絆される

 やっちまった。
 真っ暗な夜道で一人佇みながらイルカは力なく目の前の扉を見つめる。ぎりぎりだと思ったのに。そうだ、受付の建物を出た時はまだ間に合う時間だった。そこから全力で走り、到着したのは閉店数分前。だから間に合っているはずだったのに。ということは。あの受付にある時計が五分くらい遅れていたんだと推測出来るが、もはやそんな事を悔いていてもどうしようもない。
 分かることは一つ。
 食いっぱぐれた。
 ここ数週間、休日もほぼなく残業ばかりで、たまの休みだと思えば急病で夜間の受付にまわされて。そんなんだから家に帰ればくたくたで買い物なんてろくに行く時間だってなくて。残り一個だったカップラーメンも昨夜食べてしまった。
 そう、だから。家には食べ物が何もない。
 今日はチャンスだと思った。急げば間に合う。ぎりぎりで店に入り、味噌ラーメンの大盛りを頼んでスープ一滴も残さず食べる。
 そんな事を頭に描きながら残業を必死に終えたのに。
 脱力感にイルカは思わず溜息を吐き出した。
 怒りはない。少し前に上のじじい共は中忍を使い廻しすぎると上忍であるアスマが同情の言葉を口にした事があるが、自分は中忍で、中忍である故に、正直仕事に不満はない。
 仕方ない。
 それは分かっている。
 教壇の上で自分が日々常々子ども達に言っているように、分かっているのに計画的に行動出来なかった自分が悪いんだ。
 そう、だから仕方ない。
 帰ろう。
 脱力感でだらりとたれた鞄の紐を肩にかけ直した時、
「何してるの」
 直ぐ後ろで聞こえた声にドキッとした。振り返るとそこに立っていたのは銀髪の上忍で、こんな近くにいたのにも関わらず気配を察知出来なかった自分に情けなくもなるが、相手がカカシに至ってはこれが初めてではなかった。声をかけられたことさえ片手で数えるくらいしかないが、里内なんだから普通にしてろよ。なんて自分が空腹のあまりその気配を察知出来なかった自分のふがいなさを目の前の上忍に向けてみるが自分が驚いた事には変わらない。どちらかというとこんな時間に閉まっている店の前で突っ立っている方がおかしい。
「お疲れさまです」
 そうだ、こんなとろこで立っていたって仕方がない。
 イルカはおずおずと頭を下げ、家に向かって歩きだそうとしたのに、
「どうかしたの」
 再び声をかけられイルカは困った。
 どうかしていない。どうかしていないが食いっぱぐれたことをカカシに説明する気はないし。それをこの人に説明したところでどうとなるわけでもないから。あー、いや、と苦笑いで言葉を濁すと閉められた店へカカシが視線を向けた。
「どこも閉まるの早いもんねえ」
 飲み屋だったらともかく里が二十四時間稼働していようと飲食店は閉まるのが早く、しかも飲み屋は今日は定休日だ。どこか同情を含んだカカシの言葉に、恥ずかしくもなった。それでもイルカはまた苦笑いを浮かべるしかなかった。ええ、と曖昧に頷くが、それを分かっていて尚買い物をしていなかった自分が悪い。だから帰って何か食べれるものを探して。なかったらなかったでさっさと大人しく寝てしまおう。空腹もあるが疲労だって溜まっている。
 兎も角理由を察してくれて良かったと再び歩き出そうとした時、
「俺の家来ますか」
 言われてイルカはぎょっとした。
 冗談だろうと思ったが、カカシは笑っているわけでもなくそのいつもの眠そうな目はそんな風には見えない。いつもの淡々とした口調に意図が掴めず、イルカは再び困った。
「いやっ、そんな、めっそうもないです。大丈夫ですから」
 慌てて笑顔を作って手を振る。
 いくら腹が減っているからって上官の家に上がり込むなんて聞いたことがない。それに空腹に耐えるのも忍びであればそんな状況にいつなってもおかしくはないわけで、要は必要な事だ。 
 そんな言い訳紛いの事を頭に浮かべて断れば、カカシは、そうですか、と答えた。
 引き下がってくれた事にホッとしたのに。
 その直後、大きな腹の音が暗闇に響く。
 空腹で胃がからっぽであればあるほどその音は良く響き。
 クソみたいなタイミングで鳴った自分の腹の音に大きなショックを受けるが後の祭りで。
 カカシは少しだけ驚いた顔を見せた後、ははっと笑った。


 本当にいいんでしょうか、と申し訳なく口にするイルカにカカシは、どーぞ、と気にする事なく玄関の扉を開けた。
