きえる⑧

「散らかっててすみません」
前聞いたような台詞を口にしながら、イルカは床に置いたままになっていた本を拾った。
積み重なっている参考書や雑誌、他は適度に整頓されている。
あの時ここに来てからそこほど経っていない。だから何も代わり映えもしていないのは当たり前。
ただ、言えるのは。あの時の容姿とは違うと言う事。
「カカシさん」
その通り、イルカが自分の名前を呼んだ。
振り返るとタオルを手渡される。それだけで、妙に胸がざわめいた。
「コーヒーはブラックで良かったですか?」
「うん、そう」
頷くカカシを確認し、どこか適当に座っててくださいと告げると、イルカは台所へ向かった。
その背中を目で追いながら、座ることなくまた部屋を見渡していた。無意識でいて無意識ではない。女の影を探している自分に気がつく。
いようがいまいが関係ない。と思い直しながら、自分に舌打ちしたくなった。
ーーでも、イルカの匂いに包まれたこの部屋からは、そんなものは一切感じない。
カカシはそれが分かって息を短く吐き出した。
よく説明しようがない緊張感に解き放たれたカカシは、そこで奥の部屋を何気なく覗いた。居間より小さいその部屋にもまた本が床に積み重なっていた。雑誌でなはく学術書や忍術関係の書物。そこから視線を上げ目に入ったものに、カカシの身体が固くなった。
何でもない。シングルのベットが窓際に置かれている。その布団がめくれ上がっていた。それは朝寝坊して起きてそのままになっていた、そのままの光景に過ぎないのに。
乱れたイルカの布団に目が釘付けになる。同時に心臓がやけに早く動き始めた。勢いよく流れ始める血液は、確実に下半身に巡る。
「あ、」
イルカの声にカカシは振り返る。台所から顔を覗かせていた。少し驚くカカシを前に、イルカは恥ずかしそうに、苦笑いした。
「今日朝寝坊しちゃたんですよ、見苦しくてすみません」
動揺を隠すようにしてカカシは寝室から目を逸らした。そう、と呟き居間へ身体を戻せば、またいるかが、あ、と声を出した。
「座布団、出してなくてすみません」
「え?あ、いいよ別に」
「でも、」
「いいよ気にしなくて。ほら、俺濡れてるし」
「待っててください」
イルカは慌ててさっきの寝室へ向かい、奥から客人用の座布団を引っ張り出した。
「すみません、どうぞ」
そう言われれば手を差し出さないわけにはいかない。カカシはそれを受け取り、胡座をかいて座った。
そこからマグカップを持ったイルカが台所から現れ、目の前にコーヒーを置かれる。
さっきの光景からの自分の動揺に、何か話そうと思うも未だ頭が回らない。
カカシは覆面を下げ煎れてくれたコーヒーを一口飲む。熱いコーヒーは素直に有り難かった。そこからイルカへ目を向ける。
イルカもまた湯気の立つコーヒーを啜り、あち、と小さく零していた。
ここにいれば、否応なしにどうしても思い出す。あの時の光景。浅ましい自分と、玄関に立ち尽くしずぶ濡れの女。
「ねえ先生」
マグカップから離した口から、そんな言葉がじぶんから出ていた。呼ばれたイルカは視線をカカシに向ける。
「聞いた話なんだけど」
はい、と答えたイルカはマグカップをちゃぶ台に置く。
「先生にすごい積極的な女がいるんでしょ?」
「え?」
聞き返され、ほら小柄で同じ教員の、と付け足すと、イルカは合点したのか。ああ、と呟いた。
「先生彼女いないって言ってたけど、ちゃんといるんじゃない」
イルカは困ったように小さく笑って鼻頭を掻いた。
「いや、そんなんじゃないですよ」
謙遜でもない、嘘をついているようにも見えない。確認するかのような自分の問いに出したイルカの答えに、安堵するカカシを前に、イルカは続ける。
「何て言うのかな、後輩なんですが、俺にとっては妹みたいにしか感じなくて」
異性として、恋人の対象ではないと言うイルカのその笑顔に、あの女のイルカを見つける表情が浮かぶ。
明らかに、イルカを求めている。それが自分にはよく分かっていた。それを分かっていないと言うイルカに、一回視線を落としたカカシは、イルカへ顔を向けた。
「へえ。でもさ、俺も見かけたんだけど。ずっごい好きオーラ出てたよ、あの子」
言いながら。こんな事を言う自分はおかしいと、それは分かっていた。自分は一回女になって、どこかおかしくなってしまったのか。あの女の感情が自分の中に重なっているような感覚。
答えを待つカカシに、イルカは少し考えるように口を閉じ。そしてまたゆっくり開いた。
「それは・・・・・・たぶん。たまたま近くにいた都合のいい相手を好きだと思ってるだけだと思うんですよね」
嫌みなくらいにその台詞が胸に突き刺さった。
それは、あの時。女になった自分が。ここで、イルカを求めたのも同じだと言わんばかりに聞こえて。あの時の自分を突きつけられている感覚にカカシは息が苦しくなった。
それを払拭したくて。マグカップに視線を落としたままのイルカを見つめた。
「でもさ、近くにいる人を好きになるって言ったのは、イルカ先生だよね」
「・・・・・・え?」
きょとんとするイルカに、カカシは眉を寄せた。
「俺にそう言ったじゃない、遠くに離れているより近くの出会いを選ぶって」
イルカは、言葉を受け止めるようにぼんやりとして。そこから微かに眉根を寄せた。黒い目をゆっくりカカシに向ける。
「確かに・・・・・・言いました。でも、それは・・・・・・俺の記憶ではカカシさんじゃない人に、言ったはずですけど」
はっとした。
