絵本の中の君⑧

乾いた音が廊下に響き渡った。
夜間の病院の電灯は暗く、非常ライトが足元で赤い色を放ち、其処にいる人間をぼんやりと照らしている。
「因果応報だ」
艶やかな唇をぎりと噛み、綱手は怒りの篭った瞳をカカシに向けていた。
間を置き、叩かれた頬を指で軽く摩りながらカカシは綱手を見た。
「………そうですね」
静かに応えるカカシの目は生気が感じられない。灰色がかったカカシの目を見て、綱手は眉間に深い皺を作り、再び手をカカシに挙げる。それはシズネによって阻まれた。
「綱手様……!」
首を横に振るシズネはそれ以上何も言えない。行き場の失った怒りに綱手の腕がぶるぶると震える。自分の中で必死に耐え、ーーそして掴まれた手を静かに振り払った。
「…サクラが居なくてよかった。お前のこんな姿…見るに堪えんからな」
押し出すように言うと勢いよく背を向け、綱手はずかずかと歩き出した。シズネは綱手を追いたく視線を向けたが、戸惑いながらカカシに向き直した。
「あの、私のせいでこんな事に、」
「いいんです」
シズネの言葉を遮った。
「でも…っ」
「いいの。あなたを責める理由はないよ」
カカシの微笑みはシズネに言葉の先を選ばせなかった。
シズネはグッと口元を引き締めぺこりと頭を下げた。
「っ……失礼します」
既に見えなくなった綱手の後を追った。

人払いをした暗い廊下に、カカシをただ一人取り残していた。
(サクラの話に持っていくところが貴方らしいですよ)
未だジンと痛みを持つ頬を手の甲で触れた。力の加減が難しかったのか、はたまた考えなしに打ったのか。時々綱手からは母親のような愛情を感じた。
母親を知らないが、持つべき感情はきっとこうだったのだろう。
(痛い)
でも痛いのは打たれた身体じゃない。
心だ。
廊下に目を伏せて、闇に溶けるように落ちている自分の影を見た。
そして顔を上げ、一つの扉を見つめる。カカシはドアノブに手をかけた。


イルカは寝台に横たわり、真っ白い薄蒲団が綺麗にかけられていた。
扉を締め、イルカの横に立つ。上下する布団は静かに呼吸を繰り返している事をカカシに見せていた。
(生きてる)
綱手は何も言わなかった。
ただ、治療を終えカカシを打ち、去った。
それだけでイルカは助かったのだと十分に伝わってきた。
綱手はイルカを助けてくれた。
(感謝します…五代目)
震える指に力を込め拳を作れば手甲がキュっと鳴った。

生きてる。

そう、あの時も同じようにこの人の傍らに立っていた。
怒りと悲しみで気が狂いそうだった。
「…イルカ先生。…俺はね…俺なんかの為に、命を投げ出したあなたを許せなかった。だって可笑しいでしょ。勝算のある作戦だったんだから。あなたが犠牲になる必要なんて、微塵もなかったんだよ。なんでそんな簡単に命を捨てるの」
言葉を切って掌で顔を覆った。
目を瞑り顔を顰め、震える唇の端が上がる。
「せっかく俺を厄介払い出来たのに。なのにまたあなたは……っ、人を切り刻んできた価値がない人間に…どうして…」
独白から目を開けイルカを瞳に写した。
「許してなんて言わない。言わないから」
口布を下ろしイルカの唇と重ねる。
「イルカ先生。もう逃げないから。安心して」
手甲から伸びる指でイルカの頬を触る。暖かい。それだけで、十分だった。
カカシはもう一度唇を重ねた。




3日経ってもイルカの意識は戻らなかった。
予想範囲内としか綱手は説明しなかった。必要以上の会話以外しようとはしない。
綱手なりの考慮か、日帰りの任務だけを与えられていた。
眠ったままのイルカはどこも外傷がないからか、ただ寝ているように見えた。
(…綺麗…)
カカシはただ病室に佇んでイルカを見詰めた。
血で塗れた手では触れられない。
1日に一回、任務が終わった後イルカの病室を訪れていた。意識がないのを確認して直ぐに病室を後にする。それ以上イルカの側にいるのを避けていた。
逃げないと決めたのに。
目を開けないイルカを見るのが怖かった。あの目が開いたら。俺を写したら、何を言うのだろう。
あの人の前に立ち続ける勇気がない。

イルカ先生。早く目を覚まして。


任務から帰っても疲れが抜けないからか、風呂にも入らずそのまま寝台に身体を沈め、泥のように寝ていた。
雨が降っている。
眠りが浅くなった時に、聞こえる雨音をうつらうつらと聞いていた。
ふと肩に暖かいものが触れた。なのに身体は重く起きる事が出来ない。
”カカシさん”
イルカの声が頭上から降る。
(先生の声…)
優しい声に心がじんわりと暖まる。
夢の中にイルカが出てきている。
カカシはその声を聞きながらまた眠りに落ちそうになる。
「アカデミーの裏庭で待ってます」
今度はハッキリと聞こえた。
重かった身体が軽くなり、目をパチリと覚ます。カカシは勢いよく起き上がり部屋を見渡した。
誰もいない。
息を吐き出して窓から外を覗けば、つい先程まで降っていた雨もわ雨脚が弱まっている。
(…夢…?)
だが、微かに感じる人がいた気配。
でもイルカがここに来るはずがない。
頭を掻き考える。
(アカデミーの裏庭…)
カカシは立ち上がるとシャワーを浴びに浴室へ入って行った。

