そういうふうにできている

 書類を持って外を歩いていれば子供たちから声をかけられる。振り返れば数人の子供が駆け寄ってきた。
「お前らもう終わったのか」
 今日はアカデミーではないイルカが尋ねると、当たり前じゃん、と返される。受付の仕事をしているとただひたすらに仕事に追われそこまで時間を気にすることはないから。もうそんな時間かと思いながらイルカは子供たちへ目を向けた。
「明日は先生いるの?」
 聞かれてイルカは、いいや、と首を振る。
「今週いっぱいはこっちだから来週からかな」
 イルカの返事に残念がる子供はそういない。口うるさい教師をしているのだから当たり前だ。案の定、やったー!と喜ぶ子供たちの姿を眺めながら、イルカは苦笑いを浮かべた。
「寄り道せず帰れよ!」
 いつもの口うるさい言葉に子供たちは聞いているのかいないのか。またねー!と元気に駆け出すから、その後ろ姿を見送り。そこからイルカは下校時刻といえどまだ明るい空を見上げた。
 それにしても暑い。
 昼間のような蝉のけたたましい声はなくなってきたものの、あまり変わらない暑さに低くなった日差しに視線を向け僅かに眉根を寄せる。
 こんな日はさっさと仕事終わらせて家に帰って冷蔵庫に冷やしてあるビールを飲んで。
 そんな事を思いながら歩き出したイルカの視界にふと入った人影に目を留める。銀色の髪に痩身長躯の体型はこの里の者ならば、いや他国の忍でも分からない忍びは少ない。はたけカカシだった。
 カカシは上忍で中忍の自分からは上官にあたる。
 でも。
 重くなる気持ちに思わずため息が出そうになるのは。たぶんだが、カカシがこっちを見ていたと分かったから。
 それは建物を出たところからなのか、子供たちに顔を合わせたところからなのか、それはどうかは分からないがこっちを見ていたことは間違いない。
「・・・・・・どうも」
 取りあえずといったらなんだが、頭を下げて挨拶をすると、カカシもまた会釈を返す。えっと、とそこからイルカは頭を掻いた。
 やたら視線が合うなあと思ったのは少し前からだ。その前から視線を感じて目を向けるとカカシがと目が合うことはあったが、それは単なる偶然だと思っていた。まあ、あの中忍選抜試験の後だから。生意気な中忍だとそう見ているんだろうと思った。それは今も変わらない。
 たぶんだが。こっちが謝るのをカカシは待っている。
 しかし自分は悪くない。そりゃあんな場で口出ししてカカシの面子を潰した感じになったが、間違った事を言ったつもりは一切ない。それに、あの場で言わなきゃ誰が言う。自分しかねえだろ。元とはいえ、教え子を心配して何が悪い。
 その考えは一切変えるつもりはなかったが。
 周りの反応は違った。
 あのはたけ上忍になに言ってくれてんだと中忍仲間からはぼろくそに責められ、それを無視していたが、こうも何か言いたげにカカシにこっちに視線を送られていたら、自分よりも周りが焦り出した。さっさとお前が謝らないからだと中忍の危機だと言わんばかに捲し立てられたのはつい昨日だ。
 ただ、どうしようかと悩んでいてもどうしようもないのは自分でもいい加減分かる。
(仕方ねえ、腹を括るか)
 イルカは内心ため息混じりに心を決めるものの、それでも嫌なものには変わらないから、普段からハキハキと言う方だが、嫌々過ぎて勝手に口ごもる。
「えっと・・・・・・この前は、」
「今日は暑いね」
 言葉が重なった。だからイルカは、ん?と言いかけの言葉を止める。
 謝ろうとしていたが、上忍の台詞を優先させるのが中忍のあるべき姿だから。そうですね、とイルカは相づちを打った。
 暑いのは確かだ。梅雨が明け一気に気温も上がり、それに加えてこの湿度だ。もっと北の里は気温が上がろうが湿度がなくからっとした暑さで過ごしやすいと聞く。うらやましいがここが故郷だ。
 しかし暑いと言う割にはカカシは暑そうにはとても見えないし、自分なんかより暑苦しい格好をしているにも関わらず一切汗を掻いていないようにも見える。
 それか、もしかして俺が暑苦しいと言いたいのか。
 そうならそうとハッキリ言えばいいのに。
 送られてくる視線といい、遠回しの言動に呆れながらもイルカはポケットからハンドタオルを取り出そうとした。その時だった。カカシが手を上げ、その手がこっちに延びる。
「汗掻いているね」
 目で追っていれば、カカシの伸ばされた指が自分の額に触れた。



