不満

 昼の休憩時間、午後の授業の準備もそこそこに、他にもやりたい事があったが、イルカは席を立ち職員室を後にする。建物を出て、少し歩いたところに設置されている自販機の前で足を止めた。
 席を立った理由はもちろん飲み物を買うためだが。イルカは直ぐに買うこともなく、両手を腰に当てながら自販機に並ぶ清涼飲料水のパッケージを眺め、息を吐き出した。そこから自分の右の手のひらを見つめる。
 ついさっき、この手でカカシの頬を思い切り叩いた。
 叩いた直後の、右手がじんと痺れている感覚を思い出して、イルカはその手のひらをぎゅっと丸めて拳を作る。眉根を寄せた。

 カカシは自分の恋人だ。
 久しぶりに出来た恋人が男で、はたけカカシだというのは、自分でも驚きだが、好きになったのは自分の方で、告白したのも自分だった。
 いいな、と思ったのは一緒に酒を飲むようになってからで、カカシが特定の相手を持たないのも、ノーマルなのも知っていたが、自分の性格上、好意を持った事実をなかったものにする事が出来なかった。
 酒の勢いで、冗談半分で、俺なんかどうですか?そう口にした時、カカシは少しだけ驚いた顔をしたが、考えを巡らせた後、イルカに視線を戻す。
「じゃあ、つき合ってみる?」
 そう言われ、言い出したのは自分なのに、驚いた。

 酒の勢いで告白なんかした自分が悪い。
 あの時、告白をするなら、もっと熟考して、然るべき時や場所を選び、素面の時に気持ちを打ち明けるべきだった。
 今更後悔しても時間が元に戻るわけでもなく。イルカはまたため息を吐き出す。

 キスをしてきたのはカカシからだった。
 一緒に夕飯を食べた帰り道、カカシに腕を掴まれ引き寄せられ、抱き締められて。その流れでキスされた。
 カカシの手のひらがイルカの顔を包み、優しく啄むように唇に触れ、それだけでうっとりした。そこから唇を深く重ねられ、濃厚なキスに何も考えられなくなくて。そして、正直上手いと思った。
 だから、普通、期待するだろう。
 そこまで思ったところで、素直にカカシに欲情していた事実に、イルカは気恥ずかしい気持ちに眉根を寄せる。

 俺だって男だ。欲求がないわけじゃない。
 そこから何日経っても手を出してこないカカシに、やきもきして、期待して、がっかりする。それが何回か繰り返えされていたから。今日、勇気を出してカカシに声をかけた。
 お互い暇な訳じゃない。顔を合わせる日があればラッキーで、朝たまたま見かけたカカシに昼飯に誘えば、迷う事なく頷いてくれて。約束通り一緒に昼飯を食べた。そこまでは良かった。
 定食屋で昼飯を食べ、店を出て歩きながら、いつも通りなんでもない会話をしながら、タイミングを見計らっていたイルカは、口を開く。
「今度俺んちで飯でもどうですか?」
 内心緊張しながらそう言えば、カカシは顔をこっちに向ける。不思議そうな顔をした。
「でもそれって大変じゃない?」
 言われて、いや、そんな大したもんは作れないですが、と首を振れば、しばらく残業が続くんでしょ?と言われて、それは事実で、困った。それでもこのままじゃ引き下がれなくて、でも、とイルカは口ごもりながら、視線を地面に落とす。正当な理由だったつもりだが、これ以上の理由もつけられない。答えを待っているのか、こっちを見つめるカカシの視線が痛く、でも、と口を開いた。
「そういうのもいいかなって、思っただけで、無理に、とかじゃないんで、」
 そこまで言った時、ああ、とカカシが呟いた。それに反応するようにイルカが顔をカカシに向けた時、
「先生、シたいの?」
 言われて、一瞬何を言われたのか、分からなかった。でも、直ぐに理解する。その時には既に自分の右手が動いていた。

