赤いかけら⑧

目の前のイルカはイルカじゃない。
色違いの双眸が鈍く光る。
その視線の先のイルカは。じっとカカシを見上げていた。やがて、息を漏らすように吐き出して。
そして笑った。黒く輝く目元を緩ませ白い歯を見せる。床に仰向けになったまま腕を上げる。その手はカカシの頬に触れ、
「すごい。流石だなぁ」
そう言った。
顔を顰めるカカシに、イルカはニコッと笑う。そしてもう一度手をカカシに差し出した。催促されるままにその腕を引っ張り上げると、イルカは起き上がる。
立ち上がってカカシに振り返った。
「あーあ、ばれちゃって残念」
イルカではないと確信はあったが、正体までは予測もつかなかった。
それでも、今自分に向けられた台詞に。目の前のイルカと重なる面影。
それが分かってしまった。
カカシは眉根を寄せると、床に視線を落として盛大にため息を吐き出す。
頭を無造作に掻いた。
そこからイルカへ顔を向ける。
「百合」
名前を呼ばれてイルカは微笑んだ。正解とばかりに。
不機嫌丸出しの眼差しで睨まれて、百合と呼ばれたイルカは少しだけ肩を竦めて、誤魔化すように小さく微笑んだ。
「百合、はあの借りてたあの子の名前...なんだけどね」
うどん屋の娘の事を言ってるのだろう。そこは素直に合っている。確かに、あれはもう自分の知っている百合じゃなかった。それは、この女が百合の身体から抜けたから。
ーーそして今はイルカに乗り移り自分の前に現れた。
「じゃああんた誰」
「.......」
黙り込まれて眉間の皺が深くなった。
イルカに精神を乗っ取っているとしか思えない様を不機嫌そうに見つめた。乗っ取られているが、イルカ自身ののチャクラは安定している。
木の葉か、火影か、自分か、それとも他の何かか。忍びとして何かを狙うのが目的だったと、短絡的に考えればそうなるが。
そこから広がる憶測も、今までの百合との接点から考えると、何も繋がらない。
意味不明だ。
混乱した頭のまま苛立ちが募るが、相手は自分とは違う温度差の表情をしている。
それは百合に出会ったままのような。
一貫して変わっていない。
それより何より、よりによって何でイルカに。カカシは内心舌打ちする。
忍びとしての殺気含む空気を薄っすら纏うカカシに、目の前の百合は気が付いたのか。目を丸くさせた。
「優秀な木の葉の忍び。はたけカカシくん...殺気は出さないで。私はそんなつもりはない。それはあなただって分かってるはずでしょう?」
敵意も殺意も、自分が見る限り忍びとしてのチャクラさえも。見えないのは確かだった。
しかし、自分を君付けで呼ぶような相手に不信感しか抱けない。
「あんたの目的は?」
問うカカシに、目の前のイルカは真剣な眼差しを見せた。
カカシの好きな、黒く輝く瞳。イルカでないのに、イルカに見られているような錯覚は、素直にいただけない。カカシは視線をずらす。
「...小さい頃はね、もっと素直だった」
静かに、そう呟く。何を話し始めたのか、じっと窺うように見つめれば、百合ではないと言う、イルカに乗り移る女は続ける。
「でも、こんなに気持ちを押し隠して生きるようになったのは...そうさせたのは...私かなって、そう思ったら何かしてあげたくなったの、でも」
カカシが手を上げ話を遮る。
「ちょっと待ちなさいよ。悪いけど、何言ってるのか分からない」
きょとんとしたような表情をされ、カカシは困ったようにまた頭を掻いた。
「俺の質問が先。あんた誰?目的は?ちゃんと答えて。何でイルカ先生に、」
「聞いて欲しいの」
強い口調だった。ぐっとイルカの強い眼差しがカカシに向けられる。
(...聞く....聞いても意味分かんないっつーの...)