 こんな事になるなんて聞いてねえ、と自分の不甲斐無さに落ち込み後悔しながら内心ツッコむも、そんな意地になることないでしょ、なんて言われたらそれ以上断れなかった。
 意地になっているわけじゃない。自分が招いた事だから断って当たり前だ。なのに。
 誰だって腹が減るんだから。
 そんな言葉で一笑された。
 こんな会話が出来る人だったんだな。
 どんな想像もしていなかったが、あまり繋がりもなかったから、カカシの優しさに胸打たれる。
 部屋が広く感じるのは物が少ないせいか。
 同期の家に行ったりもするが、ここは上忍の家でしかもあのはたけカカシの家だ。こんなつもりじゃなかったのにと、そんな思いが勝り、居心地の悪さに突っ立ったままでいると、ベストを脱いだカカシがこっちを見た。
「楽にしていいよ」
 そうは言っても。こんな状態で落ち着けるわけがない。ひきつった笑いを浮かべながらイルカは促されるままに椅子に座った。
 普段カカシは生活の匂いはしない。同じ釜の飯を食うとは多少違ってはいるがそれに似たようなもので、里屈指の忍びであろうとも同じ忍びなのだから生活環境は同じであるはずなのに、カカシからそれを感じることがなかったから。イルカは部屋をぐるりと見渡した。自分の家よりは物が少ないが、カカシが普段生活をしている部屋には間違いがなかった。開け放たれた奥の部屋は寝室か。
 案外普通なんだな。
 失礼な事を思っていれば奥の部屋から姿を見せる。
「何でもいいよね」
 腕まくりをしながらそう言われイルカは慌てて立ち上がった。部屋に上げてもらった挙げ句に作ってもらう訳にはいかない。
「あ、俺がっ、俺がやりますっ」
「イルカ先生が?」
 どんな意味なのか分からないが眉を下げながら言われ、失礼な、と思わずムッとするが、料理が得意じゃないのは事実だ。
「有り難いけど一人の方が勝手が良いし。あっちの部屋で待っててくれる?」
 言われてそりゃそうだとイルカは納得する。料理が得意でもない上に初めて立つ台所で自分になにが出来るのか。
 意気込んだところで。どう足掻いてもカカシと自分の立場は変わることはないから。
 イルカは素直にカカシの言葉に従い居間に移動した。
 

 そこまで時間がかかるわけでもなく、テーブルには野菜炒めと煮魚、それに白飯が並べられバランスがとれた食事をイルカは綺麗に平らげた。
 美味くないはずがない。
 ご飯一粒も残さず食べたイルカは手を合わせる。御馳走様でした、美味かったです、と丁寧に頭を下げれば、そりゃ良かった、とカカシは笑った。
 空腹のまま寝ることしか考えていなかったから、美味い料理を食べることが出来て、満腹になれるなんて夢のようだ。有り難くてただただ頭が下がる。それに、煮魚を食べたのは久しぶりだった。
「魚が食えるなんて思ってませんでした」
 素直に腹を摩りながら感動して言えば、ああ、とカカシが相づちを打つ。
「買える時に買って捌いて冷凍しておけばいつでも食べれるから」
 魚は好きだが、自分は基本肉料理で魚は家で調理さえしたことがないから、イルカは思わず、はあ、と感心の声を漏らした。
 計画的に家に食料を保存しておくことは頭にあっても、基本乾麺や缶詰ばかりで魚は目から鱗だ。
 とは言っても自分の性格上、それを実行するまでに至るかどうか。すでに見えている自分の行動に内心呆れもするが、人間は簡単に変われない。
 しかし、買いだめの量は増やしておかなきゃな。
 上忍であるカカシにご馳走になったのだからそれだけは肝に銘じておこう。
 腹が満たされ満足しながら、空になった皿を片づけるべく席を立てば、いいよ、と言われ流石にイルカは首を横に振った。上官に飯を作って貰った挙げ句片づけもせず帰るなんてことはできない。
「しかし、ご馳走になって何もしないなんて、」
「いや、してもらうよ」
 平然としたその口調にイルカは動きを止める。
 どういうことだと視線を向けるイルカにカカシは立て肘をついたまま、にっこりと微笑む。
「あんたの身体で払ってよ」
 事もなげに、そう口にした。


 まだ夕餉の匂いが残る部屋に、イルカの笑い声が響いた。
「何言ってんですか」
 冗談も言っていい冗談と悪い冗談があるが、今のは明らかに後者だ。ただ幸い場も和んでいたからイルカは笑う。カカシもそんな冗談を言うんだと感心したのに。
「いや、冗談じゃないよ」
 否定されてイルカはまた笑う。
「いやいやカカシ先生、」
