2023カカ誕

 ごちそうさん、と席を立つ同僚に続いてイルカも立ち上がる。勘定の為に自分の財布をポケットから出し開いた。
 長年使い古した財布はヨレていて札入れには本来入れるべき紙幣よりもラーメン店やスーパーの割引券ばかりがその場所を占めている。そんな見慣れた自分の財布を眺めながら、ふと思い出した事に心に陰りができ、イルカは僅かに目を伏せた。

 あの日、夕飯に誘ってきたのはカカシだった。度々飲みに行くような間柄だったが、当たり前だが上下関係から自分からは誘うことはほぼなかった。七班の上忍師の仕事に加えて単独任務もある。たまたまどこかで顔を合わせた時に話の流れで誘うことはあったが流石に自分から声をかける事は出来ないから。数週間ぶりにカカシに誘われて、快く頷いた。
 カカシは上忍であり自分にとったら上官にあたるが、一緒に過ごす時間は心地良い。いつもの様に他愛無い話をしながら飲み食いしてそろそろお開きにしようかと思っていたらカカシに、今日は俺が払うからと言われてイルカは慌てた。カカシと飲む時は大体割り勘だ。上忍師のアスマ然り立場が上だからと奢ってくれる者もいるがそれに甘えるのは自分からしたらいいとは思えなかった。そりゃ上忍の方が給料を多く貰っているのは知っている。だがそれはその働きに見合った給料なのだ。体を張り、戦場では前線で戦う。里の中でのんびり事務仕事している自分と比べようが無い。
 だから当たり前だが首を横に振ったら、カカシは困ったように眉を下げた。
「先生もしかして次は俺が奢るからって言ったの忘れちゃった?」
 言われてイルカは困惑した。そんな事を前回約束したのか、思い出そうとしたが記憶は定かでは無い。たしかあの日は飲み過ぎて、でも財布の金は減っていたからちゃんと自分の分は払ったと翌朝安堵した。
 あれってもしかしてカカシの分も払ってた?
 何て今更思うが記憶が曖昧なのが恨めしい。その通り、返事に困っているイルカに笑いながらカカシは手を挙げ店員を呼んだ。だがたまたま別の客からも声をかけられたその店員が直ぐに来ないのが分かったからなのか、カカシが不意に立ち上がる。
「ごめん、俺ちょっとトイレ行くからこれで払っておいてくれる?」
 言われて更にイルカは慌てた。なのに、はいともいえとも言う間も無くカカシは席を外してしまうから、イルカは渡された財布を握りしめたまま困った顔で見つめる。自分の財布と同じ様に使い古した質感あるカカシの財布をどうしようかと思った直後に店員に声をかけられイルカは焦った。どうしよう。この財布で払うべきか。自分が払ってしまうべきか。しかしここで自分が払ったらカカシの好意を無にしてしまうかもしれない。カカシの財布と睨めっこしながらそんな事を考えていれば、あの〜、と困った感じの店員の声に、イルカは顔を上げた。
「あ、はい、支払いですよね」
 笑いながらも、ええいままよ、とカカシの財布を開き、札入れを広げて。目にしたものにイルカは一瞬固まった。


 あの時何でカカシから財布を受け取ってしまったんだろうか。
 過ぎた事はどうにもならないことは幼い頃から分かっていたはずなのに、今更ながらにうんざりとした気持ちに気分が落ち込む。
 ただ、何でだと後悔しても渡されたんだから受け取らざるを得なかったのが答えだ。
 自分とは比べられないくらいにたくさん入っていた札の中に紛れていたのは、小さくてビニール製の四角い薄い入れ物。それがコンドームなのは歴然だった。
 それを見て固まってしまった後にカカシがトイレから戻ってきたから、自分は財布を直ぐにそれを渡した。
 その後奢ってもらった事をカカシに礼を言った事は覚えているが、頭が真っ白で何を話したのか、正直上の空でほぼ覚えてない。
 自分も過去に女性と付き合ったことがあるから、それを何の為に使うかなんて分かっている。というか持っていて当たり前だ。そりゃそうだ。持っているのは男としてのマナーだ。持っていない方が問題だ。ただ、自分はここ一年以上はご無沙汰であるとしても寝室の押し入れ奥深くにしまったままで使用期限さえとっくに切れているだろう。
 ただ、カカシの財布でチラッと見えたパッケージは正直見たことがなかった。
 いつも薬局の安いやつしか買ったことがないからか、ほぼそれ以外見たことがない、が事実だが。何と言うか、ピンクとゴールド混じりのパッケージだったのは、たぶんすごくお高いものだからなんだろうか。
 同期とでさえそんな話題を口にしたことがないから、もんもんと予想することしか出来ない。
 勘定を済ませた後、使い古した自分の財布をぼんやりと見つめていれば同期から声がかかる。イルカは顔を上げ笑顔を作ると、おお、と元気に返事した後財布をズボンのポケットに仕舞う。声をかけられた方に向かって歩き出した。

