシの顔を間近で見つめた。
「続き、してください」
 囁くと、銀色の睫毛がぴくりと動く。
 イルカは柔らかい銀色の髪を撫でた。
「あなたと、セックスがしたいんです」
 甘い声で、それでいて懇願するイルカに困惑するカカシの唇を、イルカは再び塞ごうとする、その寸前でカカシがイルカの両腕を掴む。その力にイルカは眉を寄せた。
「・・・・・・っ、」
「・・・・・・何なの?」
 言われた言葉に、痛みに顔を顰めながらカカシを見ると、カカシもまた苦しそうに眉根を寄せながらじっとイルカを見つめていた。
「イルカ先生、・・・・・・あんたが何を考えてるのか・・・・・・分かんない」
 苦しそうに顔を歪め、カカシは掴んでいた手を離すと立ち上がり、口布を戻し玄関へ向かう。そこでイルカへ振り返った。
 だが、カカシは何も言葉を発する事なかった。そのまま背中を見せ、部屋を出て行く。二度と戻っては来なかった。


 外で白い蝶々がひらひらと舞うように飛び、イルカの見つめる先の視界に入り、そして出て行く。
 イルカは縦肘をついて、職員室の自分の席から外をじっと見つめていた。
 浮かぶのは自分を床に押し倒したカカシが、必死に気持ちを推し量ろうとしているあの表情。
 分かんない、とそうカカシが口にしたあの時、ーー泣くのかと思った。
 そして、あんな顔をさせたのは自分だ。
 イルカはぼんやりとした視線を漂わせながら瞬きをする。
 手に持ったペンを指先でくるくると何回か回して動かし、そしてその指を止める。指先にひっかかったペンが広げたままの書類の上に落ち、イルカはそこでようやく視線を動かし、机に転がったのペンを見つめた。
 カカシの顔を自ら引き寄せ、あの薄くて形のいい唇に触れた。それはあの夜の日以来で。カカシの唇の感触が蘇り、イルカは思わず黒い目を瞼に隠した。でも、あの夜の口付けは今回とは全く違う、荒々しくて吐息が交じり溶け合い、お互いに唇を求めた。
 イルカはゆっくりと閉じた目を開ける。
 一方的だったのは分かってる。でも、本当は、もっと。もっと彼の唇を感じていたかった。目の奥がひりひりと感じ、瞼を伏せる。
 泣くわけがないと分かっているのに、何故か、そう感じたのは、自分の都合のいい感情からなのか。
 でも、ーー泣きたいのはこっちのほうだ。
 目の奥が熱くなるが涙は黒い目には浮かばない。
 イルカの口からため息が漏れる。縦肘をついたまま、皺が寄った眉間に拳を擦り付けた。


 それを知ったのは翌日の午後だった。
 作成した任務予定表を持ち、上忍待機所で担当の上忍に説明しながら渡す。最後の一枚を渡し終えた時、部屋の隅にいる上忍から出た名前にイルカは目線を向けた。
 そこまで広くない待機所で聞き間違えるはずもない。こんな時に飛ばされるって、なにやらかしたんだろうな、カカシの奴。大変なこった。そう他人事の用に話す言葉を、イルカは立ち止まったまま耳に入れたまま、表情が強ばった。
 何で。
 その言葉が腹から沸き上がった。
 思わず手に力が入り持っていた書類に皺が寄る。それに気が付いた上忍が、名前を呼ぶが、イルカは答えなかった。書類を強く握りしめたままそのまま返答もせず上忍待機所を飛び出した。

「やっぱりきたか」
 勢いよく入ってきたイルカの形相を見るなり、温度差に欠ける口調で綱手はそうため息混じりに口にした。
 目を通していた書類を机に置き、面倒くさそうに縦肘をつく。
「どういう事ですか」
 綱手は表情を変えない。その代わりと言うように肩を少しだけ竦めた。
「どうもこうもないさ、私はするべき仕事をしてるだけだよ」
「カカシさんはっ、いや、はたけ上忍は処分すべきではありません」
「それを決めるのは私だ」
 お前じゃない。
「・・・・・・っ、」
 当たり前の言葉を返され、イルカは口を閉じる。代わりに作っていた拳の指先が震えた。
 怒りに満ちたまま黙り込むイルカをじっと見つめ、綱手はまたふう、と息を吐き出す。縦肘を解きながら肩にかかった髪を後ろに流した。
「聞かれたんだよ。どっちの処分が里にとって有益になるか、お前をアカデミーから外すよりもカカシを里外への任務に就かせる、その方がいたってシンプルで有益じゃないのか、ってね」
 論点がズレている、それを反論する事は可能だが、結論が出た後でそれは無意味だと知っている。イルカは黙って聞くしかなかった。
「イルカ、お前はあいつに凄まれた事あるかい?」
 脱線した台詞に、その内容に少しむっとしたまま視線を返せば、ぞっとするよ、と続けられ、茶化したような、それでいて遅々として進まない話に怒りだけが沸き上がる。それでも話すべきは綱手だと分かっているのに、浮かぶのはカカシだった。
 一体カカシはこの場で綱手に何を言ったのか。
 あろうことか火影相手に凄むとか、予定していた処分を覆させるような脅し文句を口にしたのが嫌でも想像出来て、それが自分を守る為だとか思ったら馬鹿馬鹿しくて。
 同時に沸き上がるのは今までにない、熱いうねり。我慢出来なかった。
 ーーもう、いい。
 イルカは気持ちを振り切る。
「失礼しますっ」
 急に頭を下げ出ていくイルカに綱手が手を挙げ、まあ待て、と名前を呼ぶが、それは勢いよく扉が閉じられた後だった。
 綱手はイルカが去った執務室で一人上げたままの手をゆっくりと下げ呆れた顔で背もたれに体重を預ける。
「全くアイツらは・・・・・・」
 と、ため息混じりに呟いた。


