カカイルワンライ「昨日、ケンカしたから」

「はい、先生」
 差し出されたそれを見ると、小さな両手が菜の花を握りしめていた。黄色の菜の花は春の訪れを感じさせ、イルカは屈んでそれを受け取る。
「ありがとうな」
 ぽん頭に手を乗せて撫で目元を緩ませれば、生徒は嬉しそうに笑顔を浮かべた。
 イルカは職員室に向かうとその足で給湯室へ向かう。花瓶の代わりになる手頃なコップを探していれば、入ってきた女性教員が、あら、と声を上げた。
「菜の花ですね」
 覗き込む女性教員に、ええ、とイルカは相づちを打つ。
「生徒に貰ったんですが、まだ授業も残ってるし、せっかくなんで、」
 そう言いながら、夏にしか使わないコップを戸棚の奥から取り出す。水を入れ、菜の花を入れればそれらしく見えるものの、
「まだ緑が多いですね」
 女性教員が口にした通り、多少咲いている花はあるものの、つぼみばかりで青々しているのは事実だった。イルカが苦笑いを浮かべる。
「こでれ水でも吸えば咲きますかね」
 言えば、咲くといいですね、とイルカと同じように、その菜の花を見つめながら笑いを零した。
 
 先週は雪がちらつくくらいに寒かったのに。
 イルカは職員室で机に向かい、ペンを動かしながらふと目に入った机の脇に置かれた菜の花に、その手を止めた。
 木の葉は地形の特性からそこまで雪が降らない地域だが、今年は雪も多く、その分冬が長く感じた。昔はそれが嬉しかった。雪が降れば外に出てはしゃぎ、積もればその雪で友達と夢中になって遊んだ。寒さなんて感じないほどに。
 それなのに、寒さに体が堪える事はないものの、春が待ち遠しく感じるとか。
 俺も年を取ったのかなあ。
 イルカが背中を伸ばすように椅子の背もたれに体重を預ければ、きい、と音が鳴る。
 春を待つかのように芽吹いたこの菜の花は、今日子供の手によって摘まれてしまったけれど。天ぷらやおひたしにしたら美味いんだろうなあ。
 ふとそんな事を思った自分に、イルカは一人苦笑いを浮かべて首を横に振った。
 そんな無粋な事を考えるのは、ただ単に腹が減っているからだ。
 イルカは残業を切り上げる為にペンを置き、帰り支度を始めた。
 
 
「あちゃー」
 アカデミーの裏口の扉を開け、イルカは黒い空を仰ぎ呟いた。
 天気予報では今日いっぱいはもつと言っていたのに。
 残業していた自分が悪いんだろうが。家までの距離はそこそこあるが、走って帰れば本降りになる前には着けるだろう。鞄を抱えて走りだそうと足に力を入れた時、
「あら、先生も帰り?」
 声をかけられ、イルカは振り返った。年輩の女性教員が後ろに立っている。あらやだ、雨ねえ、と黒い空に目を向けながら、
「これ使って」
 差し出された傘にイルカは目を丸くした。
「いや、大丈夫ですよ。走って帰れば直ぐなんで、」
 首を横に振るイルカに、女性教員は笑いながら、いいからいいから、とイルカの手に傘を持たせる。素直にイルカは焦った。傘を持ってこなかったのは明らかに自分の不手際だ。ありがとうございますと受け取る訳にはいかない。
「いやしかし、」
「私折りたたみ持ってるのよ」
 持っていた鞄から、その年齢らしいと言えばいいのか、淡いピンク色の花柄の折りたたみ傘を取り出し、それを手際よく広げた。
「それ明日返してくれればいいから」
 困ったままのイルカを残して、女性教員は、また明日ね、と歩き出すから。イルカは傘を持ったまま、その背中にぺこりと頭を下げた。

 雨足が強くなったのか。広げた傘にぽつぽつと雨水の落ちる音が聞こえ、少しだけイルカは傘越しに真っ黒な空を見上げた。折りたたみ傘とお揃いだったのか。雨を凌げる事は有り難いが、慣れない花柄の傘にイルカは一人笑いを零す。
 雪ではないとは言え、寒さが直ぐに和らぐわけもなく。冷たい雨にイルカは体を震わす。濡れだした地面に視線を落としながら、歩く足を早めた。
 
 コンビニに寄ったのは暖かいものが食べたくなったから。
 肉まんを入れた袋を持ちながら住宅街を抜け、公園を通り過ぎ、田畑が広がる手前に自分のアパートの光を見つける。コンビニを出た頃にはすっかり雨が本降りになっていた。整地されていない道は直ぐに水たまりが出来る。それを避けるように歩き、ビニール袋片手にイルカはポケットから部屋の鍵を探る。
 階段を上がったところで部屋の前に座っている黒い猫を見つけ、イルカはその足を止めた。何度かペンキを塗り直しているものの、それが剥げて錆びてしまった屋根の下に、雨を避けるように座っている猫に、イルカは目を向ける。上手く雨を避けれたのか、体は濡れてないものの、不快そうに濡れた前足を舐め、そしてこっちを見上げた。
 その何かを訴えるような猫の目を見つめながら、イルカはため息を吐き出す。
「で、今度は猫ですか」
 呆れ口調で言えば、黒い猫は返事をするようににゃおんと鳴き、そして白い煙に包まれる。そこにカカシが立っていた。
「バレちゃいましたか」
 銀色の髪を掻くカカシに、イルカはまたため息を吐き出す。分かりますよ、と口にした。
「最初は生徒のフリをして、今度は教員。菜の花も有り難かったですし傘も助かりましたけど、」
 謝るんだったら、他に方法あるでしょう?
 言えば、カカシは黙ったまま、決まり悪そうにまた後頭部を掻いた。
 喧嘩したのは些細な事だったけど。自分も怒りすぎたと思うから。ちょっと時間をおいて頭を冷やそうと、そう思ってたのに。
 気が付いていたけど、敢えて気が付かないフリをしたのは、何でそんな事をするのか分からなかったから。
 ーーでも。
 猫の姿で現れたカカシを見て、その理由がようやく分かる。
「ごめんなさいって、そう言えばいいんですよ」
 困ったような顔をして立っているカカシに、そう言えば、少しだけ驚いた顔をした。
「ごめんなさい」
 直ぐに返される謝罪の言葉に、イルカは部屋の鍵を開けると振り返る。
「じゃあ仲直りしましょっか」
 肉まん食べましょう?
 イルカの言葉に、カカシは許された事を知り、まだ少し気まずそうにしていたが。うん、と頷く。
 招き入れるイルカの部屋へ、カカシは足を向けた。
 
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