猫だって笑わないとは限らない

「クリスマスの予定は?」
聞かれてイルカはガチャガチャと書類にガチャガチャとナンバリングをつけながら、んー?と聞き返した。
「だから、クリスマスの予定だって」
もう一度言われ、そこで手を止めたイルカはイワシへ顔を向けた。片眉を上げる。
「野暮な事聞くなよ。24日はフルで受付。そんで25日は午前中まで授業で終わったら商店街のクリスマス会の手伝い」
分かってんだろ。俺たちにはクリスマスも正月もないんだから。
お互い辛いですなー、とイルカはナンバリングした書類を揃える。大変だと言いつつも愚痴ることはないし、イルカの顔は穏やかだ。
確か、はたけ上忍は短期任務から帰還するのは年を跨いでから。恋人が出来てもイベントはこの仕事である限りほとんど関わりは皆無だ。諦めもあるのかもしれないが。
「なあ」
声をかけると、今度はすぐにイルカが顔を向ける。
「そのクリスマス会、俺も手伝っていいか?」
イルカが一瞬キョトンとした。
「……ああ。人手があってないようなもんだから助かるけど。あれ、イワシは午前で上がるって、」
「ああ、うん。まあそうだったんたけどな」
黒い目が何か言いたそうにイワシを見つめるが、すぐにその目元を緩めた。
「じゃあ、遠慮なくこき使わせてもらいますかね」
悪戯な表情で笑ってイルカは席を立つ。書類を持って部屋を出るために歩き出し、ふとイルカは振り返った。
既に視線を落としかけていたイワシは、目線をイルカへ上げる。
「コーヒー、買って来るけど?」
「ああ、じゃあ俺も」
「はいよ。ブラックね」
イルカは片手を振り部屋を出て行く。
受付で一人になって。イワシはゆっくりと息を吐き出した。
空気、読みすぎだろ。
友達相手に。
イルカの何気ない気遣いに、落ち込んでいた気分が救われる。それでも、少しでも気持ちを軽くしたくて、イワシはもう一度ため息を吐き出しながら、ぼんやりと視線を漂わせた。


イルカの言っていた通り、クリスマス会は昼からひっきりなしに動いていた。子供達の為の劇の裏方や、片付け。料理を作る裏方にも回される。玉ねぎや人参、ジャガイモの皮をひたすら剥いては切り、作ったのはカレー。炊き出しで慣れてはいたが、量が多い。カレーを配り片付けを終える頃には既にプレゼント交換が始まっていた。
みんな輪になり楽しそうに笑っている。
寒さを忘れ、腕まくりをしたままプレゼントを開け歓声を上げる子供達を眺める。
イルカはサンタ役になり、似合わない白ヒゲをつけて子供達と一緒に笑っていた。

クリスマス会が終わり、イルカは商店街の人と打ち上げに向かう。イルカに誘われたが断り、イワシはそのまま家に向かった。
手には商店街の婦人会が作ったお手製の弁当とケーキ。急遽参加した手前、いらないと断わったのだが、ちゃんと働いたんだから貰わなきゃ、と八百屋のおばさんに持たされた。
ありがとうね。暖かい笑顔に送られ、イワシは頭を下げた。
商店街を出て裏道に入る。細い道から見上げる夜空は雲で覆われている。今にも雪が降り出しそうだ。
カラン
少し先で音がしてイワシは視線を空から戻す。
黒い猫が並んだゴミ箱の上に座っていた。中を漁りたかったのか、手前のゴミ箱の蓋が落ちている。
しかしここは魚屋からも惣菜を扱う店からも遠い。きっと野菜のクズしか入っていない。
てっきり逃げるのかと思ったが、黒猫はニャーン、と高い声で鳴くとゴミ箱から地面に降りた。
イワシはわずかに眉を寄せ、顔を猫から背けると歩き出す。猫の横を通り過ぎ数歩歩いたことろで足を止めた。じっとこちらを見ていた黒猫は歩み寄り、イワシの脚に自分の顔から身体を擦りつける。屈んで手を伸ばすとその指先の匂いを嗅いだ。指先に戯れるように黒猫が顔で触れる。冷たい外にいるせいか、猫が触れた指先が暖かく感じた。
猫は鼻を動かしながら屈んでいたイワシの持っているビニール袋を嗅いだ。
「……腹、減ってんのか?」
猫が顔を上げた。ニャア、と鳴かれ思わず苦笑いを浮かべる。
弁当を開けると中に鯖の塩焼きが入っていた。
「食べるか?」
手でつまんで持ち上げて見せると、黒猫はじっと魚を見つめる。
イワシは解し骨を手で取り除き、塩がかかっていない身の部分を手のひらに乗せると、ぺろりと食べた。
上げれる身を全て食べさせると、黒猫は満足そうにゴロゴロと喉を鳴らす。イワシはそっと手を伸ばし頭に触れる。思ったよりも柔らかい毛。頭を撫でさせてくれるのは珍しい。
野良猫でも、商店街で餌付けされ人馴れしているんだろう。
でも、猫に触れたのは久しぶりだった。許してくれ懐く黒猫に目を細め指先で額を掻くように撫でた。
「……よし、じゃあどっか暖かい場所見つけて寝ろよ」
寒さを思い出したように黒い空を見上げると、イワシは立ち上がった。
今日はゆっくり湯船に浸かって明日の出勤に備えよう。
歩き出だす。しばらく歩き、感じる気配に後ろを振り返り嘆息した。
「……お前の縄張りはあっちだろう。早く帰れって」
それだけ言うとイワシは早足で家路へ向かった。


