思いの伝わる手紙のとある事例「明日」

 ──── どうしよう。
 イルカは椅子に座って、目の前で泣く女を呆然として見つめた。
 彼女は、今まで自分の恋人で。いや、今も?だが。イルカは困った表情で眉を寄せたままその女を見つめた。
 男と女がいて、この状況になるのは、どんな場面かなんて決まっている。
 そう、イルカはいましがた自分の彼女に別れを告げたのだ。
「うっ・・・・・・」
 涙をハンカチで拭うこともせず、頬を伝う涙に、思わずイルカが自分のハンドタオルを差し出すと、首を振って断られた。
 おずおずと、差し出した手を引っ込める。
 店内は。それなりに喧騒が聞こえてはいるが。周りからの視線はきっちりと感じている。
 イルカは一回唇を結んだ。
「なんで・・・・・・なんでよ・・・・・・っう、」
 俯いたまま涙を手の甲で拭う彼女は、表情がイルカからはよく見えないが。それだけで、酷くイルカの胸を痛ませた。
 それでも、自分の出した結論は間違っていないと思うから、どうしようも出来ない。ただ、この場所ではマズかったと、後悔は頭を掠めていた。
「私のどこが・・・どこが悪かったの?・・・・・・直すから。言えば、直すから・・・・・・」
 女の口から押し出されたその言葉に、イルカはまた眉を寄せるしかなかった。
 周りの視線が、素直に痛い。
「スミレ・・・・・・あのな・・・・・・そう言う問題じゃないんだ」
 ゆっくり言い聞かせるように口にする。
「じゃあ、どう言う問題なのよ」
 俯いたまま。イルカに目を向けることもなく、スミレは問う。
「だから・・・・・・スミレとは、元の関係でいた方がいいと思うんだ」
 それは友達に戻る事を意味していたが、元々友達だったわけでもなく。友達に頼まれた飲み会に参加した時に出逢ってからの関係だから。友達になれるかは定かではないが。
「なんで・・・・・・納得出来ないわよ・・・・・・」
 それでも、スミレは顔を上げてくれなかった。目を擦り鼻をすする。
 こんな姿は見たくなかった。
 だって、彼女はいつも元気で朗らかで。サバサバしていて。
 だから、その俺が一番好きだった小さな白い手で、涙を拭かれると、すごく辛い。
「ごめん・・・・・・」
 謝る言葉を口にした時、スミレが漸く顔を上げた。怒りの籠もった目に、イルカは少しだけ顎を引いていた。
「悪いと思ってんの?」
 攻める口調にイルカはどう言おうか、一瞬考える。
「・・・・・・え?」
 聞き返すと、スミレの目がさらにきつさを増した。
「本当に悪いと思ってるの?あんたとのデート代にいくら使ったと思ってるのよ?」
 その言葉が本当に彼女から出たのか、分からなかった。
 瞬間、スミレの手が動く。
 イルカの頬が音を立てた。痛みは、感じなかった。
 その手で飲みかけのグラスを床に落とす。グラスは割れなかったが、お茶が零れる音が耳に聞こえた。
 スミレは立ち上がるとそのまま居酒屋を後にする。
 しばらく、イルカは呆然としていた。叩かれた事よりも、彼女の残した言葉とか、乱暴にグラスを落とした事とかがショックで。
 ハタとすると、ざわついていた店内は、静まりかえっていた。酒を呑みながらも、皆自分を見ている。
 哀れみを持った人も入れば攻めるような目をした人も様々で。それは正直に居たたまれない気持ちにさせた。
 一気に顔が赤くなる。自分で別れを持ち出したくせに。と、自分を叱咤してみるが、なかなか赤面は治らない。
 床に転がったグラスを拾い、おしぼりで濡れた床を拭くと、イルカは伝票を持って集まる視線の中、静かに立ち上がった。
 勘定をすませ、床を汚した事を店員に謝り、店を出る。

 歩きながら、嘆息した。
 仕方ない。
 そう、自分が悪い。だから仕方ないんだ。
 漸く治まってきた気持ちに、もう一度深呼吸すると、
「ねえ」
 その声をやり過ごしていると、
「ねえってば」
 イルカにかけられているのだと知り振り返ると、見たことのある男が立っていた。ニコニコとしている、その顔を見て、イルカはぎこちなく笑みを作り頭を下げた。
「・・・・・・どうも」
はたけカカシ。
知り合い程度である男であったが、相手は上忍。いつもは挨拶程度なのに。なんで話しかけてきたのか、内心不思議に思いながらも下げた頭を上げる。
「大変だったねー」
「え、」
 イルカは驚き小さく声が出た。
 カカシがあの店にいたのだ。かあ、と顔が赤らむ。そんな事、放ってくれればいいものを、と思いながら苦笑いを浮かべた。
「いえ、別に・・・・・・」
 イルカは口を濁す。
 カカシは悪いと思っていないのだろう。ニコニコした顔を崩さない。
「ここは気分一つ変えてさ、楽しいことしない?」
「・・・・・・?」
 何を言っているのか分からない。いや、元々何を考えているのか分からない人だと思っていたが。大体楽しい事が何なのか。まさかこの男がカラオケとかバッティングセンターにでも連れて行ってくれるのか。いや、考えただけであり得ない。聞くのもバカバカしい。
 本当にそうだとしても、今はとてもそんな気分にはなれない。何て断ろうかと思っていると、またカカシが口を開いた。
「セックスしようよ」
 イルカは一瞬ぽかんと口を開けたままカカシを見つめた。が、頭に再び入り込んだその言葉に目を剥いた。
 何を言い出したんだこの男。またイルカは言葉を失う。
 ろくに話した事もない相手に何言っているのか、自分で分かってるのだろうか。だが、カカシはイルカの答えを待つようにその表情を変えない。イルカは嫌々口を開いた。
「嫌ですよ」
「え、何で?」
 言われてカッとした。呆れて一瞬言葉を忘れる。誰が恋人と別れてすぐに別のヤツとセックスするんだ。しかも男と。それとも自分はそんなやつだとカカシに思われていたのだろうか。
「冗談じゃないですよ。やりたいなら一人でやっててください」
「いや、一人じゃセックス出来ないでしょ」
「ふざけないでください!」
 思わず声を荒げていた。
「だったら・・・・・・それ相応の店があるじゃないですか。兎に角、俺はお断りです。それに、さっきの・・・・・・経緯を見てらしたんでしたら分かると思いますが、俺は今そんな気分ではありませんので」
 失礼します。
 きっぱり言ってまたイルカは頭を下げた。そのまま背を向けたイルカに、また声がかかった。
「今ならもれなく鞄がついてくるんだけどねー」
 ハっとした。勢いよくカカシに振り返ると、間違えようもない。自分の鞄を手に持っている。
 冷静を装ってはいたが。あの店に忘れていたのだ。財布はポケットに入っていたから、気が付いていなかった。
 ──── 俺の馬鹿・・・・・・。
 ハイエナのようなカカシの行為はあまりにもショックで。
 悔しくて。緊張の糸が切れたからなのかも知れない。
 イルカの目に涙が浮かんだ。
 上官だから、言い返したいのに、言い返せないが。
 こいつ、最低だ。
 震える身体に唇を噛むイルカを見て、カカシが少しだけ目を開き、頭を掻いた。
「あー・・・・・・うそ」
 イルカの目の前まで歩み寄る。視線を落としたままのイルカの視界にカカシの身体が映り、顔を上げると鞄を肩にかけられた。
「ごめんね?」
 まだ怒ったまま涙を浮かべているイルカをのぞき込んで、困った顔をしながら慰めようとしたのだろう。
 優しく、微笑んだ。


