花火②

大丈夫。

本当は。
その言葉をカカシから聞きたかった。

「あ、あの!?」
少し焦った声だった。
「どうしたんですか?」
男がひどく動揺し、面越しにイルカの顔をのぞき込む。
「え?」
聞き返して瞬きと同時に目から落ちたものが、イルカの頬を濡らした。
それが一瞬涙か分からなくて、手の甲で拭い、ようやく気が付く。
「あれ、何だろ。いや、何でもないです。すみません急に」
目を擦りながら笑うイルカを見つめる男は、顔は見えないものの、心配そうに見つめているのは、分かった。
「本当に大丈夫ですか」
「ええ、大丈夫です。急に気持ち悪いですよね、すみません」
「気持ち悪くなんかないです」
あはは、と笑いながら言った言葉に即答され、イルカは驚き目を丸くした。





そんなに悲しまなくても大丈夫。
言われた言葉を思い出しながら歩く。
でもそれってどんな風に取ったらいいものなのか。
そこまで聞くことは出来なかった。
あの後、廊下で聞こえてきた話し声に、男はすぐ会釈をして姿を消してしまったから。

きっとこの前のような事を繰り返していたら、いつかカカシは自分に愛想をつかすのかもしれない。
今まで女性とつき合いをしてこなかったのだから、何をどう比べたらいいのかも分からないが。
あの暗部の男の言う大丈夫と言うのは。腕を組んだり。手をつないだり。そのくらいの事だったら、自分が目を瞑って我慢すれば、いいと言うことなんだろう。
自分が言い出さなければ、この前も喧嘩なんてしなくても済んだはずで。
そうその位のことなんだ。
大したことではないと自分に言い聞かせる。
でも、そう思っただけで感じる胸の痛みに、イルカは自嘲気味に一人笑いを零した。
思ったより自分は重症なのかもしれない。
そう、自分は思ったより心が狭く、嫉妬深く、束縛したくなる人間なんだと、思い知らされた気分になった。
その位と思わなくてはいけない事が。嫌だと思ってしまう事事態、カカシと価値観が違うと言う事なのかもしれない。
こうして、何度も価値観の違う言い争いをして、すれ違っていたら、別れる事にもなるんだろう。
そこまで思って、イルカはまた笑った。
(嫌だな)
はっきりとそれだけは分かってしまう。
カカシと一緒にいたい気持ちの方が強い。
だったら自分が我慢すればいい。
赤くなった雲を見上げる。
みんなこうして恋愛をしているのだろうか。
恋をしたいと言う気持ちがあったが。
こうも苦しいものだとは思っていなかった。
イルカは重い空気を肺から吐き出し、前を向くと再び歩き出した。