 あれから前と同じ様に会話が出来ずにぎくしゃくしてしまい、忙しいこともあり顔を合わせるタイミングもなく当たり前に飲む回数も減った。
 たまたま。そう、たまたまだ。
 なんて誰に言うでもない言い訳みたいのを心で呟きながら、廊下を歩く。
 カカシとは飲んではいないが、少し前に友人たちとは飲んだ。ダラダラとくだらない話をしながらビールを飲み、いつもの様に下ネタ混じりの会話が始まる。その流れで、気の緩みで。
 もし気になってた子がゴム持ってたらどう思う?
 そう聞いたら、友人たちは酒で赤くなった顔で思案する。
 まあ持っていても普通だろ、と一人が答えるともう一人がそれに頷きながらも、でもなあ、と続ける。
 でも要は、ヤってるって事に変わりはないわな。
 微妙な笑顔を見せて笑う友人にイルカも、だよなあ、と同調するように笑ったが。
 その返答は胸に見事に突き刺さった。
 自滅ってやつだ。
 何聞いてんだ俺は。
 そうだよ、そういうことなんだよ。薄々分かってただろうが。
 自分で自分が嫌になる。
 ただ、自滅するのが分かっていたのにくだらない質問をしたのは、出口が見えないような苦しさから逃れたかったからだ。
 でも気になっていた子、というのは語弊があるけど。と思ったところでイルカは僅かに眉根を寄せていた。アカデミーの裏口を出ようとしてドアノブに手をかけようとして止め、ため息を吐き出す。
 幼い頃両親を亡くしてから本音と建前は自分には必要なものでなくてはならないものだった。
 表では笑っていれば人は集まってくる。泣きたくなるほど辛くても笑っていた方が楽だったから。
 成長して、大人になって感情は人より出してしまう方だけど、ついていい嘘はつくようにしていた。悪い事ではない。大人であればみなそうしている。
 人を傷つけなければ嘘はついてもいい。
 そう、カカシと上手くいくためには大切なものだった。
 付き合いやすい部下、話しやすいナルトたちの元担任としている必要があった。
 カカシの為にも、自分の為にも。
 それなのに。
 想像以上に傷ついている自分がいるんだと分かってしまった事実に笑いたくなった。
 恋人?
 飲みに誘われた時、俺なんか優先したらマズいんじゃないのかと聞いたら、カカシは不思議そうにそう聞き返した後、
 こんな商売じゃ恋人なんて出来ないよ
 そう口にして笑った。
 寂しくないんですか?と聞けば、考える様に視線を漂わせた後こっちに戻す。
 ま、俺はちゃんとした恋人なんていたことがないから。先生は?
 急に話をこっちに振られて焦った、半年以上前のことを思い出した。
 この人を好きになっちゃいけないと思ったのはいつだったか。
 最初は変わった上忍だとしか思っていなかったのに。話したら棘なんかなくて物腰が柔らかくて、上忍だからと横柄な態度もとることがなくて一緒に飲んだら人好きするような笑顔を見せるようになって色の好みも合っていて。こんな気持ちになったのは初めてで。
 ていうか、初めてとか。
 認める様に心でぼやいてしまえば、胸が急に苦しくなった。恋愛経験のなさが浮き彫りになったことが情けなくてイルカは思わず失笑する。
 本当に、コンドームなんかで落ち込んでるとか。冷静に考えれば考えるほど可笑しい。
 そうだ、たかがコンドームの一つや二つ、カカシさんが持ってたってどうってことないだろ。
 苦笑いしながら廊下の角を曲がって直ぐ向こうから来た相手とぶつかった。
 前を見ていなかった。
 俯いていた上に考え事をしていた結果だ。
 注意散漫とばかりに、相手にぶつかった拍子に持っていた書類が廊下に落ちる。
 情けない事この上ない。
「すみませんっ」
 慌てて相手に頭を下げ視線を上げ、そこでようやく相手がカカシだと気がついた瞬間、さっきまでぐるぐると回っていた思考は一気に停止する。真っ白になった。
 いや、真っ白になろうと相手が誰だろうとする事は同じだ。
「すみません、前を見ていなくて」
 もう一度素直にカカシに謝り、イルカは落ちた書類を拾う為にしゃがみ込んだ。
 しまった。
 思ったのがそれだった。
 だって、全く心の準備が出来ていなかった。
 相手が見知った相手だから砕けた笑顔を作っているつもりなのに。動揺して顔が引き攣りそうになり書類を拾う為に下を向く。
 拾ってるから行ってくれないだろうか、なんて都合のいい事を考えていたがカカシがしゃがみ込んだ気配と同時に書類を拾うカカシの手が視界に入り、居た堪れなくなった。心臓が妙にバクバクと動く。
 きっと気まずいのは自分だけだ。分かっているが、早くこの場から立ち去りたい。その一心で自分も自分で廊下に散らばった書類を拾い集めていたら、先生、とカカシに呼ばれ僅かに体が緊張で強張った。
「なんか怒ってる?」
 返事をする前に続けて言われた言葉に、イルカの手が止まった。顔をカカシには向けられなかった。掴んだ書類をじっと見つめたまま、イルカは、まさか、と笑う。
「怒ってるわけないじゃないですか」
