噂のあの人

 イルカは馴染みの居酒屋の奥にある個室で、一人出されたビールをチビチビと飲む。ついくせで壁を見てしまうのは、店内にはいつもメニューが貼られていてそれを見るクセがついてしまっているからだが、個室だからそんなものはなく、そしてペイン襲来後に店を新しくしているからか、雰囲気も少し違っていて。ただ、慣れない店でもないのに、そわそわしてしまうのは、普段使わない個室だからでも何でもない。
 ポケットから取り出し、手のひらを広げたその紙にイルカは目を落とした。
 そこにはカカシの筆跡で日付けと時間、そして店の名前が書かれている。
 サインをもらった書類に、このメモが挟まれていた。
 大量の書類を処理するカカシが時短の為に使っているこのメモは、要は仕事用で。カカシが指示する内容や、却下する理由などを記して書類に挟む。
 だから、見つけた時はてっきり書類に関する訂正か何かの指示かとばかり思ったのに。
 こう言っては何だが。
 これは、狡い。
 正直、あんな事を言われた後にカカシに誘われるのは、気まずくないはずはない。執務室に顔を出す頻度を少なくしたり、例え誘われたたとしても上手く断るつもりでいたのに。
 こんな風に誘われたら、断るのも断れないじゃないか。
 個室だからか、店内の騒がしい喧騒は遠くに聞こえ、それだけで孤独感のようなものも感じて。イルカはポツンと座敷に一人座りながらそのメモを見つめ、複雑な顔を浮かべる。
 障子が開いたのはその直後で。
「ごめんね、待った?」
 そこからカカシが顔を出した。
 目の前に座るカカシに、待ってはないですが、と言いながらも、イルカは不満そうな顔を向ける。
「これはちょっと狡くないですか?」
 メモを見せてはっきりと言えば、カカシは眉を下げた。もしかして残業だった?、と聞かれイルカは、いえそうじゃなくて、と否定しながらもまた口を開く。
「このメモに書かれたらなんか命令みたいで」
 イルカの言わんとしている事が分かったんだろう、カカシは、だよね、とまた情けない笑みを見せた。
「ホントは直接言えば良かったんだけど、中々時間とれないし、なんか俺行くと騒がせちゃうかなって」
 確かに、カカシは生徒に人気がある。火影を夢見る年齢の子達からしたら、カカシは現役の火影なのだから当たり前だ。先月も姿を見せたカカシに、授業中にも関わらず授業そっちのけで声をかける生徒たちに手を焼いた。カカシなりの気遣いだと分かり、イルカもまた、了承したように苦笑いを浮かべる。
 そこでタイミングよく障子が開き、顔を出した店員にビールを頼みながらも、腹減ったよね、と言いながらカカシはメニューを手に取りイルカの前に広げる。
「何食べよっか」
 聞かれてイルカも広げられたメニューに目を落とした。
 久しぶり過ぎて会話なんて弾まないんじゃないのかと思ったのに。逆に話してなかった分話題が尽きなくて。終始イルカは笑っていた。今までこんな時間がなかったのが嘘のようで。カカシの話題にイルカは声を立てて笑った。
 何となく聞いてはいたものの、仕事で疲れた時はトントンに話を聞いてもらってるとか。想像出来そうなのに出来なくて、イルカは笑いながら浮かんだ涙に、眦を手の甲で擦る。
「そんな可笑しい?」
 カカシに聞かれ、腹を抱えるまでではないが、大笑いしたイルカは、すみませんと謝りながらもまた口を開く。
「ただ、トントンが重要なポジションにいる事は分かりました」
 イルカの言葉に、まあねえ、とカカシは目の前でたて肘つきながら二杯目になるジョッキを傾ける。
「シズネより厳しくないから」
 微笑むカカシにイルカも同調するように微笑む。
 綱手の時から引き続き火影の補佐をしているのはシズネだ。あの綱手の下に就いていたのだから補佐として優秀なのは言うまでもない。
 実際どう尻を叩かれているかは知らないが。
 見えない火影の苦労をカカシは上手く笑い話に変える。
 別の個室から出てきた客が、ゾロゾロと障子越しに歩く音が聞こえた。
 次、二次会はどこ行く?
 酔いが回った声がこっちの部屋にも聞こえ、そんな時間なのだと思えば、
「そろそろ出よっか」
 カカシもそう感じたのか、ジョッキに残った最後の一口を喉に流し込むとそう促すから、イルカもまた頷く。同じようにビールを飲み干した。


