宣戦布告 その後①

「火影様ー!」
 呼ばれて顔を向けると外で授業をしている子供達がカカシに向けて手を振っていた。それに応える為に手を振ると今度は両手を振り返され。眉を下げて微笑むと、そこからカカシは歩き出した。
 就任して一年近く。あんな風に憧れを抱いた目で見られるのも、火影様と周りから呼ばれるのも正直まだ慣れない。そもそも柄じゃないと思っていたし、幼い頃かは火影に憧れを抱いていたわけでもなかったのは確かだ。それでも、なると決めたからにはその役割を果たすつもりだが。どうもやっぱりまだ慣れない。
 ただ、今はそんなことよりも。
 カカシは歩きながら、嘆息する。
 今日イルカと顔を合わせた時、分かりやすいくらいに目を逸らされた。
 なんでかなんて、それは一番自分が分かっている。昨日、周りから顔が見えないとは言え面前で詰め寄った挙句にキスをした。
 イルカとの関係は、あのままじゃいけないことくらいは分かっていた。いつか、きちんと話し合うべきなんだと。なのに、だらだらと身体だけの関係を続けたのはただ単にハッキリさせるのが怖かったのもあるし、甘えだというのも分かっている。
 あのタイミングを狙ったわけでもない。イルカのひどく冷めた作った笑顔を見たら、不意にイルカが離れていくような気がして。気がついたら腕を掴んでいた。
 ただ、無理強いしたつもりはない。嫌なら、いつだってイルカは自分を突き飛ばせたはずだ。
 そんなふうに考えていたつもりだったのに、でも、それをしなかったのはあの時周りには何人もの人がいて。
 ───そして自分が火影だったからなのか。
 今更ながらに浮かんだ憶測は、カカシの気持ちを深く沈ませる。
 あの人は情が深い人だから。自分を受け入れてくれていたのは、ただ単に同情の延長で。でも、あの真面目で律儀な性格から考えて、到底受け入れられるものではなかったのかもしれない。
 それでもいいと最初は思ったのに。気がついたら、イルカから離れ難くなっていた。
 イルカを前にして。唇を重ねる事には躊躇いは一切なかった。
 口布を下げた時、イルカの黒い目が驚きに、まん丸になったのを思い出す。思わず視線を下に落とした。
 ただ、自分は。ああいう顔をさせるつもりじゃなくて。
 イルカが口にした通り、馬鹿な事をしたのは間違いがない。
 歩きながら、カカシは銀色の髪をがしがしと掻く。そこからゆっくりと青空を仰いだ。


 イルカを再び見かけたのは昼過ぎだった。
 遅い昼飯に定食屋に顔を出し、その足で受付に顔を出す。報告書に目を通したカカシはその足で執務室に戻ろうとして廊下に出た。
 イルカは、いつものように書類を抱えながら廊下で立ち話をしていた。相手はたぶん同じ中忍の同期だ。イルカの気を許した砕けた笑顔は、自分に向けられたわけじゃないのに、いつまでも見ていたくなる。声をかけたかったが、流石に躊躇われた。その通り、カカシに気がついた途端、イルカからその笑顔は消える。視線を下にずらした。
 参ったね
 心の中で思わず呟く。顔には出さないが塞ぐ気持ちはどうしようもない。
 当たり前だが自分の立場を利用したつもりもない。でもそうとられても仕方がない事をしたのは事実だし、そして自分は、イルカの温もりが欲しいと思っただけだ。
 もっと近くに感じたいと素直に思った。
 今も、手を伸ばせば触れられる距離にいるのに。
 流石に今回はイルカがそれを許さない。
 イルカ達の横を通り過ぎ、廊下の角を曲がろうとして。
 聞こえたのは足音だった。忍びらしくないどすどすと歩く音に振り向くと同時に腕を掴まれる。
 イルカが目の前にいた。
 険しい顔で今にも怒鳴らんばかりの表情に、カカシは目を見張りながら反射的に構えた時、
「俺は、あんたとは違う」
 面と向かって強い口調で言い切るイルカに返す言葉はない。その通りだとは思った。
 だから。
 そうだね、と返事をしようとしたカカシの口元にイルカの手が伸びる。勢いよく下ろされ、露わになったのは一瞬だった。
 カカシの唇をイルカの唇が塞いでいた。
 むに、と押しつけられる柔らかい感触は、紛れもなくイルカの唇で。浮かせた後、カカシの唇をもう一度塞いだ。
 ゆっくりと唇が離れる。
「俺は、マントで隠すようなこともしない」
 驚きに目を丸くしたままのカカシをイルカは強い眼差しで見つめていた。
「あなたとの関係を誰かに隠すつもりなんてありませんっ」
 言い終わると同時にイルカは乱暴にカカシの口布を戻すとくるっと背中を見せる。つかつかと早足で歩き出した。
 一瞬の出来事だった。
 呼び止める間もない。この状況を把握するだけで精一杯で。呆気に取られたままイルカが去った廊下を見つめる。
 しばらくした後、なんだ、と緊張から解かれるように、カカシは一人呟いた。
 イルカが口にした言葉は何より強い意志が込められていて、それを証拠に、揺るぎない黒く輝く瞳はしっかりと自分を映していた。
 去っていくイルカは耳まで真っ赤で。
 そこから、カカシは耐えきれなくなったように笑いを含んだ息を吐き出し、ぼさぼさの髪を掻き上げるようにして笑う。
 信じられないけど。
 どうしよう。
 嬉しくて仕方がない。
 しっとりとしたイルカの唇の質感がまだ残っていて。じわじわと湧き出す感情を噛み締めるように、カカシは自分の唇を口布の上からそっと指で触れた。


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