選択肢③

 翌朝職員室で顔を合わせた後輩に頭を下げられ、イルカは慌てた。
「昨日は無理に誘ってすみませんでした」
 そう謝られ、イルカは首を振り、笑顔を浮かべる。
「いや、行くって決めたの自分だから、謝る必要ないって」
 こっちこ空気悪くしちゃってごめんね、とそう告げて後輩の肩を叩く。まだ窺うような顔を見せる後輩に、イルカは、いーからいーから、と笑顔を作って、授業の準備をするよう促して。イルカもまた自分の席に座った。そこからため息を一つ吐き出す。落とした視線に自分の右手が映った。
 昨日、気がついたら、この右手でカカシの頬を叩いていた。
 頭は真っ白だったのに。
 不意に唇を奪われて目を開けたまま固まっていれば、カカシが一回浮かせた唇をもう一度重ねてきて、そこでようやくカカシにキスされていると気がついた。
 その時には既に手が動いていた。
 反射的とは言え、力加減出来なくて。平手打ちした音はしっかりと部屋に響いた。部屋は見事に水を打ったように静まりかえる。流石の自分もこの状況を打破する方法は見つからなかった。だから、そのまま部屋を出て行ったのは言うまでもなく。
 せめて、謝ってから出るべきだった。そう後悔しても今更で、十分すぎるくらいに遅い。そこまで思って、何に自分が謝るべきだったのか、そう自問しても、直ぐに答えは出てこない。
 頬を叩いた時、カカシの見せた驚いた顔だけは鮮明に覚えている。あんな事をよく知りもしない女にする方が悪いのに。
 でも、そう思うのは、きっと自分だけ。それが分かるから、尚更謝ってきた後輩に顔を合わせても気まずいだけで。
 それに。カカシの顔を思い出しただけで、何故か胸が痛み、心が重苦しくなる。
(あーあ・・・・・・)
 虚ろな気分に、イルカはまたため息を吐き出すしかなかった。
 
 あれから顔を合わさないのはいい事なのか悪い事なのか。
 受付や報告所は当番制で、元々基本はアカデミー勤務だから。なるべく考えないように出来、何となくホッとしていた時、外で紅に声をかけられた。
「カカシにキスされたんだって?」
 出し抜けに、そして率直に聞かれ、動揺と驚きがあからさまに顔に出たのか。イルカの顔を見て、紅が声を立てて笑った。その後ため息を吐き出す。
「でも、あれは元々手が早いし、叩かれて当然だから」
 呆れ口調で追加される言葉に、肯定も否定も出来ず、はあ、と答えると、紅は胸の前で腕を組みイルカへ視線を向けた。微笑みを浮かべ、あまり気にしない方がいいわよ。そう口にしてイルカの肩を軽く叩く。去っていく紅の後ろ姿を見つめながら、イルカもまた歩き出した。
 周りの同性の同期や友人が同じような言葉を自分に向けてくれなかったのは事実で、だから、叩かれて当然。その言葉は確かに自分を慰めた。
 そうだ、自分は悪くない。間違っていない。
 自分に言い聞かせるように心で呟く。
 でも、きっとまた顔を合わせても、カカシはきっと何もなかったかのようにするだろう。あの時のように。
 蒸し返す事はして欲しくないと思うのに。また不思議と胸が苦しくなる。イルカは思わずぎゅっと口を結んだ。
 気にすることはない。
 紅がさっき言ったように、カカシは手が早い。そう、誰にでも。
 歩いている少し先で、アカデミーの生徒がイルカの名前を呼ぶ。イルカは笑顔を作ると顔を上げる。生徒に向かって手を振り、返事をした。