 十五夜を過ぎた夜風は涼しくて酔って熱くなった身体には心地いい。
 そして、酒も入りほどよく腹は満たされた時ほど気分がいいものはない。
 ただ、こんな気分は久しぶりだ。そんな事を思いながら、カカシと夜道を並んで歩く。昔はこんな風に、夕飯を一緒に食べた後歩いたが、最後に歩いたのはいつだったろうか。ぼんやり考えた時、
「なんか眠くなっちゃった」
 そう横でカカシが言うから、イルカは小さく笑った。笑いながらも、過去幾度と飲んだけどそんな事を言うのは初めてだなあ、と思えば、
「実はね、こんなに酒飲むの久しぶり」
 カカシがやんわり口にする。
 綱手が火影だった頃、大名やら里外のお偉い方と会合をした後に酒の席を設けられ、忙しいと口にしながらも出かけていた記憶があるが。カカシに代わったからといって無くなったわけではないだろう。それが顔に出たのか、いやね、とカカシは表情を緩める。
「仕事で飲む機会はあるけど、飲むと仕事になんないじゃない」
 どこまで真面目な人なんだ。
 さっき居酒屋で話していた時には見せなかった本音に、イルカは一回地面に落とした視線をカカシに向けた。カカシは歩きながら、前を見つめている。
 自分が火影ではないのだから、どれだけのものなのか、本人でなければその大変さは計り知れないが。胸を痛めるイルカにカカシは、でも、とまた口を開いた。
「でも、今日は先生と飲むのが嬉しくて」
 カカシがこっちを向いた。嬉しそうに笑う、その顔に、どう答えたらいいのか分からなくて。だからといって何でなんですか、なんて聞けるはずがない。いや、聞くべきじゃない。困ってカカシの顔をただ、見つめ返した。
 不意に訪れる沈黙に、イルカはカカシから視線を外す。
「カカシ様にそう言ってもらえたら俺も嬉しいです」
 虫が静かに鳴く、草むらが広がる暗闇へ視線を向けて言えば、少しの間の後、カカシは笑った。
「カカシ様ってやめてよ」
 力なく微笑んでるのが、顔を見ていなくてもそれが分かった。そして、ポケットから手を出して銀色の髪を掻くのも。
「もうすっかり秋だね」
 そこからカカシがポツリと呟く。独り言のように。
「あ!」
 突然声を出したイルカに、カカシは驚いて顔を向けた。
 え、と聞きかけるカカシに向き直ったイルカは続ける。
「この前、カカシさん誕生日だったのに言いそびれたので、言いたくて、」
 書類に挟まれたカカシからのメモを見た時、顔を合わせた事だけにすっかり気を取られていたのは事実で。だから、今日言おうと決めていた。
「誕生日、おめでとうございます」
 笑顔を浮かべはっきりと口にしたイルカに、カカシは僅かに目を丸くして、そして、そこから目元を緩ませた。
「ありがとう」
 酒を飲んでいるせいもあるが、カカシは照れ臭そうな顔を浮かべた。
 それは、いつか見た顔だった。

 最初は苦手な人だと思っていた。
 憧れる対象ではあったけど、見るからに対極で、カカシにとったら自分は誰でもない、数多くいる中忍の一人だと思っているだろうし。ただ、中忍試験の時、間違っているのは自分なんだと痛感した。
 気まずいと思っているのは自分だけだと分かっていたけど、何かきっかけが欲しかった。そんな時、カカシが誕生日なんだとナルト達から聞いて。報告所にタイミングよく顔を出したカカシに、祝いの言葉をかけた。いつも通り、愛想のない返事が返ってくるんだろうと思っていたのに。
 僅かに驚いた顔をした後、カカシは気恥ずかしそうに顔を崩した。
 カカシが嬉しそうな顔をするなんて思わなかった。驚きながらもその笑顔を受け、なんとなく頬を染めた事を今でも覚えている。
 昔と変わらない。嫌味なくいい男で。そして、今は子供たちが憧れ、皆が信頼する、この里の誉れだ。
 イルカが見つめる先で、カカシが不意に右手を上げた。
 こっちに向けられると思ったその手は、迷うように宙を浮き、カカシは指先を軽く丸める。
「じゃあ、帰ろっか」
 手をポケットに入れる。ニコリと微笑んだ。