◇◇◇


 まさかの二回目のセックスの誘いを、真顔でイルカにしてきたのは、アカデミーからの帰り道だった。
 前から不思議で陰がある人だと思っていた。気になっていた。高名で有る故にとか、尊敬していたからとか以前に。彼と初めて会った時から。
 親しくなりたいと、自分の中で思っていたのは、間違いようがない事実だった。それに気が付き、悶々としていたイルカの前に、カカシは飄々と現れた。片手をポケットに入れたまま。
 あれは、彼なりの冗談だと思っていた。その冗談は、イルカは傷ついた。
 そう、傷ついていると気が付いてしまった。
 だから、もう忘れるべきだって思っていたのに。
 時間も開けずにカカシは現れた。
「そんな構えないでよ、イルカ先生」
 構えない奴なんかいないだろうと、内心つっこむ。
「ねえ、前のことですが、考え直してくれませんか?俺本気で言ってるんですよ」
 困ったような顔をされ内心驚くと、カカシは続けた。
「駄目?じゃあさ、いくらならやらせてくれるの?」
 耳を塞ぎたくなるような、卑劣で下品な言葉だった。信じられない。
 目をまん丸にして顔を凝視しているイルカに、カカシは微笑んだ。
「ねえ、いくら?」
 そこで、イルカの口から笑いが漏れた。
「はっ・・・・・・何を・・・・・・」
 そこでカカシを見て、驚いた。
 驚いたのは、彼の表情だった。
 イルカが見る分には──── 本気で彼は言っている。
 本気で俺とセックスをしたい、と。それが分かり、余計にイルカを混乱させた。
 なんだろうか。この人、頭のネジを何本かどこかに落としてきてしまったのだろうか。
そう思って当たり前だろう。だって、やはり信じられない。
 でも、威圧するわけでもなく、カカシは真面目な眼差しでイルカを見つめている。
「多少高くてもいいよ?俺払えるから」
 そんな言葉さえも茶化している口調は含まれていない。困惑しながらカカシを見た。
「金なんていりません」
 信じられなくとも、カカシの台詞は、イルカにそう言わせていた。
 瞬間、カカシは目を開く。
「え、いらないって・・・・・・どういう意味?」
「だから、そのままの意味です。要らないって言ったんです」
 ん?とカカシは首を傾げた。
「ただでやらせてくれるって・・・・・・こと?」
 イルカは強く頷いた。
「ええ、そうです」
 絶対に、いるものか。金を払う関係なんて、そんなものこそ、要らない。
 そんなイルカの気持ち知らずなのか、カカシは嬉しそうな顔をした。
「変わってますね、アンタ。でも嬉しいですよ」
 ああ、すっごい嬉しそうな顔。これもきっとカカシの本心なのだ。
 嬉しそうな顔を見れて、素直に嬉しく思う自分もいる。
 なのに。嬉しいのに、酷く胸を痛くさせた。


