レールの行方④

 イルカは翌日仕事を終え商店街を歩いていた。八百屋でそこの店主に声をかけられ笑顔を浮かべるも、買い物を終え一人になればその顔はすぐに曇る。
 気分は最悪だった。
 あの上忍は居酒屋で、堂々と。同性の自分を口説いてきた。あの後酒や、煮魚の味がしなくなったのは当然だった。オブラートに包むこともせず。セックスしたいと面と向かって言われ、喜ぶ野郎なんてそういるわけがない。女性は嬉しいのかもしれないが。残念ながら俺は男だ。
 内心穏やかでないままの自分を相手に、カカシは終始嬉しそうだった。先生はどんな食べ物が好き?やら、休みの日は何をしてるの?とか。チョコを貰う前だったのなら、普通に返答していたが、この状態で聞かれても、素直に自分を晒すのが怖くなっていた。
 俺ね、休み日はほとんど忍犬の世話してるんだよね。
 警戒しっぱなしの自分を前に、カカシはビールを飲みながらそう口にした。犬種やら、その犬の性格やそれぞれの世話の仕方。
 休日の過ごし方が意外だとは思ったが、カカシが忍犬使いなのは知っていた。だからたぶんそれは嘘ではなく、しかもカカシから可愛らしい忍犬の名前が出る度に心が緩み、ーーて、違う。
 イルカはそこで頭を横に振った。
 違う。やばい。あの男はかなりやばい。
 心の中で呟く。再び昨夜のカカシをの言葉を思い出しただけで焦りが浮かんだ。イルカは僅かに眉を寄せる。少しの焦燥感とか言ってる場合じゃない。冗談だろうとか、高を括っていたのは事実だった。あの言葉を聞くまでは、半信半疑ではあったがたぶん冗談だろうと本気で思っていた。
 だが、昨夜のカカシの言動でそれは一変した。なんとかその場では。カカシの前では鼻で笑って流して、冷静を保ったが、胸中は全く乱れていた。それは時間が経つほどに自分の心の中でじわじわと広がる。
 ーーあの目。
 あの青みがかった目をカカシは嬉しそうに細めた。妖艶とも言える眼差しでうっとりと自分を見つめ。セックスがしたいと、本当にそう口にした。目を逸らしたいのに逸らせなくて。思い出すだけで、背中がゾクリとし、イルカは思わず小さく身震いしそうになる。それを堪えるように、イルカはぐっと唇を結んだ時、
「イルカ先生」
 女性の声が自分の名前を呼ぶ。イルカは買い物袋を持ったまま振り向いた。

 イルカはアパートに着くと、ポケットから部屋の鍵を探り取り出して鍵を開けた。
 部屋に入ると扉を閉め、靴を脱ぎ部屋の明かりをつけずに、買い物袋を持ったまま冷蔵庫に向かい、買った食材を入れる。
 袋の中から野菜を取り出したところで。冷蔵庫の扉を開けたまま手を止めた。視線を漂わせる。
 ーー自分は最低なのかもしれない。
 声をかけてきた女性の、笑顔を思い出した。
 つい先日、自分に告白をしてきた年下の女性教員。話しかけづらいだろうに、職場でもない、商店街で声をかけてきた。
 少し気まずさを感じるイルカに、イルカ先生は自炊されるんですね、と少し驚いた様子で微笑んだ。
 自分は全く料理が出来ない、と自嘲気味に微笑み、そこから他愛のない話をして。別れ間際に、
「私チャンスがあるなら待ってます」
 そうイルカに言った。

 チャンスなんてあるわけがなかった。元々彼女も、ほかの誰も自分の恋愛対象でもなく、恋愛願望はない。
 でも。
 友達からなら、いいですよ
 何で自分はあんな事を言ったのか。
 自分が酷く混乱していたのは間違いがない。
 だって、バレンタインから昨夜の居酒屋のアレで。まさかもう一度あの女性からあんな告白をされ、これがもしかしたら正しい道なのかもしれないと、そう思えてしまったのだ。
 魔が差した、とは違うのかもしれないが。その気がないのに、返事をしてしまったのは確かで。
 その時、ピー、ピー、と冷蔵庫が鳴る。イルカはそこで我に返り、慌てて野菜を入れると扉を閉めた。

 物静かな性格だと思っていた女性は、思ったよりよく喋った。嬉しそうに自分の事を話し、イルカはそれに相づちを打つ。今流行の歌手や、洋菓子の店や、好きなカフェ。よく分からない内容もあったが、趣味が合わないところがあるのは仕方がない。当たり前だが、異性とこうして二人の時間を持つのは初めてで、今時の女性らしく、きゃいきゃいと話している姿は、生徒と同じ様なものを感じ可愛くも見えなくもない。だから、それでいいんだと思う事にした。
 ただ、この選択が間違っていなかったと思えるのは、あの上忍から声をかけられることがなくなったから。
 バレンタインからやたら声をかけられていたのに、今や顔さえ合わす事はない。
 これがどういう意味なのか分からないが。
 イルカは内心胸をなで下ろしていた。
 さすがのカカシも、相手がいるのだと知って諦めたか、他に相手がいる奴に興味がなくなったか。どちらでもいい。
 まだ女性とはつき合うまではいってはいないし、こんなものだと割り切ればいいのだから、深く考える必要はないはずだ。
 後悔が胸の奥にあったものの、そう思うだけで気持ちが楽になった。
 相変わらず女性は目の前で、自分が新しく買ったピアスの話をしている。幸運の石が付いているのだと言う。青く輝くその石が付いたピアスを、女性の耳元をイルカは見つめた。


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