 数日後、イルカは演習場にいた。三つのクラス合同で行った授業の後で、イルカは一人、その授業の後片づけをする。
 自分のクラスは自分で引率すべきだと分かっているが。それが出来なかったのは、足に違和感を感じたから。
 授業中にふざけて裏山で木に登った生徒がその木から落ちた。ちゃんと受け止めれたのは良かったが、自分の受け身の姿勢が悪かったのか、右足に痛みが走り、そこまでじゃないと思っていたが、授業を再開してからも痛みが引かず、体術の授業なのに、ろくに参加出来なかった。
 足の怪我をする原因になった生徒に変な心配をかけたくなくて、後片づけを自分で申し出て。
 子供の不注意だったとは言え、上手く受け身をとれずに足を挫くなんて。情けなさ過ぎて自分に腹が立つ。
 アカデミーの教員である以上、預かった子供たちを守るのが教師なのに。こんな事ではろくに誰も守れない。
 弱音を吐きたくなかった。
 残った荷物は全部自分が運ぶと他の教員に言ったのは自分だ。なのに。右足を庇って歩く状態で持てる量じゃない。
 埃っぽい土の上にしゃがみ込み、イルカはどうすべきかぼんやりと袋に入った忍具を見つめてれば、
「おい」
 不意に声が聞こえ、顔を上げた。演習場の裏山から歩いてきている人影に、イルカは思わず腰を上げ立ち上がった。
 アスマの少し後ろにはカカシもいて。この裏山は任務からの帰り道で使う忍びが多く、自分もその一人だ。きっと任務の帰りだったのだろう。イルカはぺこりと頭を下げた。
 よお、と返事をしながら、イルカの前で足を止めたアスマが足下にある袋へ目を向ける。
「それ全部お前が持ってくのか」
 聞かれてイルカが、はいと頷くと、アスマは煙草の煙を吐き出しながら、そうか、と短く答える。
「大丈夫なのか?」
 言われて、イルカは思わず笑顔を浮かべていた。当たり前じゃないですか。そう笑って返した。
「いつものことなんで」
 平気です。そう付け加えると、アスマも同じ調子で、だな、と答える。
 当たり前だが、あんな事があった後だから、カカシへはろくに顔を向けれない。
 普通にしなければ。
 そう思うも話しかける事なんて出来ない。再び歩き出す二人にイルカはまた頭を下げる。ゆっくりと頭を上げながら、二人の後ろ姿を見つめた。
カカシの背中を、銀色の髪を見つめ、また視線を下げる。
 もやもやとした気持ちに支配されそうで、イルカは切り替えるように、自分の足下に置かれたままの荷物を見た。
 ーーそう、今はこれを運ばなければならない。
 心を決め、一つの袋を持ち、そしてもう一つの袋をもう片方の手で持ってみる。挫いた足にそこまで体重をかけないように。そしてあともう一つ。イルカは袋に手を伸ばした。
 いつもなら、何てことない重さと量なのに。その重さが、いつもよりも酷く重く挫いた足にのしかかる。
 その痛みに顔を顰めた時、
「ねえ」
 不意に背中からかかった声に、イルカの身体がびくりと跳ねた。思わず持ちかけていた袋から手を離す。
 振り返り、そこに立っているのがカカシと分かっても、ちょっと理解が出来なかった。だって、さっきアスマとここを立ち去ったはずなのに。大体、一体なんの用なのか。
 そこまで思って、ハっとする。
 あの事は、カカシが悪いと思ってはいるが。今更、こんだけ日数が経ってから謝られても、笑顔で返せる自信がない。受付や、報告所の勤務で笑顔を作る事は得意のはずなのに。
 だから。
 もういいですから。そう先に言ってしまおうと思った。
 顔を上げ、口を開きかけたイルカにカカシはこっちへ歩み寄る。
「困ってるよね?」
 カカシの台詞に、言い掛けた言葉が止まった。
 何のことだろうと思った。
 カカシのした事で、そりゃ困ったけど、その言い方はおかしいんじゃないだろうか。でもそれを聞くのもなんか変ではないのか。
 繋ぐ言葉がなくて、えっと、と言えば、カカシが、それ、とイルカの持つ袋を指さした。
「困ってるでしょ」
 今度は疑問形ではなく、はっきりと、指摘するように。
 そこで、ようやくカカシの言わんとしている事が分かった。
 一気に動揺が広がる。
 思わずカカシから視線を外していた。
 同期の教員も、アスマにも、同じように返した言葉を、カカシにも言えばいい。そう、それでいいのに。
 大丈夫と聞かれ、大丈夫ではないのに。強がっている自分がそこにいたんだと。カカシの言葉で改めて気づかされて。
 でも。
 なんでこの人なのか。
 なんでこの人が。
 イルカの眉根が寄る。
 アスマと同じように、大丈夫か?って聞いてくれれば、無理だと分かっていても、大丈夫だって、そう答える事が出来るのに。
 結んだ唇をぐっと噛み、そこからゆっくりとカカシへ顔を上げる。
「困ってます」
 ぽろりと口から零れた言葉は、それだった。
 

 幼い頃から弱音を吐いた事がなかった。弱みを誰かに見せる事が嫌いだった。それは中忍になり、教師になってからも同じで。
 足を痛めた姿を、簡単に子供に見せてはいけないと、そう思った。
 忍具を運んでもらい、用具室にそれをカカシが置く。お礼を言いさっさと職員室に帰ろうとしたイルカをカカシが引き留めた。困惑すれば、いいから、と言われ、連れていかれた先はアカデミーの養護室だった。
 足を挫いたのをバレないようにしていたのに。当たり前だが見抜かれていた。
 基本養護室に担当医はいない。
 部屋に置かれた丸椅子に座らされ、棚を開けたカカシはその中から湿布と包帯を取り出す。目の前にしゃがむカカシに、イルカは慌てた。
「自分で出来ます」
 そう言えば、利き手もちょっと痛めてるでしょ、とカカシにズバリ言われ、イルカは口を結んだ。少しだけ悔しそうなむっとしたイルカの顔を見つめ、カカシは足へ静かに目を落とすと手当を始める。
 そこから会話は何もなかった。
 何も話す事はないから、それでいいのに。
 少しだけ早足になっている心音がカカシに聞こえるはずがないのに、聞こえてしまいそうで。イルカは口を閉じた。
 手際よく包帯を巻いていくカカシの指を見ながら、その力加減や巻き方が上手いな、と思った。悔しいが、子供たちの手当をよくする自分よりも。
 自分が知る限りカカシは上忍であり、戦忍で、里を誇る忍びで。自分の世代からすれば憧れの忍びだ。中忍試験での件や、今回の事があったが、尊敬さえしてる。
 そして自分はどこにもでいる、替えのきく中忍。それ以上でもそれ以下でも何でもない。
 カカシとは自分はナルトの元担任。ただそれだけで。
 手甲から伸びる長く綺麗な指が、自分の足首に包帯を巻いていく。それを見つめていれば、しゃがみこんだままのカカシがふと視線を上げた。
 思わず小さく息を飲んでいた。
 黒い目に映るカカシが手を止め、その長い人差し指で口布を下げる。顔が近づいた。
 今度はそれがどんな意味か分かっていた。
 拒むことだって出来る。でも、イルカは動かなかった。ゆっくりと近づきカカシの顔が傾く。唇にやららかなものが触れ、イルカは目を閉じ、それを受け入れた。
 

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