知り合い未満③

 仕事から家から帰って早々にイルカはそのまま寝室にある押入れを開けた。しゃがみ込み奥にある冊子の束を引っ張り出し、そこから一冊手に取る。馴染み深い、懐かしい表紙をイルカは捲った。
 久しぶりに開いたエロ本は胸が大きいとか自分の好みが載っているやつとか、昔はこれでよく抜いていたとか、そんなのどうでもよかった。
 心臓がドクドクと勢いよく鳴っているのはエロ本を見ているからではない。
 ついさっき、仕事からの帰り道、カカシに会った。奇遇ですね、と駆け寄ったのは自分だ。元々階級も職場も違うから顔を合わせることはないからだ。ただ、駆け寄ったのはそれだけが理由ではなく、それなりに親しいからで。それが世間一般で俗に言う恋人という関係なのだが、未だ実感出来ていないのも事実だった。
 だってあのはたけカカシが自分の恋人とか。そもそもカカシを尊敬していたがいい印象はなくどちらかと言えば苦手なタイプだと思っていたし、もっと言えば、イライラすることしか言わないしデリカシーないし人の話を聞いてないし嫌いだった。はずなのに。
 いや、今はそんな事を思い出している場合じゃない。
 カカシに駆け寄って一緒に歩きながら会話していたらふとした時にカカシの顔が近づいて。
 滅多に晒さないカカシの素顔に感心する間も無く、カカシの唇が自分の唇に触れた。いつもだが、戸惑いと慣れない感情に頭は真っ白になるから正直自分からは何も出来ない。
 うわー、すげえ、キスだ。
 なんて青臭くてどごぞのガキが言うような感想が頭に浮かぶ始末で。
 そんな時、ぬるりとカカシの舌が口に入り込みすごく驚いた。触れている唇の温もりよりも遥かに熱くて生々しくて。
 思わず目を見開いてカカシを押し退けていた。
 そんなイルカに、カカシは少しだけ驚いた顔を見せたが。
「まだ早かった?」
 カカシはそう口にした。
 カカシからしたら何気ない質問に過ぎないし、そう聞かれて当たり前だと理解出来るのに。
 その言葉がグサリと胸に突き刺さった。
 突き刺さった理由なんて分かっている。
 それは、自分がカカシと付き合うと決めてからずっと逃げていたことだったからだ。

 もう何回もお世話になったエロ本のページを捲り、そして手を止めじっと凝視する。
 色々な特集が組まれたそのエロ本に、当たり前だが人が絡むシーンもあるのだが。前は気にもしていなかった、その個々の情景が目に映る場面が、イルカの心音を高鳴らせるから、混乱気味にイルカは思わず本から目を逸らし、眉根を寄せる。 
 俺は先生が望むならどっちでもいいよ
 以前、カカシが付き合ってすぐの頃、何の気なしに口にした。何となく意味は分かっていたが、その言葉の重要性に気がつくはずもなく、そうですね、なんて呑気に笑いながら答えたのを思い出す。
 なのに、そのカカシの言葉が今更ながらに、重くのしかかっている。
 だって。
 再び目を向けたページにはイルカの好みの大きめの胸を触る場合が映っている。
 どのページにもある、愛撫と言う名の行為。
 セックスと言ったらこれだ。
 なのに。
 どれも、これも、俺には出来ない。
 イルカは愕然としながらただ、エロ本に目を落とす。

「これがあんたの好み?」

 不意に背中から聞こえた言葉にしゃがみ込んだままイルカは飛び上がった。数センチは浮いた。
 振り返るまでもない、その声の主は誰なのか分かったものの、振り返り顔を見て、確認し、ぎゃ、と声が出る。
「な、んで」
 目を白黒させるイルカに気にするわけでもなく、カカシは平然とした顔をしている。
「なんでって、だってほらなんか具合悪そうに帰るから。心配で」
 心配だったら訪問して最初に玄関の扉叩くだろう。なのになんで土足で真後ろにいるんだ。順番なんてあったものじゃない。
 そうだった。カカシはこんなヤツだった。悪気も悪意もないままにデリカシーのない言葉を投げかけてきて。
 そして今も。
 この女が好みだとか。
 あんまりだ。
 パニックに陥りながらもカカシを責めるように睨む。
「ふざけんなっ」
 そう、責めたいのに、そんな言葉を出すだけで精一杯だった。
 それなのに。その言葉を受け、カカシは僅かに不思議そうな顔をする。
「何で?」
 カカシの短い問いはイルカを簡単に煽った。
「何でって、あんたはいっつも順番が違うだろうがっ!分かってねえな!先に靴を脱げっ!それにっ、これは好みだから見てたわけじゃねえ!」
 カカシは明らかにイルカの最後の台詞に反応を示す。
「好みじゃないの?」
 悪気がないと分かっていても。無神経に逆撫でしているのには変わらない。
 聞かれた内容にイルカはグッと眉間に皺を寄せ、ちが、と言いかけた後、一回口を結び、そこから直ぐにまた口を開く。
「そんなんじゃなくて、俺は……」
 そう、そんなんじゃない。
 カカシは最初から俺に好意を持っていて。時間がかかったけど後から、好きになったのは自分だ。唇を合わせると今まで感じたことがないくらいドキドキするし、いや、一緒にいるだけで、話してるだけで。青い目と視線が重なるだけで。
 イルカは顔を上げる。
「俺、あなたの事を考えると勃つんですっ」
 カカシが目を丸くしたのが分かったから、イルカは話すのを加速させる。
「だけど、キ、キスから先はどうしても想像できなくて。あんたの事考えるだけですげえ勃つのに、この本みたいに出来る気がしなくて、」
 口早に話すイルカの前でカカシの目が少しだけ弓形になる。
 はは、と笑ったのが聞こえた。
 はっきりと笑ったのが分かり、それに激しいショックを覚える。
 酷い。
 笑うなんてあんまりだ。こんなに人が真剣に話してんのに。
 そう口に出す前に、カカシが自分の口布を下げる。やはり微笑んでいるその口が開いた。
「いいじゃんそれで」
 あっさりと肯定され、イルカは、へ?と聞き返した。
「だって男だもん。俺を思って勃つってことは、つまりそーいうことなんだって」
 慰めにもなっていない、カカシらしくない曖昧な言い方の台詞の最後を聞き終わる前に、イルカの視界がぐるりと変わり、それは天井に変わる。背中は畳に着き、気がつけば寝室の部屋でカカシによって押し倒されていた。
 あんたは何にも分かってないねえ、とカカシがため息混じりに呟く。
「こーいうもんはね、頭で考えることじゃないってこと」
 でしょ?
 馬乗りになり、普段あまり表情を変えないカカシが嬉しそうな顔を見せる。恍惚感さえ感じるその表情で軽く舌舐めずりをした。丸で捕食した獲物を食わんとする顔に、
 ああ、俺食われるんだ
 その瞬間、イルカはようやく自分の状況を理解した。

 


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