部屋に入り扉を閉める。結局付いてきた黒猫はするりと足元からすり抜けると、たたた、と駆け自分よりも先に部屋に上がった。
ベストを脱いで手を洗うと、イワシは冷蔵庫を開ける。ビールを片手に居間に戻った。
コタツに座ると、既に部屋の住人のように対面のコタツ布団に丸くなっていた黒猫が起き上がりイワシに歩み寄る。膝の上に乗り、収まるように丸くなった。
懐かせるつもりはなかった。でも、こんな寒い日の夜くらいはいいのかもしれない。お互いに。そう自分に言い聞かせながら背中を丸めてビールを喉に流した。イルカのように石油ストーブを買おうか。コタツだけでは温まらない部屋の空気に、何気なくリモコンを取りテレビも付けた。
弁当を食べビールを全て飲み干す。もともと酒はあまり飲まない。ビール一本で手軽に酔えるのはある意味経済的だと、友人の誰かが言ってたっけ。それに眠い。
イワシは目を膝の上にいる黒猫に落とした。心地よさそうに寝息を立てている。
何も心配する事がないような安心しきった寝顔。
「……お前はいいなあ」
羨ましそうな眼差しで呟く。
そこから、少し戸惑いながらもイワシは指を伸ばした。ゆっくりと背中を撫でれば、黒猫はわずかに身じろぎをした。
柔らかい毛並み。こんな風に猫に触れたのはいつぶりだろう。イワシは屈んだ。顔を埋める。
「……あー……」
自然声が漏れる。
知ってる。
いつか飼っていた猫と同じ。お日様とミルクの混じった匂い。
懐かしさと幼い頃の思い出に胸がいっぱいになった。
あの人に、猫は好きじゃないと言ったのは嘘だなんだ。
本当は大好きで。
でも、飼うのはーー。
柔らかく暖かい猫の毛に顔を埋めたまま、考え事を続行させ顔をぐりぐりと動かした時。
ニャア、と鳴いた。
「あ、ごめん」
眠りを妨げられて喜ぶ猫はいない。
慌てて顔を上げたイワシの目に飛び込んできたのは、嫌がり抗議する顔ではなくて。
丸で笑っているようで。ーーいや、笑っていた。
え、と思った瞬間白い煙がぼふんと上がる。
目の前にアンコがいた。久しぶりに見た、アンコの顔。
呆気に取られながらも、把握できる事はただ一つ。
「……何をやってるんですか、貴女は」
呆れた声が出た。
喧嘩したかった訳じゃなかった。
ただ、引っ込みがつかなくなって。
謝るタイミングも失って。
こんな事で顔を見せなくなったアンコに腹が立っていたのに。
「猫好きなんじゃない」
気まずそうにしながらも、そんな事を言ってくる恋人に取り敢えず今言えるのは。
「ねえアンコさん。今どんな状況か分かってますよね?」
「え……、あ、」
言い訳より前に知らしめられた状況。イワシの上に跨ったアンコは、ほわと恥ずかしさに頬を染めた。
逃げ出そうとするが、イワシはアンコの腕を掴む。逃がすわけがない。
「……猫、飼う?」
「飼いません」
アンコの質問にきっぱりと断り、猫は好きですけど、今はこうやって俺の忍耐力を試してくる貴女だけで十分なんですよ。顔を赤くさせたアンコを自分の腕の内に抱き込み、そう囁く。
アンコは恥ずかしそうしながらも目を緩め、ニャーン、と嬉しそうに笑った。




<終>
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