一瞬にして頭が真っ白になる。緊張が体中に走った。言い訳したくても、何を言ったらいいのか分からない。
その表情を見逃すはずがないイルカは、さらに眉根を寄せた。
「・・・・・・どういう、事でしょうか」
カカシさん。
静かに名前を呼ばれるも、真っ白になったままの頭はぴくりとも動かなかった。イルカの視線が痛いほど突き刺さる。
「あれは・・・・・・あの女性は、カカシさん・・・・・・あなただったんですか?」
人前でこれほど動揺した事があっただろうか。喉が圧迫され言葉が出てこない。それは、認めていると同じだと分かっていても。そんなカカシを見てイルカは不愉快そうに顔を歪めた。
怒って当たり前の状況で怒らない訳がない。責める言葉を吐き出そうとイルカは口を開けたが、呑みこむように閉じ息を吐き出した後、苦しそうな目を向けた。
「何でこんな事を・・・・・・」
「女に変化したのは任務で、」
イルカの辛そうな表情に、堪らずカカシは薄く口を開いて出た言葉は、簡素な言い訳だった。
「任務・・・・・・ですか」
カカシの言葉にイルカが反芻し、笑った。
「もし・・・・・・これが任務なら、任務失敗ですね」
顔を上げると、イルカはカカシから視線を逸らした。それだけで胸が痛くなる。
「本当の任務ではそんな事にはならない。そんなことは分かってます。でも・・・・・・俺をからかって楽しかったですか?」
「からかってなんか、」
「からかってないなら、何であんな事を」
イルカの正面からの責める言葉と共に、イルカを求めるように名前を呼んだあの場面が頭を過ぎる。
 イルカ先生
あの時、確かに自分が呼んだ。
それを思い出して見ても。イルカを目の前にどう説明したらいいのか。
「・・・・・・わかんない」
イルカは呆れたように短く笑った。
「分からないって・・・・・・だから、からかうのが目的だったって、認めればいいじゃないですか」
「そんなんじゃない」
「いや、そうですよ」
「違うっ」
大きくなったカカシの声に、びくっとして口を閉じたイルカを見てカカシは気まずそうに頭を掻いた。
「ホントにわかんない。何であんな事したのか・・・・・・最初は確かにからかう気持ちがあったかもしれない。でも。途中からよく分からなくて。あの女が出てきた頃から。どうしてもあんたが気になって」
その時の場面場面の自分の気持ちが鮮明にわき上がってくる。言い訳じみている言葉にイルカが耳を傾けてくれている事に、カカシは見えない糸をたぐるように、記憶を探りながら口を開く。
「俺が元の姿に戻っても、あの女が・・・・・・あんたに話しかけたり、会話をしてるのを見るもの嫌だった。だからもっとイルカ先生が自分に目を向けて欲しくて。あんな女じゃなく俺を、ーー」
あれーー?
言いながら、自分の言葉のその先がおかしい事に気がつく。
でも。
それは、自分が言いたかった事で。いいかけたその先の言葉を、心に宇浮かばせてみる。
俺をーー見て欲しかった。
え?
混乱する頭を押さえようと動かした手がマグカップに当たっていた。音をたて転がった黒いコーヒーがテーブルから床へ流れ落ちる。マグカップも一緒に床に落ち、ごとんと重い音を立てた。
「あ、ごめ」
「いいです。俺が、」
落ちたマグカップへ手を伸ばした。それはイルカも同じだった。
先にマグカップに触れたイルカの手にカカシの手が重なる。
イルカの肌に触れた瞬間から、身体が勝手に動いた。空いたもう片方の手がイルカの顎を持ち、自分の方へ向けさせる。
イルカの唇へ自分の唇を重ねそうになり。
やばい。
イルカは男で。自分もまた。
それで、俺は何をしようとした?
ばっと勢いよく両手をイルカから離す。驚きと困惑の表情のイルカを見たら、この場に居たくない衝動がカカシを支配した。
ごめんと、言いたいのに。それすら口から出てこない。逃げ出したい衝動に身を任せるように瞬身しようと印を結ぼうとしたその手をイルカが掴んだ。
「また消えるんですか」
あの日、勝手に姿を消した事を責めるように。目を見開くカカシを、イルカがじっと見つめていた。
逃がさないとするように、カカシを掴むイルカの手に力が入る。力では自分が勝っている。このまま振り切って印を素早く組むことは簡単だ。それをイルカも分かって尚、制止しようとしている。
それが分かったら、これ以上逃げようと思えなくなった。カカシは身体を力を抜いて組んでいた指を解くと、イルカもまた手を離した。
「・・・・・・俺にどうしろって言うの」
カカシは苛立ちながら呟いた。
だって、正直行き詰まりだ。目だけを逸らしたカカシに、イルカは息を吐き出した。そのため息に目を向ければ、さっきの力の籠もった目の光はもうなかった。落胆気味にも見える表情に眉を顰めると、
「女性だった時もそうですけど、・・・・・・本当、あなたは素直じゃないですね」
静かな声でぽつりと言った。
「・・・・・・え?」
「何をそんなに怖がってるんですか?」
怖がる。その指摘にカカシは眉を寄せた。
「もう少し・・・・・・ちゃんと話をしませんか」
「話なんか、」
「あるでしょう」
真剣な眼差しを向けるイルカを見つめ返した。
怖がっていると言った意味が自分に当てはまっていると、気がつく。
イルカは何もかも、分かってる。
「じゃあ・・・・・・それって、好意的にとっていいの?」
恐る恐る聞くカカシに、イルカはふと間を置くように目を伏せた。
「そうですね・・・・・・あなたのした事は許せないですが、でも・・・・・・今、あなたを前にして凄く緊張してるんです」
悔しいですが、と小さく呟いた。