「だから冗談なんじゃないって」
 笑って済まそうと思っていたのに何回も否定され、そこで明らかにおかしいと気がつく。
「え、冗談じゃ、」
「何で俺が冗談なんか言うの?」
 その言葉にカカシに目を向ければ、そこにはなんにもおかしくなんかないといったそんな顔のカカシがいて。イルカはそこで言葉を止めた。
 それでもどうにか言葉を繋げようと、えっと、と口を開く。
「それは、どういう、」
 何が言いたいのか分からない。冗談じゃなかったら何なんだと、説明を求めるイルカに、だから、とカカシは肩肘を解いてこっちを見る。
「お礼に俺とセックスしてって言ってるの」
 その言葉は一気にイルカの理解を越えた。
 冗談もさる事ながらその明け透けな言葉にイルカは思わず固まる。もはや自分の理解しようとする域を越えている。がしかし自分も忍びだ。今は薄れてきたものの、昔くの一が少なかった頃、同性であっても夜伽など相手をする事があったと聞いたことはあるが。それは一昔前の話だ。いや、それとも自分が知らないだけで今も尚続いていることなのか。それにカカシは昔暗部だったと噂で耳にしたことがある。
 止まってしまった思考を必死に動かしカカシの言った言葉を理解しようと努めるが。どう答えたらいいのか。必死に頭を回転させながら、ゆっくりとカカシへ視線を戻す。
「あの・・・・・・じゃあ、俺は女体化すればいいってことでしょうか」
 それが自分なりにカカシの考えを汲んだ言葉だった。でも、カカシはその台詞を聞いて、何で?と笑った。
「何であんたが女体化する必要があるの?」
「え、いや、だって、」
 言い淀むと、あのねえ、とカカシが頭を掻く。
「俺は別に女に困ってないよ。あなたとシたいって言ってるの」
 分かる?
 分かんねえよ。
 即答したいが、それをイルカは何とか堪える。
 女に困ってないのは重々知ってる。俺らみたいな内勤の中忍の中には自分の低い能力を棚に上げてカカシのようにモテる上忍を僻んでるヤツだって少なくない。それに、上忍なんて変態の集まりだって思っていたが、そのまんまじゃねえか。こんなの、部下に質の悪い冗談を投げて反応を見て楽しんでいるようにしか見えない。
 断ろう。相手があのはたけカカシでも、ノーと言える部下だってここにいるんだと、分からせないと。
「あのっ」
「お礼せずに帰るつもり?」
 勢いよく口にした言葉はあっけなく止められる。
 お礼。
 その言葉はイルカに重くのしかかった。
 あの時カカシが声をかけてくれなかったら、空腹のままだった。
 カカシも自分と同じで独身で一人暮らしの身だから、そこまで期待はしていなかったけど、飯は美味くて。人の手料理を口にしたのも久しぶりだった。空腹なのを知っていて、白い飯を大盛りに茶碗に装ってくれたのも嬉しかった。
 そう、本当に嬉しかった。
 黙ってしまったイルカの手にカカシの指が触れ、握られ。顔を上げればカカシの視線とぶつかる。
「お礼、してくれるよね?」
 微笑むカカシをイルカは答えることが出来ずに見つめた。

 黙っていれば手を引かれ、奥の部屋につれていかれる。
 そこは想像していた通り寝室で、机とベットが置かれていた。ベットを、布団を見ただけで、心音が高鳴る。
 ベットに座らせられてもイルカは落ち着かなかった。
 なんでこんな事になったんだろうか。
 逃げ出したい気持ちに駆られる。ただ、逃げても押さえ込まれることは簡単に想像出来た。そもそも家に上がった時点でアウトなのだ。
 顔見知りだからと言って迂闊な行動をした自分を悔いるが遅い。
 でも、ついさっきまではあんなに楽しく飯を食べて幸せだったのに。なのに、ご飯を食べてからその後の展開についていけなさ過ぎて、さっきの気持ちが幸せだった分花が萎むような気持ちに、しゅんとなっていくのが分かった。こんな状況、考えもつかなかった。
 大体、もっと可愛いくの一ならまだしも、こんな自分を押し倒して何が楽しいんだろうか。
 いや、とそこでイルカは自分の考えを否定する。女性相手にこんな事していたら最低だ。弱みにつけ込むようなこんな酷い手口。そうだ、腹を減らした部下を見つけて上手い言葉で家に誘い飯を食わせてこれは酷い。もしかして今回いたのはたまたま俺で、この人いつもこんな事してるんじゃ、
「そんな顔しないでよ」