◇◇◇


 カカシが自分を誘った時、俺は傷ついた。傷ついた時点で気が付いていたけど、気が付かないふりをしていた。
 まあ、でもあれだ。俺はたぶん、いや間違いなく。
 惚れている。
 カカシに初めて会った時から。
 自分の事ながら言われて気が付くのも鈍いとは思う。それでも気が付いていなかったのだから仕方がない。
 それなのに、その惚れた男と俺はセックスフレンドだ。
 イルカは嘆息した。
 俺はカカシの事は好きだ。それは認める。でも、カカシは──── ?
 そこまで思って頭を振る。
 考えても仕方のない事だってある。よく分かってる。
 最初に会った時から、何を考えているのか。よく   分からない。
 結局今一緒に暮らすようになり、身体を重ねても。何も分からないままだ。
 俺って見る目、ないのかなぁ。
 ぼんやり考えていたら、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま帰りました」
 遂行してきた任務は、人に言う事の出来ない非情な内容だと言うのに。柔らかいにこやかな微笑みをカカシは浮かべている。
「お帰りなさい。お疲れさまです」
 イルカの合わせた微笑みをカカシは確認すると、うん。今日は疲れちゃった。と、零して靴を脱ぎ部屋に上がってきた。そのまま荷物を置くと着込んだ服を緩めながらそのまま脱衣所へと向かい、ドアは締められた。
 もう既に自分の夕飯は済ませてはいたが、カカシの夕食を用意する為に台所に立っていた。
「先生」
 その背中にカカシの声がかかる。背後から包み込まれるように抱き締められ、低い声はイルカの身体を痺れさせた。
 そこから気ままに動き始めるカカシの手を掴んだ。
「今あなたのご飯を用意してるの、分かってますよね?」
 そう言い放つと、まあねえ、と間延びした口調が返ってきた。
「でもさ、俺あんたとしたくて寄り道せずに帰ってきたんだよ」
 その為かよ。と心の中で呆れる。
「だからいいでしょ」
 そう言ってまさぐる手を再開させた。気ままにセックスを求めてくるのは最初から変わらない。
 あんたとしたくて寄り道せずに。
 その言葉に簡単に絆されてる自分がいるのを、カカシは知らない。抵抗しないイルカの服の中に手が侵入して、小さく声が漏れる。
「あっちでしよ」
 熱くなってきた身体をカカシは離して、寝室へと手を引く。
 カカシのセックスは。一言で言うと優しい。
 他の相手を知らないのだから、比べる事は出来ないが、想像していたのとは違っていた。
 もっと激しいものだと思っていたし、そう自分が望んでいたのもある。理由なく思っていたけど、抱かれて分かった。
 優しくされると、──── 辛い。
 その優しい愛撫や行為に心底酔ってしまいそうになる。それが怖い。無防備でいて無自覚で。残酷だ。
 カカシが揺すり上げる度に濡れた音を立てる。擦れる度に気持ちがいい。最初は痛かったし圧迫感もはんぱなかったのに。
 慣れってのはすごい。
 中を陰茎で擦られイルカは眉を寄せた。耳には水音も聞こえるけど、リズミカルな腰の動きに合わせてカカシの短く吐く息も聞こえる。閉じていた目を薄く開ければ、カカシもまた瞼を閉じていた。自分と同じように眉根を微かに寄せている。同じ快楽に呑まれていると分かっただけで気持ちよさが増した気がした。
 カカシの白い頬は上気している為、ほんのり赤い。額には薄っすらと汗をかいていた。
 夏の日差しの下にいても、激しい戦闘をしていてもそこまで汗という汗をかかない事をイルカは知っている。
 そのカカシが浮かべている汗に触れたくて右腕を伸ばしたら、ふとカカシが目を開けた。目が合った瞬間、ふわりと微笑み目を細める。
 腰を動かしながらも、ん?と軽く首を傾げながら顔が近づく。薄く開いた唇に反応して、自分の唇が開いていた。カカシの目線が自分の口に向けられたのが分かった。
 肌に触れるあの柔らかい感触が自分の口に触れたらと、何度も過ぎるが。重ねないし触れられないと知っているから、イルカはその開けかけた唇を小さく結んだ。
 欲しい。
 カカシの吐息を感じたい。強請る眼差しを向けるイルカにカカシは眉を下げた。
 腿をさらに開かされ、カカシが屈む。
「大丈夫?」
 荒い息をつきながらカカシは頭を撫でた。
 カカシはたぶん、知っている。自分が何を求めているのか。
 それを口には出さないが、慰めるような仕草に、目尻に浮いた涙を見せないように、カカシは唇を滑らせながら首元に顔を埋めた。そこから激しく揺さぶられる。
 支配していた悲しさは、溶けるような快楽に、触れるカカシの肌の気持ちよさに、どうでもよくなった。


◇◇◇


 ナルトが里を出ていってから始まった関係は、ナルトが里に帰ってきても続いている。
 飽きると思っていたのに。カカシは一向にイルカを手放す気配はない。つき合ってる訳でもないから、前兆なんてものは必要ない。だから、突然来てもおかしくないから。イルカはそう思い毎日を過ごしてきた。
(この人、一体なに考えてるんだろう)
 里一の忍びの、無防備な寝顔をじっと見下ろして、イルカは嘆息した。
 長い睫毛は髪と同じ銀色。白く綺麗な肌が月夜に照らされるカカシは彫刻のように美しい。
 この人だったらどんな女も簡単に手に入れられるだろうに。
 どうして、俺なんだ。
 なんでこんな関係を、いつまで続ける気なんだ。
「・・・・・・分からない・・・・・・」
 ため息とともに呟けば、カカシはその長い銀色の睫毛をぴくと動かす。起きるのかと思い注視すれば、そこからカカシは微かに眉間を寄せた。そのわずかな反応もすぐに消え、カカシは起きることなく、また深い眠りの中に戻っていった。