もう、出口がないと思っていた。
でもそれは、自分の答えが出ていたからだ。
目の前のイルカに、恋愛感情を抱いているという答えを。
それが嘘でない証拠に、自分も今緊張し始めている。
とんとんとリズムを打つ心音を感じながら、どう切り出すべきか。じっと我慢強く待ち続けるイルカに、カカシは唇を軽く噛む。
床に視線を落とし、静かに深呼吸をした。
火影でもない誰かに怒られたのは久しぶりだった。言い争いをしたもの。
最初、嫌な奴だと思った。
なのに、気がついたら。手を掴まれて。雨の中引っ張られるように走った。
写輪眼じゃない誰でもない自分を、気にかけた。
しつこいくらいに。
そんな奇特な人は、きっとイルカだけ。
でも、はたけカカシにくってかかってきたのも、イルカだけ。
(ああ・・・・・・なんだ)
鈍い自分に笑いたくなる。
あの時。中忍選抜試験の時からずっと。
俺は。
視線をイルカに向ける。
「イルカ先生」
名前を呼ぶ。
その感覚がひどく心地良い。
確信した答えを告げる為にカカシの口はゆっくりと開く。

「俺、先生を好きになってもいい?」

それは、はたけカカシが生まれて初めて人に告白をした瞬間だった。




後日、俺が下?と窮地に陥った声を出したのは、イルカだというのは言うまでもない。



<終>
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