 あんなに思い切り叩くつもりはなかった。
 でも、こっちが誘う理由をつけたくて困ってたのに。その理由に気が付いたからって、あれはない。
 そうだ。あんな明け透けに言わなくても。
 思い出しただけで恥ずかしさと苛立ちが浮上して、イルカは自販機の前で指を丸め拳を作る。
 自分にはカカシのように豊富な経験なんてないから、上手く誘い文句なんて言えるわけがない。キスだって、カカシからキスをされただけで腰砕けになるくらいなのに。そして、カカシの顔を見る度に、一緒にいる時間があればあるほど欲情してしまうのは間違いようがなく。それはきっと明日でも明後日でもそうで。
 男の性といえばそれまでだが。
(・・・・・・情けねえ)
 イルカは息を吐き出しながら、ポケットを探ると缶コーヒーを買う為に小銭を自販機に入れた。


 カカシが言った通り、残業をしたイルカは帰路に就く為に真っ暗な道を歩く。ただ、残業が多いとは言え、仕事は嫌いじゃない。
 カカシの事は頭にあるが、疲れていて正直今は考えたくなかった。自分が考えたところで、今すぐに解決出来る事はない。
 叩かれた時、カカシは呆然としていた。そりゃそうだ。時間が経てば経つほど、咄嗟とは言え、手を出すべきではなかったと感じる。相手が男であれ女であれ、誰であれ、それは変わらない。叩いた事自体、自分でも驚いている。過去、数少ないながらも女性と付き合ったが、最初から最後までそれなりに穏和で、もめ事もそこまでなくて。
 いや、そもそも、ヤりたいの?なんて言ってくるタイプの女性を自分は選ばない。そこまで思ったら可笑しくなって、やりきれない気持ちも混ざり、イルカは一人苦笑いを零した。
 疲れてるから変な事を考えるんだ。だから、さっさと風呂に入って飯を食って、気力があれば一発ヌいて、
 いかにも一人暮らしの独身男らしい事を思いながら階段を上がり、そこでイルカは足を止めた。
 カカシが、アパートの薄暗い電灯の下、自分の部屋の前に立っていた。気に入って借りているものの、手すりや外壁はペンキが剥げ、錆があるような薄汚れたアパートに、カカシがいるその情景が見慣れなくて。そして素直に驚く。
 自分の考えが纏まっていないし、カカシがここにいる事は想定外で。黙ったままのイルカに、カカシは歩み寄りながら銀色の髪を掻いた。
「怒ってる?」
 言われ、そりゃそうだろう、と心で思うが、それを素直に出す事は出来ない。自分も叩いた事を謝るべきなのに、口を開いたら、カカシを責める言葉しか出てこない気がして。イルカは下唇を噛んだ。そんな自分の姿は、ただ不貞腐れてるみたいで、素直に謝れない事も情けない。気持ちが沈みかけた時、えっとね、とカカシがまた口を開いた。
「俺、こういうのよく分かんなくて、放っておいてもいいのかなあ、とか思ったんだけど、」
 ぼそぼそと口にする言葉に、内心ひでえなあ、と思えば、でもさ、とカカシが続けた。
「ただ、放っておいてそのままになるのかと思ったら、それだけは絶対に嫌で。あと、先生はこういうの慣れてないからもっと時間をかけた方がいいかなって思ってただけで、」
 いつものカカシと違い随分と歯切れが悪い。何が言いたいんだろう、と怪訝そうな顔を見せるイルカに、カカシの視線がこっちを向く。
「よかったら、今からしない?」
 それを聞いてから数秒間、カカシを見つめた後、何を言ったのか脳に伝わる。顔が一気に熱を持った。
「・・・・・・なっ、」
 何で、今?
 確かに今日誘ったのは自分だが。今はちょっと心の準備が出来ていないし、この連日の残業で部屋は見事に汚れている。布団だって干してない。
 とても今すぐに恋人を連れ込めるような状態ではない。
 それでも。カカシの顔は真剣で。
 自分もずっと待ち望んでいた事には違いなく。
「・・・・・・五分、五分だけ時間をくださいっ」
 その台詞に何が言いたいのか察したのか、カカシは眉を下げる。そして嬉しそうに頷いた。
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