 三十分後、イルカは受付に座っていた。
 動かしているつもりのペンは止まり、斜め前に置かれている扇風機をじっと見つめる。
 ようやく太陽が沈み始め暑さも和らいできたが、暑かろうが暑くなかろうがここは中忍の仕事場だ。エアコンは導入されていない。窓を開けたり扇風機で暑さを凌ぐしかないから、扇風機は常に稼働している。その一生懸命首を振っている扇風機を、ぼんやりとイルカは眺める。
 あの上忍は一体何をした?
 浮かんだのは素朴な疑問だった。
 確か、俺は謝ろうとした。
 そうだ。
 嫌々だったがけじめをつけようと謝ろうとしたのに。
 なのに何故かカカシが俺の額に触った。
 そうこのおでこだ。当たり前だけど汗を掻いていて、その濡れている額にカカシが触れた。
 夏でも自分とは違って暑くもない、そんな顔をしていたくせに。額に触れたカカシの指は暖かくて。その固い指の腹で、俺の額に滲んだ汗を拭うように触れた。
「おい、イルカ。聞いてんの?」
 不意に背中に声をかけられイルカは体をビクリとさせる。振り返るとそこに同僚が立っていた。
「何だよ」
「何だよって何だよ」
 意味なく驚くイルカに同僚は訝しんだ顔を見せる。
「だからそのファイル貸してって言ってんだろ」
 たぶん何回か声をかけていたんだろうが。聞こえてなかった。
 それを誤魔化すようにイルカは無理に笑顔を見せるとファイルを差し出す。同僚が席に戻るのを確認して、イルカはゆっくりと息を吐き出した。
 どんな意味があってあんな事をしたのか。
 やっぱり今考えてみても、分からない。
 だって、汗なんて汚いじゃん。
 なのにカカシは、迷いなく触れた。
 触れられた後も意味が分からなくて謝るどころじゃなくなって、その場を逃げるように後にしたけど。
 やっぱり浮かぶ疑問は一つ。

 あれは一体なんだったんだ。
 
 

 参ったなあ。
 イルカは執務室を出てため息をつく。
 受付からアカデミーのシフトに戻ったものの、ただでさえテスト週間で忙しいのに火影から別件で仕事を言いつけられてしまった。
 断ることもできた。そう、こっちは手一杯だと断ってしまえば良かったのに。幼い頃から目をかけてもらった恩というわけでもないが、それを断ると火影ががっかりする顔が目に浮かび。首を横に振ることが出来なかった。
(まあ、残業すればいいだけのことか)
 頷いてしまったもんは仕方がない。
 しかし、今週こそ一楽に行けると思ったのに。
 ため息混じりに歩き出してイルカがギクリとしたのは、カカシが少し先の廊下からこっちに歩いてくるのが見えたからだ。
 別に自分に向かって歩いてきているんじゃない。用事があるのは予想するまでもない、執務室に向かっているからだ。
 自分なんかのように雑用ではない、ランクの高い任務を火影から直接言い渡されるんだろう。
 言うならばこっちの忙しさとは段違いだ。
 だからこの人も大変なんだろうけど。
 やっぱり近寄り難いんだよな。
 最初顔を合わせた時から感じた。眠そうな目は一体何を考えているのか分からない。忍びであればそれが武器にもなるから良いことなんだろうが。それに加えカカシは自分の世代からしたら憧れの忍びで近寄り難いのは当たり前だ。
 元々上忍は変わっている。
 まあ、だからこの前の事はまあ彼なりのコミュニケーションの一環だったんだろう。
 ちらとカカシを見れば、やはり何を考えているのか虚ろにも見える目は廊下辺りを向いたまま。そのまま会釈だけをして通り過ぎようとした時、その目をカカシが上げた。
 その青みがかった目がこっちを向く。瞬間、ぼんやりとした表情が僅かに変わったのが見えた。
「イルカ先生」
 名前を呼んだかと思ったら、カカシは真っ直ぐこっちに向かって来る。
(・・・・・・え、何だ)
 何の用だと身構えるイルカの前で、カカシは手元に抱えたイルカの書類へ目を向けた。
「すごい量だね」
 カカシの視線を追うように自分も抱えている書類に目を落とす。
「まあ・・・・・・今日一日では出来そうにないですが」
 イルカの返事に、だよねえ、とカカシが相づちを打った。
「これじゃあ残業ばっかりだよね」
「まあ、それは」
 はっきり肯定出来なくて呟くように言えば、そういえばさ、とカカシは視線をイルカに戻した。
「深夜までやってるラーメン屋が出来たんだけど、知ってる?」
 不意に変わった話題にイルカは反応していた。一楽はもちろん、他にラーメン屋は何件かあるが流石に深夜まではやっていない。
 本当ですか?と聞けばカカシは、うん、と頷く。
「知り合いに聞いたんだけど、味も結構美味いみたいで」
 それだけでテンションが上がる。連日残業しているのは自分だけではないから、同僚にも教えてあげたい。
「それってどこに、」
「だから一緒に、」
 先日と同様、またしても同時に喋ったカカシにイルカは言葉を止めた。
 ん?
 内心首を傾げる。
 今、一緒にって行ったか?
 不思議そうにしたのが顔にも出たんだろう、カカシは眉を下げて苦笑いを浮かべた。
「場所だよね。えっとね、商店街よりもっと西の方なんだけど、」
 やばい。気を使われてる。
 それが直ぐに分かった。それでも何でこの人一緒にとか言ったんだ?という疑問も浮かんで思考がままならないまま、取りあえず説明をしてくれているカカシに相づちを打つことを選択する。
「西ってもしかして遊郭がある方、」
「ああ、うん。そう。要はそっちの商売の人もよく利用するから深夜までやってるんだよね。でも味は保証するから」
 そうですか、と返事をするイルカにカカシが、じゃあね、と背を向ける。
 そのままその背中を見送ってもいいのに。でも。気がついたら、口を開いていた。
「あの」
 その呼びかけに、カカシは足を止めこっちに振り向く。書類を抱えたまま、戸惑いながらもイルカは再び落としかけた視線をカカシに向けた。
「・・・・・・良かったら、一緒に行きますか」
 一緒に行こうと、カカシはきっと言おうとした。
 カカシは友人でもなければ同僚でもない、ただ繋がりがあるとすればナルトが自分の元教え子って事だけだ。だから、一緒に行くなんて変だろう。
 頭ではそう思うのに、カカシが誘おうとしたのを分かっていて無視する事は出来ない。
 いや、ただの聞き間違えとか勘違いだったら、かなり迷惑な話だけど。
 眠そうな目を少し見開いたカカシは、答えを待つイルカを前に銀色の髪をがしがしと掻き、そして再び顔を上げる。
「うん」
 そう答えた。