 このままじゃ、何もかも上手くいきっこないと、分かっていた。いや、上手い方向に向かわない事は、はなっから分かっていた。でも、そんなつもりじゃなかったんだ。
「……くそっ」
 吐き捨てるように言うと地面蹴る。イルカは走り出した。


 カカシはアカデミーの裏庭にいた。待機所にいてもおかしくはないのにいないから、探し回って一応、と足を向けた裏庭で大きな木の幹にのんびり背を預けて読書をしている姿を見たら、また、怒りが沸き上がった。
 そうじゃない。ずっとずっと、腹立たしかった。
 今回の件も、あの夜から過ごしてきた長い時間も、
 覆されてしまった処分も、それを決めた綱手も、
 カカシにも、
 ーーそして、自分にも。

 イルカはカカシの元へ迷う事なく真っ直ぐ歩く。
 その音にカカシはこちらへちらと視線を上げた。自分見ると明らかに少し驚いた顔をした、が、すぐに目を逸らす。そして、その手のひらの中に本を隠すように閉じた。
 目の前で足を止めても、カカシは目を逸らしたまま、顔を上げない。
「カカシさん」
 名前を呼ぶが返事はない。丸で自分が悪いと分かっていて叱られ不貞腐れた子供のような態度で、カカシの顔は背けられたまま。
「処分の事でしたら説得しようとしても無駄ですよ」
 ボソリとカカシが言った。
 呆れもするが、イルカは反論しない。満ちた怒りは身体にそのままだが、作った拳の指先を緩める。身体の力を抜き、ゆっくりと息を吐き出した。
「俺、誕生日だったんです」
「・・・・・・え?」
 カカシが反応を示しこっちへゆっくりと顔を向けた。立ったままのイルカを見上げる。
「あの日、飲み会があった日は俺の誕生日だったんです」
 静かに語るイルカに、カカシは青い目を向け、じっと見つめた。
「だから、そんな日に部屋は違えど一緒に飲み会に参加出来て、それで一緒に帰れて、あなたと話できて、嬉しかったんです」
 イルカはその心情を思い出して思わず微笑んでいた。カカシはまだじっとイルカを見つめている。
「あれは、自分へのご褒美だった」
 カカシがイルカの言葉に少しだけ反応を示すように目を丸くする。露出する気持ちに頬を赤く染めながら、イルカは続けた。
「断らなかったのは、そうなりたいと俺が思ったからです。もしかしたら遊ばれているかもしれない、そう思ったけど、それでも良かった。俺はあの日あなたに抱かれて、」
「遊ぶつもりなんてない」
 気持ちが高まる中、少しだけ声に力が入った言葉を遮るように、不意にカカシが口を開いた。
 見つめる先には真剣な眼差しを向けるカカシがいて、イルカは頬を赤らめながら、眉を寄せながら一回口を結んだ。そして躊躇いがちにもう一度口を開く。
「・・・・・・だから、」
「だから、俺も嬉しかった」
 イルカが驚きに言葉を止めたのを見て、今度はカカシは続ける。
「舞い上がってた。まさか受け入れてくれるなんて思わなかったから。酔った勢いでしか気持ちを伝えられなかったけど、それでも嬉しくて、でもあなたは翌日何もなかったように振る舞うから、」
「・・・・・・っ、」
 そんなつもりは、と口から突いて出そうになって、イルカは思わずそれを抑えた。
 驚き傷ついた表情に変わるイルカに、カカシは眉を下げ情けない笑みを浮かべた。
「カカシさ、」
「何やってんだろうねえ、俺たち」
 カカシの口から出たのは何とも緊迫感のない、間延びした口調だった。
 その浮かべる笑みが優しくて、困惑するイルカにカカシが腕を伸ばす。イルカは手でその手を掴むと、カカシは立ち上がった。手を繋いだまま、目線が同じ高さになる。
「ねえ、先生。俺を待っててくれる?」
 一ヶ月。
 嬉しそうに目を細められ、イルカは思わず頬を赤らめた。心臓が高鳴る。同時に緩んでいく緊張と共に鼻の奥がつんとした。目に涙が浮かぶ。
 ーーああ、いつのまにかそう言う事になっている。
 今更気がつき泣きたいほど腹ただしいのに、絡められた指が嬉しくて、離したくない。
 気持ちに嘘はつけない。
「どうでしょうかね」
 それでも持ち前の天邪鬼が消えず、泣きそうになるのも見られたくなくて、腹立ち紛れにぷいと赤い顔を背けて意地悪く言うと、カカシは少しきょとんとした。
 それから声を立てて笑い、
「ありがとう」
 と、幸せそうに言った。



 あの夜、酔いからさめからこうなったらいいな、と思っていた。
 それが一年後だった、それだけの事だったんだ。


<終>