カカイルワンライ「イルカ先生の誕生日」

 居酒屋のカウンターで二本目になるビールを手酌でグラスに注ぎ、それを喉に流し込んだ時、名前を呼ばれてイルカは顔を上げた。目の前にいたのはカカシで、会釈をすれば、一人?と聞かれる。頷けば、カカシはイルカに了承を得るわけでもなく隣に座った。
 顔を見せた店主にカウンター越しに、カカシは、こっちのと同じのちょーだい、とイルカのテーブルに並ぶものを指さして言うから、ビールは兎も角、カカシの好みの食べ物すら知らないが、イメージすらしていなかったから。同じのでいいのか?と思っていれば、カカシがおしぼりで手を拭きながらこっちを見る。
「ここのだし巻き卵、美味いよね」
 そう言われ、思っていた事が顔に出てしまっていたのかと、イルカは苦笑いを浮かべながらも、はい、と頷いた。
 外で顔を合わせばそれなりに会話をする相手ではあるが、こんな場所で二人で並んで食事するとか。自分は基本人見知りもなく誰とでも話す事は出来るが。運ばれてきた瓶ビールを注ごうとしたイルカに、いーからいーから、とカカシは堅苦しい空気を作るわけでもない。色んな上忍を見てきたが、カカシらしいと言えばそれまでだが。不思議に思うイルカを余所に、カカシは、そう言えばさ、と壁に貼られた手書きのメニューを指さした。
「ここの豆腐手作りなんだよね」
 この店に何回か通ってはいるが。手作りとも書いてないから知らなくて、イルカも同じようにメニューへ目を向ける。そうなんですか?と聞けば、カカシは、うん、と答えた。
 ここの居酒屋は小さく来る時は皆で飲み会、という時よりは、一人で来ることがほとんどだった。そもそも財布に余裕があり、残業して自炊する気分になれなかった時しか足を運ばないから。いつも腹に溜まるものを選ぶ自分は豆腐料理を頼んだ事すらなかった。もしかしたら、豆腐以外にも食べ損ねてしまっている隠れたメニューがあったりするのだろうか。だとしたら今更ながらに損をしてしまっている気分にもなり、イルカは年季の入った壁に手書きで書かれたたくさんのメニューをぼんやりと眺めた。
「大豆の味を楽しむなら醤油よりも塩で食べるのがおすすめ」
 その声に視線を戻すと、カカシは穏やかな笑顔を浮かべてニコリと笑う。その何でもない話題に、微笑むカカシに、気持ちが和らいだ。ついさっきまで気持ちが落ち込んでいたのは確かで。それは酒なんかで到底誤魔化せるわけもなく。無理に頼んだビールは進まなくて既にぬるくなっていて。そして豆腐が特に好物と言うわけでもないが、カカシの他愛のない話題に自然と笑顔が浮かぶ。
 カカシと初めて顔を合わせたのはナルトが下忍になってから。元々変わったな人だとは思っていたが、里一の忍びで、そして自分たちの世代からすれば、カカシは憧れで。雲の上の存在で。なのにこんな場所で、おすすめメニューとか教えてもらうとか。つい数年前までは考えもしてなかった事で。不思議な気持ちになりながらも、
「じゃあ、頼んでみてもいいですか?」
 そう口にすると、カカシは嬉しそうに頷いた。