◇◇◇


 最近機嫌が悪い。
 いつも任務の事をイルカの家には持ち込むような事はなかった。機嫌が悪い事に薄々気が付いていたが、裏の感情が読めないのはいつものことで、きっと聞いてもはぐらかされるだけだと、カカシから何か言うわけでもないので、気にしないようにしていた。
 いつものように仕事を終え、商店街により買い物をして家路に着く。その帰り道に会ったナルトに買った野菜の中からサラダで使えそうな野菜を持たせた。カップ麺は減ったものの、外食で適当に済まそうとしているのには、やはり呆れる。せっかく修行して鍛えてもそれを継続させなければ意味がない、と言えば、相変わらずだな、イルカ先生は、と嬉しそうに言いながら背中を叩かれた。
 そこから夕飯の支度をしていれば、カカシもまた帰ってくると言っていた時間に、帰ってきた。
(あ、今日も機嫌悪いのか)
 イルカはテーブルにご飯を運びながら、ふと感じる。少し前だったら気が付かなかったろう、カカシの些細な感情の動きが分かるようになってきていた。
 風呂から上がり、カカシはちゃぶ台の前で腰を下ろす。ふう、と大きめのため息を吐き出すが、それ以上何も言わない。
「カカシさん、ビール」
 冷蔵庫から取り出した缶ビールをカカシの前に置く。ん、と小さく返答が返ってきただけだ。そこは珍しいと、イルカはカカシを見つめた。
「カカシさん、お疲れのようですけど、何かあったんですか?」
 イルカも席に座って、改めてカカシに向かい合いながら口を開いた。
(すっごい機嫌悪い)
 いつもイルカには見せない感情に内心驚くが、同時にかすかに嬉しいような感情も生まれる。
 暗い表情でちらとイルカを見たが、カカシはすぐに視線を外した。
「別に、疲れてない」
 冷たい言い方も、また然り。そのままの不機嫌さをぶつけられて、イルカはまた複雑な感情を抱く。
 しかし、疲れていないなら何をそんな態度をとる必要があるのか。疑問が頭に浮かぶ。並べられた夕飯を食べ出したカカシに合わせるように、イルカも箸を持ち白飯を一口口にした。
「あのさ」
 そのカカシの声にイルカは顔を上げる。
「はい」
 返事をすれば、カカシはちゃぶ台からイルカへ視線を向けた。
「親子でも何でもないのに、なんでまだ甘やかすの」
 一瞬、何を言われたのか。きょとんとした顔をイルカはしていた。が、不機嫌なカカシの眼差しを受けながらも、すぐに思い当たる。同時に何を言い出すのかとも思った。
「・・・・・・甘やかしてなんかいませんが」
 イルカの低い返答に、カカシは目を眇めた。
「甘やかしてるじゃない」
 イルカの否定にカカシも否定を口にする。苛々しているのが目に見えて分かった。
 カカシの言葉にひっかかるものを感じた。存在する繋がりに、親子ではないから、とそれを理由付けするのはおかしい。ナルトを特別視していたのは誰から見ても明白だし、それを否定はしないが。   カカシの嫌味混じりの言い方はイルカをムっとさせた。
 それをカカシは分かっているだろうが、イルカは感情を表に出さないよう努めた。
カカシはそんな事で機嫌が悪かったのだろうか。自分がナルトにしてきた事は、昔から見てきたことだろう。
 今更だ。
 苛立ちよりも疑問が上回る。
「兎に角、もうあんな風に接しないで」
 その言い方に、イルカは顔を上げていた。何を勝手な。と出そうになる。だいたい今二人の関係上ナルトどうこうなんて、関係ないはずだ。一緒に住んでいるとは言え、恋人同士でもなんでもない、俺とカカシは身体をお互い求めるだけの、セックスフレンドで──── 。
 頭で色々巡る言葉は一切口に出せなくて、イルカは押し黙って俯いた。
 言いたくても言えないストレスに、唇を噛んで箸を置く。イルカはすっくと立ち上がった。そのまま玄関に向かうイルカに、カカシが箸を置いた音が聞こえた。
「イルカ先生、どこ行くの?」
 そんな言葉を背中にかけられるが、イルカは無視した。そのまま部屋を出てどこ行くわけでもない、歩き出した。

 一人になった事で気持ちは自然に冷静さを取り戻すが。気持ちは憂鬱だ。自然にため息が零れる。
 どのくらいだ?確かここ一ヶ月か。カカシは機嫌が悪かった。それがまさか俺とナルトの事だったなんて。
 おかしい。どう考えてもおかしいだろ。
 考えも及ばなかった事に驚きがまたイルカを包む。冷静な頭で考えると可愛い焼きもちなのかもしれないが。いや、焼きもち──── ?それこそおかしい。ありえない。
 思い当たった理由に笑いが漏れた。
 情けなくもなる。もしそうなのかとカカシに聞いたところで何と答えるかなんてわかりきってる。
 そんなわけないでしょ。
 薄く軽薄な笑いで一掃するだろう。
 おれとイルカ先生の関係から考えてみたら?
 そう言われたら。言い返せない自信はない。カカシとの温度差は明白なんだ。
 イルカはため息を漏らしながら頭を振る。
 アンダーウェア一枚で下はスウェットと言う軽装で、ぶらぶら歩きながらイルカは頭を掻いた。足元はサンダルだ。
 どっからどう見てももっさい姿のいい歳した成人の男。いや、ナルトくらいから見たら、おっさんだ。
 そんな男に、カカシはどこに魅力を感じているというのか。
 カカシと一緒に暮らして。こんな服装で。これじゃ嫁さん探そうにも無理があるってもんだ。
 また一人笑いを零した。
 すっかり日が暮れ人もまばらな道を歩き続けてみても、行く当てはない。もともと、ぶつけようがない怒りを鎮める為に出てきただけなんだ。財布だって持ってきてないし。
 こうして外に出ても、帰る場所は俺にはあの部屋しかないんだもんな。
 そう、あの部屋しか。
 ずっと一人で暮らしてきた安アパート。でも今は。
 カカシが、いる。
 そう思っただけで、胸が痛くなった。胸も苦しくなる。
 食べかけてきた食卓がふと頭に浮かんだ。カカシが喜ぶと思って秋刀魚を買って、塩焼きにした。そう、一緒に食べたくて買った。
 兎に角、帰って食べよう。カカシと一緒に。
 謝るつもりもないけど、気持ちは落ち着いた。何を考えても平行線をたどるだけなのだ。もう深く考えるのはよそう。
 イルカはそう気持ちを切り替え、踵を返して、足を止めた。
 目の前に、カカシが立っていた。いるとは思わなかった。だって当たり前だけど、気配もなくて。驚きに目を丸くしたまま、ただ、カカシを見つめた。
 カカシは、少し気まずそうな顔のまま、地面に視線を落としたまま。立っている。
 手はポケットに入れたままで。まるでふてくされているようだ。
 里の至宝と呼ばれる男が。
 写輪眼の名で他国に恐れられている男が。
 きっとあの口布の下は口を尖らせているに違いない。生徒となんら変わらない仕草は自然顔を綻ばせるが、イルカはぐっと堪えてみるが。
 困ったように眉を下げてイルカは息を吐き出した。それに反応してカカシが視線を地面からイルカへ向けた。青色の右目と目が合う。その目はイルカの機嫌を窺っていた。
 それが分かって、イルカはわざとふいと顔を背けた。
 追いかけてくるくらいなら、最初から言わなければよかったのだ。二人にとっては喧嘩するような事柄に値しない、はずなんだから。
「先生・・・・・・あの」
 何を言うのだろう。カカシの言葉に、背けたままで思えば、
「ごめん。言い過ぎました」
 言われてイルカはカカシに咄嗟に顔を戻していた。カカシはしおれた感じのままだ。そんな言葉が出ると思わなくて。
 不機嫌に嫌味を言われるとばかり思っていたのに。
 素直に謝られたことで。それだけで、イルカの心がとくとく暖かくなる。誤魔化すように、イルカはふっと顔を緩ませた。
「じゃあ、帰りましょう。俺、腹減ってるんです」
 微笑んだイルカの顔を見てカカシは目を開き、そこからすぐに頷いた。
「秋刀魚、冷めちゃってますよね。温め直しましょう」
 そう言って歩き出す。カカシも黙ってその後に続いた。
 カカシの気配は、イルカのすぐ後ろにずっと感じる。確かなカカシの気配は、イルカを落ち着かせる。
 でも。それが、ひどく馬鹿馬鹿しい。
 イルカは夜道をカカシと歩きながらぼんやりと、思った。