状況は複雑だが、答えの糸口は目の前の女しか持っていない。
仕方なしにカカシは手のひらを見せた。
「...どーぞ」
言えば、イルカの顔でニコッと微笑まれ、複雑な表情を浮かべるしか出来ない。
女はイルカの右手を上げ、手のひらを広げる。そのイルカの手をじっとしばらく見つめた。
「....大きくなった」
視線は広げた手のひらからカカシに移る。
「もうすっかり大人の男」
嬉しそうに目を細めて女は言う。
「怪我も...してない。健康で、ちゃんと忍びをしてる...あなたから見たイルカはどう?上忍のあなたからどう見える?」
真っ直ぐな視線で問われ、カカシは目の前のイルカを見つめた。
どんな答えを求めているのか分からないが。自分から見たイルカと聞かれ、しばらく考え言葉を選ぶように口を開いた。
「...いい忍びだよ、あの人は。...俺とはタイプが違うけど、良い忍びで、上忍としても十分な素質はあると思うし、」
「そうなの?」
そこで口を挟まれるとは思わなかったカカシは、一瞬目を丸くするが、軽く頷いた。
「俺はね。そう思う。でも仮にそう打診したとしても、あの人は今はきっとそれを望まない」
「...それは、何で?」
「先生だから」
しっかりと、カカシの言葉を受け止めるように、イルカに乗り移った女はじっとカカシを見つめている。
「先生だから?」
「そう。イルカ先生は良い忍びだけど、それ以上に良い先生だから」
それ以上の答えはないと、イルカを見つめながら、言い切り。カカシはそこで言葉を切った。
黒い目はじっとカカシを映したまま。何回か瞬きをして、それでもまだカカシを見つめ。ゆっくり目元を緩ませた。
「ありがとう」
心の底からそう言ってると、そう感じるような言い方だった。
「イルカを好きになってくれたのがあなたで良かった」
黒い瞳が潤んだせいか、きらきらと輝く。
「...今まで遠くでこの子を見守ってきて、今更なんでこの子の近くにいれるのか、それは私も分からないの。でも、せっかく近くで見守れるのならって...そう思ってた」
イルカの口から話す言葉をただ、カカシは黙って聞いていた。
「そしたらイルカはあなたに恋をしてた。そしてあなたもまた同じようにイルカを思ってくれてた」
そうでしょ?
聞かれてカカシは軽く頷く。
「でもね。イルカの心は閉ざされているように見えたの。臆病って言うの?私なんかじれったくなっちゃって」
そこでイルカは恥ずかしそうに笑う。
「だからどうにかしたくなって。でも、イルカの前に姿を現す勇気はなかった。拒否されるのが怖かった。だから、うどん屋の子の姿を借りて、あなたに近づいて、」
百合との事を思い出してカカシは小さくため息を吐き出した。
随分と遠回りな事だ。
「それで最後にイルカに乗り移ったって訳?」
言うと、イルカは難しそうな顔をした。
「だって、あなたまでイルカから離れる気なんだもの」
カカシは額に手を当てた。
「...それは俺の勝手でしょ」
「でも私はあなたが良かったのっ」
何を勝手な、と抗議するような目で見れば、悪びれる事もなくイルカはぷいと顔を背けた。
「あなただけだったんだもの...イルカの事をちゃんと見てくれたのは。...わがままくらい言ってもいいじゃない。だって私はこの子の母親なのよ?」
ああ、やっと姿を見せた。
イルカの姿に重なる女性の姿がぼんやりとだが、浮かび上がる。
長く黒い髪を一つに束ねている。黒い瞳。強い眼差しは母親譲りか。
カカシは苦笑いを浮かべた。
幽霊やお化けの類は一切信じない質だけど。
これはきっと夢でもなさそうだから。
信じるしか、ないよねえ。
眉を下げるカカシに、浮かび上がった女性は訝しんだ顔をした。
「なに?」
「いえ、何も。で、母親としてイルカを幸せにしてあげたかった、と、そんなところ?」
言われて、浮かび上がった女性は黙って視線を床に落とした。