 答えながらもその質問からカカシが何かを感じとっていたのは明白で、それに動揺しながらも気を使わせてしまっている事実に、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 確かに誘われても乗り気にはなれなくて何回か断ったのは確かだが、努めて明るく返事をしていたはずなのに。
 それが正しいと思っていたのに。
(……なんかすげえ嫌だ)
 カカシに対して気持ちを誤魔化している事も、ギクシャクしたこの空気も望んでたわけじゃないのに。
 こんなんじゃ駄目だ。
 イルカは覚悟を決めこくりと軽く唾を飲み込むと視線は廊下に向けたまま、そうだ、といつものように口を開く。
「この前俺実は見ちゃったんですが、カカシさん実は彼女がいるんですか?」
 発した言葉から間があった。彼女?と不思議そうに聞き返した後、そこからカカシが首を傾げる。
「見たって、何を?」
 そう問われ、自己完結した質問過ぎてそりゃそうなるわな、と自分の馬鹿さに嫌になりながらも、えっと、とイルカはまた口を開いた。
「財布です。ほら、勘定しておいてって言われて、」
 話し途中でカカシが合点したんだろう、ああ、と相槌を打った。
「だから……その、財布にコ、いや、ゴムが、ですね」
 ごにょごにょと尻すぼみになり自分でも驚くくらい歯切れが悪い。
「でもまあカカシさんモテるから当たり前ですよね」
 心の中を誤魔化したいばかりに、あはは、と笑いながら自殺点を決める自分は馬鹿なんだと思う。
 空笑いするイルカにまた少しの間があった後、ああ、とカカシが呟くように口を開いた。
「ああ、あれ……ああ、そっか、俺財布に入れてたんだっけ」
 自分とは違い随分と呑気な口調だと思った。でも、それはそうだろう。カカシにとったらそれだけ気にもしていなかった事だということだ。
 カカシの口から恋人がいるんだと聞かされたら、それこそきっぱりと割り切って。そう、今までのようにナルト繋がりの飲み仲間として、
「それ紅がくれたんだよね」
「……は?」
 想像していなかった答えに、イルカは思わず顔を上げていた。青みがかった目と視線が間近で交わり、それが随分と久しぶりだと感じながらも、困惑は続く。紅はカカシと同じ上忍師で、しかし同じく上忍師であるアスマと恋人同士なのは中忍の間でも公認で、だから、それって、え?
 聞いちゃ駄目なことなんじゃないのかと混乱する、それが顔に出たのか、違うよ、と何も言っていないイルカに、カカシは笑いながら否定した。
「サクラは俺の部下だから」
 それは知っている。だけどまだ理解できていないイルカにカカシは続ける。
「あの年頃だったらそれなりの知識を教えるべきだって言われて渡されて。ま、直ぐにどうこう教えるべきなのか正直迷ってるから財布の中に入れたままなんだけど、」
 困った笑顔を時折浮かべながら静かに話すカカシを見つめながら、何であのゴムがピンクかがった女性向けらしいデザインだったのか。ようやくそこでピンときた。いや、でも。でもだ。誤魔化しているようにはみえないが、嘘ってことも。
 そっとカカシを窺えばまた間近で視線が交わり、その眠そうな眼差しは真意は見えないが逆に全て見透かされているようで恥ずかしくなる。イルカは思わず俯いた。
 ただ、サクラたちの年齢からして下忍となりくノ一として任務に就くにあたり必要な事なのは、教員という立場から十分理解できた。アカデミーではそこまでは授業中に組み込まれていない、謂わば課題だ。
 そうだ。そうなんだよな。
 それが本当だという確証はなにもないけれど、尤もな答えはイルカを追い込む。
 安堵感と羞恥心が渦巻きながら、そうですか、と答えるのが精一杯だった。そこから言葉が続かない。
 なんて言えばいいのか。
 すみませんでした?
 勝手な勘違いして避けてました?
 でも勘違いと言ったところでどう説明する?
 子供じみた自分の行動を。カカシはきっと呆れる。
 カカシはじっとイルカを見ていた。痛いほど視線を感じて居た堪れなくて。分かりました、とそれで終わらせようとしたイルカの手にカカシの手が動く。床に落ちた書類の上に地面に置かれたままになっている自分の指をカカシが触れた。
「ねえ先生、良かったら今日飯行かない?」
 俺今日誕生日なの。

 うわー、ずりい。

 心底思う。
 こんな風に誕生日だからと誘われたら勘違いしない奴なんていないだろう。
 意識してしまったのだから、もう前のような関係に戻れない。知らぬ影に怯えているくらいなら身を引いてしまおうとさえ思ったのに。
「勘違いしてもいいよ」
 心を見透かされた台詞にイルカは、え、と顔を上げていた。こっちを見ている露わな右目が優しく緩む。
 その余裕がある眼差しに嫌味さえ感じる。丸で自分だけが。いや、たぶんそうなんだろうが。
 でも。
 ぐっと力を入れるように口を結んだイルカは再び開く。
「勘違いします!」
 顔を赤らめたまま勢いよく高らかに宣言したイルカに返ったのは、初めて見るカカシの嬉しそうな笑顔だった。
 
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