買い物を済ませて鍵を開けようとして、既に解鍵されていることを知る。
半同棲をしているカカシにはもちろん鍵を渡してあるのだから、いても何もおかしいことはないし、いつもの事だが。
イルカはドアノブを持ちながら、深呼吸をした。
いつもと同じように。
笑顔でカカシと過ごす為に。
嫌な顔はしてはいけない。
今日の夕飯は蒸し鶏なんです。カカシさん好きでしたよね。
そんな単純な台詞を心の中で繰り返して、ドアノブを回した。
「おかえり」
玄関を開けて部屋に入ったイルカを迎えたのは、やはりカカシの声だった。
「ただいま帰りました」
買い物袋を置いて、イルカは自分の鞄を肩から下ろす。
「カカシさん早かったんですね。今日は蒸し鶏を作ろうと、」
言葉を止めたのは、顔を上げたイルカの目に写ったのは想像していた表情ではなかったから。
居間にいるカカシを見つめる。
不機嫌に見えるのは、気のせいではない。
それだけで、微かに嫌な胸騒ぎが心の中に広がった。鼓動も同時に早くなる。
それを抑えて、イルカはまた笑顔を見せた。
「どうしたんですか?」
そう言いながら買い物袋を持って台所に向かうと、冷蔵庫を開ける。
「ねえイルカ先生。今日、話してた相手って誰なの」
「は?」
言われた一言の意味が分からず、思わず間の抜けた声で聞き返していた。
冷蔵庫からカカシへ顔を向けると、眉を寄せたままカカシがこちらに歩いてきた。
「何の事ですか?」
しゃがんだまま聞き返すと、またカカシは不機嫌な顔を見せる。
「何の事って。とぼけるの?イルカ先生が昼間、執務室前で一緒に話してた相手ですよ」
そこでようやく言ってる意味が分かり、心臓がドクリと跳ねた。
もしかして、あの暗部の男から何か話を聞いてしまったのだろうか。
「カカシさん、あそこにいらしたんですか?」
少しとぼけたように口にしてみれば、カカシの薄く開いていた唇が閉じるのが見えた。そして、ふっと空気を漏らすように笑った。
「いたら素通りなんて出来ないの、分かってるくせに」
ぼそりと呟くように。吐き出すような言い方。
状況がつかめないイルカは、眉を寄せていた。
そんなの、知るかよ。
そう言い返したくなるのを堪えて、閉じている唇に力を入れた。
大体、何でそんな事を言い出すのだろうか。
推測から抜け出せないのもあるし、何より色んな理由から下手になにも言い出せない。
黙っていると、カカシが続けた。
「何やらこそこそ話してたって言うの見た人がいるんですよ」
「...そうですか」
カカシが知りうるきっかけになったのは相手があの暗部でなく、内容も知られていない。
それに内心安堵しイルカがそう答えると、カカシはますます不満気な表情をする。
「...何話してたの?」
「大した事は、何も」
正直に言うことを選択する事は出来なかった。そう言って、イルカは冷蔵庫に買ったものを仕舞う事を続行させる。
「たまたま落としたペンや書類を拾ってもらったんです。暗部でも親切な方っているんですね」
カカシはしばらく間を置いた後、ふーんと呟いた。
「頭撫でてもらったのはそのついでとでも言うんですか」
ああ、そこも見られていたのか。
イルカは困ったと思ったが、自分は特にやましい事をしていたわけでもなんでもない。
「それは、たぶん。...俺が疲れているように見えたからじゃないんですかね」
そっけなく返せば、腕をカカシに掴まれて驚いた。
顔を上げると、真剣な眼差しのカカシと目が合った。
「気安く頭なんて撫でさせないでよ」
気安く
イルカの頭にその言葉が浮かぶ。
気安くとか、そんな状況じゃなかった。
あの黒髪の暗部の男は、本当に、心底心配している。
自分にはそう受け取りれたし、実際そうだろう。
あの男とは関係のない稚拙で愚痴だったのに。心配してくれただけだった。
「...気安く?」
思わず聞き返していた。
カカシはその通りと言わんばかり不機嫌丸だしな顔を見せた。
「そうですよ。馴れ馴れしくさせたりしてさ」
何を言い出したのか。
その内容にも呆れた。ますます驚いた顔でカカシを見返してした。
言い方も内容も子供染みていて。
それもこれも、原因はこの目の前にいるカカシだと言うのに。
自分が今もどれだけ思い悩んでいるかなんて、何にも知らないくせに。
それなのにカカシは、女性と平気で腕を組んで歩いたり、一緒に酒を飲み香水が移るくらいに肌を密着させていると言うのに。
理不尽な憤りが一気に頭の血を上らせる。
「そんな事、」
こんな事あるわけがないでしょう、と言い掛けて、イルカは言葉を止めた。
「何?ちゃんと言ってよ」
カカシに問われるも、それに返せなかった。
ここで言いたい事を全部言ってしまいたい。そんな衝動に駆られるも、イルカはぐっと唇を結んだ。
ここで言い争って、同じような喧嘩になるのだけは、避けたい。
「別に...言うことは、何もないです」
イルカは静かにそう言って、また買い物袋の中に手を入れた。
「嘘ばっかり。ちゃんと言って」
嘘付いたっていいだろう。
視線は床に落としたまま、イルカは内心カカシに向かって言う。
何か言ってまた面倒くさいとか、言われるほうがよっぽど嫌だ。
そう、言いたい事を我慢するしかないんだ。
カカシの言葉で傷つきたくない。
にしても。
馬鹿らしいなあ、とイルカは思った。
あの暗部の男が言ったように、カカシは子供っぽいことろがある。
勝手な理不尽さやわがままな感じは自分の生徒と話しているような錯覚さえ覚える。
でも、生徒とは、ちゃんと向き合って気持ちを伝える事が出来るのに。
今、自分はカカシに何も言えない。