◇◇◇


 不安定だ。一言で言うならば。
 途端に増えた雑務は通常業務を平然と超える仕事量だった。平穏ながらその背景に見え隠れするそれは、不安となって底辺に潜んでいた。だが、俺の歳やそれ以上の年齢の忍びは目の前の仕事に没頭するだけと、知っていた。戦争を体験したものならば、恐怖や不安に駆られる必要がないと感じるからだ。
 いや、そうせざるを得ない。
 それから受付にいる自分に届いたのは、アスマの逝去の報せだった。奥歯をぐっと噛む事しかできなかった。
 三代目の息子であり里の上忍であり、何より自分の元生徒の上忍師だった。どの班よりも子供たちとの絆が深かった。
 アスマの死が、自分の中で薄々感じていた不安と言う名の闇に拍車がかかりそうになり、イルカは必死で感情を押し込もうとすることしか出来なかった。
 紙一重だ。
 これが、いつカカシになっても────おかしくない。
「イルカ、行かないのか」
 受付で呆然と座っていると、声をかけられた。
 アスマの葬儀がもう、始まっている。
 イルカは軽く頷いた。
「ああ、行く」
 その言葉に背を向けた同僚を見送り、座ったまま、俯く。眉間に皺を寄せた。
 この受付にも、もうイルカしか残っている者はいなかった。きっと、アカデミーに残っている者もいないだろう。それだけ、アスマが慕われていたのだと物語っている。
 行かなきゃ。せめて最後尾にでも。
 イルカはふらりと立ち上がった。

「しばらく来ないでください」
 カカシにそう伝えたのは葬儀が終わって暫くしてからだった。今までそういう言葉は避けてきた。言った事もなかった。だって、そう言ったら、本当にカカシは来なくなって、他に女を作るのかもしれない。別の人間を抱くのかもしれない。その不安を口に出すことがなかった。
 裸で、事後シャワーを浴びた後、イルカはタオルで髪を拭きながらそう伝えると、カカシはきょとんとした顔をした。
「なんで」
「ちょっと、忙しいからです」
 曖昧なイルカの答えに軽く頷くのは、毎日右肩上がりに増えていく業務に忙殺されているのに気が付いているからだろうか。何も自分には話さないが、カカシもまた同じはずだから。そこから、カカシは笑った。
「俺は諦めてるけどね」
 そう言うと肩をすくめた。
「でもたまにはいいでしょ?」
 カカシはあらかた乾いた髪からタオルを離すと、ベット脇に置く。そこから新しい制服を着込み始めた。さっき任務から帰ってきたカカシは、またすぐに仕事に出ると言った通りだった。しばらく前から、頻繁に時間に関係なく仕事に追われている。
 諦めていると言うカカシの言葉に感じる胸の苦しさに、何も返さないで俯いていると、カカシは手甲をはめながらイルカをじっと見た。
 何かに耐える様にじっと押し黙るイルカを静かに見つめて、額当てを付ける。最後に口布を深く上げた。そこでタオルを首に巻いたままのイルカの前までくる。
 ぽんと、手を頭に置かれ、イルカはそこでカカシへ顔を向けた。
 青い右目がイルカを見つめている。カカシはイルカの頭をゆっくりと撫でた。驚き肩をすくめるも、カカシはやめない。
「なに、」
「だからイルカ先生も諦めたら?」
 イルカは眉をひそめていた。
「諦めるって、何を」
「考えてたって何かが変わるわけじゃないって事」
 だってあんたはやたら深く考え込んじゃうじゃない。
 眉を下げて言われて、イルカはきつく眉根をよせていた。
 そんな事言ってるんじゃない。そんな事じゃない。
 この家業、どうしたって死人が出る。防ぐことなんて皆無だ。それは、幼い頃から忍びとして身体に、頭に沁み込ませてきた。
 イルカは頭を振った。
「ちが・・・・・・」
「違うって?何が?」
 聞かれてまたイルカは口を閉じた。奥歯に力を入れる。黙ったイルカに青い目がその表情を追う。
「なーに、またそんな神妙な顔なんてしないでよ」
 また頭を撫でられ、イルカは頭を振った。暖かい  カカシの手が。ぬくもりがイルカの胸に突き刺さる。
 自分がどこまで想っていても、この人はどこまでも変わらない。女みたいに駄々をこねるみたいな自分に、優しく頭を撫でられ、その手がゆっくり離れた時、抑えきれない感情が湧きあがった。
「俺は・・・・・・あなたと離れたくない」
 口から零れていた。
 カカシが目を丸くし、食い入るように見つめる。イルカはその目をしっかりと見つめ返した。心臓がばくばく跳ね、全身が震えた気がした。
 カカシは瞬きをする。
「・・・・・・おかしなこと言うね。あんたさっきしばらく来ないでって、」
「仕方ないじゃないですか」
 イルカはそこで言葉を切って、苦しそうに眉を寄せる。
「離れたいけど、離れたくないんです」
 カカシの表情が微かに神妙な空気を含んだ。イルカはじっとその表情を見つめた。カカシはいつも茶化すし、飄々としているが、カカシは鈍いわけではない。決定的な言葉を言わなくても。何を言っているのか、どんな意味なのか。この人はわかっているはずだ。
 カカシの目は、すっとイルカから外される。ため息の様な笑いが漏れた。
「何言ってるの?冗談やめてよ。だって・・・俺らはそんな関係じゃないでしょ?」
 鈍い痛みがしっかりと身体に入り込む。
 ──── 断られた。
 いつか伝えなくてはいけないと思っていた。その想いは、情けない。自分だけだったと気づかされる。
 でも。もしかしたらと、思ったんだ。
「・・・・・・お気をつけて」
「・・・・・・はい。じゃ、行ってくるね」
 柔らかい笑みに胸が痛んだ。すっと伸ばされた手が、また自分の頭に触れる。そう分かった時、カカシの手を振り払っていた。
「やめてください」
「なに、先生」
 不思議そうな顔をされ、その表情に苛立ちと虚しさを覚える。
「中途半端に優しくするな」
 言い放った言葉に、カカシの表情が固まった。
 なんで、みたいな顔するな。
 イルカはカカシを睨んでいた。
 だから、もう。出てってくれ。
「ここには二度と帰ってこないでください。──── ご武運を」
 そう言い捨て、ふいと背中を見せたイルカの腕をカカシが掴んだ。反射的に振り払おうとしたのに、力を込められ動かす事が出来ない。ものすごい力に、 ぎし、と骨が痛みイルカは顔を顰めた。
「離せ・・・・・・っ」
「だったら、さっきの。前言撤回して」
 カカシが間近から覗き込む。カカシの必死な顔に、眉を寄せた。
「ねえ。帰ってこないでなんて、言わないで」
 押し殺した声に、思わず怯みそうになる。更に強くなった腕力に痛い、と声を漏らせば、その手から解放された。力の抜けた表情のカカシはふっと小さく微笑んだ。
「撤回、しないの?」
 バカバカしい。カカシの台詞に笑いたいのに泣きたくなる。
 黒く強い眼差しをカカシに向けた。
「馬鹿にするな・・・・・・っ」
 カカシの顔から表情が消える。そこから、目が細められた。
「馬鹿になんてしてないよ」
「・・・・・・っ」
 それだけ言って、カカシは窓から音もなく姿を消した。
 カカシがいなくなった部屋で、作った拳に力を入れる。
 イルカは瞼をぎゅっと閉じた。
 笑ってるのに。何であんな悲しそうな顔なんて。
 ──── まるで自分が悪いみたいじゃないか。
 苦しさから逃れたく息を吐き出しても、じくじくと嫌な痛みが胸に広がるだけだった。