「...分からない。私、何がしたかったんだろう...こんな事してもイルカはきっと喜ばない。分かってるのに」
悲しそうに、小さく呟くように。俯いた表情はイルカに似ている。歩き出して窓際に立つ。じっと真っ暗な外を見つめた。
幼いイルカを残して命を落としたイルカの両親。その時のままの若い母親のまま。未だ母親としてイルカの身を案じていた。
振り回されたのた確かだけど、真っ直ぐに子を思うこの人を責める事は出来そうもない。
くるりとカカシに振り返った。
「ごめんね」
悲しそうに微笑む。
「でも、もうすぐ終わりだから」
そう言われてカカシは時計を見る。
短い針と長い針が一番上で重なりそうになっている。
時間がない。そう言っていた百合の言葉が頭に浮かんだ。
そうか。もうこの人はいなくなるんだ。
そう分かったら、急に複雑な気持ちが沸き上がった。
幼い頃の自分が求めていた感情。それに近いもの。
不器用だけど、真っ直ぐにイルカを思っているこの人の気持ちに触れてしまったからだろうか。
「あーあ。私何やってるんだろうなあ」
情けない笑みを浮かべて鼻頭を掻いた。それはイルカのよくする仕草。
「任務で死んだ私が言うのもなんだけど。愛より仕事を優先するなんて間違ってる。心に正直に生きる事が人生。イルカには後悔するような人生は送って欲しくなかったの。私みたいにね」
イルカに重なる女性の光がだんだんとゆっくり薄くなる。
「もっとイルカに愛してるって言いたかった」
上を見上げると同時に零れたのは、涙だろうか。揺らいでよく見えない。
「あなた達が里を守った」
イルカの両親含め、四代目やナルトの母親。あの九尾の襲撃で犠牲になった数多くの同胞。里を守る為だったのに。任務と一言で言うのに簡単に肯定出来なかった。
そう思ったら思わず口に出ていた。
顔をカカシに戻す。イルカの母親は濡れた黒い目に力を入れた。
「人生一度しかないんだから。もっと自由に生きなさい。自由に。素直に」
カカシにゆっくりと近づく。カカシの手を取った。暖かいイルカではない温もり。
「さよなら」
そこでキスをされる。身体はイルカのままだから、イルカに唇を重ねられ
驚きに目を開くと、すぐ唇は離れ、そして悪戯な笑みを浮かべた。
(やられた)
赤面して口を手で覆うと同時に薄くなったイルカの母親の姿は完全に見えなくなる。
(...消えた)
本当にイルカの母親が消えたと、肩の力を抜いた時、目の前のイルカがガクンとうなだれ、慌ててカカシは身体を支える。
意識のなくなったイルカを自分のベットに横にした。
布団をかける。
ぐっすり眠っているイルカを見つめるが、目を覚ます気配はない。
乗り移られて体力が消耗したとか、そんな事もあるのかもしれない。
(俺より体力ないもんねえ)
そんな事を思いながら、カカシはイルカを見つめて微笑んだ。




慰霊碑に行きましょう。
翌日目を覚まして、カカシのベットで寝ていた事実に困惑したままのイルカに、そうカカシは言った。
少し風が強く吹いている。その風もこの季節は気持ちが良い。
二人で歩いて慰霊碑前で足を止める。
黙ってカカシはその慰霊碑を見つめた。
どうしてここに来たいと言ったのか。よく分からないままのイルカは、カカシの様子を窺いながらも、手を合わせる。
目を開け合わせた手を解いたイルカはしばらく黙って慰霊碑を見つめて。
そこからカカシへ顔を向けた。
「そう言えば...昨日は両親の命日でした」
カカシは驚きもしないで、じっとイルカを見つめ返す。
「そう」
イルカは慰霊碑へ視線を戻した。
「なので、ここに来ようと思ってたんですが、何でだろう。俺何でカカシさんの家に、」
首を傾げるイルカを眺めてカカシは微笑む。
「さあ、何でだろうね」
「本当にカカシさんも何も知らないんですよね?」
笑うカカシに、イルカから胡乱な眼差しを向けられるも。そこは知らぬ存ぜぬを通すと決めていた。