家を出る頃には雨は上がっていた。
太陽も明るく水溜りがきらきらと輝いている。
病院へ行くべきか迷ったが、カカシはアカデミーへと歩を進めていた。
アカデミーの裏庭。
憶えがある。確か、其処は記憶を消したイルカと初めて声を交わした場所だ。
”初めまして”
イルカは緊張しながらも、はにかんだ笑顔を見せた。
思い出しただけで胸がキリと痛む。
身体が震えるのを隠してあの人に微笑んだ。
”初めましてイルカ先生”
そして心の中で呟いた。
”愛してる”
それが貴方への最後の言葉。もう二度と愛してると言わない。
あの瞬間から自分を殺して写輪眼のカカシとしてイルカと接すると決めた。

裏庭に近づくにつれ道には草が多い茂っていた。忙しく暫くだれも手入れをしていないのだろう。
桜の木はまだ青々と葉を伸ばしている。その下にあるベンチに座っている人影を見た。
カカシの呼吸が止まる。
心臓が痛いくらいに脈打った。
全身が硬直したまま動けないカカシに、座っていた人が立ち上がり振り返った。
黒い髪を綺麗に一つに結び、乱れなく着込んだ忍服を着たイルカが、真っ直ぐカカシを見ていた。
正にさっきカカシの中で蘇っていた記憶の様に、イルカは変わらない緊張した面持ちを見せていた。歩いて固まったままのカカシの前で立ち止まる。
本当に目の前にいるのは、間違いなくイルカだ。
それでもどう対応していいのか、カカシは只々イルカを見詰めた。
「…初めましてって言ったらいいですか?」
イルカは少しだけ口角を上げて伺う顔を見せた。
「……何してるの?」
ようやくカカシから出た言葉に、イルカは期待はずれとばかりに片眉を吊り上げた。すました顔をして拳を口に当てた。
「じゃあ始めますよ。…んっ、んんん…初めましてカカシ先生」
咳払いをして演技ぶるイルカに眉を顰めた。
まだ混乱したままなのに、何をし出したのかよく掴めない。
「イルカ先生?」
「違いますよ。そこは、初めましてイルカ先生、でしょ?」
ほら言って、とカカシを促がし、黒い目にカカシを写した。その瞳には困惑しながらも心配そうにしているカカシが写っている。
「ね、イルカ先生。身体は大丈夫なの?」
カカシの問いかけにイルカはふと視線を外した。何かを考える様に口を閉じ、鼻から息を出す。
「イルカ先生?」
黙ってしまったイルカの顔を覗き込んだ。
イルカは手を後ろで組んでくるりと背を向け歩き出した。顔は空を見上げている。
「カカシさん、俺はここからしか貴方の記憶はないんです。だからね、またここから始めましょう」
「……何言って、」
言いかけたカカシを前にイルカは振り返り破顔し、カカシは言葉を失った。
大好きなイルカの笑顔。
「カカシさ、」
イルカの言葉は塞がれた。カカシの唇によって。

「イルカ先生、イルカ先生、イルカ先生…」
唇を離してカカシはイルカを抱き込みながら名前を何度も呼んだ。微かに震えるカカシの身体を、イルカはそっと抱きしめる。
「それでいいじゃないですか」
なだめる様に背中を撫でて。力が込められたカカシの腕の中で嬉しそうに微笑み目を閉じた。

イルカの記憶は蘇っていない。だが、毒を呑み意識を失っていた時、あの任務での刹那が頭に広がった。
カカシを庇い意識が遠のくイルカの頭に響くカカシの声。
必死に、何度も自分の名前を呼んでいた。
肩を抱いているのはカカシだろうに、そんな近くで何故何度も呼ぶのだと、冷静に思った。
だってあなたは助かったのに。
何故悲しそうな声を出すのか分からなかった。
抱きしめられるカカシの身体の暖かさと自分の心臓の鼓動だけがかすかに意識を保たせていた。そして、なんとなく、身体から命が消えそうになっていると思った。その時やっと分かった事がある。

首元に顔を埋めながらイルカは口を開いた。
「…カカシさん。俺が生まれてきたわけは、ーーあなたに会うためだったんです」
そう言えばカカシは弾かれた様にイルカの顔を見た。酷く驚いた顔をしていた。
イルカは笑いを零し目を閉じると再びカカシを抱きしめる。
だってそうでしょう?それ以外に考えられないんです。
イルカはそっと囁いた。
カカシさん。
命が無くなりかけても
記憶を失っても
俺は何度でも見つけ出して
あなたを護る

ずっとーーーーそう、ずっと。


カカシは小さく頷いて呟いた


愛してる



<終>

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