◇◇◇


 あれからカカシはぴたりと姿を見せなくなった。
 そりゃそうだ。自分が別れを告げたのだ。
 でも、納得している風でなかったから。俺が言った事を無視してふらりと姿を見せるのかとも思ったが。
 夜中、物音が聞こえると目を覚ましてしまう。もしかして、と思ってしまう。
 自分から来るなと言ったのに。
 俺の事は結局、特典か、退屈凌ぎのお遊びくらいだったのだろう。
 そうだ。きっとそうだ。
 俺の気持ちは伝わり、彼はそれを退いた。その事実は変わらない。
 拒絶された事実。
 それなのに、考えるのはカカシの事ばかりだ。諦めの悪い自分が馬鹿らしい。


 イルカは走っていた。
 朝アカデミーに向かう時に見ていたはずの見慣れた景色が、街並みが。ことごとく崩れ落ち、煙が上っている。酷い状況だ。
 警戒はしていたが、予知していなかった。敵さえ見えないのに、あちこちでは一般の人間が逃げ惑う声と爆発音が遠くでも近くでも、イルカの耳に入る。
 心音は高鳴り緊張はしていたが、頭の中では冷静だった。走り抜けながら、指示されたポイントまで走る。
 目に入る状況に、イルカは屋根上へ飛びながら舌打ちした。


 その日の朝もイルカは走っていた。
 目を覚ました時刻が遅刻ギリギリで。遅刻なんて滅多にないからか、この心に出る焦りは今まさに前を走っている子供の心理状況に重なるな、と思わず苦笑いを浮かべながら。少しスピードを速めて子供の後ろにつく。
「ほら、その走りはなんだ」
 後ろで聞こえた声に、アカデミーの生徒が走りながら振り返り、ぎょっとした。
「げっ」
「げ、じゃないだろ!そのスピードじゃお前完全に遅刻だ。前向け、前」
 イルカに意識を取られ過ぎる走り方に注意をすれば、なんだよ、とぶつぶつ言いながら、口を尖らす。
「ほら、ついてこい」
 このままじゃ本当に遅刻になりかねない。イルカは促すように建物の屋根へ飛んだ。
「あ、待ってよ先生!」
 顎と目で指示をして、飛躍を繰り返す。どうやら集中力を高めたようだ。的確なポイントに着地点を置くようになっている。イルカはその横に並んだ。
「今日はなんでこんな時間になった」
 この生徒にしては珍しいのは本当だった。
 暫く無言のあと、生徒は口を開く。
「朝練を増やしたんだ」
 増やす。自分の思っている中では成績だって悪くない。優秀な方だ。それをあえて口にはださないが、
「お前が増やすなんて意外だな。理由はあるのか?」
 横目で窺う生徒の顔に笑顔が消えた。
「強くなりたいから」
 それだけ。
 その一言に、強さを過剰に求める傾向が生徒にあると分かっていたが、こいつもそうだったとは。
「早く一人前の忍びになって、戦いたい」
 イルカは生徒の身体を掴んでいた。うわ!?と驚く声と共に、なにすんだと抗議の眼差しを向けられたイルカは、地面に着地すると生徒を降ろした。
「なんだよ、遅刻じゃねえのか、」
「いいから聞け」
 イルカは腕組みして生徒を見下ろした。
「忍びになるからには戦う事が責務だ。だけどな、それだけじゃないだろ」
 生徒の顔が、悔しそうな表情に変わった。
「戦わなきゃ忍びじゃない。だって今木の葉が襲われたらどうすんだよ」
 不安がアカデミーの生徒まで浸透している。事実生徒の親もまた中忍、上忍の親がほとんどだ。何も知らないはずがないか。イルカは表情に出さないが、嘆息した。自分の子にも戦えと、伝えているのか。
「戦わない事も、また戦い方の一つだ」
「逃げろって言うのかよ」
「そうだな」
 信じられないと、目を丸くする生徒を見て、イルカは微笑んだ。
「退くのも、逃げるのも、それも立派な戦術だ。今までの授業でも言ったはずだろう」
 生徒は口を結んで地面へ視線を落とした。
「忘れたのか?いいか。戦争になったり、ここが他の忍びに襲われた時、いつも被害や迷惑がかかるのは、一般の人達なんだ」
 だから、お前のやるべき事はそれじゃないんじゃないのか。
 生徒に言いながら。九尾に里が襲われた事が、フラッシュバックした。自分も戦わなくては、と躍起になり。でも、結局は──── 。