「さあ。俺も知りたいくらいです」
カカシは微笑んだまま平然として答える。
イルカは諦めたのか。困った素振りを見せるも、カカシの家に押し掛けたのは記憶がないが申し訳ないと感じているのか。
黙ってしまったイルカに、カカシはポケットから出した手をイルカの肩に置いた。
顔を上げたイルカに優しく微笑む。
「行こう?俺お腹空いちゃった。うどんでも食べよっか」
「うどんですか?」
いつもより距離が近く感じるカカシに、頬を赤らめながらイルカは戸惑いながら聞き返す。
実際、不本意だがイルカの気持ちが分かってしまったのだ。そりゃ嬉しくない訳がない。
「うん。俺奢るから」
ほら、と促すようにイルカの背中を押す。
慰霊碑からうどん屋へ足を向けた。



あのうどんの店は客が増えたのか混んでいた。
少し並んで二人で定食を食べて。
店を出たイルカは苦しそうにお腹をさすった。
「お腹空いてたのもあるんだけど、美味しかったんで食べ過ぎちゃいました」
そりゃそうだろう。昨日の夜からきっと何も食べていないはずなのだ。
カカシはそんなイルカを見つめて眉を下げる。
「あっ」
イルカがそう言って少し先の道ばたに咲いている花を、屈んで見つめた。
「これ俺が昔住んでいた家に咲いてたんですよ」
赤い花びらが可愛らしく膨らんだように重なっている。その花を黙ってカカシは見つめた。
風に吹かれる度にゆらゆらと揺れる。
さっきのうどん屋で見かけた親子を思い出した。
1歳くらいの小さな男の子が両親と共に店にいて。うどんを食べさせてもらっていた。
その男の子の背中にある服に縫われた刺繍に、カカシは気が付いた。
見覚えのある柄。それは、あの百合からイルカにと渡されたされたハンドタオルに縫われたものと同じで。
その服を見ていたらイルカも気が付いたのか。顔を上げ、
「コウモリだ」
そう言った。
そう。確かにコウモリが服に縫われている。
「懐かしいなあ」
イルカの言葉に顔を向けると、イルカは微笑んだ。
「あれ背守りって言うんですよ」
「...背守り?」
「ええ。昔の習わしみたいな物なんですけどね、子供の健やかな成長を願って子供の着る着物の背中に母親が縫うんです。俺もよく縫ってくれてたっけ。...すっかり忘れてたんですけど」
恥ずかしそうにイルカが鼻頭を掻いた。
イルカの母親の面影が、しっかりとイルカと重なる。
「確か、亀とかコウモリとかだったんですよ。小さいながらにもっと格好良いのがいいなあって思ってましたけどね」
そう言うと、イルカはうどんを食べるのを再開させる。
カカシも箸を再び動かしながら。前で食べている男の子の背中を見つめた。



赤い花を眺めるイルカの背中を、カカシは静かに見つめた。
真っ直ぐで一生懸命で。でも自由奔放で。でも憎めない。
イルカの母親が百合として現れた時、必死だったのだと改めて思い知り、思わず笑いを零していた。
イルカが振り返る。
「どうしたんですか?」
きょとんとするイルカに、カカシは口布に手を当てて可笑しそうに微笑んだ。
「だってすっごいんだもん」
イルカが立ち上がった。
「え?何がすごいんですか?」
そればっかりは言えないから。
不思議そうな顔のままのイルカを目を細めて見つめた。
「ね、先生。それよりさ」
「はい」
「これからの事、話そうよ」
「これから?」
「うん。これからの俺たち二人の事」
二人の事。初めてカカシが口にした、イルカへの気持ち。
そう言われて鈍いイルカも気が付いたのだろう。
ぼわっと顔が赤くなったのはその直後だった。
自由に。
素直に。
イルカを幸せにしますよ。
誰にでもなく心にそう呟いて。
熟れたトマトのように赤くなってしまったイルカを抱き締める為に、カカシは腕を広げた。


<終>




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