先生⑨

「イルカ?」
顔を向けたイルカは一瞬、目の前にいるのが誰か分からなかった。
「…………」
「失礼ね。忘れたの?」
数ヶ月前に自分の恋人だった女が拗ねたような顔をした。
髪を切ったのか。
ショートボブになった彼女の髪は薄い栗色。それは変わらず、短くなった今も手入れがされ、綺麗なままだった。
「買い物?」
イルカの手に持った袋を指さされる。大根が袋から顔を出していた。
所帯染みてる所が嫌とか、言われた記憶が蘇り、イルカは苦笑いを浮かべた。
「まあ、な」
「…私も」
「え!?」
「何その言い方。…私も料理するようになったのよ」
キッチンが汚れるからとか言って、包丁さえ触らなかったのに。彼女の変わった姿を見て、イルカは微笑んだ。
「そっか…」
「そう。……ね、私なんかが聞いちゃ駄目なんだろうけど」
並んで商店街を歩きながら、彼女が口を開いた。
「どうかした?」
「…え?」
ぼんやり聞き返してきたイルカに、彼女はため息まじりに抗議するような眼差しを作った。
「相変わらずわかりやすいのね」
「そう…かな」
「そうよ。で、好きな人出来たのよね。…さっきのイヌみたいな子なんだ」
「え!!」
驚いた後、変に目を泳がすイルカに、彼女がジッと見つめた。
「さっき、商店街で眺めてたぬいぐるみ。銀色の…犬。違うの?」
「あ…」
「覚えてない?私と付き合って間もない時に、同じようにぬいぐるみ見て言ったじゃない。私に似てるからって。それで、プレゼントしてくれた」
私は茶色の猫だった。
ぼんやりと思い出そうとして、彼女が小さく笑った。
「私の思い出なんか思い出さなくていいわよ。それで、イルカ。ちゃんと言った?」
「………」
「やっぱり。言ってないなら、ちゃんと言った方がいいわよ?」
「……ちゃんとって、何を…」
独り言のように呟いたイルカに、彼女は眉根を寄せた。
「あのね、もっと自分に自信もっていいんじゃない?」
少し怒ったような目をイルカに向けていた。振られた相手に自信を持てと言われても。と、その意図を含んだ目に気がついたのか。彼女は誤魔化すよう咳払いした。
「変わってないわね、あなたは。分かってると思うけど、言わなきゃ、伝わらないのよ?」
またいい人で終わっちゃうわよ?

それは、彼女と付き合って別れるまで、終始言われていた言葉だった。
彼女の言っている事はもっともだと思う。正論だし、その通りだと。
でも。
それは相手がカカシじゃなかったらの話だ。
言っても、変に空回りして。
誤解させて。
気を使わせて。
嫌われた。
心の中はどろどろだ。コールタールの海が広がる。
さっさと切り替えればいいって分かってるのに。自分がこんなに女々しいなんて思わなかった。