「先生!」
 その声に我に返った。
 アカデミーの生徒数人がチームで別れていたが。朝会話をした生徒が他の生徒と一緒になって屋根にいるイルカを見上げている。
「先生、俺ら、ここの住人を誘導して一緒に避難するから!」
 決意に満ちた目を見て、イルカは頷く。早く行け、と促した。

 目的地間もなくという場所で、爆発が起きた。上忍が倒れているのを目にし、下に降りる。瓦礫で負傷していた。
 すぐに底冷えするような気配に振り向いた。その風貌から、自分に向けた台詞から、状況を一気に理解する。
 内心可笑しくなった。
 馬鹿だな。俺が、木の葉がそんな情報漏らすわけがない。
 そこで繋がる自分の未来にも、可笑しくなった。
 ああ、そうだった。カカシの死を、彼が自分からいなくなるのを。怯えていたのに。自分も忍びだ。死が、直ぐ近くにあってもおかしくない。
 あんな別れ方、しなければよかった。
 振り下ろされる相手の手を、ただ、見つめるしか出来なかった。


◇◇◇


 何もかもが吹き飛ばされた。
 アカデミーは勿論、壊滅的な被害から、急ピッチで復旧しようと、毎日瓦礫の撤去作業に追われる。
 イルカはその作業に没頭していた。
 結局、あの時カカシに助けられ、──── このペイン来襲で危篤状態に陥ったと、今日噂に聞いた。
 陥ったと言う事は、助かったと言うことだ。
 回らない頭で、それだけは、分かった。

 なにやってんですか、カカシさん。

 汗を流しながら心で呟く。
 関係も、なにもなくなったから、考える必要がないのに。会いたくて仕方がない。気になってあたり前だ。あんな助けられ方をして。その後の状況を聞かされりゃ、こうなるに決まってるだろ。
 もしかして、自分を助けたのもカカシの作戦で、
 そこまで思って首を振る。
 里が壊滅的に被害受けてるのに、何考えてんだ、俺は。
 自己嫌悪が増して、気分が悪くなる一方だ。それでも、身体を動かさないと、おかしくなりそうで。

「うみのイルカさんですか?」
 汗まみれの顔を上げると、配達忍が立っていた。
 そうか、連絡網として、ここだけは機能しているのか。イルカは首にかけたタオルで汗を拭い腰を上げた。
「はい、私ですが」
 返答すると、その配達忍は一通の封筒をイルカに見せた。イルカはそれを反射的に受け取るが。忍びが扱う封書ではない。イルカは眉を顰めた。
「あの、これは・・・・・・」
 忍の手紙は、機密の問題から内容に名を記さないことが多い。
 でもこれは、一般的な封筒でしかなく。でも、封筒を裏返しても、差出人の名前さえ書かれていない。素直に問うしかなかった。
「はたけカカシさんからです」
 若い配達忍びは、はっきりと、口にした。