 夏の虫が草むらで鳴いている。その道の端にイルカは立っていた。一人考え込むようにして腕を組む。
(・・・・・・なんで俺はたけ上忍を誘ったんだろ)
 今更ながらに思うが、あの時はあれが最前の選択だと思った。
 そう、あの時はそう思ったんだよなあ。
 でもよくよく考えるとラーメンを一緒に食べる相手がカカシなんてあり得ない組み合わせだし、誘った事自体が失礼だったのかもしれない。
 あのはたけカカシと二人でラーメン食べるなんて。今こうして待っているにも関わらず、ピンとこない。
 ていうかあの人ラーメン食うのか?
 自分は大好物で週に何回もラーメン屋に足を運ぶ事もしょっちゅうだが、カカシに会った事は一度もないし、ましてやずるずると麺を啜る姿が想像できない。
 でも、カカシが自分を誘おうとしていたのは確かなんだ。
(・・・・・・にしても、腹減ったな)
 腹を擦りながら、イルカは星が瞬く夜空へ顔を向けた。


 待ち合わせの時間に相手がこなかった場合、どのくらい待つかは人それぞれだ。普段なら十五分くらい、遅くても三十分だが。でも、それは相手にもよる。
 イルカはさっきと同じ道の端にしゃがみ込んでぼんやりと夜道を眺めていた。
 たぶん、もう一時間半は経っている。
 その間に何カ所か蚊に刺され、その箇所を掻きながら。どうしたもんかとイルカはため息を吐き出した。
 時間を指定したのかカカシで、そのくらいの時間ならと自分も了承した。カカシを待たせる訳にはいかなかったから残業を切り上げ待ち合わせの時間よりは早く来た。
 約束の時間は当たり前だが、とっくに過ぎている。
 待つのも疲れたし蚊に刺されるし汗でべたべたで風呂入りたいし空腹だし。苛立ちは募る。これがナルトからさんざん聞かされていたカカシの遅刻癖なんだろうか。
 だからといっていつまで待てばいいのか。
 ただ結構な時間待たされていて、帰ってもいいが。何故かカカシが約束を忘れているとは思えなかった。
 じゃなきゃこんな時間待たない。
 それに相手は上忍だし。
 来たのにいなかったとか言われたら嫌だし。
(どうするかなぁ)
 参ったな、と再び嘆息した時。目の前に今までなかった気配を感じ、イルカは地面に落としていた視線をゆっくりと上げ、そして目を丸くする。 勢いよく立ち上がった。
 目の前にカカシがいる。
 その姿を見て一瞬言葉を失うが、直ぐにカカシに歩み寄った。
「どうしました!?」
 青い顔で聞けば、え?とカカシは聞き返す。
「イルカ先生こそどうかしたの?」
 血相を変えたイルカに不思議そうな顔をするが、それはこっちの台詞だった。
「何って、はたけ上忍そのベスト、」
 指さされたカカシが自分のベストへ目を向ける。血でべったりのベストを見て、そして、ああ、と呟いた。
「俺のじゃないよ。返り血だから」
 あっさりと言われ安堵する。
 遅いとは思ったがやはり任務だったのか。それは遅くなっても仕方がない。よくよく見れば返り血だけじゃない、カカシの支給服は土埃で汚れていた。
 とはいえ怪我ではない事に安心しながら、そうですか、と返すイルカに、まあでも、とカカシは続ける。
「約束の時間に遅れたくなくてちょっと無理したからんだけど、やっぱり遅れちゃったね」
 小さく笑いながら言うカカシの言葉に、イルカの眉根が寄った。
「無理って、何言ってるんですかはたけ上忍」
 それにも、え?と聞き返され、何も分かってないカカシにイルカの顔が険しくなる。
「こんな約束の為に無理とか。今回は怪我をしてないみたいですが、はたけ上忍、あなたが怪我でもしたらこの里はどうなるんですか」