火影から頼まれた書類を提出して執務室を出る。狭い廊下の先にカカシが歩いていた。上忍仲間と何か話をしながら。次第に距離が縮まり、イルカは身体を隅に避けながら頭を下げる。
カカシはーー、一瞬でもこっちを見なかった。上忍と話をしながら、通り過ぎて。
イルカは直ぐ近くにあるトイレに入り、その奥にある個室に入った。蓋の上に座り込む。止めていた息を吐き出した。
目も合わさない。
それは、決定的で。
立っていられなかった。本当はその場で座り込みたい衝動さえ起きたけど、なんとか、こらえた。
  もうやめるから
もうやめる。それは、もう俺を見ないという事だ。
頭が。どろどろだった頭が。
もう真っ暗だ。
落ち着かせる為にゆっくりと、もう一度深呼吸する。その吐き出す息さえ震えていた。そしたら堪らなくなって、あまりにも情けなくなって両手で顔を覆った。
  先生、俺はさみしい
彼にとったら何気無い言葉だったんだと思う。
でも自分からしたら何より忘れられない言葉で。俺はその言葉に縋りそうになる。
イルカは強く首を振った。
違う。そうじゃない。
考えてみれば、俺はまだ20代半ばなわけだし。今好きな人が10年後も好きかと言うと、それは分からないんだ。
もしかしたら1週間、1ヶ月、明日だって心変わりがあるわけで。人生は長くて、俺にはまだ分からない恋愛の種類がたくさんあって。
出逢って
別れて
ーー別れて終わった彼女のように。
だから、大丈夫。
今辛くても、何も一生に一度きりの出逢いじゃない。運命の人なんてのは思い込みで、なんとでもなるもんだ。
またこれから先、別の誰かを恋をして、知って、こういうのを繰り返すーー。
覆った指の間から見える床をぼんやりと眺めて、小さく笑を零した。顔を上げ、立ち上がる。
個室からでた瞬間、
「先生!!」
バタン、と突然開けられた扉を開ける音と声に、イルカの身体がびくりと反応した。
「カカシさん…」
目を丸くしたイルカを見るなり、カカシが顔を歪めた。
そして、詰め寄る。
勢いに押されたイルカは後退し、狭い場所から直ぐ壁際に追い詰められていた。
驚くくらいに真剣な眼差しに、どうしたらいいのか。さっきまで上忍仲間と執務室へ向かっていたはずなのに何故カカシがここに来たのか。それに何故こんな顔を。ーー怒っているのか。一体何に?
「先生、何であんな顔したの」
「え、…」
あんな顔。言われても何の事か。
怒ったような、そんな目のまま、問い詰められ、しかも自分が今どんな顔をしているのか分からない。
「ねえ、何で?」
(…んなこと…言われても…)
困惑と動揺に言葉を探してみる。
「泣きそうな顔なんて、しないでよ」
言われて、かあと顔が熱くなるのが分かった。そんな顔したつもりは毛頭なかった。不意にカカシはきつく見据えていた目を伏せた。銀色の髪が視界に入る。
「俺…どうしたらいいの?近づくと嫌われるし、無視したら泣きそうな顔されるし」
そこまで言うと、イルカに視線を戻し、ぐっと苦しそうに目眇めた。
イルカも未だ頬を赤らめたまま少しだけカカシを睨んだ。
「無視…したんですね」
「だって、先生がそうして欲しいのかと思ったから」
「そんなの、俺は望んでませんっ」
「…そうなの?」
「俺はっ、…た、ただ、っ、…カカシさんと前みたいに…」
「…え?なに?」
聞き返され、イルカはぎゅっと目を閉じた。
「…っ、前みたいに笑って、話したいです!」
「………」
返答をしないカカシに、イルカは続けた。
「だからっ、前みたいにご飯食べたいし、家に来て欲しいんです!!」
そこまで言い切ってカカシを窺う。
カカシは。不思議なくらいイルカをジッと見ていた。ただ、ひたすらにずっとイルカの顔を見つめ続けている。凝視され、穴があきそうな気持ちに陥りそうになり、イルカは眉をひそめながらカカシを見た。
「……何か…」
「先生」
「はい…」
「先生ってさ、…もしかして、俺の事…好き?」
唐突過ぎる言葉。でもそれは自分の中に秘めていた答え。それを本人から突きつけられ、イルカは口を開けるが自分でも驚くくらいに何も出てこなかった。
「……そ、れは…」
口の中も、喉も、からからになっていた。
茶色の猫に似ていた彼女が言った台詞が、入り込む。
  自信を持ったら?
  言わなきゃ、伝わらないのよ?
自分の身体が、脚が、腕が、指が、睫毛さえ震えていた。
さっきは手放してもいいと思った筈なのに。
目の前にいるカカシを見たら、そんな事考えるのは馬鹿だと分かってるのに、素直に、思う。
深い海の底の色をした目を。
無骨な自分の手なんかより比べものにならないくらいに、綺麗な手を。
柔らかそうな銀色の髪を。
たぶん、全部。

欲しい。

俺は、この人が。カカシが。

欲しい。

それだけ思ったら、薄く開いていた自分の口から笑いが漏れた。
青い色が一回瞬きをする。
「………センセ?」
だって、可笑しい。
「…すみません。でも…可笑しくて。間違ってるって何度も思うんです。でも、…どうしても…」
下唇を軽く噛んで、カカシを見た。
「やっぱり、カカシさんが好きみたいで。どうしても。…どうしても好きで…、好き、」
チュ、と音を立てて。言葉を遮られたのが何だったのか。
口布が下されていた。ふわと目の前にいるカカシの顔が近づき、今度はゆっくりと唇を塞がれた。
思ったより暖かいカカシの唇。目を開けたまま受け入れていた。
重ねられた事が、どう言う意味なのか。聞かずにはいられなかった。
「…カカシさん」
「うん?」
間近にある優しい眼差しに涙腺が緩みそうになる。
「もしかして…俺のこと、好き…ですか?」
気がついたら、カカシの腕の内にいた。また少しだけ力を込められ、抱き締められた。
カカシが自分の耳元で囁く。
「うん。好き」

俺の脳みそが止まってしまったので、全てが止まって見えた。でもすぐに周りの音が聞こえ出して、現実の世界だと感じた。
だって、自分の心臓とカカシの心臓の音も、はっきりと感じる。
夢かもしれないと思ったけど、俺の脚はしっかりと立っていたし。
それは雲の上ではなかった。




「先生」
「…はい?」
んふ、と変な笑いを漏らされ、顔を上げる。
大好きなカカシの顔が。大好きな微笑みを浮かべた。
「俺はイルカが可愛い」
ぽかんと口を開けたまま、じわじわ熱を持ち始める。汗まで掻きそうになくらいに真っ赤になったイルカを見て、カカシがさらに目を細めた。
「ずっと言いたかったから」
いい歳した平凡過ぎる男の自分なんかに。
似合わなさ過ぎる。
なのに。
そんな嬉しそうな顔をされては。
ズルい。
せめて顔を見ないで欲しくて、イルカはカカシの首元に顔を埋める。
ああ、熱い。
身体が燃え上がりそうだ。
「センセ」
喜びを噛みしめるように、カカシは何度も先生と呼び、恥ずかしさの波にのまれてしまったイルカの背中を優しく撫でる。

その「先生」にカカシがなり、大切な教え子の上忍師になったのは、この1ヶ月後の事だった。



<終>


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