◇◇◇


 自分のアパートは、里の隅にあったからか。そのままを保っていた。ただ、電気も水道も、当たり前だが復旧するに日数を要した。それもあり、アカデミー近くに臨時で設置された宿舎で寝泊まりをして、寝る間を惜しんで働いていた。
 だから、このアパートに帰ってきたのは、いつぶりか。着替えを取りに帰るだけで、寝に帰るのは久しぶりだ。
 ライフラインは復旧している。だけど、イルカは部屋の電気をつける気にはなれなかった。
 荷物を部屋にどさりと置いて、イルカは床に腰を下ろし、胡坐をかいた。
 ベストのジッパーを下ろし内ポケットから取り出した手紙を、じっと見つめた。
 あの場で、封を開ける事が出来なかった。
 大体、カカシが。あのカカシが、ペンを持ち、自分に手紙を書く姿なんて想像もできない。ましてや内容なんて、もっとだ。
 でも書いたから、これが今自分の手の内にあるわけで。
 カカシが自分に。ただそれだけの事は、イルカの心を簡単に熱くさせた。
 ゆっくりと、封筒を指で擦るように触れた。
 イルカは胡坐から正座へ座りなおした。
 怖い。
 胸が熱くなるのとは対照的に、イルカを支配しているのはそれだった。
 情けない事に、開ける勇気がない。かといって、そのまま読まずにゴミ箱に投げる事も出来ない。
 それに、カカシはこれを俺が開けると思ってるから、書いたんだろう。
 またそこからしばらく、封筒をじっと眺めて。
 深く深呼吸すると、震える手で、封を開けた。
 眉根を寄せる。
 ──── 中は、何もなかった。
 空の封筒には、どう見ても、何も入っていない。
(・・・・・・空って・・・・・・どういう意味だ?)
 もう一度、念のために、封筒の中を見た。やはり、何もない。
 疑問符が頭に浮かび、やがて抜け落ちる緊張感と戸惑いと苛立ちに、またイルカは眉を寄せていた。
 何も入ってないって。
 馬鹿にしてる。
 この封筒を、どれだけ開けるのに時間がかかったと思ってるんだ。何も入ってない封筒を胸に、手につかない仕事を必死でこなしていた自分が間抜けにしか思えなくなる。
 本当に、どこまでも人を馬鹿にしてる。
 ため息を漏らした。
「・・・・・・ふざけるなよ」
「ふざけてなんかないですよ」
 正座をしたままのイルカの身体が揺れた。息をつめ、声が聞こえた方向へ顔を向ける。
 部屋が暗い分、窓から入る闇夜が部屋を照らしている。窓枠に座るカカシの背後もまた、照らされてた。
「・・・・・・カカシさん・・・・・・なんで・・・・・・ここに?」
 目の前にいるのがカカシと分かっていても。目の前にある光景に、イルカの反応は薄い。そこから瞬きを何回か、した。
 露わな右目が、そんなイルカをじっと捉えていた。
「・・・・・・なんの御用ですか」
 驚きを隠すように、冷えた声がイルカから出ていた。カカシはそれをジッと見つめて、ふっと笑いを零した。
「いやね、それ。何も入ってないの見たらきっとあ なたは怒るんだろうなあ、って思って配達忍から取り返そうと思ってたんですよ。でも遅かった」
 軽い笑いに苛立ちがじわじわとこみ上げる。
 その様子もまた、カカシは静かに見つめ、下足を履いたまま、音なく床に降り立った。
「書こうと思ったんです。でも、結局書けなかった」
非難の声を浴びせようと口を開いた時、カカシがぼそりと呟いた言葉に。口を軽く開いたまま、その先を待った。カカシは容認されたと続ける為にか、人差し指で口布を下ろした。
「俺はね、先生。──── いつからか、幼い頃から、人生のある時点で、本当の自分を見せるよりも、自分に嘘をついているほうが楽に生きられるようになった」
 たぶん、初めて見るカカシの表情に、言葉に、イルカはただ見つめるしかなかった。
「俺の本当の姿は、誰も知らない。そんな状態が続くほど、より安心できたんです。心の壁が作られたから。あなたの壁と同じように」
「・・・・・・俺は・・・・・・相手の事を信用できれば壁はなくなります」
 カカシは微笑みながら頷いた。
「うん。あんたはそうだよね」
 なんだろ、ちゃんと向き合うとなんか調子狂うな、やっぱり。
 そう言いながらカカシは眉を下げて笑った。
「手に入れる為に傷つく覚悟があるか。──── あんたに二度と帰ってくるなって言われて・・・・・・ずっとそれだけを自問してきました。でも、今回のペイン戦で気が付かされた。まだ、死にたくないって、ね。今までどんなに死と背面してても、・・・・・・まだその状況は変わらないけど、そう思った」
「・・・・・・なんでですか・・・・・・?」
「帰ってきたかったからです」
「帰るって・・・・・・」
「イルカ先生、あんたに会いたかったから、です」
 照れくさそうにカカシは笑った。
 胸が、痛い。詰まる思いに苦しい。心地いい、甘い痛み。
「・・・・・・なんでですか?」
 まだ言いますか、とカカシは困った顔をして頭を掻いた。
 そのままイルカが座っている前まで歩き、しゃがみ込むと目を伏せながら顔が近づいてくる。
 そこで、唇が重なった。
 初めて。
 固まったまま、動かないイルカを覗き込む。
「あんたが好きだ」
 カカシの声。それがはっきりと、イルカの耳に届いた。
「ここは俺の帰る場所だよね?」
聞かれて、イルカの唇が微かに震え、開く。
「・・・・・・なんだ・・・・・・」
 宙に浮かんでいた視線をカカシへ向けた。
「俺たち、両思いだったんですね」
 イルカの台詞に、カカシはにっこりと笑みを浮かべた。


カカシがイルカの身体を弄りながら、小鳥が啄むようなキスを降らせる。いつも以上に熱く感じるカカシの肌と触れる度に、それだけで胸が苦しくなった。
 好きだ・・・・・・愛してる・・・・・・好き・・・・・・
 囁きは溶け、脳に、身体に染み込むように。喜びで震えた。カカシの熱が慣らされた場所にゆっくりと埋め込まれていく。
「気持ちいい・・・・・・っ」
 イルカを両肘で囲うようにして、カカシがうっとりと声を漏らした。切なげに眉を寄せていたカカシが、ふと緩やかに微笑んだ。
「あんたは嬉しいと泣くんだね」
 言われて、初めて自分が泣いている事に気がついた。
「違います、これは気持ち良くて、」
 言葉に逆らうように、熱い涙がいくつもこめかみを伝う。カカシが優しく頭を撫でた。
「はいはい、そういう事にしておきましょうね」
 言ってゆっくりと動き始める。擦れる場所が気持ち良いのは事実だった。
「・・・ぁっ・・・はっ、・・・ん・・・っ」
 喘ぎながらイルカはカカシの首に腕を絡めて引き寄せた。
 吐息さえ愛おしい。口づけしながら思った。


 朝、起きたらカカシが横で寝ていた。相変わらず無防備な寝顔を晒しているなと思いながら時計を見る。復興途中に決まった仕事はないが皆が動き出している時間だ。この幸せに浸っていたいが、そうもしていられないのが、現状だ。
 イルカは枕元に時計を置いて起き上がろうとしたら、腕を掴まれた。カカシが目を開けてイルカを見上げている。
「まだ寝一緒に寝てよーよ」
 甘えた声にイルカは小さく笑って、カカシの布団をポンポンと叩いた。
「そんな事してる時じゃないってあんたは知ってるでしょう」
 それを証拠に、復興の音がこの里の端にあるアパートにも聞こえてくる。それでも腕を離そうとしないカカシが、
「まあねえ」
 間延びした言い方で、寝転んだままイルカを見つめた。
「あんたは俺の恋人だって分かってる?」
 悪戯に探るような目に、イルカは一瞬目を丸くしたが、すぐに笑って白い歯を見せた。
「六時間前にあれだけセックスしておいて、何言ってるんですか」
 そう言えば、ぽかんとした後、ゲラゲラと笑いだした。
「あんた最高。大好き」
「それも今更です」
 イルカは言って離されそうになったカカシの手を逆に掴み、引っ張る。
 さあ、木の葉を復興させますよ。

 見上げるイルカは、眩い朝日の光を背負っている。今の木の葉を象徴するようで。
 ──── ああ、この人には敵わない。
 明日も明後日も、この先も。この人と生きたい。
 カカシは繋いだ手を握ったまま、嬉しそうに目を細めた。



【終】
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