 詰め寄るイルカにカカシは少し驚いた顔をしながらも、イルカを見つめ瞬きする。どうなるって、と返されその呑気さに呆れるよりも苛立ち、イルカは口を開いた。
「俺みたいな中忍はいくらでも代わりはいるけど、あなたの代わりはいないんですよ」
 自分みたいな中忍が言うことじゃないと分かっている。でも言わずにはいられなかった。
 だから無理はしないでください。そう付け加え言い終わったところで、カカシの手が伸びる。イルカの手を掴んだ。
「何言ってるの」
 まさかここで言い返されるとは思わなかった。
 生意気な事を言ったのが気に障ったのか。でも間違った事は言ってない。何度でも同じ事を言ってやる。そう口を開こうとして、
「イルカ先生の代わりなんていないよ」
 続けて言われた言葉に思わずイルカは眉を寄せた。
 ・・・・・・は?俺?
 そうくるとは思ってなかったから少しだけ驚くが、いやいやいや、と思い直す。
「俺なんてどこにでもいる中忍です。あなたとは全然違う、」
「違わないよ」
「いや、だから、」
「先生がアカデミーからいなくなったら、生徒がどれだけ悲しむと思うの」
 真っ直ぐに見つめられ思わず言葉が止まった。子供たちの顔が浮かぶ。教師としてそれを言われたら反論する事が出来なくて。それに、カカシがまさかそんな事を言うなんて。
 そうかもしれない。そうかもしれないが、でも、そういう事を言いたかった訳じゃない。
「でも、・・・・・・それは、」
「だから代わりはないなんて言わないで」
 更に言われカカシの真剣な眼差しに、何も返せなくなる。困ってカカシを見つめ返した。
 何でそうなるんだ。
 今はカカシが怪我をしたら、里に支障が出るのは目に見えている。それだけカカシは里にとって必要な忍びで。こんな事の為なんかに怪我をして欲しくないと思って何が悪い。それなのに俺なんかの事を何で。
 中忍試験の時カカシに突き放した言い方をされ、それが正論だと分かっていても悔しかった。面倒くさい中忍だと思われているとばかり思っていた。
 上忍からしたら、中忍なんて部下に過ぎないしどうだっていいだろう。
 一体何なんだ。
 詰め寄ったはずなのに、気がついたら立場が逆転しているし。
「分かりました、分かりましたから」
 だから手を離してくれ、とは言わないが。この場を収めたくて言えばカカシの顔が近づく。
 唇にむに、と何かの感触がした。何だと思う間に、カカシの顔が離れ、掴まれていたカカシの手も離れた。
 あれ?え、・・・・・・今、
「今日は帰るね」
 カカシの声に我に返る。
「え、ラーメンは、」
 帰ろうとしている姿を見て思わず出た言葉はそれだった。
「明日仕事でしょ?」
 言われてイルカはその通りだから、はい、と頷く。
「また連絡するから」
「あ、はい」
 会話の流れでイルカはまた頷く。カカシはそのまま背を向け歩き出し、イルカはぽかんとしたまま、その背中を見送る。その姿が見えなくなったところで、ラーメンはまた今度か、なんて納得しながらも頭を傾げた。
 えっと・・・・・・さっき・・・・・・触れた・・・・・・よな?
 記憶力は悪い方ではない。ついさっきなら尚の事だ。
 唇にもカカシの口布越しに柔らかいものが触れた感触は残っている。
 いやしかし。
 でも。
 一体・・・・・・どういうことなんだ?
 イルカは夜道で佇みながら自分の口元を手で覆った。
 
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