あやまち

 山積みにされた書類の前で手渡された書面に目を通している時扉が叩かれる。縦肘をつき書類に目を落としながら、どうぞー、と間延びした返事をしたカカシに、その扉から入ってきたのはイルカだった。
「議事録です」
 顔を上げれば手渡され、カカシは縦肘を解くとそれをイルカから受け取る。
「もうそんな時期だった?」
 アカデミーの定期的な会議は三ヶ月に一回。仕事に追われているからなのか、つい最近目を通したばかりだと、見ていた書類を閉じながらそう口にすれば、言いたい事が分かったんだろう、そうですね、とイルカは苦笑いを浮かべた。
 受け取った議事録にはアカデミーでの行事内容と現段階での学年クラス別の能力が大まかに記載されている。行事内容もそうだが、ゆとりを持った内容だと感じるのは里内が落ち着いてきている証だ。
 軽く目を通していれば、じゃあよろしくお願いします、と切り上げる台詞を口にするから、カカシは顔を上げる。自分もそうだが、イルカもまた役職を持ち、忙しいのは知っている。
「ありがとうね」
 微笑めば、イルカは同じように軽く微笑んだ。ぺこりと頭を下げると扉へ背を向ける。目で追うカカシの視線の先で、ドアノブへ手をかけようとしたイルカはそこで手を止めると、振り返った。
「あの、」
 何か伝え忘れた事があったのかと、ん?と首をカカシが首を傾げれば、一瞬躊躇った表情を見せた後、カカシへ視線を戻す。
「よかったら今度飯でもどうですか」
 カカシは少しだけ驚いたように目を丸くした。
「あ、いや、無理ならやっぱり、」
「いいよ」
 返事も聞かずに勝手に会話を終わらせようとするから被せるようにカカシは口を開いていた。
「ちょっと遅くなるかもしれないけど、それでもいい?」
 自分都合で切り上げられない状況なのは事実だから。直ぐにそう付け加えると、イルカはこくんと頷く。頭を下げ、執務室から出ていった。

 一人になった執務室で。カカシはしばらくイルカから手渡された議事録を眺めていたが。やがてゆっくりと視線を上げる。
 自分が火影に就任してそこまで数ヶ月。イルカ本人は自覚がないのかもしれないが、大戦が終わり、その後顔を合わせる度に見せたのは、辛そうな表情だった。
 それがどんな意味なのか、敢えて考えようとしなかったのは、その憶測が自分にとって都合がいいとは思えなかったからだ。
 上忍師に就いて直ぐイルカと知り合った。共通点は部下になったナルト達くらいで。それでもなんだかんだで会話をするようになって、一緒に飲みにいくようになって。
 そして、───たった一度だけ体を重ねた。
 サスケが里を抜けその奪還にも失敗し、サクラは綱手に弟子入りをし、ナルトが自来也とともに里を出た。上忍師を解かれた自分は命令されるがままに、単独任務をこなしていて。
 そんな時、たまたま居酒屋でイルカと顔を合わせた。
 久しぶりだった。
 どうやったら慣れるんですかね。
 自分の部下がこんな風に里からいなくなった事を。誰かに言うこともなかったのに。イルカの顔をみたら、ついそんな弱音が口から出ていた。心に穴が空いたような感覚を、長年教員し生徒を見送ってきたイルカなら対処方法が分かってるんじゃないかと、冗談混じりに聞いたら、何か笑って応えてくれると思ったのに。真顔になった後、少しだけ困った顔をした。
 一瞬、泣くのかと思った。そんな顔だった。

 その後、二軒目に行こうかと話している中でイルカは家に自分を誘った。
 イルカのアパートの部屋に入った直後、電気をつけることもなく、暗闇の中、どちらからでもなく唇を互いに重ねた。イルカが最初からそのつもりだったのか。分からないけど、初めて触れるイルカの肌はどこも暖かくて。包容したら包容し返してくれるそのぬくもりに安堵感を覚えたのは確かだった。

 ただ、そのぬくもりを再び感じることは二度となかった。
 直後にペインの襲来、そして大戦が始まりそれどころではなかったのも事実だったが。
 互いに寂しかったから。
 そんな理由で片づけることは、大人であれば、それは容易だ。
 カカシは視線を漂わせながら、その目をイルカから提出された議事録へ戻す。力強く書かれたイルカの筆跡をじっと見つめた。

「お待たせ」
 イルカが指定された小さな居酒は、通い慣れた店の一つだった。里の復興と共に新しい店も次々と増えたせいか、店内は昔ほど混んでもいない。
 カウンターにはイルカしかおらず、その隣の席にカカシは腰を下ろした。お疲れさまです、とイルカは笑顔を浮かべる。
 こんな風に飲むのはいつぶりなのか。今日会ったら何を話そうか、そんな事を考えていたはずなのに、イルカの顔を見て、変わらないアカデミーの生徒たちの話を聞いていたら、昔に戻った感覚にカカシはジョッキを傾ける。実はね、と口をカカシが開いた。
「先生と飲むって行ったら、シカマルが都合をつけてくれたんですよ」
 いつもどれだけ言っても仕事減らしてくれないのに。
 可笑しそうに言えば、イルカはジョッキを持ったまま、そうなんですか、と素直に申し訳なさそうな顔をした。
「それ、大丈夫なんですか」
 心配そうにするイルカに、いーのいーの、とカカシは何のことはないと返す。
「俺に対してはそうじゃないけど、イルカ先生に対する信頼度はどの教え子も今も変わらないって事なんだから」
 あの頃のまだ下忍になったばかりの子供たちが、成長して、それぞれ責任のある立場になり、イルカと同じ中忍かそれ以上になろうとも、イルカに対する信頼は全く損なわれていない。それは誰もが口にしていなくとも十分伝わってくる。
 自分の事じゃないのに、それが嬉しく思えるのは何でなのか。
「それってすごい事じゃない」
 穏やかに微笑むと、イルカの黒い目が少しだけ丸くなった。視線を外す。
「火影様のほうこそ・・・・・・」
 呟くように言うから、俺はどうかなあ、とカカシは笑った。
 まだ就いて間もないが、正直過去歴代の火影が成し得た事を出来る自信はない。
 ただ、今は何処でイルカと顔を合わせても仕事の話しか出来なくて。ろくに会話すらしないけど。言いたかった事を言え、今日は満足だ。
 息抜きをする相手をしてくれただけ、ありがたい。
 二杯目を頼もうとジョッキのビールを飲み干した時、イルカが再び何かを呟いたから、何?とカカシが目を向ければ、黒い目がこっちに向けられる。
「二軒目は・・・・・・どうしますか」
 その言葉に、イルカの顔をカカシはじっと見つめた。昔とは違う。写輪眼がなくなった両目にイルカを映す。
 なんでこのタイミングなのか、どんな答えをイルカが望んでいるのか、黒い目を見つめても知る術はない。
 ビールを飲んだばかりなのに、喉が乾いたような感覚に、カカシは薄く開けていた口を閉じ、再び開く。
「あのさ、先生。悪いけど、」
 どんな事にも踏み出す勇気はあるのに。イルカの事になるといつもこうだ。情けない気持ちがわき上がるが。それを飲み込むようにイルカを見つめ返す。
「あなたが何考えてるか知らないけど、俺、今度は一夜のあやまちにするつもりはないよ」
 あの夜、あの時、言うべきだった本心をはっきりと口にすれば、驚きに黒い目を丸くしたイルカに。
 逃がすはずがないと、カカシは迷う事なく、自分の手をイルカに重ねた。
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