「聞いたよ」
 グラスを傾けながら、カカシがぽつりと呟く。不意の言葉に答えられずにいれば、任務の事、と続けられ。その言葉に、イルカは豆腐へ向けていた箸を止めた。気持ちがずん、と重くなる。酒を飲んでいたのは、別に忘れようとしていたわけではない。ただ、カカシとたまたま顔を合わせた今だけは考えないようにしていただけで。でもまさか、カカシの口から出るとは思わなくて。いや、里にいれば耳にしてもおかしくはないか、とイルカは思い直すが。重くなる気持ちに、イルカは眉を寄せカウンターのテーブルに視線を落とした。
 久しぶりに受けた里外の任務で、怪我を負ったのは同じ中忍の忍びだった。明らかに自分の判断ミスが原因だ。後遺症さえ残らない怪我だと分かっていても、残るのは後悔ばかりで。日々内勤の仕事をしながら鍛錬は欠かさなかったものの、実戦が久しぶりだったのは事実だった。
 判断が鈍ったとしか言いようがない。サポートとして向かったのにそのサポートをするばかりか足を引っ張った結果になった。
 今日仕事帰りに見舞いに行ったが、怪我をした本人は明るく元気だった。頭を下げれば、元気を出せ、と逆に笑いながら肩を叩かれ励まされ。それがますます情けなくて。家にそのまま帰る気持ちになれなくて、気が付けば、足がこの居酒屋に向かっていた。
 ただ、事情を聞いたと言うカカシに何と返したらいいのかも分からないが、言い訳がましい事を口にするつもりもないが、だからと言ってここで落ち込み項垂れるわけにはいかない。
 情けない限りです。
 そう口にしようと顔を上げた時、
「大丈夫だよ」
 カカシの言葉に、イルカはカカシに目を向けた。さっきと変わらない表情で、グラスを片手にこっちを見ていた。
 大丈夫なわけないだろう。衝いて出そうになった。任務に怪我はつきものだ、しかし、それは敵と対峙し戦闘すればの話しで、今回は違う。その言葉を受け止められず、いや、しかし、と言えば、あのね、とカカシが言葉を被せた。
「俺は聞いただけだけど、そもそも今回の任務内容じゃサポートするにしては人数が適正じゃなかったと思うし、先生の応急処置が良かったから、怪我を負った中忍もそこまで悪化せず来週には退院出来そうなんでしょう?」
 そこまで知っているとは思っていなくて、イルカは直ぐに返す言葉が見つからなかった。たぶんこれではサポートする人数が足らないのではないかと思ったのは、現場に着いてからだった。怪我を負った中忍を応急処置したのも自分で、その彼を背負い病院に連れて行ったのも自分だった。傷を診た医師に手当の仕方が非常に上手いと誉められたが、その言葉を素直に受け取る気持ちには微塵にもなれなかった。それは今も変わらない。バツが悪そうな顔のまま俯き、黙ってしまったイルカに、だからさ、とカカシは続ける。
「大丈夫だよ、先生」
 怪我を負った本人に気にするなと言われても、頑なに受け取る気持ちにはなれなかったのに。イルカがゆっくりと視線を上げれば、カカシはその目を緩ませる。
「大丈夫」
 優しく微笑むその顔を見たら、うっかり泣きそうになり、イルカは視線をまたテーブルへ落とした。
 カカシは里を誇る戦忍で、噂では暗部に所属していたと聞いている。結果任務で生ぬるい事しか出来なかった自分に、もっと厳しい言葉をぶつけたっていいのに。
 大丈夫、という言葉は、自分が幾度となくアカデミーの生徒に向けて口にした言葉だ。ただ、大丈夫だと相手に言うばかりで。もう随分と久しく言われ慣れていない事に気が付いた。でも、誰かにそんな言葉をかけて欲しいとも思っていなかったのに。
 泣きたくない。
 イルカは俯いたままぐっと奥歯に力を入れた時、あのさ、と言うカカシはそのまま、来週なんだけど、と口にするが。今さっき慰めてくれた本人とは思えないくらいに歯切れが悪い口調に、イルカはカカシへ顔を上げると、やはりさっきとは打って変わって、口をもごもごさせているから。それが何でなのか。不思議で、泣きたくなるような感情が引っ込む。
 はい、と素直に答えると、そこでカカシがイルカを見た。見たことがない、緊張した顔をしている。
「来週の金曜、予定とかある?」
 瞬きをして、カカシを見つめながら、何の話だろうとイルカは素直に思った。だって、本当に何の話か分からない。ただ、来週の金曜と言われたから、とりあえずその日のスケジュールを頭に浮かべる。
「午前午後ともにアカデミー勤務の予定ですが、」
 言えば、そう、とカカシは相づちを打ち、それ以外に予定は?と聞くから、イルカは首を振った。あの、何か、と聞く前に、
「予定なかったら俺予約していい?」
 カカシにそう言われ、イルカは今度は首を縦に振る。何だろうか、急そんな事を言ってくるなんて。何か込み入った話でもあるんだろうか。不安に思うイルカを前に、頷くのを見たカカシは顔を綻ばせた。嬉しそうに。
 顔を綻ばせる事と嬉しそうな顔は対になっている事だからおかしくはないが、しかしますます分からない。
「金曜に何かあるんですか」
 カカシは一体何をしたいのか。はっきり言って欲しい。不安そうに問えば、
「飯、食べに行こうと思って」
 そうカカシが答えた。その当たり障りのない答えに、構えてしまっていたからか、そうですか、と返せば、
「だって、先生の誕生日でしょう?」
 続けて言われ、イルカはきょとんとした。
 え?とイルカが聞き返すと、カカシに、違うの?と聞かれ、改めて今日の日付から来週の金曜の日付を考え、確かにその通りだと合致する。そんなこと、すっかり忘れていた。そもそも祝ってもらうような歳でもないから忘れていて当然だ。でも。納得に至ったから、そうです、と答え得れば。カカシはふわりと微笑んだ。
「じゃあ約束ね」
 あまりにも嬉しそうにあどけない笑みを浮かべるから、イルカは困惑しながらも、じわ、と顔の赤みが増した。
 ナルトを通して初めて会った時から、不思議な人だと思っていた。里内外で名前は知れ渡った忍びだが、話してみると得体の知れないところもあるような感じで。今日みたいに優しかったり、何考えているのか分からなかったり。それにカカシに関してはいつも様々な噂が飛び交っていて。モテるのは勿論、中忍がとても手を出せないくらいの高い遊女を何人も囲っているとか。同じ女と二度は寝ないとか、───中忍のうみのイルカを好きだとか。
 最後の噂は、当たり前だが、誰かがおもしろ半分で流した質の悪い、根も葉もない噂だと思っていた。だって、当たり前だ。こんなもさい中忍の男にあのはたけカカシが好きになるはずがない。一番あり得ないと思っていたのに。
 嘘だろ。
 信じられないが、目の前のカカシはすっかり幸せそうだし。
 何より、さっきの流れからこの笑顔で、うっかり絆されそうになっている自分がいるのも事実で。
(いや、騙されるな、自分)
 噂は所詮噂だ。これが自分の勘違いだとしたらカカシに失礼だし、大変な事になる。
 それでもなんて答えればいいのかと戸惑うイルカに、視線を感じたカカシは、にこりと優しそうに目を細める。
 その瞬間、勘違いでもなんでもなく、イルカの胸がどきんと高鳴った。
 
 
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