「もしかして、仕事に戻るわけじゃないですよね」
 別れ際、先述の通り、火影の忙しさは計り知れない。イルカが心配そうに聞けばカカシは、まさか、と笑った。
「仕事はまだ山のようにあるけど、今日は流石に帰るよ」
 俺だってゆっくりしたいもん。
 そう返され、その言葉にイルカは安堵する。
「今日はありがとね」
 カカシは微笑み、そして背中を向けた。
「おやすみなさい」
 イルカが言えばカカシは肩越しにこっちを見て、また微笑んだのが分かった。その顔は再び前に戻される。
 いつも見てきた後ろ姿のはずなのに。イルカはそこから動けなかった。
 カカシのその六火と書かれた、広い背中を見つめる。
 自分が見つめていようと、カカシは振り返らないと、何故か分かった。
 違う。
 俺が、そうさせた。
 昔から。
 いつだって。
 この前も。
 ついさっきも。
 カカシが距離を縮めるたびに。
 見えない壁を、自ら作った。
 自分で作ったくせに、それにも、また自分で気付かないフリをしてきた。
 だんだんと小さくなる背中に、イルカはぐっと作った拳に力を入れる。眉根を寄せた。
 言っちゃ駄目だ。
 言っちゃ駄目だ。
 言ったら、絶対に、
 でも、
 踏ん張るように身体に力を込めて地面を見つめていたイルカは、視線を上げる。
「何で……っ、」
 吐き出すように出た言葉を、途切れてしまった言葉を繋ぐ為に、イルカはまた口を開く。

「何で俺なんですか?」

 振り絞るように口にした言葉は、カカシに届いた。カカシは足を止め、振り返る。
 ずっと。
 ずっと、言いたかった言葉だった。
 たったこれだけの事を聞けなかっかのは。
 俺が、怖かったからだ。
 何年もかかって、ようやく口にした言葉に。
 カカシは少しだけ驚いたようにイルカを見つめていたが、やがて、ふっとその表情を和らげる。
「何でって。先生がいいからに決まってるでしょ」
 当たり前のようにカカシは言った。
 瞬間、ぶわっと全身から込み上げるものに鼻の奥がつんとする。イルカは反射的にぐっと奥歯に力を入れた。
 そうだ。
 俺は、ずっとその言葉を聞きたくて。
 この前の誕生日の時も、カカシさんが、若い女性教員でもない、美人のくノ一でも、商店街の看板娘でも、ましてや見合い候補の大名の娘でもない。
 周りで噂されるあの人が、カカシさんが。
 俺がいいんだって。
 そう言ってくれたらどんなにいいかって。
 心の奥底で、思ってたんだ。
 目の奥が熱くなり、ボヤける視界にイルカはそれを堪えるように地面を見つめる。
 その視界にカカシの足が映った。
「俺、まだ先生を好きでいいの?」
 近くまで来ていたカカシが口にした言葉に、イルカは弾かれるように顔を上げれば、カカシがじっと見つめていた。
 不安そうな顔に、そんなカカシの顔を見たら、今まであった緊張が全て嘘のように解けていく。イルカは思わず笑っていた。 
「俺なんかのどこが」
 浮かんだ涙を手の甲で擦りながら言った。
 たぶんこの疑問は真っ当な内容だ。
 普通、誰だってそう思う。
 笑うイルカに、カカシは一瞬目を丸くするが、そこから青みかがった目を細める。
「それを俺に語らせたら長いって知ってる?」
 丸で可笑しいことなんかなにもないんだと、そんな顔をして。
 イルカの抱えていた全ての不安を払拭するかのように、カカシは嬉しそうに、幸せそうに笑う。
 それが、ようやく二人で歩み始めた瞬間だった。
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