 気がつけばベットの前にしゃがみ込んでいたカカシがこっちを見ていた。顔に出てしまったのか、どんな顔をしてしまったのかは知らないが、蔑むような目でカカシを見てしまっていたんだろう。言われてイルカは思わず否定しようとしたが出来なかった。
 ね?とカカシが手を伸ばし、指で優しく頬を撫でる。
 優しく撫でられた分、更に気落ちする。胸が痛んだ。
 憧れなんてこんなものなのか。
 自分たちの世代でカカシに憧れていないものなんていない。幼い頃は火影に憧れもしたが、他国に名を轟かす忍びに憧れが向き、それはカカシだった。
 そんな人が自分の生徒の新しい上忍師となると聞いた時、嬉しかった。もっと雲の上の存在だと思っていたから。実際に中忍試験の直前に揉めてからろくに会話をすることもなかったが、あれは自分が悪いと思っていた。ナルト達から話を聞けば聞くほどいい師である事が伝わった。
 それなのに。
 悔しさがこみ上げるものの、怒りより悲しくなった。
 そう、湧き上がるのは怒りなんかじゃなく悲しみで。イルカは顔を上げると自分の頬を撫でるカカシの手を勢いよく掴んだ。
「カカシ先生、こんな事はやめましょうっ」
 決意強く言葉を口にすれば、カカシはイルカの言葉を聞いてきょとんとした。え?と聞き直すから、だって、とイルカは再び口を開く。
「俺、昔からあなたに憧れていて、それは今も変わりません。だから、こんなんじゃいけない。こんな事を何回繰り返したかは知りませんが、こんな風に人を騙すような、」
「ちょっと、ちょっと待って」
 熱く説いている最中に言葉を遮られ話すのを止めると、目の前のカカシはがりがりと頭を掻く。そこからイルカへ視線を向けた。
「もしかして、俺が別のヤツにもこんな事してるって思ってる?」
 思っている。
 思っているから止めさせようとしてるんだろう。
 肯定の言葉は口にしないが、じゃあなんなんだと、じっとそんな目で見るとその意図に気がついたんだろう、カカシが、参ったな、と小さく口にした。その言葉に訝しむように眉を顰めると、あのさあ、とカカシは再びこっちを向く。
「俺は自分から誰かに声をかけたのも初めてだし、家に誘ったのも初めてで、手料理を食べさせたのもあんたが初めてなんだけど」
 イルカはカカシの言葉に瞬きをした。カカシは難しい言葉は口にしていない。十分理解は出来た。でも、当たり前だが合致は出来ない。
 え?
 どういうことなんだ。
 初めて・・・・・・え、初めてって。え?初犯?
 いや、待て、落ち着け。
 すっかり混乱しているが、カカシはそれ以上語らずじっとイルカを見つめている。
 カカシの口にした言葉を何度も頭の中で繰り返し、理解し、そして理解すればするほどにさっきとは違う感覚で心音が高鳴り始める。
 おずおずとイルカは落としていた視線を上げた。
「・・・・・・そうなんですか?」
 自分の頭の中で出た結論はあまりにも不可解で。だって違っていたら笑いものだ。
 動揺はしているものの、そう尋ねるイルカにカカシは曖昧な笑みを浮かべる。
「そうだよ。何だと思ったの?」
 直ぐに肯定され、聞かれ。イルカは思わず赤面した。眉を寄せる。
 これもさっきの冗談の延長なのか。というかそんな簡単に信じていいものなのか。
 声をかけて、飯に誘って、家に招くって。そこだけ切り取って考えたらそれって。一人で考え込んでごにょごにょしているイルカを見つめていたカカシは、しゃがみ込んだまま、分かんないかなあ、と頭を掻く。
「あのね、先生。きっかけはどうであれ俺はあなたとセックス出来るのが嬉しいんだけど」
 自分が求めていた直接的な言葉はないものの、別の直接的な表現に体の力が抜けた。
 体だけじゃない。心身ともに高まっていて張り詰めていた緊張が呆気なく解かれる。
 ホッとした。泣きたいくらいに安堵している自分がいた。ホッとはしたものの、
「いや、きっかけは大事だろう!?」
 馬鹿か?アンタは!
 我に返ったイルカの大きな声が部屋中に響きわたる。一歩間違えればとんでもない誤解のままになってしまうと言うのに。
 その十分ともいえるツッコミにもカカシは眉を下げ、そうかな、とのほほんと返す。
 信じられないと思うが少しだけカカシが分かった気がした。
 そして仕方ねえと思った事は確かで。

 だから。再び伸ばされたカカシの手を、イルカは払いのけることはなかった。
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