カカシに力強く肩を掴まれた。その強さはイルカに顔を上げさせる。
「どうして何も言ってくれないの?」
カカシの青い目がじっとイルカを見つめ、それだけで胸が痛いくらいに苦しくなった。
カカシが好きだ。
こんな時にと、自分でも思うが。
カカシが好きだと、思う。
「どうしてって...何も言うことがないからです」
「嘘。この前は俺にちゃんと言ったじゃない。どうして今日は何も言わないの?」
苦しそうな表情で言われて、イルカは困惑した。
言ったら面倒くさいと言われて、今度は言えと言う。
「イルカ先生」
強い口調で名前を呼ばれて。
緊迫した空気になっている事に気が付いて。
これが別れる場面なんだろうか。
イルカはぼんやりそう感じた。
そうか。
別れるのなら、思い残すことがないよう、言いたい事は言ってしまいたい。
イルカは落としていた視線をカカシに向けた。
口をゆっくりと開く。
「あなたが面倒くさいからって、言ったからですよ」
「....え?」
「カカシさんが、この前。俺にそう言ったじゃないですか。だから俺は何も言えなくなった。そう言ってるんです」
言わないようにして閉ざしていた気持ちが、一気にあふれ出す。
「だってあれは、」
「だって?だってもくそもないですよ。俺はああ言うのは嫌だって、そう言っただけなのに」
「....ああ言うの?」
聞き返されイルカはかちんとする。ぐっとカカシを睨んだ。
「カカシさんが女性とべたべたするのが嫌だって、言ったんです!」
目を丸くするカカシを前にしたまま、それに、とイルカは息を吸い続ける。
「それを棚に上げて、何で俺の事をどうこう言ってくるんですか?筋違いじゃないですか?俺はあなたに言われた事がショックで落ち込んでて、それで、たぶん...顔に出てたのか。相手が俺のことを気の毒に思ったんでしょうね。ただそれだけなのに」
なのに。と、言って言葉を止めたイルカをカカシはじっと見つめていた。
かっとなってしまったのもあるが。我慢して言いたい事を言えて、気持ちがすっと軽くなるのが分かった。
そう、これでいい。これでいいんだ。
これで呆れられて嫌われるかもしれないが。
しばらく黙っていたカカシが。まだ少し興奮気味のイルカを見つめ、
「....そんなに嫌だったの?」
ぽつりと、そう言った。
「....そりゃ嫌ですよ。腕組んでるのを見かけた時だって、その女性からカカシさんを引き離したかったんですから、」
そう言い掛けてる先からカカシの顔が緩むのが見えて、イルカは眉を寄せた。
「何ですか、その顔は」
「だって嬉しくて」
「...はあ?」
苛立ちながら聞き返すイルカに、カカシの緩んだ顔は続行している。
「何も言ってくれないから、俺はあなたに愛想を尽かされちゃったのかと思ったんだけど、そんな理由だったんですね」
「そんな理由って」
「ごめんね、イルカ先生」
言い返そうとしたのに、真面目な眼差しに変わったカカシがイルカを見つめ、何も言えなくなる。
「言われるまで、分かってなかった。辛い思いさせてごめんなさい」
「...そうですよ。俺は他の人と腕を組んだりするのも嫌だし、合コンなんかに行って欲しくない。でもそれはあたなにとって面倒くさいんでしょう?」
首をふるふる振ったカカシがイルカを抱きしめた。
「面倒くさくないです」
「でも俺にそう言ったじゃないですか」
「あれは、...どうしてもって頼まれて行っただけなのに、責められたから。でも、知らない女には絶対触らせない。二度としない」
カカシの言い方に、イルカは小さく笑った。
「そんなぎちぎちな考え方で言ったわけじゃないんですよ」
「俺がイヤなの」
ぎゅう、と抱く力を込めながらカカシが言う。
「イルカ先生が頭撫でられてたの聞いただけで、気が狂いそうになったんだから」
そこでカカシがイルカの両腕を掴んで引き離すと、顔をのぞき込むように見た。
「本当に何にもなかったんですよね?」
心配そうに、泣きそうなカカシの顔を見ていたら。
さっきまで自分を支配していた鬱々たる気持ちや憤っていた事が嘘のようで。
イルカは眉を下げて一回頷けば、カカシが安堵して息を吐き出した。
そんなカカシの笑顔をを見ていたら、可愛いと思えてしまう。
やっぱりあの暗部の男が言ったように、子供ようだなあ、と実感する。
カカシの顔が近づき、イルカは口を開けてそれを受け入れた。
仲直りのキスほど甘いものはないなあ、とイルカは熱くなる舌を絡ませながら思う。
こんなにカカシが好きなのに、まだ心配なのか。
「もう頭撫でさせたりとかしないで」
ね、約束して。と耳元で囁かれる。
カカシと向き合って話をして良かったと思いながら、こんな思いや喧嘩は二度としたくないとも思う。
そのぐらい、気持ちを消耗していたのだ。
それなのに、カカシはそんなイルカの気持ちも知らずか、手が腰に回り、思わずそれを自分の手で制した。
 お灸を据える事も必要かと
念を押すような言い方だったのも思い出す。
と同時に、少し意地悪な気持ちがイルカに沸き上がった。
カカシが子供っぽいと言えばそれまでだが、それに何回も振り回されるのだけは嫌だ。
確かにお灸を据えさせることは、必要なのかもしれない。
唇を離すとカカシの色違いの目をじっと見つめた。
「ねえ、カカシさん」
カカシは素直に、何ですか、と答える。
「俺に何もしないって約束。してください」
え、とカカシが聞き返す間もなく、イルカはカカシをその場にしゃがみ込ませた。


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